月の輪通信 日々の想い
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夏。 工房の中はいつも蒸し風呂のように暑い。 連日フル稼働で焚く窯の熱と、乾燥室の鉄の扉から漏れ出る熱気。 ただそこに居るだけでじわじわと汗がにじんでくる工房で、今日も土まみれ、埃まみれ、釉薬まみれの仕事が続く。
父さんの留守に、一人工房の仕事場に入り、頼まれていた釉薬の調合を済ませる。 父さんがあらかじめメモ用紙に書いておいてくれた5〜6種類の粉末の釉薬を計量し、攪拌用のポットに合わせておく。計量に使うのは大小二つの上皿秤と、さらに少量の釉薬をはかるための上皿天秤。量る釉薬の量が1�坩幣紊里發里�らほんの数gのものまで、極端に差があるので、正確に量るには3種類の秤が必要になる。
釉薬(くすり)の仕事は、うちでは代々窯元の家族である女性が受け継いできたのだという。数々の鮮やかな色釉を特徴とするうちの窯にとって、微妙なさじ加減が大きく仕上がりを左右する釉薬作りは大事な作業。その大事な調合比の秘伝の流出を避け、代替わりなどによる仕事の途絶を避けるため、代々一家の主婦である女性が釉薬の仕事を受け継いできたのだろうという。 私も、子どもたちの手が離れはじめた数年前から、父さんのそばで少しづつ釉薬の仕事を覚え始めた。
今日作った釉薬は爽やかな萌黄色。 剥きたてのそら豆の形の箸置きに使っている釉薬だ。 あわせて約2kgの基材となる透明の釉薬に、最後に加えるほんの数gずつの色鮮やかな2,3種の色釉。小さな上皿天秤で量るティースプーン1杯ほどの釉薬の量でポット一杯分の釉薬の色合いが変わる。 面白いなぁと感心しつつ、左右に振れる天秤の針を慎重に目で追う。 息詰まるような一瞬の緊張感が私は好きだ。
最近父さんが開発した釉薬には、アルファベットと数字を組み合わせた記号のような名前がついている。 MA2とかMQ12とか、アルファベットは色の種類であとの数字はその色の通し番号。いろいろ調合比を変えて試作し、ためし焼きをして見てはまた新たに調合をやり直す、根気強い試行錯誤の数が釉薬名の数字に残されている。 中には19とか31とか大きな数字のものもあるが、しかもまだそれは確定した物ではなくて、数グラムの微調整で試行の最中の釉薬もある。 試行の過程で使われなくなった釉薬は、小さな密閉容器に入れられラベルをつけて工房のそこかしこに積み上げられていく。
ここ数年、父さんは制作の傍ら、新しい釉薬の開発に取り組んできた。 伝統的に使われてきたさまざまな色の釉薬を、そのほとんどすべてが入れ替わってしまうほど、何度も何度も試行錯誤することで新たに作り変えてきた。 調合比を変えるたび、父さんは小さなメモ用紙にちびた鉛筆でそのレシピを書いてよこす。 それに従って私が調合した釉薬を小さなテストピースに乗せて試験焼き。 仕上がりにうなづいたり首を傾げたりしては、また新たな次の調合比に挑戦する。 その繰り返し。 気の遠くなるような繰り返し。
近頃になってようやく、そばで見ている私にも、父さんがやろうとしていることの体系的な輪郭が見えてくるようになった。 通し番号が固定したまま確定した釉薬も増え、実践ベースに乗った。 この数年の父さんの静かな苦心の成果は、展示会場に出品された作品からは直接的には見えないけれど、釉薬容器の通し番号と試行錯誤の末に残された小さな密封容器の数で私にもそれを知ることが出来る。
留守中私が調合しておいた釉薬ポットに、父さんが水を足し、夜の間にミル(攪拌機)にかける。 カラカラとミルをまわす音が蒸し暑い工房に今日も響く。 「窯元の伝統を守る」ということをよく「窯の火を護る」という言葉で表現するけれど、それなら新しい釉薬を開発し、伝統的な作品にもそれを生かしていく父さんの努力は、「ミルの音を絶やさぬ」ということでもある。 そんな父さんの静かな営みに、そっと寄り添って立ち会うことの出来る今の自分を、とてもとても幸せだと思う。 そんなこのごろ。
BBS
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