Opportunity knocks
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今いちばんみたい映画、「アイ・アム・サム」 来月の8日が封切りらしい。 試写会にも結構応募したのだけど、全部おちてしまったので 封切りまで首を長くして待ってる。
ショーン・ペンはデッドマン・ウォーキングの頃から好きになった。 それまではマドンナとのことやその他いろいろのこともあって、ただのお騒がせヤローなのかと思っていたけど、あれをみて見方が変ってしまった。 初監督作品の「クロッシング・ガード」(だったよね?インディアン・ランナーだったかな…初監督作品)も良かったし。
でも、今度の映画はちょっと想像がつかない。どんな演技をするのか。 だってあまりにもイメージと違う役なんだもの。 でもだからこそたのしみで仕方ないのかもしれない。
ほかにも観たいのが結構ある。 バーバー、アトランティスのこころ、ハッシュ、愛しのローズマリー、 あと、アキ・カウリスマキの「罪と罰」「カラマリ・ユニオン」が期間限定で上映中。み、みたい。。 でも、無理だろうな。 カラダがふたつ欲しい。1日が48時間くらいあったらなぁ・・・・ ・・・なんて事考えてるひまがあったらもう寝よう。 明日もシゴトだー。
今日半年振りにある友達と会った。 そのひとをはじめてみたとき、はじめて言葉をかわしたとき、あーこの人ってわたしにとって特別なひとだなと思ったことを、今でもはっきり覚えている。
波長が会うというか、アタマでごちゃごちゃ考えないで自然に接することができる友達。音楽のこととか本のこととか、等身大の自分(遠慮したり卑屈になったりすることのない)で話すことができて、なおかつすごく楽しい。 そういう友達ってめったにいない。
今日はいろんなこと話して帰ってきた。 そのひととしゃべって、すごくらくになったような気がする。 カラダの中でがちがちしていたものが、ゆるんでほどけてふわっと消えていったような感じ。
なにかのめぐり合わせでであったひとたち。赤い糸で結ばれていたのかどうかはわからないし、これからもつながっていくのか先のことなんてわからないけど、 でも、一瞬でもそういうトモダチと出会えたことを素直にうれしく思う。
眠い・・・。 意識も売ろう・・・じゃない(なんで意識を売らなきゃいけないんだ?) 意識朦朧としながらの日記。
今日はどんな1日だったっけ。
思い出せないくらい眠い・・・。 何でこんなに眠いかというと、昨日、連れ合いの学校の指導案制作につきあって、夜中の3時くらいまで起きてたからである。 つきあっていたといっても、具体的にわたしが何かを手伝ったわけではない。 文章を考えてあげたわけでもないし、何かを書いていたわけでもない。 ではなにをしていたかというと、主に肩もみ、時々お茶くみ、さらに愚痴の聞き役(5分に2,3回はチキショーとさけぶ)さらに、わからない漢字があったときの辞書がわり(連れ合いはセンセイのくせに中学校2,3年程度の漢字力しかないのだ)・・・。
・・・。
アーモウゲンカイ。 寝ます。 おやすみなさい。。
久しぶりにマニキュアなんかをしてみる。
わたしは生来の不器用人間なので、マニキュアをしたり、つけまつげをしたり アイプチしたりというような微妙なことは滅多にしない。 友達の中には、そういうものに並々ならぬ情熱を傾けておられる方もいるけれど、 わたしは昔からそういうものに対してあまり興味が持てないのだ。 母親がいなかったから、そういうものに対する憧れみたいなものが子供時代に 芽生えなかったせいもあるかもしれない。
数少ない化粧品がおいてあるキャビネットをがさごそしていたら、 しろっぽいラメ入りのマニキュアと薄い紫のマニキュアがでてきた。 自分で買うはずはないから、きっと誰かからの頂きものだろうとおもう。 眺めているうちにぬってみたくなった。 息をつめながら、少しずつ少しずつ塗ってみる。
あっというまに小1時間経過。。
四苦八苦して塗り終わったあと、両手を目の前にかざしながらしげしげと眺めてみる。いつもと違うよそいきの指がそこにあった。 しばらくそんなよそいきの雰囲気をあじわっていたのだけど、やっぱり爪の表面がすーすーしてキモチワルイ。 結局1時間もたたないうちに拭ってしまった。 結構綺麗にぬれたんだけど。 やっぱり、性に合わないんだろうな。
