Opportunity knocks
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最近、恋をしている友人からしょっちゅう電話やメールが入る。 恋をすると人は多弁になるのだろうか。 何の用事?ときくと、 「うーん。なんとなく・・」 などとまったく要領をえないのだけど、何かしら話したいことはあるようで。 それらをうんうん言いながらただ聴いている。 考えてみるとわたしはそういう立場になることが多い気がする。 聞き役と言うか、感情のはけぐち役といおうか・・。
たまには我を忘れるくらいの恋をして、 誰かに思う存分話し相手をさせてみたいものだと思う。
なんてこと考えてるようじゃとうぶん恋なんてできないだろうな・・。
映画友達ができた。 あることでお互い映画好きであることが判明し、それ以来ちょくちょく情報交換している。 向うは古い映画、時代物、歴史もの、特に黒澤映画の大ファン。 で、こちらは、まあ単館系、コメディ系、人間ドラマ系などなど。 これいいよ、あれいいよ、など勧め合ったりして、お互い今まで観た事のないジャンルのものをみたりしている。 例えばその友達Yに最近わたしが勧めた映画。 ダンサー・イン・ザ・ダーク Dolls レッド・ヴァイオリン 素晴らしき哉、人生 ボウリング・フォー・コロンバイン アモーレス・ペロス などなど。 友達Yは観た都度、感想をメールにして送ってくれるのだけど、その感想がとても面白かったりする。自分の観てきたジャンルとは違うものだけに、とても素直に感想が書かれていて、そしてわたしの観方とはまた違った視点で観ているので、それもけっこう勉強になったりする。 で、わたしはというと、赤ひげとか七侍とか、たそがれ清兵衛とかとか日はまた昇るとかそういうものをYに勧められてみている。 邦画(古いものを含めて)は昔から観てなかったし興味もあまりなかったのだけど、友達Yの熱のこもった解説を聞いていると、不思議に何となく観る気になって、しかもああ、こういうの良いなあとしみじみ思ったりしてしまう。それはやっぱりYがそういう映画を自分なりに深く理解してそれに愛情を持っているからだろうなと思う。 わたしがそう思うのと同じように、友達Yもわたしが勧める映画をみて興味の対象が広がったらしく、いろんなものを観たいという気持ちになっているらしい。 ジャンルは違うけど、好きな映画のタイプ、というか内容はそんなに違わないのかもしれない。だからお互いに勧め合えるのかも。 そんな感じで良い映画友達になっている。 これからもいろんな感想を共有できたらいいな、と思う。
えーー、じつはかなりよっぱらってます。 よっぱらいのにっきです。 なんにもかんがえないできーをたたいてます。 今夜中のとある時間です。 鈴虫がないてます。 蝉の声はもうきこえません。 蝉は土深く眠っています。 暴走族は死に絶えました。 つくえのうえにはジャックダニエルとソーダが2,3本、 いかげそはなかったので佃煮とせろりをほそながく切ったのをたべながら、 ひとりで飲んでます。こくこく。 よっぱらってるけど、とくにべつになにかあったわけでもありません。 つれあいはいつものようにともだちとでかけていきました。 コドモはぐっすりとねむっています。 で、わたしはたまにはよっぱらってみるのも悪くないなと思って、 そしてこうやってよっぱらってそしてにっきをかいています。 小さい音でCDを聴いています。 リッキー・リー・ジョーンズ。 いまだったらポール・モーリアの恋は水色だって気持ち良く聴けそうな気がします。 よっぱらってます。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ひとりでよっぱらうのは実はけっこうすきです。 よっぱらってひとりごとをいっても、ひとりで冗談いってくすくすわらっても誰もなにもいいません。だからひとりでよっぱらうの、けっこうすきです。
