おひさまの日記
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2003年11月11日(火) 「シャドー(投影)」について思うこと

心について勉強していくと、必ず「シャドー」という言葉に出会う。
「シャドー」とは、影、投影を指す。
シャドーを見る、シャドーを感じる、それは、
相手に自分の影〜そこにありながら(気付いていない)自分のある部分〜を、
他人に投影して見ることなのだ。

シャドーを感じる時は、必ずなんらかの感情的反応を伴う。

一番わかりやすいのは怒りや反感、矛盾、不愉快さだ。
これを聞いて、
「えっ!?じゃあ、私の大嫌いな人と私は同じってこと!?」
と、返してくる人もいる。
それは、違う。
相手のイヤだと感じる部分を自分も持っていて、
そうであることを自分に罰しているということだ。
潜在意識の中では、
「私は自分がこういうことしちゃいけないって決めてんの!
 だから、あんたがそういうのするの見ると納得できないんだよね!
 あんた間違ってるよ、おかしいよ!」
と、叫んでいることになる。

わがままな人を見て反応し、怒りや反感を覚える人は、
わがままに振る舞うことを自分に許していないということになる。

女性らしい細やかで気の回る人を見て反応し、反感や不愉快さを覚える人は、
女性らしく愛らしく振る舞うことを自分に許していないということになる。

のんびりしている人を見て反応し、イライラする人は、
のんびりリラックスするのを自分に許していないということになる。

いわゆる、嫉妬もシャドーであることがある。
自分の才能を卑下している時、相手を妬む形で感じるだ。

誰かをものすごく素敵だと思うのもシャドーだ。
それが自分の中にあるから「素敵」という感情的反応が起こる。

自分の中でのモラルもシャドーで知ることができる。
例えば「人付き合いや社会のマナーを守る」ということを大切にするなら、
マナーが悪い人、礼儀がなってない人を見れば、反感や不愉快さを感じる。

シャドーと言うと、自分の欠点を見るようなイメージがあるらしいが、
鏡なのだから、自分の美点も見るわけだ。

そして、それを理解すると、
自分がどんな人間であるのかを理解することができる。
投影、投げて写すという言葉そのまま、私達は鏡を見るように、
自分で気付いていない、もしくは自分でも認めようとしない、
自分自身の真の姿を、相手を通して知っていくのだ。

シャドーというものを知ることは、
自分を知るひとつの方法として、とても大切なことだ。
でも、シャドー自体はさして大切なものではない。
ただの鏡だから。

乱れた髪を直す時、鏡を見る。
メイクを確認する時、鏡を見る。
そんなもんなのだ。
鏡がないと自分が見えないけれど、
じゃあ、髪型がおかしいのは鏡のせいかと言うとそうではなく、
そこに映っている本人の髪型がぐしゃぐしゃなだけなのは明白だ。
鏡はただの道具でしょ?
だから、シャドーもそれだけなのだ。

なのに、シャドーがちょっとわかってくると、
「私、どうしてもあの人にシャドーを見てしまうんです」
そんなことを言う人がいる。
それはこう翻訳できる。
「私、どうしてもこの鏡に自分の姿を見てしまうんです」
鏡に自分の姿が映るのは当然だ。
いけないのだろうか?
いや、いけなくない。
鏡の中にマスカラがにじんでパンダになった自分がいたら、
メイクを直せばいいように、
シャドーを見たら、それを自分だと知り、受け入れるだけでいい。
それ以上でも、それ以下でもない。
こんな時、シャドーとかそういう言葉は、使えば使うほど事実を歪めていく。
心理学、精神世界の用語に現実を当てはめて、現実から逃避してしまうのだ。

相手に腹が立つ、ムカつく、不愉快さを感じる、
そんな時はこう言ってもいいんじゃないかな、
「あの人イヤだな」って、シンプルに。
シャドーという言葉を使うことで、
自分の感情という現実から逃げてはいけないのだ。

また、人との関係がうまくいかなくなって、こう言う人もいた。
「あの人は私にシャドーを見てるだけで、本当のことわかってないんです」
これは、自分が避けられていることから逃げようとしてるだけ。
そして、こう翻訳できる。
「あの人は私と離れたいと言うけれど、それは何かの間違いなんです」
この場合は、シャドーという言葉を使うことで、
相手の感情と向き合うことから逃避してるケース。

鏡はただの鏡なのだ。
自分を知るための道具に過ぎない。
いつも鏡を見ている人はいない。
必要な時にだけ見ればいい。
シャドーもしかり。

いい道具を持って、必要な時に使う。
それが素敵だ。

今、私は、周りの人に、
『「シャドー」という言葉の乱用をやめようキャンペーン(たった今命名)』
をやっている。
好き、嫌い、嬉しい、悲しい、ムカつく、不愉快、それでいいじゃない?って。
人間の持つ宝物、感情。
それを眺めないで、一体どうするの?って。
そこにこそ私達の真実があるんだよ、って。
シャドーなんて用語使って、何を何にスリ変えてるの?って。

そして、鏡を見る必要がある人にだけ、言う。
「じゃあ、そこに見るあなたのシャドーを考えてみましょう」と。
そして、その人が鏡に映った自分を見て、自分の姿を知ったら、
私はその鏡をさっさとしまわせる。

また、私のとても大切な人を、あらゆる形で攻撃している人がいる。
その人は、会話の中で「シャドー」を連発するけれど、
自分が私の大切な人を攻撃していること自体が投影だと気付いていない。
自分に相手と同じ部分があると知らず、現実で相手を責めるなら、
「私は最低だ!私は最悪だ!私はダメな人間だ!私は自分が嫌いだ!」
と、自分を責めていることになる。

シャドーは、本当の意味で理解できた時、実はどうでもいいものになる。

どうか、信頼できるいい道具を持ってください。
そして、それは必要な時にだけ、必要な時にこそ、使ってください。
私はそれに何度も失敗して、寄り道もいっぱいしたから、
みなさんは近道を通ってください。


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