ふつうっぽい日記
もくじ|過去|未来


2016年08月18日(木) 静かな朝だ

静かな朝だ。
きれいな空気だ。

朝のウォーキング(散歩)を始めて10日である。

少し変化をつけたくなる。

少し眠い。

今日は図書館に行く。
この1週間で3度目。
1週間前くらいに引っ越して初めて市の図書館に出向いたのである。
正確には初めてではない。
大学時代にお世話になった。
でも、頻度は低かった。
中学時代から「実家」は、今、私が住んでいる市に移った。
あれやこれやで、私は点々として、去年、縁あって実家のある市に移り住んだのである。

図書館の貸し出しシステムというのは定期的に進歩している感じがした。
というか、土地によって違うのだろう。
自動貸し出し機というのには驚いたものだ。
これは、前に住んでいた土地の図書館にもあった。
だいたい、貸し出し時にレシートのようなものを受け取るが、今回の市のシステムは、貸し出しカードに印字される。
リライトカードと呼ばれているらしい。

この1週間で3回行ったわけだけれど、1回目5冊、2回目8冊、3回目の今日は10冊借りた。別に速読をやれているわけではない。
図書館との本の付き合い方が自分らしくなったからだと思う。
「読了しなくていい」という理由が大きい。
読まなければならないという枠を自分で作っていた頃は、どこか義務感で通っていた。
10冊借りられる内のせいぜい3冊くらいしか借りていなかった。

本を手に取って、読むぞ!と思ったら、買いたくなった!つまり自分のものにしたくなった本というのも出てくるから不思議だ。
そういう本は、「買うのだ」と思わせてくれた仕事をしてくれたので、あえて、図書館で借りたそれは読まないのだ。
この1週間では1冊そういう本に巡り会えた。
実際に、本屋さんで手に取っていたかどうかは分からない。
だから本の縁というのは不思議なのだ。
で、買いたい!と思った本は、その2日後に古本屋で出会うことになった。
しかも20%オフというセールの日で、運がよかった。
もっとも、古本屋で出会わなくても正規の(?)書店で買うつもりだった。

壮大な図書館を「海」に例えたのは、井上ひさしさんだ。
�犢匈き瓩砲茲辰董⊆�分の進むべき道が明らかになったと何かの本で読んだ。

まだ、私はオロオロしている。
限られた海の広さを把握していない。
把握はしなくてもいいのだろう。
無意識の産物として、自分を信じて選んでゆけばよい。

まだ、少し眠い。

朝ご飯を食べたら目が覚めるだろうか。


2016年08月17日(水) 夢の延長

人は死ぬ前に
同じ夢を見るのではないか

でもそれを
共通理解することはできない感じの。

「私も」
「ぼくも」
「俺も」
と。

夢見ている間かもしれない。


ーーーー
ふと、今日、いや、正確には昨日、寝る前にそう思ったのだ。

これを文字にしようと思ったのは今朝のウォーキング(散歩)による。

夢に知らない人が出てくるように
人は同じ夢を見ているのかもしれない。
誰かの夢に「登場」するために
眠りは必要なのかもしれない、とか。

実は眠っている間が「真」の“世界”で
起きている間は「楽屋」にいるような稽古場にいるような
もしかしたら逆かもしれないが。
二次元で“生きて”いるのかもしれない。
その“記憶”が繋がっていないだけで。

でも、繋がっていないようで
繋がっているのかもしれない。
“続き”を夢でやっているのかもしれないし
“続き”を現実でやっているのかもしれない。

夢の延長。

夜に見る夢と将来の展望である夢が
同じ「夢」であるのも不思議だ。


2016年08月15日(月) この風は、誰かの前にも吹いた風

影響を与えられた、というけれど、それを主体的に「動」として受け止めたのは一方通行に過ぎない。

文章家というのは、引き裂いた人、自分を引き裂いた人だと私は考える。
上から下へと。
一度引き裂いてしまえば、あとは、その断面のメッセージの声を聴けばいいだけだ。
文章は、その断面のメッセージの集合体にすぎない。

だから読者は断面しか分からない。
断面を見て、形を想像するのだ。
断面は同じでも、それぞれが想像する形は違ってくる。

国語の、学校の国語、問題集の国語は、球体なんだろ。
きれいな、整った。
その球体を、様々な形に変えていくのは、それぞれの読書的体験だ。

今、風が吹いた。
この暑い自室の中に。
この風は、誰かの前にも吹いた風。
やさしく、涼しげな風だ。


2016年08月11日(木) その始まりの時に

先週から、ウォーキングをしている。
散歩といってもよい。

私はといえば、帰る時や帰った後のことをその始まりの時に考えていることが多い。
ウォーキングの時に限らず、コンサートや観劇の類も。
終わる時のことを考えていることが多い。
盛り上がっているときに、ペンライトを振っているときに、帰りの電車の中のことを考えていたりする。
といって、「出逢い」の時に即座に「別れ」のことを考えているのではない。
すぐにというか、超越しているのだ。
出逢いの途上で、別れを想い、本来の別れの時、新たなる出逢いや再会を設定しているのだ。
とはいえ、たしかにそこには、「悲しみ」「寂しさ」「空虚感」の様な気持ちは存在する。

自分一人の時間の流れの中にあっては、感じきれなかったこと、思いが発生しなかったことだ。
そこには、「他者」が存在している。
「他人」ともいえるが、私は「他者」という表現にこだわりたい。
「役者」に似ているからかもしれない。

「わたし」も「他者」からすると「他者」である。
「わたし」の存在によって、どういう想いや感情が発生するものだろうかとふと思った。
それは、とてもちっぽけなものだ。

