2004年01月27日(火) |
性犯罪被害者となって、そしてまたPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えて、私は今年十年目を迎える。この九年間という時間は、私に何を教えてくれたのだろう。 毎瞬襲ってくるパニックやフラッシュバック、人ごみを歩けば全ての人間がのっぺらぼうに、或いは加害者たちの顔にだぶって見えてとても歩き続けることができずしゃがみこむしか術のない毎日、悪夢は怒涛のように訪れ、あるはずのないものが見えたり聞こえたり。仕事をしようとすれば激しい眩暈や動悸に襲われ、それを解消させるためにと薬を飲めばバタンと床に倒れる始末。自分が自分でないような感覚や、世界と自分はあまりにも厚い壁で断絶されていて、私は何処までも何処までも独りなのだと痛感させられる日々。裁判には負け、多くの友人たちを失い、一体何を支えに毎日を乗り越えていったらいいのか、途方にくれるばかりの日々。底のない、深い深い穴に堕ちた私は、もう二度と浮上できないだろうと、そう思えた。 そんな九年間を振り返ると、あまりにもいろんなことがありすぎて、どう捉えたらいいのかよく分からないというのが、多分、本当だと思う。 たとえば。もし今私の愛する娘が、或いは私の大切な友人が同じ被害に遭ったなら。私は間違いなく激怒するだろう。その怒りはもしかしたら、加害者を殺し得るほどのものとなるのかもしれない。自分の手を汚すことになっても、それでも許せない、と、私は怒り狂う、そんな気がする。 同時に、そんなことをしても、何の解決にもならない、ということを、私は痛感している。これでもかというほど痛感している。加害者をたとえ殺したとしても、起きてしまった出来事をなかったことにすることはできないからだ。私の愛する人が受けた傷は、たとえ加害者を殺したとしても加害者がどんなに罪を悔いて贖ったとしても、決して消えない。 だとしたら何ができるか。愛するその人と共に、生きて、歩き続けるというそのこと。それだけが、多分、私にできることだ。 また、ここで私はふと気づく。私の愛する人たちがそんな被害に遭ったら私は怒り狂うに違いないと思うけれども、じゃぁ自分のことは? 私は自分の身の上に起きた出来事に対し、そしてその加害者たちに対し、怒りを抱くことができているのだろうか? 私の中に、怒りや憎しみが明確な形をもって存在しているかと問われたら、存在していないと私は答えるしかない。おかしな話だが、事件から今日まで、私は、明確な怒りや憎しみを、自分の中に見つけられないで来た。もっと言えば、どう考えていいのか分からない、のだ。 自分の心の中を見つめる。一生懸命見つめる。この心の中に、どんな思いがあるのだろう、どんな思いが潜んでいるんだろう。必死に見つめる。普通に考えたなら、怒りとか憎しみとか、きっとあるはずだ、じゃぁ一体何処にそれは在るの? そうやって何度も探して、探して探して探して、一生懸命探したけれど。私の中に、明確な怒りや憎しみは、どうしても見出すことができない。 そして私は溜息をつく。あぁもしも、私の中に、ひとかけらでも、明確な怒りや憎しみを見出すことができたなら。そうしたら、加害者たちに刃をむけることも叶ったかもしれないのに。もしそうだったら、私はもっと容易に、この傷から解放されていたかもしれないのに、と。 怒りや憎しみというのは、多分、エネルギーだ。もちろんマイナスのエネルギーにもなるが、プラスにも働くエネルギーなのだ。たとえば、こんなふうに犯罪被害者となって心に大きな傷を受けたとき、怒りや憎しみをはっきりとした形で抱くことができたら、それは、バネになる。何かの行動を起こすバネになる。たとえば、私は間違ってない、あんな奴らに負けてたまるか、と思うことができたら、それは次の一歩につながる。
「先生、私、まだ分からないんです。事件のこととか考えようとしたり、自分が思っていることがどんなことなんだろうって探ってみたりしても、見えないんです。もやもやっといろんなものがそこに在ることは分かるんだけれども、それが一体何なのか、いまだにわからない。これでもかってほどいろんなものが渦巻いていることだけは分かるけれども、それが何なのか、いまだに分からない。ここで怒れたら、憎しみ抜けたら、私はずっと楽になる気がするのに。私には、いまだにそれが見つからない」。 「まだどうやって受けとめていいのか、心が準備できていないんだと思いますよ。急がないで、焦らないで、ゆっくりいきましょう」 「でも先生、私もう、今年で十年目なんですよ。こんなに時間が経ってもまだ…」 「焦らないで。時間がかかるんですよ」
PTSDを抱えて生きるようになって、五、六年は、私には明日はないと思っていた。いつだって自分を消去してしまいたかったし、そうするしか術がないと思っていた。一日が二十四時間というふうに区切りがあるものではなく、連綿と続いて三百六十五日がまるで一日のように、永遠にこの暗闇は続くのだと思っていた。私はそこから逃れる術はないのだ、と。自分を消去させる他に、もう自分は赦されないのだ、と。 リストカットや薬の馬鹿呑みをいくらやってみたって解放されない。解放されないけど、そういうことをするしか時間を超えていく術がない。そんな具合だった。 それが、少しずつ変わっていったのは、どうしてだったろう。 私の場合、妊娠、出産、という、このことが、大きく作用していたように思う。妊娠したはいいけれども危険な状態が続いて、妊娠期間の殆どを絶対安静で過ごした。その間、薬が呑めないことで私は不安定極まりなかった。