Opportunity knocks
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2002年11月30日(土) |
「悪童日記」の感想(あらすじにふれているので未読の方は注意) |
アゴタ・クリストフの「悪童日記」読了。 何というか、すごい小説。 なんだなんだこれはああぁぁ・・・という感じで釘付け状態のまま、 半日で読んでしまった。
物語は一人称。双子の男の子によって語られている。 登場人物は、少ない。おばあちゃん、双子の男の子、双子の父母、兎っ子、兎っ子の母親、従卒、将校、司祭、女中、そんなところだろうか。 それらの人々は名前を与えられず、おばあちゃんはおばあちゃん(または魔女とも呼ばれている)兎っ子は兎っ子、女中は女中、従卒は従卒と書かれている。 舞台は東欧の小さな田舎町(これも具体的に名前を与えられていない)
とにかく淡々と物語が進んでいく。双子は大きな町から戦火を逃れ、おばあちゃんの家にやってくるのだが、そこでの生活は双子たちの想像を遥かに越えていた。 怪物じみたおばあちゃん、苛酷な労働、日増しに忍び寄ってくる戦争の足音、人々の憎悪、嘲り、醜悪さなど、酷い生活が双子を待っていた。 双子は生き抜くことを第1に考え、さまざまな訓練を行う。苦痛になれるためお互いの体を痛めつける、罵詈雑言になれるため汚い言葉をぶつけあう、ひもじさになれるために絶食する、動物を殺すのになれるため進んで鶏の喉をかき切り、鼠獲りにかかった鼠を煮立った鍋に入れて茹で殺す、などなど。そして生きていく為に必要な知識を自ら学び実践していく。 双子は純粋無垢であるがゆえに、世の中の不条理から自分自身を守ろうとする。
読みながら作者は双子をひとつの存在としてして捉えているのだなということが少しずつわかった。物語は一人称で語られているのだけど、どちらの双子が語っているのか具体的に示されていない。そこらへんからも、双子を一体化させようとする作者の意図がわかる。双子は、世の中の不条理や戦時下における人間の心理を浮きあがらせるための存在として書かれているように思った。
露骨な描写(それはありのままの真実を感じさせるものなのだけど)や醜さ汚らしさ、そういうものに馴染めない人には読めない小説かもしれない。 わたしにはたぶん、そういう悪童的な面があるのだろう。というか、自分の中にある醜い部分、汚い部分をある程度自覚しているのだろう。だから読めたし、共感することができたのではないかと思う。
「悪童日記」には続編がある。「証拠」という小説。 最後の最後に別れた双子の行きつく先がすごく気になっている。 ぜひ読んでみようと思う。
「第四の手」読了。 どちらかというとコメディっぽい感じ。 思ったより楽しくテンポ良く読めた。
帯には抱腹の純愛小説と書いてあるのだけど、普通に想像する純愛物語とはかなり趣が違う。アーヴィングに純愛ものを書かせると自然にこんな感じになってしまうのだろう。そこらへんが可笑しくて読みながらくすくす笑ってしまった。
ライオンに手を食べられてしまったTVマン、TVマンに移植された夫の手に対して面会権を主張する未亡人・・いつもながら突飛なシチュエーションなのだけど、なぜか、なぜか現実味を感じてしまう。 特に、未亡人に結婚を申し込みに行く日の前日、「あなたの子種が欲しい」と迫る女性に押しきられてしまい、子作りに協力してしまう場面とか、(しかも彼はわかってもらえるという希望的観測のもとにそのことを、今から結婚を申し込もうとする人に話してしまう)確固たる意思を持って結婚したいという人がいるにもかかわらず、メーク係の女の子に欲情してしまう場面など、なんて節操のないやつ…と憤慨するのだけど、これこそ男の本当の心理なのではないかと、思わず考えてしまうのだ。
