月の輪通信 日々の想い
目次|過去|未来
朝。 今日も時間ギリギリに運動靴をトントンと突っかけながら玄関を出るアプコ。一足先に出たアユコの背を追うように走り出す。 定時の電車に乗り遅れないように慌てて坂を下るアユコは思いがけなく早足で、小学生のアプコの歩幅ではよほど回転数を上げないとたった数分の時間差を縮めることはできない。 坂道の下った先に見え隠れするアユコの制服のシャツの白を、それでも一心に追いかけようとするアプコの健気さ。 なんだか見ているこちらの胸まできゅんと痛くなる。 「高校の制服着てるアユねぇって、なんかかっこいいよね。」 幼いアプコにとって6つ年上のアユねぇは、常に自分の前を颯爽と歩いていく憧れの人。 少々うるさがられようが邪険にされようが息を切らせて小走りについていくアプコの幼さが、ほほえましくもあり痛々しくもあり。
最近、ふとした瞬間にアユコとアプコの名前を呼び違えることがある。 たいがいはアプコに向かって「アユコ!」と呼ぶ。 それほど最近のアプコの物言いや表情は、小学生の頃のアユコに似てる。 近所の小さい子や年下のお友達に接するときのお姉さんらしい優しい物言い。 同じ話を繰り返す年寄りの昔話に、一生懸命相槌を打ちながら辛抱強く付き合うときの困ったような表情。 何度やってもうまくいかない書道の「右払い」の筆法を、悔しそうに唇をかみ締めながら繰り返し半紙に刻みなおす片意地のような真剣さ。 それは現在の「しっかりした面倒見のいいお姉さん」というキャラが花開く前の、ちょっと自信無げで泣き虫、神経質で自意識過剰な少女だった頃のアユコに恐ろしいほどよく似ている。 頭の片隅で「あ、似てる」と思いつつアプコを呼ぶとき、私の口からこぼれ出るのがアユコの名前だったりするのだろう。「あ、また、間違えた。」といってぷいと膨れたフリをする、まぶしい笑顔もまた、あの日のアユコにそっくりだから、困ってしまう。 姉妹というのは、ホントに面白いものだなぁと思う。
思うところあって今日、アユコがアプコと同じくらいの年齢だった頃の日記の過去ログを開いてみた。 重たいフライパンと格闘してオムライス作りに挑戦し、緊張のあまりその夜激しい嘔吐の発作に見舞われるアユコ。 そういえばあの頃のアユコは神経が細くて、なにか過大な緊張や興奮を伴うことがあると、決まって自家中毒やら偏頭痛やら、厄介な発作に悩まされたものだった。 「きちんとやり遂げなければ・・・」 「失敗は許されない」 と自分を追い込む生真面目が、幼いアユコの体をぎゅうぎゅうと締め付けていたのだろう。 年月を経て、アユコは少しづつ自らの緊張を解き、厄介な変調と上手に付き合うやり方を学んできた。 最近のアユコが急に大人びて見えるのは、自分の中にあるどうしょうもなく厄介な辛さを受け入れ、同じように、他人の中にある辛さや悲しさを思い量って受け止めてやろうとする優しい器を構築しつつあるからなのだろうと思う。
転じてアプコ。 思春期に近づいたアプコは、今のところまだ、アユコに見られたような精神的なストレスや緊張を因とする体の変調は経験していない。 皆から愛され、甘やかされ、受け入れられて、大きく頭を打つこともなく育ってきたアプコには、あっけらかんとした明るさと人懐っこく素直な陽気さがあるばかりだ。 まだまだ「幼い」と言えばそれまで。 けれどもその愛すべき幼さの中には、オニイオネエに常に守られ受け入れられてきた末っ子姫の悠然とした大らかさや素直さが、強い心棒として裏打ちされているような気もする。 「判らないことには、きっとオニイがヒントをくれる。」 「困ったときには、きっとアユ姉が助けてくれる。」 「楽しいことは、きっとゲン兄が教えてくれる。」 そんなあっけらかんとした信頼感がアプコを支える心強い柱になっているのだろう。 最近になって、アプコ自身、そのことに少しずつ気がつき始めたらしく、私が「アプコには頼りになるオニイ、オネエが3人もいて、よかったねぇ」とからかうと、「ウン、アタシもそう思う」となんの衒いもなく素直に頷く。 その鷹揚さこそが、末っ子姫アプコの愛される理由なのだとも思う。
早足ではちっとも縮まらないあゆ姉との距離に苛立って、とうとうアプコは走り出す。短いスカートの下、すんなりと伸びたアプコの華奢な脚は、若い小鹿のようにしなやかに地を蹴る。 カタカタと追ってくるランドセルの音に気づいて、先を行くアユコがようやく後ろを振り返った。 嬉しくて嬉しくて、アプコの足取りがまた、ぐんと速くなる。 「馬鹿だなぁ、あんなに走らなくてもいいのに」 仲良く並んで歩き出す二人の娘の後姿を見送って、母はなんだか幸せな気分である。
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