あーでも、ちょっとだけさびしいかも。だれかとはなしがしたいかも。 なんでもいいからわたしのはなしをうんうん頷きながらきいてほしいかも。 こころのどこかでそう思っている自分がいます。
なんだかとても静か。むせかえるような草むらのなかでじいじいいってたみみずくんはいったいどこにいってしまったんだろう。 鈴虫はなんてやさしい声で鳴くんだろう。 なんだかとてもねむくなってきました。
あと数分のうちに意識がぶらっくあうとしそうなよかんがします。 そろそろぱそこんとじてぱじゃまにきがえてねるじゅんびします。
それではおやすみなさい。
いい夢がみられますように。
かすかな雨の音にまじって鈴虫の鳴く声がきこえてくる。 蝉の音もきこえない、暴走族のやかましいバイクの音もきこえない、静かな夜。 そっと流れてくるほんの少し冷たい空気。 秋なんだな、と思う。
2003年09月19日(金) |
衝動、情動、破滅、救済 |
最近なぜかラテンものに興味がいく。このまえ読んだ「苺とチョコレート」もそうだし、「トーク・トゥ・ハー」もそうだし。夏中ずっとボサノヴァばっかり聴いていたせいかも。 今日もその影響(?)で「アモーレス・ペロス」をみた。 三つの話が複雑に絡み合った構成になっていてかなり見ごたえがあった。 こんなふうに時間軸が交錯するような映画が実はかなり好き。あの出来事はこの出来事と繋がっていて、だからこそこの出来事は起こった、という感じで考えると世の中のことは何となく説明がつくような気がするから。 この映画はそんな因果(直接的原因と間接的条件の組み合わせで生じるもの)を見せつつ、三つの人間の生を提示している。三つの話にはそれぞれ「犬」が象徴的に使われていて、それがストーリーに深みをもたせている。
この映画を観ながら、人の思いというものはなんて強い力を持っているんだろうとあらためて思った。人の思いは凄まじい暴力を生み出しもするし限りない空虚を作り出しもする。 自分の思いだけのために他の誰かを犠牲にする、何もかも犠牲にする、犠牲にしてまでも手に入れたい思いがある。そのことにただただ驚嘆した。
それにしてもこの映画を撮った人、名前なんだったっけ・・えっと、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ?・・ドキュメンタリーというか短編映画をもともと作っていた人らしいのだけど、この映画が長編としては初作品なのだそう。 すごいなあ、と思う。そしてそして、昨日買った雑誌(Cut)にこの監督の次回作のことが書かれてあって、それがかなり面白そうな映画だった。 題名は「21Grams」21gというのは人間が死ぬ時に軽くなる重さ、らしい。ショーン・ペンにシャルロット・ゲンズブール、ベニチオ・デル・トロにナオミ・ワッツ・・もうこれは観にいくしかないかも。
2,3週間くらい前のこと。 連れ合いがめずらしく小説らしきものを熱心に読んでいたので、へえ何読んでるんだろう、と思って覗いてみた。重松清の「疾走」 15歳の少年の話。何かの雑誌に書評が書いてあるのを読んだ記憶がおぼろげながらある。連れ合いは、結構時間をかけてその本を読んでいたようなのだけど読後感はあまりよろしくなかったらしい。読みたかったら読んでもいいよ、あんまりおれ的には面白くなかったけど、といってわたしの机の上に置いていった。 それからしばらく本のことを忘れていたのだけど、連休というのもあってその本のことを思い出し、今日1日かけて読んでみた。 で、その感想。 うーん。確かに良く書けてる本だなあとは思う。何がいいたいのかということも明確に書かれているし、別に文句をつけるところも特にない。でもこの本に対してショックを受けただとか、感銘を受けたかと言われると、それはなかったように思う。またこの本を繰り返し読みたいか、ときかれてもいいえと答えるしかないだろ うと思う。 重松さんという人は実際にこの小説に書かれた世界には直接ふれたことのない人なんじゃないかな、と読んでいて何となく思った。そういう世界を横でただ注意深く見ていただけの人なんじゃないかな。別にそれ自体どうこうというわけじゃないけど、やっぱり書ききれてない部分があるように思ったし、表現が直接的すぎるし、 表面にあらわれるものだけを使って書いた、という気がすごくした。 全然悪くはないし、すごくバランスのとれた小説だと思うのだけど。でもやっぱり映像向きの小説なのかもしれないと思う。