(うーむ・・この文章を読む限り何だかむちゃくちゃな小説じゃないかと思われてしまいそうだけど、それはわたしの書き方が悪いせいであって、小説自体はすごくバランスのとれた面白い小説です、ほんとうです)
それにしてもアーヴィングの小説は読後がとても良い。 良いというのは、単純にあー良かった、ということではなくて、良い感じの余韻を残すという意味。「未亡人の一年」を読んだときも「ガープの世界」を読んだときも「サイダーハウス・ルール」を読んだときもそうだった。たぶんそれはふくらみにふくらんだ物語が、おさまるべき場所へきちんと収束されていくからではないかと思う。それはつまり、プロットの骨組みが揺るぎ無くしっかりしているということなのではないだろうか。
表現とプロットの折り合いってすごくたいへんだと思う。あれもこれも表現しようとすると、プロットが次第に揺らいで全体的にまとまりのない小説になってしまうし、表現力が感じられない小説はプロットがしっかりしていても、あまり魅力があるとは言えない。アーヴィングの小説は違和感なくそのバランスを絶妙に保っている。ほんとうにすごいと思う。
アーヴィングは1つの小説を書くのに第一稿に2年かけ、書きなおしに最低でも一年かけるのだいうことを何かのインタービュー記事で読んだ。あれだけの長編をかくわけだから、それくらいの時間はかかるだろうと思うのだけど、その間の作品にかける集中力とある種の根気強さみたいなものを考えると、本当にタフな人だなと感嘆してしまう。そういう感動を感じたいがためにわたしはアーヴィングの小説を読んでしまうのだろう、きっと。
冷たい風が吹き荒れる寒い1日。 何か体が温まるものがたべたくて、クラムチャウダーを作る。 はまぐりがなかったのでアサリで代用し帆立もいれてみる。 あと、スライスしたエリンギをオリーブオイルで炒め、固ゆでしたブロッコリーとツナをまるごと入れてゆずのぽん酢で味付けしたものも作る。
寒いのはつらいけど、やっぱりこういう(温かい)食べものを楽しむ事ができるのは冬の特権かなと思う。 明日はキムチ鍋でもつくろうかな。
前からいいなと思っていた手袋を買った。 色は黒。甲の部分がニット、手のひらの部分がバックスキンになっている。 わりと細身でシンプルなデザイン。
年々寒さに弱くなってきた。少し前までは冬だからといってやたら寒がったりすることはなかったのだけど、最近は防寒具がないと外へでる気もおきない。 なんでこんなに寒がりになってしまったのだろうか。 (年をとったせいだとは思いたくない)
とにかく、手袋は買ったし毛糸のパンツも買ったし、冬の準備はほぼ終了。 何とかこれで冬をのりきろうと思う。
風邪がなかなか治らない。 ひどくもならないかわりに、いつまでもぐずぐずと調子が悪い。 相変わらずぼんやりしている。 風邪薬を飲んでるせいか、睡眠も一定してなくて 真夜中に突然目覚めたりする。 結構つらい。
2002年11月23日(土) |
音のない音について考えてみる |
「未亡人の一年」ようやく読了。 何というか、アーヴィングらしい小説だったなあ、というのが感想。 サイダーハウス〜と違って内側に訴えて来るものはあまりなかったけど、 それでも純粋に小説を(あるいは物語を)楽しめた気がする。
しかしあれだけのエピソードを考え出し、なおかつあれだけの長編にまとめ、なおかつ読み手を感嘆させてしまうというのはすごい、ほんとうにすごいと思う。 まいった、という感じ。
いろんな登場人物が今頭に浮かんでいる。 記憶の中(あるいは写真の中)にしか存在しないルースの兄たち、人間くさい ハナ・グラント、全裸のスケッチをばらまかれたミセス・ヴォーン、愛すべき俗物ミンティ、節操のないテッド、狡猾で自意識過剰な赤毛男スコット・ソーンダーズ、じめじめした暗闇にひそむモグラ男、怒れる未亡人、不運な娼婦ローイエ・ドロレス、徹底した年上趣味のエディ、目撃者を追いつづけたハリー・フックストラ巡査、などなど。 どうしてアーヴィングの小説にでてくる人たちってこんなにも存在感があるんだろう。今も頭の中で登場人物それぞれがいろんなことを主張しているような気がする。
