月の輪通信 日々の想い
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「じゃ、行ってくる」 両手に紙袋をぶら下げて、オニイが旅立っていった。 いつもなら車で送る最寄駅までの道のりも、今日は徒歩で出かけたいから要らないという。 アプコの柔らかいほっぺたをフニフニと撫で繰り回して、「コイツのこの感触もしばしばしの別れじゃ」と笑う。 今日はオニイの旅立ちの日。
家財道具は数日前に父さんの運転する車ですでに運び込んである。 車で2時間の見知らぬ町。 格安で選んだ学生寮は4件共同のコンドミニアムタイプ。 がらんとした部屋にとりあえず段ボール箱を運び込み、近くのホームセンターでカーテンやスチール棚を買い込んでおいてきた。 バス、トイレ、キッチンの共同スペースには、先住の先輩達の生活用具が雑然と並んでいる。いかにも「男子寮」のむさくるしさ。 ともに一人暮らしの経験のない父と母は、「うひゃー、面白そう」と見慣れぬ生活空間に興味津々だったが、唇を堅く結んだオニイは引越しの旅の車中、何となく不機嫌な様子だった。 見知らぬ町、見知らぬ人々のあいだでたった一人で生活していく、その現実への不安に押しつぶされそうになっていたのだろう。 次第に無口になっていくオニイにむりに言葉を求めることもせず、これから彼の生活圏となる街を車で巡った。 古い田舎の家並みに、学生向けの単身用マンションやコンビニが入り混じる雑然とした町。医院や金融機関など生活に必須な施設はあちこちに見られるが、本屋やCDショップなど楽しみのための店舗は見られない。場違いに駐車スペースの大きいパチンコ屋があったくらいか。 寮の近くには、まだ新しい感じのショッピングセンター。自宅近くにあるスーパーよりも品数も多くて、学生単身者向けの惣菜や生活用品も充実している感じ。それほど本格的に「自炊」しなくても、日々の食生活は維持できるだろう。 とりあえず、食が確保できるだけで、何となく上手くやっていけそうだなと安堵してしまうのは母の愚かな能天気ゆえ。思わず主婦根性を出して、「朝掘り」と朱書された大ぶりの筍とセール品のうなぎの蒲焼を買い込んで帰った。 オニイの不機嫌は、帰宅してからもしばらく続いていたように思う。
「途中、京都あたりでちょっとブラブラしていきたいんだけどな。」というオニイの手には紙袋の大荷物。ちょっと困った顔でオニイが笑う。引越し荷物に入れ忘れた衣類や枕(!)が入っているのだという。 その恰好で京都の街を歩いたら、一昔前の田舎から上京してきたばかりの学生じゃんとツッコミそうになったけれど、実際、オニイ自身その通りの心境に違いない。 宅配便で送ってやろうかともちらと思ったけれど、母のおせっかいももうこれっきりだ。自分のうっかりの結果は自分で担いで歩けばよい。 スマートでなくていい。 ズルズルとかっこ悪く、不器用に迷えばいい。 君らしく歩けばよいのだ。
息子が巣立ってゆく。 18歳。 巣立ちの日が、晴れやかな青空の日で本当によかった。
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