これから先もたぶん、そういうのは変らないとはおもうけれど、 たまーに自分の指がそんな風にグレードアップするのも悪くない気がする。 中身もそれにあわせてグレードアップしてくれるといいんだけど。 するはずないか・・・。
2002年05月27日(月) |
雹が降る初夏の夕暮れ |
夕方。 晴れていた空が急に暗くなったかと思うと、 すごい勢いで雹が降ってきた。 小指の爪程度の大きさのひょう。
子供の頃、雹や霰が降るのは全然珍しいことじゃなかった。 日常茶飯事とまではいかないけど、ひとつの季節のうち1,2回くらいはあったと思う。 でも今住んでいるところにきてからは、1度も降ったのを見た事がない。 海のそばだからということも関係してるのかな。
ということで、ウチのコドモは今日生まれてはじめて雹を見た。 窓からのばした手のひらに雹を受けながら、すげーすげー、と喜んでいた。 空からクラッシュアイスが降ってくるなんて、実際に見たことがない彼にとってはかなりの驚きだったに違いない。 なんで、こんなものが空から降ってくるんだろう…、と空を見上げながら不思議そうにつぶやいていた。 ま、まずい。。
「ねえ、かあさん。ひょうが降るのはどうして?」
げっ、予感的中。 何でだっけ?どうして雹って降ってくるんだっけ?・・・・
「あのね、えっと…うーん、なんて言ったらいいのかな・・・ 要するにさ、氷になるわけよ、上空の水分が冷やされてさ。で、降ってくるわけ。」
「・・・・でもさ、何で氷になるの?」
「・・・・・。」
「んーっと・・・、えーっと・・・」
「かーさん、知らないんだ(笑)」
「・・・・・。」
「なーんだ(笑)」
「いいのっ、そんなこと知らなくってもっ」
説得力なし。 誰か知ってる方がいたら教えてください。 どうして雹って降るんでしょうか(泣)・・・・。
湿度が低くさらっとした天気が続いているせいか、 ビールをよく飲んでいる。
バドワイザーの中にトマトジュースをとぽとぽと入れて飲む。 これはレッド・アイというんだっけ? とにかくおいしい。
えっと今日の試験の報告。 今日の試験はスポーツ理論。 整形外科で働いていた元看護婦、という過信から 殆ど勉強もせずに試験にいったのだけど、 結果は・・・・どうだろ? 課題は、 「人の動作がなされた時の協同筋と拮抗筋との係わり合いについて記述しなさい」 というもの。
殆どはったりというか、勘で書いた。ふ。 再試験でもいいや、別に。
そんな感じの日曜日。
髪をカットしにいったら、思ったより前髪を切られてしまった。 サイアク。 鏡をみるたびに溜息がでる。
ヤケになって、ビールをごくごく飲みながら サッカー観戦。 日本対スウェーデン。
こらー。へんなとこパスすんなー。 もっとはしれー。 もたもたしてんじゃねー (連れ合いとコドモに白い目でみられながら)応援する。
んでもって明日は試験。 酔っ払い気味で、受験許可証だの学生証だのシャーペンだのけしごむだの準備する。だいじょおぶだろうか・・・。
もう寝よ。 おやすみなさい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
何も書くことがない。 空っぽです、今日のわたしは。
川上弘美さんの「物語が始まる」という 短編集を読む。
ひとつひとつの文が短くて簡潔で、それでいて表現がクリアで、 女っぽくないんだけど、なぜか女というものが感じられる文章… 川上さんの小説の印象をわたしなりに書くとこんな感じ。
何ともいえない後味が残る。 それがまたあとをひく。
今度は「センセイ〜」の続編の「パレード」を読もうかと思っている。
比較文学のレポートの参考に、翻訳夜話を再読。
比較文学と翻訳は密接につながっている。 翻訳というのはひとつの言語で書かれたものを違う言語におきかえるという作業だけど、その過程でやはり微妙な誤差みたいなものが生ずる。 その微妙な誤差を研究するというのも比較文学研究の1つ。
読んでいるうちにあらためてなるほどなあ、と思った事があったので (あまりレポートとは関係ないんだけれど…)少し抜粋してみる。
…先ずですね、その、日本語を磨きましょうという言い方をよく目にするんですけど、どうも何か違和感があるんですね、僕は。何でなのかなぁ、所詮自分の使える日本語しか上手く文章にはのらないということを痛感するんです…(中略)結局自分にしっくりくる言葉には限りがあって、それを活用するしかないなというふうに思うことが多いです。だからもちろん、自分に使える言葉を豊かにするために、いわゆる日本語を磨く、良い文章をたくさん読むというのは、原理的には大事だと思うんですけれども、そうやっていわば下心をもって、いわゆる美しい日本語を読むことを自分に強いても、そう上手く自分のなかには染み込まないんじゃないかと思うんです。というか、そう思いたい。…(柴田元幸氏の言葉)
