diary/column “mayuge の視点
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【ことば】コラムニストの視点

 数ある女性ファッション誌を見ていると、それらはザックリと二種類に分かれるような気がするのです。つまり“裕福な専業主婦”に優る女の幸せは無いとうことを明確に認識する女性群が読む雑誌と、それ以外の女性が読む雑誌と。

 前者は、「JJ」「CanCam」といったところから「VERY」方面へ、さらには「家庭画報」「婦人画報」といったところへ連なっていく、専業主婦連峰とでも言うべき群を女性誌界に形成しています。(略)

 専業主婦連峰の雑誌群とファッション面において相対するのは、モード系の雑誌です。モード系女性誌も数々あれど、「専業主婦こそが世界で一番素敵な仕事」という確固たるビジョンを持つ専業主婦連峰に比較すると、そこには「女の人生、こうあるべき」という強い意志は無い。(略)

 専業主婦連峰の女性誌が抱く「専業主婦万歳!」という強力な信念に、その他の女性誌群が唯一抗し得るものがあるとすれば、それは「私は馬鹿じゃない」というさほど確かではない自信です。実際、その他女性誌群の読者達は高学歴であったり、知的な職業を得ていたりする。そして、専業主婦連峰の女性誌を読むような人を、「ふん、頭悪い感じ!」と馬鹿にしているわけですが、心のどこかでは彼女達のことを羨んでいる。そして羨む心を封じるために、ちょっと知的な雑誌を読む。(略)

 そんな彼女達が読むのは、自らの知的好奇心とファッション性とを満足させることができる女性ファッション誌。絶対に着ないであろうモード服満載のファッションページや、知的すぎてファッションにはまるで興味の無さそうな人物が書く難解な連載読み物、ハワイや香港を絶対に紹介しない海外旅行ページ等を、理解しているつもりになりながら、読む。自らの生活に役立つ情報はほとんど無くとも、「私は馬鹿じゃない」という自覚を深めるためには必要な行為なのです。(略)

 いずれにせよ、専業主婦連峰の雑誌とその他の雑誌の間には、言葉にならない対抗意識のようなものがあるのは、事実です。前者は後者に、
 「養ってくれる男一人、見つけられないくせに
 という優越感を抱き、後者は前者を、
 「ケッ、馬鹿が
 と見下す。もちろん裕福な専業主婦を目指す人の中にも知的魅力に溢れる人はいるでしょうし、「私は馬鹿じゃない」ということを心の拠り所にする人が全員モテない枯れた女というわけではないのです。が、そう思うことによって両者はそれぞれ、自分の中のどこかアンバランスな部分に対して、目をつぶろうとしているのではないか。


 最近は、こと内面に関することであれば、自分の美点を自覚していることを表明してもよくなってきたようです。サバイバル時代の今、就職する時でも仕事をする時でも、自分の業績に対して「いやそれほどでも」などと言っていては生き残っていけません。(略)

 そんな状況の中で、唯一自己肯定が許されていない分野。それが、肉体です。美人は、自らの美しさに気付いていなければいないほど、その値打ちが高まる。(中略)肉体的に恵まれている人は、
 「ぜんぜんそんなこと思ってません」
 「嫌いなところだらけです」
 と言い続けられなければ、「自分で自分のこときれいだと思ってる」「性格悪い」と言われなくてはならないのです。

 女性同士では、少し親しくなっただけでも互いの肉体に関してかなり突っ込んだ話をするものです。その時、“私はあなたともっと親しくなりたいという意志を持っています”というアピールをするのに有効な手段は二つ。すなわち、「相手を誉める」か、「自分をけなす」。

 多くの場合、それはコンビネーションで利用されているようです。
 「○○さんって、すっごく色が白いですねぇ。いいなぁ、私なんかもうソバカスだらけ」
 「えっ、そんなことないわよ。よく見て、ほらここのところなんかシミになりかけてるんだから。あなたの肌の方がずっとキメが細かいわ」
 と、互いが一回ずつ相手を誉め、自分をけなす。その見事なキャッチボールぶりはほとんど、
 「もうかりまっか」
 「ぼちぼちでんな」
 というやりとりに近いものがあるのです。
 慣例を知らない余所者が、
 「もうかりまっか」
 という問いに対して、
 「お蔭様でガッポガッポ」
 などと正直に答えてしまうと、場は白けてしまうものです。同じように女性同士の間でも「○○さんって、すっごく色が白いですねぇ。いいなぁ、私なんかソバカスだらけ」という人に対して、
 「そうなの、よく秋田出身ですかとか言われるわ。あら、あなた本当にソバカスがいっぱい。皮膚科に行った方がいいかもよ?」
 などと正直に返してしまうと、“わかってねぇ奴だな”ということになってしまう。


 もちろん内面において優れた資質を持っている人にも、多くの幸福が訪れます。しかし内面の美点がもたらす幸福というのは、長年にわたって服(の)み続けなくては効き目が出ない漢方薬のように、いかんせん即効性が薄い。外面の美点がもたらす幸福と比較すると派手さに欠けるのと同時に、その幸福の元にあるものが内面の美であるのかどうかも、イマイチ判然としにくいのです。(略)

 当の「外面的美点をたくさん持った人」というのは、どのような気持ちで日々を過ごしているのであろうかということには、単純に興味があるのです。おそらく美人達の日常は、非美人には想像もつかないようなものであろうからして、その点については是非、美人の皆さんと腹を割った話をしてみたいとかねてより私は思っている。
 「本当に、ブスじゃなくてよかったって、しみじみ思うの……」
 「ごもっともごもっとも。私も生まれかわったら一度、美人ってやつになってみたいと思うもの、マジで……」
 などという話ができたら、さぞや勉強になろう。
 ところがそればかりは、どれほど親しい間柄であろうと、できないのです。たまに女同士のお酒の席で大胆な性格な人が、
 「あなた、子供の頃から自分のことを自分でかわいいって思っていたでしょう?」
 などと美人に対して絡むことはあるのです。しかし美人はどんなに酔っていようと、
 「何言ってるの、そんなこと思ってないわよ」
 としか、返さない。その場にいる全員、“嘘つけ……”と心の中で思っているわけですが、それ以上突っ込むわけにも、いかない。
 「ゲロッちまえば楽になるぜ……」
 とカツ丼を出したいくらいの気分にすらなるのですが。

酒井順子『容姿の時代』(幻冬舎刊)より

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 編集者を目指す者として、ひじょうに参考になる着眼であるとともに、スタンスのとり方(当事者でありながら冷静な観察者<第三者>である)、ユーモアの効かせ方の微妙な加減など、ただただ感服するばかりです。こういう俯瞰的なものの見方をする女性には、あまり会ったことがありません(たまにいらっしゃいますが)。酒井さんはきっと、「地図が読めてしまう女」なのかも、と邪推してしまうわけなのですが。(←マネ)

2004年06月21日(月)

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