2010年02月28日(日) |
冷たい雨が窓を叩く。アスファルトを叩く。街路樹を叩く。窓を開けて私はその様を見つめる。手を伸ばすと、雨粒がぱらぱらと私の手の上に落ちてくる。しとしとではない、ぱらぱら、だ。湿気が充分にあるはずなのに、どこか冬の雨というのは乾いて見える。何故なんだろう。 ゴロがまた前足を上げてこちらを見上げている。おはようゴロ。私は声を掛ける。おはようおはよう、繰り返し言ってみる。彼女はちょっと首を傾げ、それから小屋の入り口にぺったりはりついて、こちらをずっと見上げている。 お湯を沸かそうとしたところで、テーブルの上が適当に散らかっていることを思い出す。昨日は夜遅くまで友人とおしゃべりしていたのだった。椅子の端には彼女と開いた本がそのまま置いてある。そうそう、この本を広げて眺めたのだったと思い出す。それは絵本なのだけれども、手紙がたくさんの頁に挟まっているといった具合の絵本で。読み手はそれをひとつひとつ広げながら、笑ったりほろりとしたりするといった代物。私の好きな絵本のひとつ。空になったワインの瓶が、ちょっと寂しげに、しんとしてそこに在る。 私はテーブルをすぐに片付けようか、それともお湯を沸かすか一瞬迷う。普通ならここで片付けるのかもしれない。が、私はしばらくそのままにしておくことにする。カップだけ流し台に置いて、その他はそのままに。 ゴロがなんだかばたばたしている。私は彼女にどうしたのと声を掛ける。昨日娘がいなかったから、どうもスキンシップが足りていないらしい。出して出してといった仕草。私は彼女を肩に乗せ、そうしてお茶を入れる。
友人が娘さんを連れてやって来た。彼女と会うのは、病院で出会ったことを含めると三度目になる。伸ばしていた髪の毛を短く切った娘さんは、大きな目をくりくりさせながら、ずっと携帯電話をいじっている。 娘さんと話していて、彼女にとってお母さんという存在がどれほど大きいものなのかを改めて思い知らされる。自分のことをどれほど削っても惜しくないほど、母親は大きいのだ。そこには彼女の生い立ちが大きく影響しているのだろう。一見クールに見えるのかもしれないが、それは全く違う、とてもどくどくしたものを内側に持っている。私にはそう感じられた。自分でもそれが分かっているから、どうしたらいいのか分からないのかもしれない。私が開いていたノートの中から、彼女は共依存症と構造分析のところをコピーして帰っていった。 私たちはご飯を食べながら、おしゃべりを続ける。彼女は前髪を後ろ髪と同じ長さに伸ばしていつも垂らしている。ちょっと癖のある髪が、彼女のうなじあたりにふるりんと絡み付いている。小さめの目と口が、ちょこんちょこんと白い顔を彩る。薄い唇が、ゆったりと、動き続けている。 幼い頃から、集団生活に馴染めなかった自分がいたと彼女は話す。病弱だったこともあり、なおさらひとりで過ごすことが多かった、と。自分がしてほしかったことを子供たちにはしてやりたいと思いながら、いろいろな事情で充分にはそれが叶わなかった。だからこそ今、またここからだと自分を奮い立たせている。奮い立たせているといっても、それは劇的なものではなく、淡々とした、とても淡々とした中でのものであり。でもだからこそ、彼女の思いが強いことが伝わってくる。 私たちは話し続けている。時折笑ったりおどけたりしながら、話し続けている。それでも何だろう、お互いの領分を分かった上で話しているから、侵入感がない。それが心地よい。
「心理的な領域であなた自身について学ぶことはつねに現在にある」「学ぶことが過去ぬきのたえまない運動である」「何かを理解するには、あなたはそれと共に生きなければなりません。それを観察し、その中身、その性質、その構造、その運動すべてを知らなければなりません。あなたは自分自身と共に生きてみたことがありますか? もしそうなら、あなたは自分自身が固定したものではないことを、それがフレッシュな生きたものであることを理解するのでしょう。そして生きたものと共に生きるためには、あなたの精神もまた活き活きとしていなければならないのです。そして精神が生きたものであるためには、それは違憲や判断、価値観にとらわれてはならないのです」「何かをただ見ることは、この世で最も難しいことの一つです。