今度は「第四の手」 ようやく図書館から借りることができたので、これもまたゆっくり読みたいと思う。
現在11時34分。 12時に友達とでかける約束をしてるのに、 なぜかPCに向かって日記なんか書いてる。
髪は飛び跳ねてるし、化粧もしてないし、コンタクトもしてないし、 着ていく服も決めてない。
あと20分。
あー、もう。
2002年11月19日(火) |
出口のない入り口の話 |
入り口があれば出口がなければいけない
ときみは言う
でも、出口のない入り口というものが世の中にはちゃんと存在するんだな
出口がないから中は真っ暗
入り組んでてまるで迷路みたい
だから人はあまりそこに近づこうとしない
でもたまにすいこまれるように
足を踏み入れてしまう人もいるんだよ
入り口の明かりがどんどん見えなくなって
だんだん薄暗くなって
どこから入ったのかもわからなくなって
ひとりぼっちでさまよいつづけるんだ
休日なのになぜか疲れる1日だった。 なんでだろう。
最近、見当違いのことをやったり書いたり喋ったりすることが多い気がする。 わたしはいったい何がしたいんだろうか。 何が欲しいのだろうか。
整理の悪い戸棚の中みたいに頭がもつれている感じ。
悪い意味でぼんやりした1日だった。
また気まぐれに色を変えてみた。 緑が好きなのでその系統でまとめてみたのだけど、 何だか本文の色が薄くて(というか本文の背景色を薄めにしたからなんだけど) 読みにくい気がしなくもない。
どうかな。
このまえ書いたレポートの評価が返ってきた。 結果 「良」
所見欄には、「的確なことが書いてある場所も見られるが全体的には雑な感じが否めない。もっと的確に詳細に論じる必要がある。もっと自らが持った疑問なり思うことを深く掘り下げていってほしい」 と書いてあった。
だよな、と思った。 雑だもん。自分でもそう思いながら書いたし。
何だか最近、レポートのため、試験のために勉強してるような気がする。 もちろん、それは大切なことなのだけど。避けてはとおれないことなのだけど。 そのことだけで手一杯になってる自分が悲しい、今日この頃。
「ヘドウィッグ・アンド・アングリー・インチ」を観る。 なんというか、すごく五感を刺激される映画。 見たくなる、聴きたくなる、触りたくなる、匂いをかぎたくなる、味わいたくなる ・・・ 人によって好き嫌いが分かれるかもしれないけど、 わたしは結構好きだな、ああいうの。 強力なメッセージがダイレクトに伝わってくるようなそんな感じ。
それにしてもやっぱりジョン・C・ミッシェルのボーカルはすごかった。 観た後、サントラ買いに行こうかって本気で思ったもの。 「愛の起源」という曲がすごく心に残った。
自分の半身を求めて人は、誰かを好きになったり愛したりするんだろうか。 いつかまたひとつになりたいという願望を潜在的に持っているんだろうか。 「愛の起源」を聴きながらそんなことを思った。
2002年11月13日(水) |
humor and wit |
レンタルビデオにいって、「ヘドウィッグ・アンド・アングリー・インチ」を借りてきた。明日はこれをみながらぼんやりしよう。
夜、BSでアメリカコメディ映画ベスト100というのがやっていたので観てみた。 マルクス兄弟にメル・ブルックス、バスター・キートンにチャップリン、ウディ・アレンにJ・スチュワート。あー、懐かしいなというのもあったし、まったく観たことのない作品もいっぱいあった。