想像力がどんどん上昇していって、すべてが自由に解き放たれて、どんな世界にもとんでいけそうなそんな気持ちになれる小説が読みたい、と思う。余計な言葉はいらなくて、ほんの少しの言葉だけでそんな気持ちになれる小説。
読書の秋、いろんなものを読もうと思う。そして素晴らしい出会いができたら、と思う。
おとついの木曜日、いつもの映画館でトーク・トゥー・ハーを観てきた。 何て言ったらいいのかよくわからないけど、とにかく考えさせられる映画だった。 その証拠に何日かたった今でも、映画のシーンのひとつひとつがふと頭をよぎって、映画の中の話(雰囲気)にひきこまれそうになる。それにしても好みの分かれる映画だろうなぁと思う。男と女でも観た印象と言うのはかなり違うと思うし。
いろいろ観方、考え方はあると思うけど、わたしはベニグノ(看護士)の彼なりの愛し方は正しいものだったと最終的に思った。はたからみると彼の行動は異常なものにみえるのかもしれないけど、それでも彼はアリシアのことをただの肉体として接してわけではなくて、彼女の存在そのものを愛し、慈しんでいたと思う。 そしてそれは純粋なものであり、例え人には受け入れられなくとも正しいことなのではないかと思う。そして正しいものだったからこそ、それはアリシアの何かを揺り動かし、彼女を目覚めさせたのではないだろうか。
それにしても相変わらずセンスの良い映画をつくるなあとつくづく感心した。音楽にしても、全体的なバランスにしても、映像のトーンの統一にしてもすべて入念に計算されたような感じ。それなのにすごくそれが自然に心の中にすっと入ってくる。
今年のベストフィルムになるかもしれない。
夕暮れにふと目をあげて窓の外をみたら、東の空に大きな満月が昇っていた。 そしてそのすぐそばには大接近の火星。
次第に濃くなっていく空の青と金色に輝く月、そして月の光を受けてピンクダイヤのように煌く火星、奇蹟のように綺麗だった、ほんとうに。
好きという感情はいったいどこからやってくるものなんだろう、とつらつら考える今日この頃。 嫌いなことに関しては多少なりとも説明することができる。例えば、うちのコドモはレバーが嫌いである。それはまだ赤ん坊だった頃、レバーを使って作ったむちゃくちゃな離乳食をコドモにむりやり食べさせたからというのが大きな原因で、よってコドモがレバーが嫌いなのは何となく説明がつく。 でも好きなものに関してはうまく説明できないことがほとんどである。 なぜ好きなのか、なぜそれを求めるのか、求めずにはいられないのか。 人間の内部ってほんとうに不可思議なことが多い。
久しぶりに本屋へ行く。 欲しいものがいっぱいあって困った。 「新潮社の戦争責任」高橋隆治 「カフカ事典」池内紀 若林恵 「村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ」三浦雅士 などなど。 どちらかというと解説本みたいな感じなのだけど、文章が丁寧に書かれていて、中身もぎゅっと濃縮された感じの本だった。 ほしいなあ、買いたいなあとその3冊を手に抱えながらレジの前をしばしうろうろ 。 頭の中でふたりのわたしが議論しあう。