私たちの精神は非常に複雑なので、簡素さをなくしてしまったのです」「どんな歪曲もなしに現実にあるものとして自分自身を見ることができる簡素さ―――自分が嘘をついているときは嘘をついていると言い、それを取り繕ったりそれから逃げ出したりしないことです」「自分自身を理解するためには、また、私たちは大きな謙虚さを必要とします」「あなたが特定の足場をもたず、そこに確実なものは何もなく、何の達成もないなら、見る自由、行なう自由があるのです。そして自由をもって見るとき、それはつねに新しいのです」 「木に触れるには、あなたは手をその上に置かなければなりません。そして言葉はあなたがそれと接触する助けにはならないのです」「私たちが目の前の現実から逃げ出すのはなぜでしょう?」「事実は依然としてそこにあるのです。事実を理解するには、私たちはそれを見なければならず、それから逃げ出してはならないのです。私たちの大部分は死ぬことと同様、生きることを恐れています」「単純な事実は、私たちが恐れているということです」「あなたが事実と向き合えるのは今だけです」 「〔なぜ行動しないのかという〕その理由は、あなたが見ないからです」「あなたが行動するのは、あなたがその条件付けを見て、かつ、断崖を前にしたときのようにその危険性をその場で見るときだけなのです。ですから見ることが行動することなのです」「あなたが自分の条件付けに全体的な注意を向けた瞬間、あなたは過去から完全に自由になることを、条件付けが自然にあなたから脱落するのを見るのです」
娘に電話をする。楽しそうに今日あったことを話す娘の声に、私はただ耳を傾ける。そして娘が言う、ママ、今誰起きてる? 誰って? 生ハムだよ、生ハム! あ、今誰も起きてないよ。さっきゴロがちょこちょこしてたけど、すぐ家に入っちゃった。なーんだ、あ、ママまた、抱っこしたりしてあげてないんでしょ! あ、うん。うんちされるのがいやだし噛まれるのもいやだし。全くもう、ママはいっつもそうなんだから! 構ってあげないとだめなんだよ。じゃ、あなたが帰ってきたらね。全くもうっ、頼りにならないんだからっ! ひとしきりおしゃべりし、私たちは電話を切る。明日には娘も帰ってくる。それまでの間に私はやれることをやっておかなければ。ひとりだからこそできることを、やりたいことをやっておかなければ。
友人は白ワインを、私は梅酒をちびちび飲みながら、言葉を交わし続けている。彼女が、もう少し、精神的に強く逞しくなれたらと思うと話す。娘たちが存分に自身の弱い部分を自分に曝け出してくれるくらいに、強くなれたら、と。 でも。私が彼女と再会してから。彼女はずいぶん逞しくなったと私は思う。会った当初は、ちょっと強く触れたらすぐ倒れてしまいそうな雰囲気があった。それが今はずいぶん変化してきている。それはこれまでの彼女の時間からしたら、劇的な変化だろう。何より変化したのは、きっと、ノーという意思表示ができるようになったことかもしれない。それは拒絶とは違う。今自分にはできないことをできないと正直に表現する、ということだ。自分が倒れたら、元も子もない。だから、今自分に可能なことは何かを見極めること、だ。 誰かを大切に思うことは、自分を大切にすることでもある。自分をないがしろにしたまま、誰かを大切にすることなど、できやしない。
雨粒がだんだん大きく強くなってきている。その中を、バス停へ走る。ほどなくやってきたバスに乗り、駅へ。 歩き出すと、海と川とが繋がる場所で、鴎に出会う。こんな雨の中でも飛んでいるのかと、私は立ち止まり、鴎を見つめる。白い体躯が灰色の空の中、鮮やかに浮かび上がっている。それはまるで一筋の光のようで。その美しさに、私は目を奪われる。 昨日、少し離れた街に住む友人からメールが届いていた。私も今を頑張ります、そしていつか強く優しい人になれたら、と、そこには記されていた。強く優しい人。そんな人になれたらいいと思う。私はまだまだだ。強くもなければ優しくもない。いつもいろんな人に支えられてきた。今もそう。そうして何とか生きている、ちっぽけな存在に過ぎない。 でもちっぽけと分かっているなら、そこからまた始めることもできるんだろう。今は自分をそう励まして、踏ん張ることにする。 信号が青に変わった。私はまた、一歩を踏み出す。 |
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