コメディ映画っていうとわたしの中ではやっぱりビリー・ワイルダー、かな 「お熱いのがお好き」がベスト1だったのがうれしかった。 J・レモンとT・カーチスの演技(女装ぶりが最高)は最高に笑えるのだけど、それもただたんに笑わせるだけじゃなくて、本来人間が持っている可笑しみというか滑稽さみたいなものを自然に表現しているところがすごいと思う。好きだ。
そういえば高校生のとき映画館で「サボテン・ブラザーズ」見たっけ。 考えてみれば映画館でみた最初のコメディ映画だったかも。 深みという点では欠けるかもしれないけど、単純に笑いというものを楽しませてくれる映画だったような気がする。
さて、オフロ入って早めに寝ようっと。 明日はゆっくりするぞー。
朝からスピッツを聴いているせいで、 いろんなフレーズが頭の中に鳴り響いている。
会いたくて、今すぐ
すぐにとべそうな気がしたせなか ゆめからさめないつばさ
存在してるかんじ、かみしめて
ミカンズ…ミカンズ…ミカンズ…ミカーンズ・・
めまいがするくらい慎重にあるいてみたがかわんねえ
さよならまぼろし、おどりだす指先
ささやいて、ときめいて
「遥か」と「ミカンズのテーマ」がとくに好き。
2002年11月11日(月) |
わけのわからない感想 |
「マーティン・ドレスラーの夢」読了。 とてつもない夢をみていた後のような脱力感。 とにかく、否応なくひきこまれる小説だった。
はじめはアメリカという国の黎明期というか、どんどん社会が秩序だって複雑化していく様子が書かれていてきわめて現実的な感じなのだけど、後半にいくにしたがって(マーティンの夢が疾走していくにしたがって)なんというか・・寓話性みたいなものが強く感じられるようになる。 それをおもしろく読むか、いまいち迷路に迷いこんだみたいに首をひねるかで、 読後感に違いがでてくるような気がする。
夢というのは思い描くものなんだろうか。 それとも、内へ内へともぐって自分を突き動かしていくものなんだろうか。 具現化された夢をいくつも目の前に並べても、所詮人は満足などできないのかもしれない。
以上、自分でもわけのわからない感想。
2002年11月10日(日) |
創作 (前回のつづき) |
11月の終わりのことだった。 一人の女の人が訪ねてきた。彼女はわたしの母親の古くからの知り合いで、小さい頃からわたしのことを気にかけてくれていた数少ない大人の一人だった。彼女はわたしの母親と同じ職業、つまり水商売の人間だった。水商売の女性にもいろんなタイプがいる。わたしの母親のように奔放で目の前の快楽にしか興味がなく、徐々に身を滅ぼしていくものもいれば、それなりに水商売をビジネスと割りきってうまく世間をわたっていく人もいる。彼女は後者のタイプだった。水商売の世界につかりながらも生来の堅実さと誠実さを失わず、今では一軒の店を持ち、それなりに切り盛りしている。 彼が亡くなってからというもの、わたしはすべての人との接触をたっていたから、彼女と会うのも彼のお葬式以来だった。
「ずいぶん痩せちゃったんだね…」 部屋にあがった彼女はそういってわたしの顔をじっとみつめた。 「何も連絡ないし、ずっと心配だったんだよ。でも、そっとしといてあげるのがいちばんだと思ってね、今まで連絡しなかったの。いつかそっちの方から連絡してくるだろうって思ってね。」 「ごめんなさい・・」 続ける言葉が見つからず、わたしは下を向いた。 彼女はいつもそんな風にわたしのことを気にかけてくれていた。 子供のことを顧みず生活を改めないわたしの母親に対して彼女は、もっと子供のことを大事にするようにと、御腹を痛めて生んだ子じゃないの、と根気強く言い聞かせてくれたりした。彼女の説得によってわたしの母親の生活が少したりとも良い方向へ進んだわけではけしてなかったけれども、自分のことを心配してくれる人がいると思うことで、わたしはつかの間救われた気がしたものだった。 わたしと彼女は、お茶を飲みながら無言の時間を過ごした。何も言わなくても彼女にはわたしの気持がわかるらしかった。どこにもいけず、ただ漂うように日々過ごしているわたしの気持が。
