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■人と出会ったり別れたりは、わたしの仕事の一部だ。もう20年以上一緒に、或いは断続的に一緒に、仕事をしている仲間がいる。また、たった一度のご一緒で終わる場合もある。仕事を離れると、たくさんの友達、そして、去っていった恋人たち。さらには今の恋人。……出会ったり別れたりが、まわりの人より激しい人生を歩んできたような気がする。 そして、表現の仕事をしている以上、知り合っていなくても作品で無数の人に話しかけている。こうしてネット上に文章を書いていることでも、わずかながら見知らぬ人が、文章を通じてわたしを知っていたりする。
■谷川俊太郎の「午前二時のサイレント映画」という詩に、こんな一節がある。 人はたったひとつの自分の一生を生きることしが出来なくて あといくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わる でもそのひっかきかたに自分の一生がかかっているのだ それがドタバタ喜劇にすぎなかったとしても
■そして、レイモンド・カーヴァーは「ひっかき傷」という詩を書いている。
目がさめたら、目の上に 血がついていた。おでこの途中から ひっかき傷ができている。でも、 わたしはこのごろ一人で寝ている。 自分に爪を立てるようなやつがいるだろうか? いくら眠っているときでも。 今朝からずっと、この疑問に悩んでいる。 窓ガラスに顔を映してみながら。
■人との出会い別れを思うたび、わたしはこの2篇を思い出す。 出会っても、別れても、どんなに頑張っても、どんなに愛しても、自分は自分で、他人にたかだかひっかき傷をつけるくらいしか出来ない。でも、カーヴァーの描くひっかき傷の、ひりひりとした痛みはどうだろう? この詩の男は、由ないひっかき傷のついた己の顔を、ずっと窓ガラスに映しているのだ。ひっかき傷のない自分ではなく、ひっかき傷のある自分を見つめ続けているのだ。
たとえ家族でも、生涯愛し続けたいと思う人でも、他者は他者。わたしはわたしで、一人だ。
その痛み、その諦観。
そして、「ひっかき傷」は、逆にわたしの微かな希望となる。そのひっかき方こそが、我が人生なのだ、喜劇であれ悲劇であれ、冗漫であれ凡庸であれ。
今も、どこかで誰かが、わたしのつけたひっかき傷の痛みで、わたしを思い出しているかもしれない。
そしてわたしは、ひりひりする痛みを抱え続けて、日々を生きている。痛みなんて何もないふりをしながら。
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