2002年03月23日(土) |
「伝える」に対するいくつかの誤解。 |
詩にとって「読者に伝える」という意識が大切と、 常日頃言っているのだけれど、 二重三重に誤解されている部分が多々ありそうなので、 解説というか説明というか釈明? 言い訳? ま、普段はメンドくさいんで 誤解されてるなと思ってもいちいち反論はしないけど。 日記のネタがなかったからというツッコミはしないでね(笑)
まず。 「読者に伝える=読者のために書く」わけではありません。 これは大前提ですな。 ごちゃごちゃ言う必要はないでしょう。
で、 「読者にわかるように書く=素直な表現を用いる」でもないです。 結果として素直な表現になることはあるだろうけれど。 読者に伝わりやすいようにありのままの気持ちを平易に書いたって、 一般論として、そんなもんは詩としてはつまらない。 「何を伝えるのか」という部分で誤解があるみたい。 詩は、自分の気持ちを伝えるものではなく、 詩という作品を作品として伝えるものだと、個人的には考えています。 自分の気持ちを伝えるんだったら詩なんてメンドくさいもの作らずに こうやって日記でも書いてたほうが早い(笑)。
痛烈に極論を言えば、 「詩は自己表現の手段として簡単なものである」 「詩は自己表現を行いやすい表現形式である」などと考えてる人は はっきり言って詩の入口にも立ってないと思ってます。個人的に。あくまでも個人的に。 そんなものは詩の形式をマネた心情吐露に過ぎない。 自己表現に適しているとは思うけれど、簡単だとは思っていない。 簡単であることと適していることをイコールで結べないものも世の中にはある。
もう一つ。 この誤解はとても繊細な場所から発生していて、 個人的には一番悲しい誤解なのだけれど。
どう書けばいいんだろう? 「伝える」ってのは姿勢や方法論の問題ではないのね。 根源的には。それはもう、根源的な場所においては。 派生して方法論などに行く場合もあるけれど、 一定レベル以上の作品に対しては行き着かない。行き着いても意味がない。 そういう作品はどのような姿勢/方法論で作られたものであれ、 俺が言うところの「伝える」をすでに達成しているから。
説明がわかりづらいよな(笑)。 俺もどう説明していいのかまだよくわかってない。
たとえば、 セックスとオナニーに喩えて 「セックスしたいんじゃなくてかっこいいオナニーを見せたいんだ」とか、 「伝えることではなく純粋表現を目指す」とか、 そういう感覚をアンチテーゼとしてもってこられても困惑するのね。 そういった姿勢/意識のアンチテーゼとして「伝える」と言ってるわけじゃない。 これらの誤解が一番悲しい。 俺の言葉がまだまだ適切ではないのだろう。 「伝わっていない」ことを、「伝えきれていない」ことを、痛切に感じる。
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