午後の光が徐々に勢いをなくし、部屋には薄暗い夕闇がしのびよっていた。 「あやまることなんてないんだよ。」 と唐突に彼女は言った。 「何もする気が起きないんだったら何もしなくたっていい。誰にも会いたくないんだったら会わなきゃいい。大事な人がいなくなったんだから、それくらいの勝手は許されるってもんだよ。何も気にすることなんてない。」 彼女は窓の外を眺めながら、誰に言うともなくひとりごとのようにそう言った。 「それでも少しずつ少しずつ、人間っていうものは動いていくもんだよ。今は動けなくても、そのうち何かの拍子にふっと軽くなって動けるようになる。人間ってそんなもんなんだよ、今はそうは思えないかもしれないけれどね」 そう言って彼女はわたしの方を向いて微笑んだ。
それからまもなく、彼女は長居をしたことをわびながら帰っていった。 もう夕方になっており、部屋は冷気に包まれていた。 押入れの中から毛布をひっぱりだし、それにくるまりながら、東の空から昇る満月を眺めた。
さっきまでいた彼女の存在感が徐々に薄れていくにつれて、わたしは妙な解放感を覚えていた。これでまた自分一人の場所に戻れる、そう思った。結局、彼女の存在感はわたしを混乱させ、ひどく圧迫させるものでしかなかったのだ。しかしそれと同時にそう思う自分がいやだった。わたしは自分がかつていた場所から遠く離れつつあるのを感じた。 わたしはこのままずっと、こんなふうに完結された自分だけの暗くて孤独な場所に居続けるのだろうか。どこにいけずにただ同じ所を漂い続けるのだろうか。 彼女は、いつか動けるようになるときがくるといった。いつかくると。 でも、そんな彼女の言葉にすがりつく気力も今のわたしにはなかった。 ただこだまのように彼女の言葉が耳に響き、そして小さくなり、やがてあとかたもなく消えてしまった。 わたしはそのまま毛布にくるまって眠った。
その夜わたしは夢を見ることになる。 奇妙にひきのばされたような、夢とは思えないような夢を。
顔に何かあたる、と思って空を見上げたら みぞれが降っていた。 それくらい寒い1日だった。 冷蔵庫の扉を開け放ったようなつめたい風が吹いていた。 どんよりと曇った空と乾燥した空気。
家に帰ってあたたかいココアを飲んだ。 お湯をわかしたせいで窓ガラスが白くくもる。 外の景色が見えるように手のひらでそっと窓を拭った。
雪がみたい、と思った。
今年こそロングコートを購入しようと思っているのだけど、なかなか良いものが見当たらない。良いものというのはもちろんお金さえだせばある程度見つけることができる。でもわたしの言う良いものというのは、値段はそこそこ、体の線と服のラインが絶妙にフィットし、色は黒、形はスタンダード、なおかつそこはかとなく大人の雰囲気がただよう感じのもの・・・(きりがない)という感じで注文が多いのである。特に値段はそこそこ、という条件が”良いもの”をなかなか見つけられない大きな原因になっている。
ショートコートや革のジャケット、ダッフルコート、ダウンジャケットなどはすでに持っている。それらで過ごそうと思えば過ごせるのだけど、毎年真冬(一月の中頃)になると、あー膝が隠れるくらいのロングコートが欲しいときまって思うのだ。でもそのころになると、うーん・・・でもあと少しすると冬も終わるしなぁ… なんて思って結局買えずじまいで終わってしまうのである。
今月か来月中には見つけられるといいなあ。 というか今冬も買わずに終わる可能性の方が大きかったりして。
2002年11月06日(水) |
