おひさまの日記
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2010年08月10日(火) |
たとえ100人に反対されても自分がやりたかったらやりなさい |
12歳になったアンナに教えたこと。
「たとえ100人に反対されても、 自分がやりたかったらやりなさい。
たとえ100人にすすめられても、 自分がイヤだったらやらないこと。
答えはいつも自分の中にあるのだから、最後は自分で決めるんだよ。 それが自分にとって一番いい結果なんだよ」
昔、ある人にこの話をした時、 それで失敗したらどうするのかと聞かれた。 答えなかったけれど。
もし、失敗しても、別にどうもしない。 そこには「体験」があるだけだ。
誰でも過去を振り返ると、 やっちゃった!失敗した!ってこと、山ほどあると思う。 私もわんさかある。 自分で選んだ道の先で、ヒサンな目にあったことだってある。 ある、ある、ネタになるほどある(笑) バカだったな、未熟だったな、って思う。
でも、後悔していない。 むしろ、そういう経験こそが私の宝物になっている。 そこから学んだことが自分を作る。 ゲームで言えば経験値が上がって強くなるのと同じ。 ムダな経験などひとつもない。
そこで傷つこうが、損失を被ろうが、散々な目にあおうが、 とどのつまり、そこで学んでいるのだ。
そういう意味で、私は人生を信頼している。 だから、アンナにも好き勝手やって生きてほしい。 きっと、失敗するだろうし、イヤな目にもあうだろう。 でも、そこから必ず学ぶ。
そして、そこでの失敗やイヤな目にあったことも、 長い目で見た時、素晴らしい人生に向かうために必要なものなのだ。
そして「自分の意志で決めた」ということが、そこでは重要な要素だ。 誰のせいにもできないのだから。
また、もうひとつ言えることは、 自分にとって本当に素晴らしいものや必要なものは、 人様の思いや観念が決めるのではない。 社会の常識が決めるのではない。 それは、その人が生きてきた中で生まれた思いや観念であり、 人が社会を形成して生きてきた歴史の中で生まれた集合意識。 これはよいであろう、これはダメであろう、という形式的な考え。
でも、自分にとって本当に必要で大切なものは、自分にしかわからない。 それは魂が知っている。 魂は言葉が話せない。 だから、感情や感覚を通して訴えてくる。 衝動もそのひとつだ。
理由はよくわからないけれど、 なんだかこれがしてみたい、 あの人に会ってみたい、 あそこに行ってみたい、 あれが欲しい、 そんな衝動は私達を行くべき方向に誘ってくれる。
だからこそ、自分で決める、自分が選ぶ。 自分にしかわからないのだから。
ここで気をつけたいのは、逃避とそうした衝動を混同すること。 今目の前にある問題や、心の重さや痛みから逃れるために、 つまりは、それを感じないようにするために、半ば中毒的に何かをすること。
例えば、ひたすらゲームに没頭したり、 ネットショッピングにハマったり、 パチンコや競馬にハマったり、飲みに行ったり、 楽しいから、欲しいから、したいから、とそれをしているのだけど、 その裏には、自分の中にあるものを麻痺させる目的がある。 気晴らしと言うより、逃避。 そして、それをし続けることで逃げ続けていないと、 自分の中の避けたいものに直面してしまうので、抜け出せない、やめられない。 それがアディクション、中毒だ。 特徴として、それらは刹那的で、その一瞬は気がまぎれてもまたすぐに苦しくなる。 もちろん、私もその中毒は何度も体験している。 逃げて、逃げて、ごまかして、結局何も変わらない。 空しさだけが残る。
それと、衝動を混同しないことが重要だ。
そんなことも、アンナはきっと身を以て覚えていくだろう。 私でさえ、いつか彼女の意思に反対し、 彼女の生き方を批判する存在になるかもしれない (; ̄▽ ̄) だから、今のうちに伝えてみた(笑)
もし、私が人の意見を聞いて生きてきていたら、 今の人生はなかっただろう。 聞くべきものは自分の声。
こわいとか、不安だとか、そういうことは度外視。 衝動とはそういうもの。 問題さえ問題ではなくなってしまうような衝動は、魂のサイン。
情熱的で動的なものを衝動と言うのではない。 つまりは、確固たるものと言うか。 その辺の違いを知っておくことも重要で。
まー、その辺もアンナさん、きっと覚えていくだろう。
はぴばーすでー、アンナ。 大好きだよ。 好きな道を行きな。
ママ、今日も色々。 ばーちゃんとケンカしたし、洗濯物取り込むの忘れて湿らせちゃった。 こんなママだけどこれからもよろすく。
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