何度自分の手首にナイフを添えただろう。でもそのたび、数少ない友人が、私を励ましてくれた。大丈夫、頑張れ。そしてまた、私のおなかを蹴飛ばす娘の、その生命力に、私は慄かされ、とても手首を切り刻むことができなかった。もし私が切り刻むことでこの命が絶えてしまったら。そんなことはできないと思った。 そして娘が生まれてみると。私が切り刻んだ新しい傷痕を見た娘が「ママ、大丈夫? お薬塗った?」と。そんな娘の言葉に、あぁ私はもう二度と切ることはできないと思った。そしておかしなことに、痛みが戻ってきたのだ。それまでリストカットを何度やっても、どんなに深く大きく切って床を血だらけにしようと痛みなんて露ほども感じなかったというのに、娘が生まれてから切り刻もうとすると私は痛みを感じるようになった。理由は分からない。でも、その痛みもまた、私に教えた。いくら切り刻んだからって何も変わらないんだよ、おまえは生きていくしかないんだ、どんな荷物を抱えていようと、死ぬその日が来るまでとことん生きていくしかないんだ、と。 そうして今日まで。今もパニックやフラッシュバックに悩まされはするが、そんなに慌てなくなった。どどどっと襲ってくるそれらの波の向こうで、ほんの僅かに、これもいずれ終わるんだから、という思いが在る。ありもしないものが見え、夜毎恐怖に晒されても、これは錯覚だ、きっと終わる、今恐いだけだ、きっと終わる、と、恐怖に呑み込まれた心の奥底で、私はそう思うことができるようになった。
また、もう一つ、大切なことがある。それは。 世界との一体感、だ。 去年だか一昨年だかの或る時、自分一人で娘を育てていこうと思い始めた頃、私は途方に暮れていた。もう夫に頼ることはできない、私が自分で立たなくてはいけない、と、そのことが明確になってくればくるほど、途方に暮れた。それは何故かといえば、世界と自分とが断絶されていたからだ。私なんかが社会で働くなどできるはずもない、私などがもう一度社会に関わって、そしてまた金を稼いで生活を成り立たせていくなんて到底無理だ、と、私はそう思った。私にとって事件のあったあの日以来、世界はいつだって恐怖だった。厚い厚い、決して割ることのできない厚いガラスの向こう側だった。或いは、世界の果てまで届いてしまうくらい大きな亀裂が、私と世界との間には横たわっていた。 そして、思った。強く思った。どうして世界はこんなに遠いのだろう、と。 世界は遠かった。とてつもなく遠かった。私には無関係に、大きな大きな亀裂を間にして存在している。その世界と私は今更どうやって関わればいいのだろう。 いくら考えても分からなかった。世界は私に近づいてはくれないと、そのことを痛感するばかりだった。 そして。或る時、私は逆説的に考えた。世界は私にもう二度と近づいてはくれない、ならば、私が世界に近づこう、と。世界に向かって私の両手を広げよう、と。 以来、毎朝私は娘を保育園に送った後、喫茶店へ足を運んだ。そのカウンターで空を見上げ、風に揺らぐ木々を見つめ、流れゆく雲を眺めた。時には木の下へ行き、木々の枝にぶらさがる木の実を採った。港の片隅で、海を往く船を眺めた。鴎は何処までもゆるやかに旋回し、波は何処までもやさしく打ち寄せた。 世界をもう一度愛したい。世界に近づきたい。私も世界の一員として、もう一度生きてみたい。ただそれだけをひたすら思った。思いながら私は、自分の心を解放しようと思った。 気がつけば私は、パートタイムではあるけれども仕事を始めていた。早めの電車に乗って駅前の喫茶店で珈琲を飲んだ。飲みながら、不安な思いを日記帳にぶつけた。そして職場で、上司の顔が加害者に見えてしまう瞬間、私はちょっとトイレにと逃げる術を覚えた。どうしてもつらいときはベランダに出て煙草を吸った。昼食は必ず一人でとり、その間に、しんどい思いは全部日記帳に吐き出した。そして私はまた職場に戻り、仕事を続けた。 そうやって少しずつ少しずつ、私は世界を呼吸するために歩き出した。もう一度世界を感じるために。もう一度世界と繋がるために。 今、私は、たとえばベランダの薔薇の樹の葉ひとつに、世界を感じる。目を閉じて深呼吸すれば、自分の心が世界へ向かって流れ出すのを感じる。 長い長いトンネルを経て、ようやく今、世界は私のところに帰って来た。そして知る。あぁ世界は、いつだって私に開かれていたのだ。閉じていたのは私自身だったのだ、と。 これから先、もしまたいろいろなことがあって、私と世界との間に亀裂が入ることがあったとしても。私は知っている。世界はいつだって私に向かって開いているのだということ。私が手を差し伸べさえすれば、届くところにあるのだということ。そして、世界との一体感というものは、生きていくためにとてもとても必要なものであるということ。大切な大切なものであるということを。翻って言えば、世界との一体感が破壊されてしまうことが、PTSDの哀しい痛みであるということを。 私は、九年という時間をかけて、そのことを今、知る。
いくら書こうと思っても、多分私はこの九年という時間を書ききれることはないんだろう。 でも、思うのだ。 九年、という時間は、私に、もう一度生きることを、多分教えてくれたんだと思う。性犯罪に巻き込まれようと、PTSDを抱えていようと、生きることはできるのだ。 私が今日も生きている、そのことが、何よりも大切なことなのだ、と。今、私は、そう思っている。
---事件に遭って、そしてPTSDを抱えて十年目を迎えて |
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