何かをはじめること、つづけること |
日記を書き始めてほぼ一年がたちました。 ある人と話をしたことが日記をはじめたきっかけになったのだけど、 書き始めた当初は正直言って一年持つかどうか自信がなかった。 書くことは苦手だし、平凡な日常の中で特筆すべき出来事があるとも思えないし、 早晩、挫折してしまうんじゃないかと思っていました。 でも、なんとか一年続けることができた。 平凡な日常の中にも自分なりの視点があり思いがあるということを知ったし、 なりより書くことで自分自身と真剣に向き合うことができました。 書くことは相変わらず得意じゃないけど、少なくとも嫌いではなくなった気がします。それだけでもすごい進歩だと思う。
一年、そんなふうに続けてこれたのは純粋に、読みにきてくれる方々のおかげだと思っています。読んでくれる人がいて、意見を返してもらったり共感してもらったりすることがどれだけ自分の気持をささえてくれたかわからない。 ほんとうにありがとうございます。特に面白くもないような平凡な文章ですが、 読みにきてくれる方々がいるかぎり続けていきたいと思ってます。 これからもよろしくお願いいたします。(深々礼)
観ようと思っているのに時間がなくてでもいつか時間があれば絶対観ようと思っている映画の数々。
今公開中のもの
es (実話というところにひかれる) ザ・ロイヤル・テネンバウムズ (グウィネスファンだから) ディナーラッシュ (レストランものに弱い) ドニーダーコ (何となく) モンテ・クリスト伯 (時代物、歴史ものに弱い) 完全犯罪クラブ (完全犯罪に興味あり) MON-ZEN (中年男の自分さがしというところに興味あり)
すでにビデオになっているもの(映画館でみようと思っていて見逃したもの)
チョコレート (ハル・ベリーの演技が気になる、タイトルにひかれたわけでは・・) インタビュー (主演の女性がすごく素敵な人みたいだから) アトランティスの心 (映画と小説、どっちを先にしたほうがいいのだろうか) 山の郵便配達 (映像が綺麗みたいだから) 鬼が来た (まだビデオになっていないかもしれない) ヘドウィッグ・アンド・アングリー・インチ (ジョン・C・ミッシェルのボーカルと女っぷりが気になる) エトワール (バレエダンサーとして生きるということについて知りたい)
こんなところだろうか。 時間をつくって少しずつ観ていきたいと思う。
北海道にいったことがある。2年くらい前の冬。 2泊3日で小樽と札幌をまわった。 あたりまえのように雪が降っていた。 2月の雪祭りの頃だったからいちばん寒い時期だったかもしれない。 小樽から札幌へ向かう電車の窓が、信じられないほど冷たく凍り付いていたことを今でもおぼえている。
北海道のいろんなところが好きになったのだけど、その中でいちばんわたしが好きになったものというと・・・・(笑わないでくださいね) それは六花亭のお菓子とじゃがいも。 特にじゃがいもは目を瞠るおいしさだった。だしてくれたお店の人にきくと、そのジャガイモは北あかりという品種で、内地ではあまり作られてない品種だとのこと。それ以来わざわざこの時期になると、北海道の農園にお願いして箱づめにしたジャガイモ(10キロ)を送ってもらっている。 そのじゃがいもが先日届いた。うちの家族はみんないも好きなので、コロッケにしたり、肉じゃがにしたり、ベーコンと一緒に炒めたり、ポテトチップスにしたり、フライドポテトにしたり、じゃがバタにしたり、そのまま丸ゆでにして塩をかけてたべたり、とあきもせず食べている。とてもおいしい。
じゃがいもを食べているうちに六花亭のお菓子もたべたくなって、思わずネット注文してしまった。マルセイのバターサンドとストロベリーチョコレート(フリーズドライの苺をホワイトチョコレートでくるんだやつです。むちゃくちゃおいしいです)一週間以内に届くということで心待ちにしている。