優れた文章を読んだときに、それを自分の中に取り入れたいと思うときがある。でもそれは当然のごとくなかなかうまくいかない。技術的なことや頭の良し悪しが関係してるのはもちろんだけど、やはり柴田氏が言われるように変な下心でもって文章に対峙しているからなのだろうと思う。
自分が求めるものをただ無心に読みつづけること。 自分のためのものがそこにあれば、それはおのずと自分の滋養になり、自分の言葉になっていくのだと思う。
しっかり自分のものにしてる言葉の数なんてほんのわずか。 限りがあるにしても、探していく余地はまだまだある。 そうやって少しずつ良い文章が書けるようになりたいと思う。
久しぶりに写真を撮りに行った。 写真を撮るのは好き。 ただシャッターを押すだけで、特別な技術なんて何一つ持ってないけど それでも自分にとっての自己表現の1つかな、と思う。 絵を描いたり、小説を書いたりするのと同じように、 ファインダーを覗きながら自分の世界を模索していく。
何気なくみている風景の中にも、 何かしら自分がひかれるものがある。 そういうものをひとつの形にして自分の手に残すことって結構素敵なことだ。
そんなわけで、今日も10枚くらい写真を撮った。 沈んでいたものも少し浮き上がってきたかな。
久しぶりに良く晴れた1日。 シゴトのまえにミーシャ聴きながら洗濯ものを干す。 久しぶりの青空とミーシャのおかげで、憂鬱な月曜日も少しましになった。
あしたも晴れるといいなあ。 んでもって、わたしが抱えているもやもやしたものも すっきり消えてなくなってくれたら、と思う。
たいして意味もなく流れていく今日この頃。 限りある日々をこんなに無為に過ごしていいのだろうかと思いつつ、 何もやる気がおきない。
目についた本を手にとって読もうと思うのだけど、気がつくとただぼんやり字面をみているだけ。TVを見ててもその内容までアタマに入ってこない。 もちろん、勉強する気にもならない。
こんな日だってあるだろうさ。 ぼんやりできるだけぼんやりするのも悪くない。
ねじをまかない日曜日。
そんな日があってもいい、よね?
夜。 連れ合いと2人で芸術家の卵たちの集まりにいってきた。 友達の1人がその集まりの実行委員みたいな事をしているので、その関係でいくのだけど、何というか回を重ねるごとにつまらなくなってきているような感想を持った。 (そこのHPのアドレスです。興味のある方は覗いて見てください →http://www.uem-tv.com/slide.html)
ワンドリンクで1500円のチケットを買って中に入る。 中はすごい音量で音楽がかかっている。クラブとかでよくかかってるようなやつ。 レストランを貸し切っているのだけど、人が多くてかなり混雑している。 5,6人の芸術家の卵たちが自分のブース内で作品を展示したり、作品を販売したりしている。皮でつくったチョーカーや指輪、ガラス細工の小物なんかが置いてある。入ってきた人は適当に飲み物を頼んで、適当に飲みながら、適当に作品をひやかし、適当に帰る、という感じ。
ふむ。 これではただのフリマと変りないんじゃないだろうか、と思った。 芸術家の卵たちの集まりというからには、もう少し自己主張というものがあってもいいとおもうのに、受け手に完璧に迎合している。もっと創り手が雰囲気をリードしても良さそうなものなのに。
前回と顔ぶれが違うこともあったのだろうけど、正直に言ってほんとつまらなかった。 大勢の人にきてもらいたい、というのはわかる。資金不足なのもわかる。 でもだからといって、受けそうな企画ばかりを重視したり、ありがちなものばかりを提供していたのでは、どのみち受け手にあきられるだろうし、芸術家の卵たちにとっても有意義なことではないような気がする。
UEMをたちあげた友達もいろいろ事情はあるらしいけど、これからが結構大変なんじゃないかな、とひとごとながら心配になった。新しいことをやるのって、口でいうほど簡単なことじゃないのかもしれない。 新しい発想ではじめたことなのだから、これからもそういうコンセプトでがんばっていってほしいなあと思う。
