---□□草原で独り言□□---

2007年01月22日(月) 感情を感じるということ

歌のレッスンのとき「無表情だ」と指摘されます。
苦しそうな顔してるといわれます。
それは実際に発声法や、リズムの取り方に間違いがあって
無理が生じていることも要因の一つなのでしょうが。

ピアノも「もっと自由に弾いていい」といわれます。
「機械的」だと言われます。
私はピアノが上手なほうではないので、
その言葉は「機械のように正確だ」という意味ではなく。
「無表情だ」ということです。
「人間味がない」ということでもある。

私はなんの感情も感じていないのだろうか。
(なんか頭痛が痛いみたいな表現な気が…まぁいいか)

たしかに私は音楽が好きです。
それは紛れもないことで、疑いようもない。
けれど、それが「何故だ?」と言われると答えに迷う。
今思う答えは、
音楽は、私の心を感じさせてくれるから。
私に「心が在る」ことを感じさせてくれるからという意です。
私はそれを感じた瞬間、言いようもなくおそれおののいて、
それに喜びを感じる。
それを手放したくないと願う。
だから音楽に浸り続けていたいと思う。

その瞬間は、
確かに私は「感情」を抱いている…と感じる。
ああ、「悲しみとはこういうものなのか」
ああ、「喜びとはこういうものなのか」
ああ、「狂乱とはこういうものなのか」
それは、心臓を突如わしずかみされたように
的確に純粋に明瞭に私に訪れて
あの感覚を感じた時の喜びが、私を捉えて離さない。
あの感覚に魅了されて、私は音楽から離れられないんだ。


けれど、あの瞬間は本当に時々、
神様が特別な贈り物をしてくれるかのようで、
いつも起こるわけではない。
そしてその確立が高いのは
「指揮者」を目の前に迎えて歌うとき。
指揮者が体当たりで、目の前に音楽を表現してくれるから、
自分一人では気づかない音楽の感情を教えてくれる。
おそらく私には、まだ、音楽を本当の意味で聴くための
能力がいくつか欠けている。
そのうちのひとつが「感情を感じる」ということだ。

私はもしかしたら、何もないところから、
「喜び」や、「楽しみ」や、「怒り」の感情の感覚を
自分の心から引き出すのは不得意かもしれないけれど。
けれど、悩むことの多い私は「悲しみ」に沈むことがよくある。
だから、悲しい歌では「悲しみ」を感じながら歌っているつもりだった。
なのに「無表情」と言われるのは何故だろう。

答えは簡単だったりする。
「顔に出ていない」ということだ。

今日試してみた。
ピアノを弾いているときに、
「悲しくて遠いところをみつめるような顔」をしてみたり
「苦悩しながら苦しくて苦しくてしょうがない顔」をしてみた。
なれたら、
フレーズを生み出そうと鍵盤を弾くための、指や腕、
躯体の動きも意識してみた。


そうしたら、本当に不思議だ。
あの感情を感じる感覚が訪れてきたから。
それは顔の表情を作ったときに…、顔の筋肉を動かしたときに、
自然に訪れてきた。泉がわいて、ひろがりくるように。


心と顔をつなげる。
それをおぼえたのなら、きっとわたしがかわる。


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S.Soraka [MAIL]