A:買えばいいじゃん。 B:そんなこといったってこれ買っちゃったら晩御飯のおかずが買えなくなるし。 A:晩御飯のおかず?そんなのごはんとお味噌汁だけで十分でしょ。 B:だめだってば。ちゃんとバランスのとれた食事を作らなきゃ。 A:じゃあ、銀行いってお金おろしてきたら? B:・・・うーん。でもこのまえさ、それやって新しい服買ったばかりだし。 A:ちょっとくらいだいじょうぶだってば。 B:うーん、でもちょっとぐらいっていう範囲もうこえてるんだもの。 A:あーもうほんと優柔不断。いらいらする。 B:どうしよう。 A:どうしようったって、買うか買わないかどっちかしかないんだからさ。 B:どうしたらいいと思う? A:だから買いなってば。 B:でも買ってもたぶん読む時間ないんだよね。図書館から借りた本がまだあるし。 A:じゃあ、買わなきゃいいじゃん。 B:でもさーすごく面白そうなんだよねこの本。 A:じゃあ、買えばいいでしょ。 B:だからー、お金がないんだってばっ A:だからーっ銀行いっておろしてこればいいってさっきから言ってるじゃん。 B:だからー、そんなに簡単にできないのってさっきから言ってるでしょっー。
という感じでかなりの時間が流れた。 結果は・・・ご想像におまかせします。
いろんなことを思い出した1日。 好きだった人のこともふと思い出した。 自分がその人をどんなふうに好きだったか、 その人の声、その人の話し方、その人がわたしを見るそのときの顔。 好きだったけど苦しかった時間のこと。 なんで思い出したりなんかしたんだろう。 厳重に鍵をかけてしまっておいたはずなのに。 なぜかとけて流れ出てしまった。
何かが体の中にたまりにたまってはちきれそうになる感覚ってわかるかな。 はちきれそうになっているのにそれを出せないでいるそういうもどかしさや苛立ちみたいなもの。 体の中で何かがどんどん膨らんで、圧力が高まっていく、そんな感覚。 すっきりだすことができたら楽になれるのだろうに、なかなかそうはいかない。こんなとき生れて数ヶ月くらいの赤ん坊なら、声を限りに泣くのだろうと思うよ。全身を震わせながらありったけの力をこめてね。たぶん。
そんな風にできたらいいだろうなと思う。ありったけの力をこめて泣いたらかなりらくになれるんだろうな。でもたぶんそれは無理だから、無理だから、そんな状態の自分を見て見ぬふりしてやりすごすことにしてる。でも、でも、ぜんぶ綺麗にはきだすことができたら、ほんとうにらくになれるんだけどね。たぶん。
「苺とチョコレート」なんかを読んでみる。 うーん。さらさらと読んでしまったけど、本当はもっと底の深い小説なんだろうな。共産主義の思想というものを深く勉強したことがないというのもあるし、キューバという国、及び歴史にあまり馴染みがないというのもあるし。 そこらへんのことに対してもっと掘り下げたいという気持ちがでてくれば、また違う読み方ができるのかもしれない。
原題は「狼と森と新しい人間」というものだそう。新しい人間、というあたり、キューバという国の内側が時を経て変化の兆しを見せつつあるというところを示唆しているのかもしれない。小説の主人公であるダビドがホモセクシャルであるディエゴに次第に感化されていったように。
自慢じゃないけどよく包丁で指を切ってしまう。 それもかなりの頻度で。 なんでこんなによく切っちゃうのかな、と思うのだけど、 それは不思議でもなんでもなくて、ただわたしの手があまりにも不器用なだけなのだろう、たぶん。
今日も包丁で左の親指を切ってしまった。 それも砥石でといだばかりの包丁で。 千切りきゃべつが赤くそまってしまうくらい血がでてびっくりした。 きつくおさえて止血したあとバンドエイドを重ねて巻いたのだけど、 今もかなり痛む。
わたしの手は、見た目にはとても器用そうな手にみえるらしい。 長いし細いし大き目だし、なんだかすごくできそうな手にみえるのだそう。 でも実はまったく逆で不器用このうえない手なのである。
とにかくこれ以上負傷しないように包丁だけは上手く扱わなきゃ、 と思う今日この頃なのでした。
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