コドモが最近飼い始めたばかりだった金魚、しーちゃんとくーちゃんが死んだ。 白い小さな斑点がぷつぷつとできてるなあと思ってたら、徐々に餌を食べなくなり、動きが鈍くなってとうとう動かなくなってしまった。
先に気付いたのは2匹ともわたしだった。 あー、やっぱり死んじゃったか・・。出店で買った金魚はもともと病気を持っていたり、弱かったりして殆ど長生きしないというのはきいていたから、やっぱりそうなったか、くらいにしか思わなかったのだけど、それでも餌をやって可愛がっていたコドモのことを考えるともう少し長生きしてほしかったな、と少しおもった。
学校から帰ってきたコドモに、「金魚、死んじゃったよ。」というと 水槽に前にとんできたコドモは、動かなくなった金魚をじっと眺めた。 しばらくの間みていたコドモは、水槽の中からくーちゃんをすくって小さなバケツに入れ、近くの砂浜に埋めにいった。
「ちゃんと餌もあげたし、水槽も掃除してたし・・・なんで死んじゃったんだろうね、かあさん」と心なしか元気のないコドモ。 「もともと体の弱い金魚だったんだよ、ちゃんと世話してあげたんだから死んじゃったのはしかたない。よっくんのせいじゃないよ」とわたし。
たかが1、2週間程度飼った金魚であっても、やはり死ぬのはつらい。 でも、そうやって少しずつ死というものを身近に感じていくのかもしれない。
今日は朝から電車に乗ってお仕事。 レセプトの訂正をしに、愛知県国民健康保険団体連合会館という所へ行ってきた。 受付で名前をいって中へ通されたのだが、ちらっとみた仕事風景はかなりすごかった。大きくて広い空間の中に何台もの机が並べられ、同じ制服(デザイン性のかけらもないような感じの無味乾燥な制服、しかもねずみ色)をきた女性社員がずらーと座って、一斉にレセプト用紙のチェックをしている。 BGMもなし、レセプト用紙をめくるしゃかしゃかという紙の音だけが響き渡っている。一つ一つのレセプトに目を通し、落ちはないか、点数は間違ってないか、適用欄には必要な記述があるか、などなど鵜の目鷹の目で調べているのだ。 かなり迫力があった・・。
担当の人から、今回ミスがあったレセプトを渡され、空いていた机に座って作業を始めた。15人程度の直しなのだけど、それだけでもかなり消耗した。間違っている点数に斜線をひき、訂正印を押し、正しい点数を書きこむ。そしてその患者さんのひと月分の点数を計算しなおして、合計欄のところも訂正する。 そして保険の種別ごとに集計された書類の方も訂正する。被保険者であるか被扶養者であるかによって訂正する箇所も違ってくるので、何度も確かめて正しい点数を書きこんでいく。 全部訂正しなおすまでに1時間もかかってしまった。 もちろんすごおおおく疲れた。 目はちかちかするし、こめかみは万力で挟まれたみたいに痛むし。
いいですね、ごくろうさまでした。 クールな女子社員にOKをだしてもらって、ようやく解放された。 でも、つくづく女ってえらい、と思った。あんな仕事、絶対男にはできないだろうと思う。ある種の我慢強さ、冷静さ、観察力など、数をこなしていくうちにある程度は養われていくものかもしれないが、ほんとうにすごいと思った。 わたしにはとてもできない。
消耗したアタマを抱えたまま帰るのは嫌だったので、少し街中でぶらぶらすることにした。よくいく手作りのバーガー屋で、サーモンととクリームチーズのベーグルサンドをたべたあと、某美術館でやっていた山本容子さんの美術展を見に行った。
山本容子さんの絵は、トルーマン・カポーティーの「クリスマスの思い出」という本の中で、はじめてみた。素敵だった。ひとめみて好きになった。 くっきりした鋭角的な線と柔らかい色彩、それまで銅版画には何の興味もなかったけど、彼女の絵をみて銅版画の良さに魅了されてしまった。
美術展には彼女が彫った銅版の原版も展示されていた。銅版には大きく分けて2種類の手法があって、1つは彫刻刀で手工的に彫った彫刻銅版というもの、もう1つは腐食銅版といって、銅版の上に蝋などを塗ってその上からニードルなどで彫り、その部分に硝酸を注いで腐食させて作る手法がある。 展示されていたのはたぶん腐食銅版の方だったと思う。 ひとつひとつの線が丁寧に書きこまれて、ひとつの雰囲気を作り出していた。