はく息が白くくっきりと浮かぶような、そんな寒い日の朝、 試験ということで、電車にのってN市のほぼ中心にある試験会場へ向かう。 県産業貿易館。 ただっぴろい講堂のようなところが会場になっている。 自分の受験番号が置かれた机に座る。
いつものように軽い緊張感と少しの昂揚感。 試験用紙が配られる直前まで、ノートに目を通す。
「はじめ。」という試験官の合図。 一斉に鉛筆の音が聞こえ始める。 こつこつこつこつこつこつ・・・・
試験問題は 『二葉亭四迷の文学活動について三つに分類し、それぞれについて具体的に論述せよ。』
うーむ。ほぼヤマがあたったのはいいのだけど、正直なところあまり勉強してない。二葉亭四迷。 三つに分類、というのをまず考えた。 外国語学校に入学しロシア語を学んだ時期、坪内逍遥に師事し新しい手法で小説「浮雲」を執筆した時期、ロシア文学を研究し翻訳を試みつつ新たな小説に意欲的に取り組んでいた時期。 こんなところだろうか。 ほとんどはったりで書く。
それにしても、漢字忘れがわれながらひどい。 読むことは読めるのだけど、書くのが全然だめ。 翻訳という字を思い出すのに5分くらいかかった。それから”いしずえ”という字がどうしても思い出せない。平仮名でいしずえと書くのはあまりに恥ずかしいので 別の単語を考えているうちにさらに時間が過ぎた。 パソコンにばかり頼ってるからだよな、と反省。
なんとか時間内に書き上げ、答案用紙を提出してさっさと会場をでる。 外は完璧に冬型の天気になっていた。 乾いた風が冷たくふいて、空は晴れている。 ぶらぶらと歩きながらN駅方面に向かって歩く。
久しぶりに某T島屋なんかをぶらぶらする。 デパートをぶらぶら歩くのは結構好き。 買いもしないのに、紳士服売り場にきちんと並べられているシャツやスーツを見るのが好きだし、てきぱきと働く店員さん(特にエレベーターガール)を眺めるのも好き。そして地下の食料品売り場をみてまわるのも好き。 結局いつもいくケーキ屋さん(GRAMERCY NEWYORK)でお気に入りのケーキを買い 三省堂で本を買って(「マーティン・ドレスラーの夢」)帰った。
明日も休みだし、思う存分本読みしようと思う。 あーこの幸せ・・・
今日は朝から冷たい雨が降っていた。 仕事にでかけるまで、ずっとスピッツの「三日月ロック」を聴く。 雨の日にスピッツを聴くのが結構好き。何となく雰囲気的に合う気がする。 逆に晴れているときに聴きたいのはサニーデイ。どちらも勝手な思い込みだけど、 何となくそう思う。
仕事が終わってからずっと家で試験勉強する。 ヤマはるのは苦手だけど、いちおう近代詩史と自然主義、二葉亭四迷あたりにしぼって勉強することにした。江戸時代の俳諧あたりが出たらちょっと危ないかもしれない。(でないと思うんだけどな・・)
しばらく勉強した後、駅までコドモを迎えに行く。 朝から降っていた雨ぱたっとやんで、冷たい北西の風が乾いた音をたてながら吹いていた。マフラーを首にぐるぐるまいて駅へ向かう。
駅につくとちょうど解散式をしているところだった。 それでは解散!という言葉とともに一斉に子どもたちが歩き出してきた。 コドモがいちはやくわたしの姿を見つけて、早足でやってくる。 「おっかえりー!どうだった?修学旅行」とわたし。 「たのしかったー!」とコドモ。 どんどん言葉がとびだしてくるコドモと会話しながら家へ帰った。
コドモが帰ってきて、何となく安心した、というかほっとした。 別に不安がっていたわけではないのだけど。。 あーまだまだとうぶん子離れできそうにないね。まったく。
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