2004年06月29日(火) |
気がつけば、今日という一日がまた過ぎ去っている。窓の外、久しぶりに夜風はやさしく、街路樹の葉々を撫でている。時々通りを行き交う車の音が、風に乗り私の鼓膜をふるわせる。 ベランダでは今、次々に薔薇が開いている。強い日差しを真っ向から受けて輝く花びらを見つめていると、そのまま彼らが光に蕩けてしまいそうな錯覚を覚える。日差しという見えない炎に焼かれ、そのまま消えてなくなってしまうかのような。 最近また、自分という実体から、私の内奥が少しずれているように感じられる。私の目に写り込むのはだから、いつだって私の後頭部が入り込んでいる映像になってしまう。私の目は顔のこの位置にあるはずなのに、見えるものすべて、私の後方からの視線になる。実体から離れて浮遊する私というモノは、右に左に少しずつ揺れて、世界はだからいつだって不安定だ。これも私が生涯抱えていかなければならない世界の一つだと言ってしまえばそれまでだが、いくらこういう世界を見せられても、慣れることはなかなかできない。 そうして、私の目に写る像と実際の世界とがきちんと結ばれる唯一の時間は、娘を目の前にしている時間ということになる。娘がいる。守らなければならない存在がそこにある。私がちゃんと起立していなければ、私は彼女を守ることはできない。その思いが、ふわふわ浮遊する私をぐいと現実に繋ぎ止める。
それにしても。 怒涛のような一年だった。別居し、離婚し、求婚され、御破算になり、小さな恋をして、恋を手放し。そして娘との二人生活。それはたった一年前からの出来事なのに、私にはもう、十年二十年昔の話に思える。 この一年。私が学んだことは何だろう。まだ答えは出ない。が、一つだけ、間違いなく言えることがある。それは、孤独を親しいものにすることができたということだ。 孤独、それはかつて、まるで天敵のようにそこにあった。私は、孤独になどなりたくなかったし、孤独であることに耐えられもしなかった。遠い昔ではあるが、孤独であることと自分で歩くこととを履き違えていたその頃の私は、孤独でありたくないが為に自ら自分の足を折ったこともあった。 でも。 今は何だろう、孤独という代物は、私の中で、まるで一枚の毛布のような存在になっている。決して氷のように冷えきったものではなく、やさしく私を包み込んでくれるような存在。それが、孤独。孤独という言葉からかつて抱いていた不安で寂しくて辛いイメージなど今は何処にもなく、まるで人生の伴侶のようにしてそこに在る。 だから今は、孤独と親しむことができるようになった今は、何も怖いことはない。ひとりきりでも、世界は冷たいどころか、何処までも何処までも平等に広がっているし、その道には花も咲いていれば鳥が渡ってゆく空もある。 多分、それを教えてくれたのは、娘という存在なのだろうと思う。彼女は、与えられた環境を黙って受け容れ、その世界で精一杯毎日を生きている。与えられた環境を拒むのではなく、受け容れることで、さまざまなことを乗り越えてゆく。乗り越え、そうして彼女は毎日懸命に羽ばたいてゆく。 下手に知識を持ち、世間ずれし、言葉も過剰に覚え、不平不満を振りかざす術も身につけてきたりしたが為に、言い訳ばかり用意して現実から逃げたり見ないふりをしたりする私に、彼女は無言で教えてくれる。何故逃げるの? もちろん彼女にそんなつもりはないだろう。私がただ、彼女の生きる姿勢から感じただけの話だ。でも。 受け容れることで乗り越えられるものがあるということを、教えてくれたのは、間違いなく、たった四年しかまだこの世を生きていない彼女だった。 あぁ、受け容れてゆくのだ、何もかもを受け容れていこう、そう思ったとき、孤独は、私と敵対するものではなく、強力な味方になった。そして改めて世界を眺めれば、それはとても美しくて、同時に醜くて、どれほどに愛すべき存在であるかを、私は知った。
今、娘はすぅすぅと寝息をたて、大の字になって眠っている。 彼女は多分、ただここに在るというだけで、私に再び生きることを教えてくれる。今ふと思う。もし死ぬ間際、私から彼女に残す言葉があるとするなら。それは。 ありがとう。その一言だ、と。 |
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