展示の最後の方で、山本さん自身が創作している様子を撮影したビデオが上映されていたので、椅子に座りながらぼんやりと眺めた。真摯に筆(じゃなくてこの場合ニードルとか彫刻刀だけど)を運ぶ山本さんの指先をみていたら、さっきまでの妙な倦怠感がどこかへ消えて、クールな緊張感で満たされていくような気がした。 素晴らしいな、と思った。
そんな感じで、疲れたり満たされたり忙しい1日だったけど、いろんなことをまた見つけた1日だった。小確幸
仕事で失敗をした。 4月から変更になった保険点数が一部うまくコンピューターの中で処理されず、 旧点数のままレセプトを出してしまった。 保険事務所から電話がきて、早急に訂正しにきてほしいとのこと。 おかげで明日は休みにもかかわらず、電車に乗って役所まで書類を書きなおしにいくことになってしまった。はー・・・。 そんなトラブルもあって、午前中は結構慌しく過ぎた。
午後、前から約束してたMさんとお昼ご飯を一緒にする。 いろいろあったみたいで心配だったのだけど、思ったより元気そうだったので少し安心した。時間を忘れるほどいろんなことを話した。
はじめて会った時から丸二年たったんだな、とふと思った。 あの年、あの時、あのサイトに行かなかったらこんな風に会って話すことはなかったと思うと、すごく不思議な気がする。 人生ってこんな風に不確定要素に左右されながら流れていくものなのだろうか。そんなことを思った。
山本周五郎の「さぶ」がTVドラマ化(時代劇として)されていたので見てみた。
さぶ、あんたってなんでそんなに馬鹿みたいにいいやつなの?
久々に感動した。
山本周五郎は正直いって読んだことがなかった。 (時代小説はほとんど読んだことがない) でも、良いなあと思った。 これを機にそういうものも読んでみようかなと思った。
比較文学のレポートを少しずつ書いている。 比較文学というのはおおまかにいうと、2国以上の文学を比較して相互の連関を実証的に研究し全体的な文学の流れを明かにしようとする研究法。 具体的に例を挙げると、夏目漱石と英文学の関連性だとか、シェークスピアはどのような材源をもとに戯曲をつくったかだとか、日本の古典(源氏物語とか枕草子)が諸外国に与えた影響はどういうものか、などなど(ほかにも数え切れないくらいある)が研究の対象になっている。 特に夏目漱石と英文学の関連性というのは読んでてすごく面白かった。 初期、中期、後期の漱石の作品が、それぞれどのような文学に影響されて生まれたものなのか、それがどのように変遷していったのか、ということがわかりやすく説明されていた。
比較文学というのは、いろんな分野に跨った学問といえるかもしれない。 歴史、地理、世界中のあらゆる言語、そして文学、いろんな知識を必要とされる学問なのだけど、だからこそ面白みがあると思う。 日本ではまだまだ歴史の浅い学問らしいけど、これから先、結構注目される学問になっていくのではないかと思う。 とりあえず、良いレポートが書ければいいなと思う。
日曜日。 朝から連れ合いとコドモはバイクでツーリングに出かけてしまったので、 仲間はずれにされたわたしは、朝からひたすら家事に明け暮れた。
久しぶりに良い天気。 シーツやカーテンなどを洗ったり、窓を拭いたりなど、普段できないところを重点的に掃除した。 午後からは、ハハの日ということでお義母さんのところへいく。 義母は好みが激しいのでプレゼントは殆ど贈らない。そのかわり美味しいと評判の最中をプレゼント代わりにもっていった。
世間話を少しして帰宅。
夕方、連れ合いとコドモが帰宅。 セロリとしめじと牛肉の炒め物、エビチリ、きぬさやと新たまねぎの味噌汁、 アスパラガスとカリフラワーとレタスのサラダを作る。 夕食中、連れ合いとささいな言い合いをした。気分はサイアク。 コドモが、かあさんは最近おこりっぽい、とさらに追い討ちをかける。 オンナのひとは、ああやって何も理由がないのに怒ったりいらいらしたりすることがあるんだよ、おまえも覚えといたほうがいいぞ・・・・・ 連れ合いがコドモにひそひそ話したりしてる。
そんな感じの日曜日。 ・・・ 旅にでたい。 しばらく、3日くらい。
「ガープの世界」読了。 アーヴィングは小説を書こうとする時、最初にラストの部分を決定するらしい。 結末を見据えてから出だしを考え、内容をふくらませる、という流れで執筆するのだそう。 「ガープの世界」にあてはめてみると、「ガープの世界にあっては、我々はひとり残らず死に至る病をおった存在である」という文章から執筆がはじまったことになる。 それを何かで読んで、すごく納得した憶えがある。 アーヴィングの小説っていつも、最後はそこに行きつくんだなという 収束感みたいなものがきちんとあるから。 読み終わった後、それが傍目にとてもハッピー・エンドとはいえないような結末でも、何となくこれでいいんだ、これしかなかったんだって、そう思える。 最初にガープ〜を読み終わったときもそう思った。 妙に穏やかで静かな気持ち。
