おひさまの日記
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昨日の日記を自分で読んで、ぷっ、と笑った。 私ったらナニ悲壮感漂わせてるんだろう、って。 もちろん、昨日の私は悲壮感漂う女だったから、それを否定はしない。 昨日は追い詰められてて苦しかったんだなぁ、って思う。
でも、今日の私は晴れやかだ。 それは、昨日の日記に書いた「道」が見えたからだ。 早いね(笑) 私がすごいから早いのではない。 追い詰められて苦しいのが限界に達して、 もうダメ!と思って、行動したから道が訪れたのだ。
人は案外なんとなく苦しいと動けない。 追い詰められて、限界に来て、どうしようもなくなった時、 初めて抜け出すための行動ができたりする。 そう考えると、追い詰められるってのも、まんざらでもないんだな。 だから人は方向転換したり、なんらかの方法を求めたり、 新たなことをしようとすることができるんだな。
私が試練を乗り越える「道」を見たのは、人の力を借りて、だ。 私には、37年生きてきた分の体験と知恵しかない。 だから、それ以上に体験を重ね、豊かな知恵を持っている人を頼ったのだ。 そう、つまり、尊敬する先生に相談し、アドバイスをいただいたのだ。 上には上がいる。 その上にも上がいる。 自分にないものを、その先生から知恵としていただいたのだ。 路頭に迷ってうずくまっていた私は、 こっちに行くといいよ、という声を聞いて、 安堵の気持ちに包まれた。
他力本願。 人の力を持ってして自分の願いを叶えること。 これもまたいいなぁ、って思った。
でも、依存してはいけないのだと思う。
依存とは、例えて言うなら、 トイレに行きたくなった時、 トイレまで連れていってもらって、 パンツおろしてもらって、 便座にかけさせてもらって、 用を足したのをふいてもらって、 またパンツをあげてもらって、 流してもらって、 手を洗ってもらって、 連れて帰ってもらう、 そんなもんだと思う。 いつまでたっても、ひとりでトイレに行けるようにはならない。
この場合、トイレに連れていって全部やってあげてしまう人でさえ、 相手に依存していると言えるだろう。 できない人に何かしてあげるという行為によって自分の価値を認識したい人。
私がいいなぁ、と思う他力本願は、 トイレに行きたくなったら、 トイレの場所を教えてもらうような感じのもの。 そういうふうに頼らせてくれる人は、 「じゃあトイレに連れていってください」と言うと、 「行けばわかります、自分で探してください」と答える。 ましてやパンツなんかおろしてくれない。 まさに「道」を示してくれるのだ。 一度挑戦したら、トイレまでの道は自分のものになる。
この場合のように突き放してくれる人は、 相手を信頼して、相手が相手の力によって前に進むことを応援してくれる人。
私はそんな後者の場合の、素敵な他力本願がいい。
私も道を与えてはいただいたけれど、 その道が見えただけで、まだ歩いてはいない。 ただ、歩いていく方法がわかっただけだ。 まだやってもいないので、うまくできるかわからない。 だから不安だ。 けれど、どっちに歩いていっていいかもわからない時よりも、 心は軽く、未来に挑戦する気持ちさえ湧いてくる。
人をこういう気持ちにできる人がホンモノなのだと感じた。 私はよい師を持って本当に幸せだ。
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