ふつうっぽい日記
もくじ過去未来


2003年01月20日(月) 人間をレコードに例える

「多分反っている」何日か前に実妹からそんな携帯メールがきた。レコードの話である。気にしていつつも、なかなかレコードの再生状態の確認は後回しになっていて、レコードプレイヤーはかけていつつも、その該当レコードの存在を忘れ続けて1週間くらいたった。
今、その問題のレコードを流しているが、たしかに、見た目はやや反り気味であった。しかし、針はマイペースに音を拾っていて、そんなことは忘れさせた。

さて、週末、PCのちょっとした問題に振り回されながらも(ウィルスとか深刻な問題ではない)油断した時にひさびさに私のデリケートな部分を刺激するようなある言葉に支配されてしまった。でも、それは、とても身近な人間からこれまたある言葉によって救われ、私を支配していた発作的な不安不満(笑)は早くも落ち着こうとしている。

人間をレコードに例えると(*普通例えない)豊富な経験や年を重ねることによって、味わいのある音や奥行きのある音、そして安らぎを感じるような音になっていくのだろうと思う。そんな風に見ると、人生の新たなスタートに位置付けられている「還暦」というモンは自分のレコードを裏返す日に思える。初めらしき部分からちょっと進んだ部分なんかは何やら傷だらけかもしれないし、いったい何を伝えたいのかナゾで埋め尽くされているんだろう。でも、人間という名のレコードはとにかく刻み続け、やがてある程度の限界でエンディングになってしまう(多分)。でも、多くはエンディングなんて意識はないはずだ。そこに始まりという分かりやすい意識がないように。新しいレコードはレコードを今も尚、更新している二人の大人によって、愛の形としてつくり出される(ここはできるだけさらりと流す)。それは、ある時は意識的に、また、ある時は無意識的に?無意識なんてないよね。「そんなつもりはなかったんだけど」という言葉は後から取ってつけた都合のいい言い訳なのだけど、ペダルでぼかした実は的外れな音がなんとなくソレっぽく聞こえるように私たちの耳は他のその言葉をサラリと流す。そこには、音として認識のない冷たい空気が代わりに漂っていることに気付かないふりをして。自分の刻んできたレコードを聞きなおすことはできても、再び同じ場所に修正した音を言葉を埋めることはできない。聞きなおしの自分のレコードの後悔やいろんな余韻を同じそのレコードの続きなんかに刻むことができたら、幸いなのだろう。

今は、きっとそういう微妙な振り返りの余韻を刻んでいる時なんだろうな、と自分を考察。偶然にも30歳という何やら節目っぽい歳が、遠くない将来やってくる私だから、ということにしておくか。

こういう人の生きざまや、人間関係を形あるナニカに置き換えたり、強引につなぎ合わせたりする癖が思春期あたりから私にはある。それが醜いと思った時期もあったが、今は、そのひとときに酔っていたりもする。嗚呼、私って何モン?ま、いっか。

人間を強引にレコードに例えるというこの思考がこの1時間ほど私のなかを楽し気に駆け回って(ちゃんと家事も並行していたりするので自分でもスゴイ)、ふと思った。「じゃぁ、プレイヤーの針の部分は何?」って。実際に音をレコードに刻んでいる現場を私は見たことは、ない。やはり、再生する時の「針」みたいなので音を練り混む(笑)のかしら?細かいことは、さておき、自分のレコードを刻む“録音針”や、“再生針”はやっぱり、自分の中にある命くらい大切な、それでいてやさしいモノなんだと思う。ついでに「じゃぁ、レコードプレイヤー本体は?」っていうのに広がっていって、それは、自分そのものなんだろうな。他の誰かの生きざまを「聞く」時は、一回めんどくさくても自分のレコードの中に落とさなきゃ聞けない。だから他の誰かの生きざまを真似ても今までの自分やこれからの自分が刻むレコードあるから、「らしく」なるのかもしれないね。

レコードが反っても、気にならない強くて柔軟な再生針と、自分を振り返った時に生まれる声やつぶやきを敏感にやさしく刻む録音針なくさないようにしなきゃ。


KAZU |MAIL