「わたし」の存在、それでも、「わたし」が「他者」を必要とする限り、設定する限り、「他者」の中の「わたし」もきっと同じような思いを抱いていると思いたい。


2016年08月09日(火) 対話の大切さを学んだ

昨日、我が家で作った赤飯を実家へお裾分けに持って行った。

父が
「蜂の巣の半分が、誰かによって駐車場に投げ込まれた」と言った。

母と私と夫は
「風で飛ばされてきたんだよ」と言った。

すると、父は
「言われてみれば、退治された跡があった」と言った。

被害妄想的な状況が対話によって分解されたと後から思ったものだ。

対話の大切さを学んだ。


2016年08月08日(月) わたしたちは膜を通してモノを選んでいる

本を読んでいて、わたしたちは一つの膜、いや、一つ以上の膜を通して、モノを選んでいるなぁとしみじみと思った。
それでも野菜のいくつかはそのまま触れて個別にビニール袋に詰めることができる。
自分で、自分の「感覚」を頼りに選ぶのである。
衛生面ということもあろう。
肉なんかは剥き出しになっていると、大丈夫かなと思ったりする。
そう思えば、ネットショッピングは触って選ぶことはできない。
カタログだってそうだ。
画像、あの艶のある画像にひかれて選ぶ。
まぁ、本なんかはちょっと違うけれど。

人を選ぶ、とくに結婚する人を選ぶのはやはり触った感触なのではないかしら。
匂いとか。
落ち着くそれを選びとっているのだと思う。


2016年08月07日(日) 哲学書や哲学的エッセーをなぜ読むのか

哲学書や哲学的エッセーをなぜ読むのか。
それは、文体を自分の中へ取り込むためだ。
一時的にガツンと入り込んだそれは、アウトプットされるときに影響を与える。

本だけではないかもしれない。
言葉に影響を与えるもの。
新しい文体をインストールしたい衝動に今駆られている。
どの文体にするのか「誰」が決めるのだろう。
「手」だろうか、「頭」だろうか、「脳」だろうか、「意識」だろうか、「経験」だろうか、「過去」だろうか、「未来」だろうか。

…「私」だろうか、「僕」ではない「私」?


2016年08月06日(土) 畏れることなかれ、現象との出逢い、そして再会を

本屋へ行った。
心がリセットされるような感覚を味わったかと思えば、熱い火の中に入っていることを気づかされるような、また、そうであったことを忘れるようにしなければ?と自問しそうになった。

これは、初めてではない。
同じ様な傷が思い出される。
またやってしまった…という感じの。

思い(想い)と現象がくっついていることによる。
現象だけを剥がす努力をせねばならない。
それが読書だとか観劇なのだろう。
だから、やはり起こりうることなのだ。
思い(想い)と現象の癒着は。
それらを切り離す作業はせねばならぬ。

それが落ち着いた頃、また、新しい想いとか現象(性質)に触れることができるのだ。

畏れることなかれ、現象との出逢い、そして、再会を。


2016年08月04日(木) 知識って。

ある本を読んでいて、「知識」について巡らせたくなった。

「知識」といえば、思い出すのは「研修」である。
ある新しい仕事をする時に、「研修」があると心強いものである。
ところが、それがないという場合もありうる。
そういう場合は、自分でなんとかして「知識」的なものを得ようとすることになる。
本を読んでみたり、講習会に参加してみたり。

またこうも思ってしまうかもしれない。
「研修」の機会を与えられない状況への不満。
機会があったらあったで、その内容についての不満が多分出てくる。
もっと、実地に相応しい内容がいいのに、とか。

支援員時代を思い出してみる。
「研修」というものは、なかった。
そこで、現場の職員に私は「研修を受けたい」と申し出た。
結果、学内の研修に参加することができた。
恵まれている例かもしれない。
「学内の研修」は、なんだかの形であるものだと思いたいが、それが外部からの支援者には閉ざされている、ということもありうるのだ。
「必要」ではなかろう、という考え方ではないと思いたい。

与えられない場合は、やはり、自分から動くしかないのである。
経験を糧に、それらがいったいどういう状況なのかというのを本を読んだり、講習会に参加してどうにか結びつける作業が必要だ。
必要というか、そう考える思いが増大する、という感じの。

また、「知識」的なものの「覚え方」にも、人それぞれ違う。
「与えられた」「受け身的な」知識は、通り過ぎていってしまうことがありうる。
どのタイミングで何を与えられるか、与えるかというのがポイントだ。
ずれてしまうのは、どうしようもないこと。

そして、それら「知識」を持っていることで、人それぞれ「何」が起動されるのかも違ってくる。
頻度だって違う。
頻度が重なれば、いちいち「知識」として引き出されるなんてこと、意識されることも少なくなってくる。

「知っている」ということ。
それは人それぞれ。

でも、「経験」に裏打ちされた「知識」は、頼もしい。

だから、一様に「知識」と言われても、平等ではないのだ。
だからある人にとって、「研修」が、とても「知識」に満ち満ちたものであることが、また、ある人にとっては「退屈」に思われることだってあるのだ。「同じ」「経験」の場にいたとしても。

「知りたい」は、自分から動き出すことである。
好奇心を忘れないで過ごしていこう。


2016年08月01日(月) 終わりは始まり

8月になった。
そう、パートは終了してしまったのだ。
早い……早かった気がする。
それでも、月日は、時間は平等に流れている。
微妙なひとときも、楽しいひとときもあっという間に感じられる。

しばらくは、インプットの時間だ。
そしてまた、アウトプットするのだ。
アウトプットのタイミングが合えば、それはそれでいいのだ。
でもたとえそうでなくても、昨日までであっても、物語は始まるのだ。

終わったように思えても、終わりは始まりなのだから。


KAZU |MAIL