アーヴィングの小説は陰鬱で暴力的で暗くて露骨だという人は多い。 でも、逆にそういうものを全面に書く事で、非暴力の重要さや必要性みたいなものを強く感じる事ができるのではないかと思う。 少なくともアーヴィングは暴力そのものを書きたいのではなくて、その裏側にある魂の平穏みたいなものに、常に目を向けて書いているのだと、わたしは思う。
アーヴィングから少し離れているうちに、オースターやトニ・モリスン、 グレイス・ペイリーなどを読み始めたのだけど、オースターとアーヴィングを比べてみると、アーヴィングはやはり今の文学の指向からはあえて外れた道を進んで いってるなあという感じがすごくした。 頑ななまでにそれを目指してる、というわけでもないと思うのだけど、それがアーヴィングなりの書き方なのかもしれない。そしてそれがアーヴィングのアーヴィングしか持ちえない良さにもなっているのだと思う。
アーヴィングの小説は「オウエンのために祈りを」以来少し遠ざかっていたけど、 これを機に、新作「サーカスの息子」(だったけな)にも手を伸ばしてみようかな と思う。またあらたな良さを発見できると良いなあ。
2002年05月10日(金) |
undertow と undertoad |
ひき波とひきがえる。 この言葉は、この小説を最初に読み終わった時からずっと心に残っている。 (すみません、またガープの世界の話です。興味のない方にはすごく退屈な文章です。ご容赦下さい。。)
山で育ったわたしにとって、海はいつもどこか近寄り難い雰囲気を持っていた。 足首を掴まれて、一気にどこか暗い場所へひきずりこまれるのではないか、 ひき波を見ていると、よくそういう気持が起こった。 そしてひきがえるも。 生臭い息を吐き、ぬめぬめとした音をたてながらいつのまにか近づく、 どこか得体のしれない醜い生き物。
同じような発音のこのふたつの言葉は、この小説の中で不吉の象徴として書かれている。アーヴィングはこういう言葉をすごく巧みに使う。
「ねえ、憶えてる?」飛行機の中でダンカンがいった。 「ウォルトが緑色かなあ、それとも茶色をしてるのかなあ、っていったこと。」 ガープもヘレンも笑った。でも、ひきがえるは緑色も茶色もしていない、 とガープは思った。ひきがえるはぼくだ。そしてヘレンだ。 その色は雨の夜の色。その大きさは自動車の大きさ。
ひき波やひきがえるが持つ不吉なイメージは、言うまでもなく人間が作り出したものである。ひき波はひき波以上のものではない。それと同じでひきがえるは ただのひきがえるにすぎない。しかし、いったん人が意味をもたせると、ひき波はただのひき波ではなくなるし、ひきがえるはただの蛙でなくなるのだ。
今は、ベンセンヘイバーの世界の部分を読んでいる。 ガープはなぜあの小説を書いたんだろう・・ ひとりの子どもを死に追いやった、自分の内面にひそむすさまじい暴力の発露 なのだろうか。 とりとめのないことばかり考えながら読んでいる
2002年05月09日(木) |
人間が持つ致命的な弱さについて |
明日がレポートの締切り日という日になって、 ようやく書き上げたレポートを郵便局に持っていく。
「あの・・・、翌朝10時のやつでお願いします・・・」
わたしが送るレポートは文部省認可郵便物というやつで、普通に送れば 大きな封筒に10枚くらいレポートを入れたとしても、15円で届く。 それを、470円払って翌朝の10時までに配達してくださいとお願いしている。 今まで提出したレポート、ほぼ例外なく翌朝10時、である。
15円で済むのに・・・と思うと自分が不甲斐なくて腹がたつ。 毎回腹が立つのに、毎回翌朝10時である。 これは腹を立てるより、自分の習性だと思ってあきらめるより仕方ないのだろうか? ・・・・ 15円で済むのに・・(ちょっとくどいですね)
しかしレポートを提出できたという達成感(おおげさな)で、かなり上機嫌。 ウチに帰って、ガープの世界の続きを読む。
ヘレンが万策尽き果て、破滅的な決断に身を委ねようとする箇所まで読む。
