梶井基次郎を読んでいる。
彼の小説は、人間という器の中にある情念が、ある形をとって噴き出す 様が描写されている。それは「小説的真実」なのかもしれないし、作者 の個人的体験なのかも知れない。しかし、それは過去の自分の体験を呼 び起こすのも確かだ。してみれば、何らかの形で現実に結びついている のだろう。
自分の成長の過程は、自分の中の情念を宥め賺してきた歴史であった。 それを思うと、小説という異空間が、そういった生きるに厄介な事共を 再現する場所であるのだということを改めて認識する。
ただ、今になってみると「うまく生きる」ためにしてきたことが「よく 生きる」ことに役だったのか、心許ない自分もいるのだけれど。
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