2006年03月18日(土) |
娘が留守の夜。一人、浴室で、現像液を作る。やがて独特な匂いが浴室に充満し、でもそれは、もう私が慣れ親しんだ、そして、何処か寄りかかりたくなるような、そんな、匂い。 フラッシュバックに絶叫し抱えた頭を床に何度も叩きつけ、それでも必死に夜を越えようと噛み締めた唇は突然ぐさりと破れ、血が垂れる。その紅色の滴が私の理性の糸を、ぴんと張り詰めた糸をぷっつりと切り。気付けば腕を幾重にも裂いている。テーブルに散らかった薬を鷲掴み、口に放り込む。でもそんなもの、何の足しにもならないのだ。そして、私はふらふらと立ち上がり、当時窓のない真っ暗な浴室を暗室の代わりにし、気付けば写真の現像を始める。黙々と、黙々と焼く。もし一瞬でも油断して手を止めたのなら、私の手は再び刃を握るだろう。そしてまた腕を痛めつけるのだ。だから私は一心不乱に、印画紙に光を照射する。光を照射する数秒。ネガを通って光は、印画紙に堕ちる。 現像液停止液定着液水洗。ぐるぐる、ぐるぐる回る。そして。 薄く赤い灯りの中、浮かび上がる像たち。夥しい針の先ほどの点たちが作り出す世界は、一心不乱に焼き殴ったのにも関わらず、間違いなく折々の私の内奥を映し出し。そして私は、ようやくひとつ、深く息を吸い、そして吐く。暗い暗い暗い部屋から出た私の目に映るのは、いつだって一筋の、青く白い、朝陽だった。 そんな、あの頃のことが、不意に私の脳裏を駆け巡る。懐かしいようなこそばゆいような、そんな感じである。今、私が同じ行為をしても、あの頃とは違う。無心になることに変わりはないが、それは何処か穏やかな、しんとした行為だ。でも、途中の経過はそうやって、違ってきているけれども、そこから生まれ堕ち私の前に並ぶ印画紙たちはいつだって、新しい。私はその印画紙と見つめあい、教えられるのだ、また今日も、新しい何かを。それはたとえば、私が無意識に探すなにかだったり、たとえば私の深層に長いこと眠っていたなにかだったり。まだ意識にのぼり私が言語化する以前のモノたちが、いつだって浮かび上がっているのだ。 だから私は、この術が捨てられないのだと思う。
それにしても。髪が伸びた。或る時、パニックを起こした折に、十代からずっと長く垂らしていた髪をざくざくと鋏で切り落としてしまったことがあった。腰近くまであった髪はその瞬間、私の顎の辺りまでになり、以来、肩のあたりでふわふわ揺れていた。 今気づけば、小さく鄙びた乳房を隠すほどに伸び。面倒ではあるけれども、この感触はとても、懐かしく。編み込みをしようか、それとも変形ポニーテールにしようか、それとも、なんて、鏡とにらめっこしながら毎日髪型をいじることが好きだった昔々の自分を、おぼろげに思い出す。 そういえばあの頃のように鏡とにらめっこして一時間も二時間も時を過ごすことなんて、今の私には在り得ない。私はなんであの頃、あんなにも鏡とにらめっこしていたのだろう。見つめればこうやって凝視して凝視して穴が開くほど凝視したならば何かが見出せるんじゃないか答えの一つでも見出せるんじゃないかと、飢えた野良犬のように目を血走らせ、鏡と対峙していたあの頃。今それを思い出すと、よく鏡が耐えてくれたものだと苦笑してしまう。あんなにも凝視され、四六時中睨みつけられていたら、私なら粉々に割れてその場を逃げ出していたかもしれない。でも。 答えはいつだって自分の中にある。そう信じてたんだ。あの頃。他人の答えじゃない、教科書の答えじゃない、私が私の中に生み出すものしかもう、信じられなかった。いや、自分の中に生まれたものさえ、あの頃の私は信じることができなかった。だから、あれほど死に物狂いだった。これでもか、これでもか、と、自分の心を抉って抉って、抉り続けるしか、術がなかった。 でも多分。 それでよかったんだと思う。でなけりゃ、私は納得できなかったろう。いずれ一歩も進めなくなっていただろう。ああした時間を潜ってきたから、今私は、ここに在る。
もうじき娘が帰ってくる。そしてわたしたちは、明日から数日旅に出る。 窓の外、黒々ぬめぬめと横たわる闇。明日の出発時、同じこの空は、どんな色に染まっているのだろう。 |
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