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2007年06月04日(月) |
希望もなく絶望もなくわたしは毎日少しずつ書きます。 |
■日々がめまぐるしく過ぎていったからこそ、毎日少しずつでも書いておけばよかったと思うときがある。 仕事が思いがけず早過ぎるほど早く終わって、飲みに行く一群に背を向けて、まだ陽のある街をゆっくり歩く。ゆっくり歩くのは久しぶりかもしれない。初夏を匂わせる風が吹いていたり、ここが旅先であったりで、気がつくと、自分の来し方を思ったりしている。 その時間時間が「現在」である時には、書くほどもないと思えたことが、「過去」になってみると、何か少し匂いたってきて、書いておけばよかったと思える類のことに姿を変えたりする。
■自分のHPを開いたのは2000年の5月だった。ワープロ愛用者がはじめてMacを使い出してすぐのことだ。iMac→iBook→PowerBookと三台をおしゃかにしてからWindwsに乗り換え、すでに自分のHPを更新する術を失い、新たに作り変える気もなく放置していた。1年ぶりくらいにのぞいてみると、ちゃんとかつての自分の文章にたどり着けて、当たり前のことに少し驚く。
わたしはこんなことを書いていた。
「また五月がやってくる。 四月を迎えて、また花の季節がやってくると思ったように、新緑の季節がやってくる。五月の葉っぱはまだ成長の途上。人の手の大きさで言えば小学校五年生くらい。葉と葉の間からまだまだ空が垣間見える。その緑はまだ淡く薄く頼りなく葉脈だってはかなげで、陽の光は思うさま彼らをすり抜けてくる。 五月は木漏れ日のいちばん美しい季節だ。
自分が自らの人生でまだ何も成し遂げていないと落ち込むよりは、歳がいくつであれ、5月の葉っぱのような人でありたい。途上であるからこその、美しさ、軽やかさ、風通しのよさ。 ざわめく心をひとり鎮めて、伸びゆくエネルギーに変えていきたい。5月の葉っぱのように。」
かつて自分の書いたことが、今の自分に優しかった。 そして、変わらない自分がいるのに、書かない間に、少しずつ何かを失い続けてきた自分に気づきもした。失ってきた経過を、書き留めてきてもよかったのではないかと思った。
38歳の自分が、45歳の自分に、そう勧めてきたのだ。
また書いてみようかと思う。
アイザック・ディネーセンの言葉に立ち返る。 「希望もなく 絶望もなく わたしは毎日少しずつ書きます」 38歳のわたしより、45歳のわたしの方が、この言葉を痛ましく味わえる。虚しい時間の経過が、ことばの意味をより際立たせるのだ。
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