おひさまの日記
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今日実家に帰った。
実家に帰る一番の楽しみは、母の手料理が食べられること。 普段は、食べる量を意図的に制限している私も、 おいしくて、おいしくて、これでもかってくらい食べてしまう。 ゆえに、食後は腹がキューピー状態になる。
アンナは大好きなばばと遊び、 私はキューピーな腹を抱え、たたみに寝転がってボケーッと過ごした。
なぜだろう、そんな時、昔のことを急に思い出した。
あれは、確か私が小学生の頃のこと。 親戚の結婚式があり、親子で招かれ、 当時、金のなかったウチだから、服など買えなかったのだろう、 母は私にブラウスとスカートを手作りしてくれた。 仕事をしていた母が寝る時間を惜しんでちくちくと縫ってくれた力作を、 私は今でもはっきりと覚えている。 ピンクにラメの入った柔らかい生地でフリルのたっぷりあるブラウスに、 深緑色をしたベルベットのロングスカート。 私はお姫さまみたいなその服に感激し、着る日を心待ちにしていた。
ところが、結婚式当日、私は熱を出した。 当然結婚式には行けず、家で真っ赤な顔をして寝ていた。 枕元には着られなかったブラウスとスカートがハンガーにかけられていた。 私はものすごく悲しかった。 その服が着られなかったからじゃない。 母が一生懸命にその日のために作ってくれた服を着られなかったからだ。 心から申し訳ないと感じたのを覚えている。
私が「お母さん、服着られなくてごめんね」と言うと、 母は「何言ってんだ、そんなこと気にするんじゃないよ」と言って笑った。
そんな出来事を思い出したのだった。
私は、改めて、母が私に注いでくれていた愛情をかみしめた。
私達は「何かしてもらう」行為によって愛を感じることが多い。 でも、「何もされない」ことによって愛を受け取っていることも、 何かしてもらってきたこと以上にあったのではないかと思った。
「何かしてもらう」とわかりやすい。 その行為によって、愛を確認できる。
「何もされない」と愛の所在がわからないことがある。 「何もされていない」ので、別段何もなかったようにも思える。
私が思い出したその出来事で、 服を着られなかった私に、母は「何もしなかった」。 そこで、もし、母が「せっかくあんなに苦労して作ったのに」と、 自分の中にある残念な気持ちや悔しさを表現するという行為をしたら? 私は不可抗力な病気であるにもかかわらず、自分を責めただろう。 悲しい気持ちをずっと引きずっただろう。
でも、母は何もしなかった。 私を責めるということをしなかった。 もちろん病気だから責め様がなかっただろうけど、 手作りの服を子供に着せる楽しみが消えてしまったのだから、 とても残念で悔しかったに違いない。 自分が母親になった今、それがとてもよくわかる。 でも、何も言わなかった。 子供が心を傷めているであろうことを察し、何も言わなかった。 これは「何もしない」という素晴らしい行為だ。 だから、私は救われたのだった。
そう思った時、私は、 今まで気付いていなかった、そして、今でも気付いていない、 親の愛を無限に受け取っていることを知った。 「あんなことされた、あんなこと言われた」 そんな、イヤだったことばかり覚えているし、 それに文句を言ってばかりだったけど、 愛しているんだと、でっかい看板をぶらさげない親の愛もあることを、 自分の深い部分でハッキリ知ったのだ。 切ない喜びが胸いっぱいに広がって、目頭が熱くなった。 私はなんと大切にされてきたのだろう。
親だって未熟な人間だ。 トラウマちゃんもいっぱいもらった。 でも、それだけじゃない、葛藤する親が子供を傷つけながらも、 一生懸命に与えてくれていたものもあったのだ。
自分が苦しくていっぱいいっぱいの時は、それが見えなかった。 そして、見たくもなかった。 見えても信じたくなかった。
でも今は、そんなものをいっぱい受け止めて自分のものにしたいと思った。 今までだって受け取っていたのに、気付けなかったそれらを。
ある本に、 「100%なのが愛ではなく、 たとえ、10%でもそこにあれば、それは愛」 そんなことが書いてあった。 私達は完璧な愛を求める。 そして、完璧でないと愛ではないと思いがちだ。 でも、それは違うんだね。 未熟な親が葛藤し、子供を傷つけながらも、 それでも懸命に与えようとしていた愛は、 完璧な愛をこえる深い想いなのではないだろうか。 それでも愛したい、それでも愛し続けたい、そんな深い愛。
私達は、目に見える行為に価値を感じやすい。 でも、目に見えないものを見てみよう。 誰かが自分にしてくれる何かではなく、 誰かが自分に何もしないことの陰にある愛を。
両親との関係だけではない。 あらゆる関係において言える。 放っておいてくれること、 ただ黙っていてくれること、 遠くで待っていてくれること、 離れて祈ってくれること、 どれも目に見えて何かをされることではないけれど、 それは、尊い行為だ。
目に見える行為でなら嘘もつける。 打算的にこちらに愛や利益を与えるフリもできる。 それこそ、欺瞞に満ちたものだって多いのだ。 でも、目に見えない行為で嘘はつけない。
あの人は何もしてくれない、あの人は何も与えてくれない、 そう考え、そして、誰かから何かをしてもらうことを考えている時は、 あなたは、誰からどんな「何もされない」愛を受け取っていますか?
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