2005年10月27日(木) |
朝、外に出た瞬間、あぁじきに降り出すのだなと感じた。空を見上げなくても、一面を覆うどんよりとくぐもった雲は、下へ下へと降りてきそうな気配を漂わせていたし、何より風が、絞れば滴が落ちてきそうなほど湿っていた。雨、傘を取りに部屋に戻ろうかと、思わなかったわけではないけれど、私は結局戻ることなく、駅へと歩き出した。 幾つかの電車を乗り継ぎ辿り着いた駅は、十代の頃からあれやこれやと関わった街のひとつだった。ただ、刃のような出来事が山積みで、私は長いこと、この街を避けていた。今日はどうしても済ませなければならない用事があり、仕方なくここに来ることになった。でも、もういい加減大丈夫だろう、これだけ時を経たのだ、もう大丈夫だろう、と、私はたかをくくっていた。 ホームに降り立ち、改札口を出る。そして。 何も考えずとも、身体が勝手に動いていた。表通りではない裏通りを、私はすいすいと歩いていた。私の意識にはのぼらないところで、私はこの街の細部までもの地図を持ち、いくらでもこうやって歩き回ることができるのだった。街角のあちこちに、記憶の断片が落ちていた。そして気づいたら、私はすっかり幾千幾億ものフラッシュバックの波に呑み込まれていた。 息苦しくて、眩暈がして、私は立ち止まろうとするのだけれども、足は決して歩みを止めてくれない。もう止まって、ちょっと休ませて、私が何度そう言いかけても、身体は勝手に動いてゆくのだった。もう私の身体は、私の意志には関係ないところで動いていた。記憶とは何と残酷な代物なのだろう。身体に染み付いた記憶。それは、もう忘れ果てたと思い安心していた私を、一分一秒かからずに殴り倒していた。もう大丈夫、きっと大丈夫、もうこれだけ時間を経て私もしぶとくなってきたのだからきっと大丈夫、そう思っていたのはいつのことだったか。ついさっき、電車の中で私は、そう思ったはずだった。そう思っていたはずだった。だのに。 今この瞬間にも絶叫し破裂しそうな私の心臓はそれでも、勝手に進んでゆく手足に引きずられ、目的地へと辿り着く。何食わぬ顔をして、用事を済ませる。それを受け取るまでの一時間強、何処かで時間を潰さなければならない。何処に隠れたらいいのだろう、この街に染み付く私の記憶にはない場所でなければ、耐えられそうになかった。でも、私の記憶を引き出す場所ばかりが目に付いて、一体何処に行ったらいいのか分からない。もうどうしようもなくなってしゃがみこもうと思ったとき、私の目に小さな珈琲屋の看板が映った。何度か当時入ったことがある場所だったけれど、もうここでも構わない。私は這いずるようにしてカウンターのすみっこに座った。 もうその頃には、雨は降り始めていた。座ってしばらくすると、それまで霧雨だったのが粒の雨に変わり、ぽたぽた、ぽたぽたと、道行く人の傘に落ちて音を立てるのだった。 今通り過ぎた見知らぬ人が、何故か私の記憶の誰かと結びつく。今角を曲がって現れた見知らぬ人が、どうしても私の記憶を呼び覚ます。今現実に私の目の前を行き来する人たちは、私の喉を焼くような痛い記憶に関わる人たちとは全く関係のない人たちだと私は分かっている。全くの他人、まさに道行く人たち。別に私を傷つけることもないし、笑いあうこともないだろう、関係なんてものはこれっぽっちも持つはずのない他人。なのに、どの顔ものっぺらぼうで、だからそののっぺらぼうに私の記憶に刻まれた顔たちが映りこむ。私はいつの間にか瞼をぎゅっと閉じ、唇を噛み締めていた。ふっと思い出し、慌てて鞄の中を探る。頓服があったはず、持って出たはず、鞄の中がぐしゃぐしゃになるのも構わず私は探る。ようやく見つけた薬を三回分、まとめて口の中に放り込む。効くかどうか分からない。それでも、ないよりはましだ。呑まないよりは呑んだ方が気休めにくらいはなる。 いつの間にか運ばれていた珈琲は、もう湯気が失われ、口に含むとひんやりと、そしてぼんやりとした味がした。喚いたり泣いたりできたら、少しは楽になれるんじゃないかと思ったりもするのだけれども、泣いたり喚いたりしたいという気持ちは、微塵も私の中に存在せず、ただただ、虚ろが、空洞のような虚ろが、宙に浮いて、私はその場所をぼんやりと、見つめているのだった。感情と名をつけていいような代物はもう、この時、私の中には残っていなかった。 できるなら。この空洞の虚ろさの中、ぼんやりと漂って、しばらく眠ってしまいたいと思った。何を感じることも何を考えることも切り離して、ただぼんやり、虚ろの海の中、漂っていたい、と。 でも、現実は異なり。私は虚ろの空洞を抱えながら時間を過ごし、用事を済ませ、ふらつきながらも帰路につく。ふらつく足で額縁という重い荷物を抱えながら、それでも私は家路を辿る。その先には娘が待っており。その後はもう、娘の世話やら何やらであわただしい時間がしばらく私を待っている。虚ろに佇んでいる暇は、残念ながらなさそうだった。 揺れる電車の中、私は心の中で、主治医に尋ねていた。先生、どうして記憶はこんなにも残酷なのでしょう。先生、どうして時間はこんなにも経ったのに、いまだにあらゆる記憶が鮮明なのでしょう。私は一体何処まで、これらの痛みと向き合っていったら赦されるのでしょう。先生、私は果たして、いつか平気になってゆけるのでしょうか。それは一体いつですか。何処まで歩いたら私は解き放たれるのでしょう、赦されるのでしょう。 激しくなる動悸や眩暈に合わせて、こめかみに刺さる痛みが酷くなってゆく。でも、それもいつか終わる。どんなにフラッシュバックに襲われても、どんなにパニックに襲われても、いつかそれらは終わってゆくし、私はきっとまた生き延びる。そしてまた、今日という明日を迎えるのだ。死ぬそのときまで赦されることがなくても、解き放たれることもあり得なくても、私はまたきっと生き延びる。 だから先生、せめて、もう少し楽になりたいです。 電車内にアナウンスが響く。次はS駅です。そしてホームに滑り込んだ電車は止まり、私は降りる。改札口を出て気づく、いつの間にか雨が止んでいる。そして私はまた、歩き出す。 |
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