混乱した気持を抱えたまま寝室にいくと、唯一彼女を混乱から救ってくれるはずのガープはもうすでにベッドの中で熟睡している。 ヘレンは絶望的に絶望する。でも彼女は絶望することでついに疚しさから解放される。何かの希望を見出す事ができたら、彼女の心はどこかでブレーキがかかっていたに違いない。そして多くのものを失わずにすんだのかもしれない。 人はほんのちょっと道をふみはずしただけで、実に多くのものをいとも簡単に失ってしまうのである。
でも、わたしは人間なんて所詮こんなものだと思う。 愚かで何度でも過ちを繰り返す生き物だと思う。 でも、わたしはそんな人間の弱さを否定しない。 その弱さがあればこそ、人は強くなるために努力していくものだと思うから。
これから物語は佳境に入っていく。 明日もガープの世界にはまっているだろうと思う。たぶん。
2002年05月08日(水) |
”The World According to Garp” |
ここずっと、読破しようと頑張っていた本を放り出して 「ガープの世界」を再読している。
肉体に近い文章、とP☆氏はガープ〜を評していたけど、 まさにそのとおりだな、と読んでて思う。 世界は彼(ガープでありアーヴィング)のものの見方を通してえがかれている。
後書きの中で訳者である筒井正明さんは、ガープと「ガープの世界」は 「熱中を強要するタイプ」の人間と小説であると書いていた。 納得できる言葉。 ガープに感情移入し、ガープを理解しようとするうちに いつのまにかガープ的な物の観方で世界をみるようになってしまう。 これはまさに、強要していると言えるのではないだろうか。 そうして、ガープ的世界の成り立ちみたいなものにひきこまれてしまう。
今現在ひきこまれている途中である。 いったんひきこまれると途中でぬけることができない というわけで、また当分ガープ〜を読むことになりそうである。
2002年05月07日(火) |
しーちゃんとくーちゃん |
金魚を飼い始めた。 この前の祭りの初日に、コドモが出店で釣ってきた金魚。 赤とオレンジの中間くらいの色。体調3cm程度でとても小さい。
釣ってきた当初、かなり迷惑顔でわたしは言った。 もう、どうすんの?この金魚。 コドモは、ぼくが育てるからといって、目に付いた大き目のガラスの瓶に金魚を入れ、当然のごとく2匹の金魚に名前をつけた。
しーちゃんとくーちゃん。
次の日の朝。 だいぶ弱っているだろうと思っていたのだが、 2匹の金魚はとても元気に泳いでいた。 仕方ない・・・。 ひとりで世話するという条件つきで、飼ってあげることにした。
次の日、コドモと2人で近所のホームセンターへいって 飼育セットなるものを買った。 30cmくらいの水槽と、水を濾過しながら酸素を供給するポンプ。 そして金魚のえさ。 帰る途中に、水槽の下にひく石ころを一緒にひろった。
うちに帰ってさっそく使ってみた。 綺麗に洗った石ころを水槽の下にひいてその上にポンプをおき、 一晩置いた水と一緒に金魚を入れた。
しーちゃんとくーちゃんは最初とまどっていたが、そのうちすいすいと 気持良さそうに泳ぎ出した。
コドモはさっそく買ってきた”金魚のえさ”をひとつまみとりだして 水槽の中に入れた。 おなかが空いてるはずだから喜んで食べるだろうと、 2人してわくわくしながら水槽の前でみていた。
・・・・・しかし。 金魚たちは水面に浮かんでるエサにまったく気づかない。 そして餌の方も、水面に漂っているばかりで、ぜんぜん沈んでいかない。
コドモもわたしも見てていらいらした。 ここだってば。ここにえさがあるんだってば。といって水槽の上のほうを 指で突つくのだけど、もちろん金魚には伝わらない。 ”金魚のえさ”のパッケージをみてみると裏面に浮上性と書いてある。 要するに、水質が悪くならないように沈んでいかない餌、ということなのだろう。
コドモは水槽の前で、金魚がえさに気づくのを根気強く待った。 でも、結局その日、しーちゃんとくーちゃんは一粒も餌をたべなかった。(あるいはたべることができなかった)
そして次の日。 ようやくしーちゃんとくーちゃんは、餌が上から降ってくることを理解した。 水面まですいすいと泳いで、餌をたべにくるようになった。
最初にした約束どおり、金魚の世話はコドモがやっている。 時間通りに餌をやって、ときたま水槽の水を代える。
いつまで長生きするかわからない金魚達だけど、何らかの責任を持つということを コドモが学んでくれたら、と思う。
2002年05月06日(月) |
”広い世界を見るのだ” |
「GO」を観た。 以前P☆氏がイチオシで勧めてくれた映画。 映画館では見逃してしまったけど、ようやくビデオで観る事ができた。
窪塚洋介をはじめて画面の中でみたのは、おととしの夏にやっていた 妹尾河童さん原作の、「少年H」というドラマの中。 そのドラマの中で窪塚洋介は、入隊を拒否したあげく縊死した元女形の役者という 難しい役をやっていた。
綺麗な顔した人だな、とその時思った。 演技もすごく上手だった。ああこの人、ただ綺麗なだけの人じゃないんだな と思った。 でも、その後あまり良いなとは思わなくなった。 映画もテレビも彼のルックスを重視した使い方しかしてないように見えたし、 本人もそれに満足してるようにみえたから。
でも今日「GO」を観て、最初の印象通りの彼の姿をみたような気がした。 良い演技ができる人というのは、いろんな衝動を心に持っている人だと思う。 そしてそれを外に向かって強烈に放つことができる人。 もっと仕事を選んで、もっといろんな役をやってほしいなと思う。 見た目の格好良さにとらわれて、外から内からダメになっていく役者って 結構多いような気がするし。(某レオナルドくんとか) 今後、どういう俳優になっていくのかがすごく楽しみ。
映画のほうは申し分なく素晴らしかった。 行定勲監督の映画は今まで観たことなかったのだけど、「GO」をみてすごく ファンになった。スピード感のある映像や音楽の使い方など、すごく感覚的でいて 尚且つ、すごくバランスが良かった。重いテーマを扱っているのに、重くなりすぎてないのは、そういうバランス感が良いからなのではないかと思うのだけど、どうだろ。 ちょっと気になったのはやっぱり、紫咲コウさん。彼女の演技自体がどうというわけじゃないんだけど、いとも簡単に民族問題をクリアしたあたり、ちょっと安直じゃないのかな、と少し思った。原作を読んでないからいまいちよくわからないんだけど、もう少し描きこんでほしかったなと思う。
でも、かなり満足度の高い映画だった。
今日、連れ合いは祭りの後片付けでまた朝からでかけてしまった。 コドモとふたり、静かに1日を過ごす。 お昼たべにいって、夏服の買い物をして、帰ってきて、本を読んで 好きなビデオをみて、といった感じ。
目をあけていられないほど眩しい日差しの日だった。 はじめて半袖のシャツを着て過ごした。
夕方、喉がかわいたのでビールをあけて飲んだ。 すごくおいしかった。
菖蒲をいれたお風呂に入った。 草の匂いがして気持よかった。
ちまきをたべた。 おいしいちまきだった。
コドモと一緒に、TVでやってたスター・ウォーズを観た。 ジャバ、きもい、とコドモ。
連合軍の勝利を見届けて、コドモ就寝。
しばらくPCを開いて、レポートを書き進めたりする。
そして今、1時00分。 まだ連れ合いは帰ってこない。 雷が落ちる前に、帰ってきたほうがいいんじゃないかな。 感電してもしらないからね。まったく。
GW、のんびりハワイ・・・ なんて日がはたして訪れるのだろうか、この先。 訪れないだろうな、たぶん。
明日は連れ合いの友達がきたり、わたしの専門学校時代の友達がきたりで 忙しい日になりそう。
2002年05月01日(水) |
ブルー・スエード・シューズ |
最近、「ブルー・スエード・シューズ」という曲を聴いた。 聴いてるうちに、ふと何かを思い出した。 ずっとまえにこの曲、もしくはブルー・スエード・シューズについて、村上春樹さんが何かを書いていたような気がする。 エッセイだったか短編だったか・・・はっきりしたことは思い出せない。 まてよ?ほんとに春樹さんだったかな・・・たぶんそうだと思うのだけど・・
あ゛ー、思い出したいのに思い出せないぃ。 喉にひっかかった小骨みたいにすごく気になる。
あと、ついでにいうと・・ ラッセ・ハルストレムの「ショコラ」にでていたジュリエット・ビノシュの娘役の女の子と、同監督の「シッピング・ニュース」にでていたケビン・スペイシーの子供役の女の子は同一人物か否か、ということもすごく気になっている。
どーでもいいことといえばどうでもいいことなのだけど、 そういうことって気になりませんか?気になりますよね。 そうですよね、うんうん。
ということで、何か知ってる方がいたらぜひご一報ください。
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