Opportunity knocks
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蔵をテーマにしたイベントがあったのでいってみた。
わたしが住んでいるH市はかつては酒蔵の町で、 いくつもの酒造元が軒を連ねるところであったらしい。 わたしの住んでいるところの近くにもいくつか酒蔵があるのだけど、 そのほとんどが今は製造中止ということで、建物だけが昔の面影を残している。
写真の建物はある酒造メーカーの蔵だったところ。 今は近代的な工場が近代的に商品を作り出しているが、 その昔はここで多くの酒やその他いろいろなものが作られていた。 今は博物館になっている。
薄灰色の空と黒々とした酒蔵の築地の中を歩いていたら、 何となく現実感みたいなものが薄れて、ほんの少しだけ 今は亡き昔の酒蔵のざわめきに思いを馳せる事ができた気がした。
2004年02月27日(金) |
ambivalence |
17才のカルテを観る。 精神病院に入院した女性が直面した生と死の境界線、あるいは心を病むというのはどういうことなのかということを主人公の女性とそれをとりまく精神病患者や看護士などを通して問いかけた映画。
この映画を観ていて思ったこと。 精神を病むというのはどういうことなのか。 どうして人は心を病むのか。
人は何かとつながり結びつきながら生きている。よってひとりでは生きていけない。だから何かとつながろうとする。でもうまく何かとつながれない状況が起きる。その摩擦の結果、現実から逃避する。自分だけの世界を構築しようとする。でもそれはすなわち孤独を意味する。孤独というものを欲してるわけではないのに、結果としてそれを招いている。自己矛盾が起きる。苦しむ。
現実逃避。 嫌なことから目をそむける。 見なければ目に入らない。目に入らなければ気にならない。 でも目をそむけたからといってそのもの自体が消えるわけじゃない。 見ようと思えばいつでも目の前に現れる。 目をそむけたくなるものが増えるにつれて自分の視界が狭まっていく。
主人公は映画の最後に、精神を病むということは人のある一面が拡大され、それを自分でコントロールできなくなった状態をいうのではないかといっていて、なるほどなぁと思った。たしかに選べないのかもしれない。現実と向き合うこと、孤独のままでいること。
結局は自分で選ばないといけないのかもしれない。行きつくとこまで行きついて考えることもできなるくらい考えて、それでもどちらかを選択しようとすることで、人は癒されていくのかもしれない。
そんなことを映画を見終わった後もずっと考えていた。
距離感の話を友達とした。 距離感というのはこの場合、他者に対して自分が感じるあくまで感覚的なもののこと。 で、そういう距離感というものはいったいどこからくるものなんだろうという話になった。 わたしはそれまでのその人との関わりがそれを決めるんじゃないかなと思ったのだけど、友達はやや違う意見。そういう距離感はすでに最初から決まっているのではないかとのこと。つまり友達のいう距離感というものは後から修正可能なものではなく、最初から決定されているものであって、コントロール不能、つまり理屈じゃないものということ。
いずれにしてもひとの気持ちって奥深いというか、ほんとうに不可思議なものなんだなといまさらながら考えてみたり。
なにかを誰かに言われたとする。 言われたそのときはぴんこなくて、その場は軽く流したのだけど、 後になってその言葉がじわじわと実感を伴って思い出される、そんなことってないですか?
一週間くらい前のこと。 友達がこういいました。
「Nってさ、笑うとおもいきりガチャピンに似てるね」
2004年02月21日(土) |
anniversary |
14回目の結婚記念日。 14年。ひとくちにいうと何でもないけれど、14年というのはけっこうたいした時間だと思う。14年の間に20代が過ぎて、コドモはティーンエイジャー、連れ合いは競艇選手から学校の先生になった。けっこう予想外の展開もあったり。
結婚した当時、なにもかもがまっさらで将来どんな色にそまっていくか見当もつかなかったけど、それなりにうまくやってきたんじゃないかなと思う。 これからどんな風になっていくか(結婚当初予想がつかなかったように)わからないけれど、とにかくたのしくいっしょうけんめいしあわせな毎日を積み重ねていこうと思っている。
PC関係を買うお店というのをうちでは決めていて、今まで使ってきたPCはすべてその店で買っている。なんでその店なのかというと、アフターサービスがしっかりしていて買った後もあれこれと丁寧にみてくれるから。 今日も去年買ったPCの調子が悪くて、店の人に見にきてもらった。
で、そこで働いている人の話。とにかくちょっと変っている人ばかりなのだこれが。今日きてくれた人はそのなかでもかなり上をいっている人で、わたしはその人をみるたび心が踊ってしまう。心が踊るといっても恋心でハートがどきどきというのではゼンゼンなくて、強いて言えば学者が希少動物の生態を研究するときの昂揚感というか。
どんな感じなのかというと、まず、髪はぼさぼさで靴下の色とシャツの色がいつも天才的に食い違っている。というか着るものに関して露ほどの関心も払っていないようにみえる。ただあるものを着ているという感じ。年は20代後半(推測)背が高くて、顔は岩井俊二をもっとかっこよくしたような感じでまあ悪くない。それで仕事はというとそれが天才的にすごい。というかこの人の頭の中には数字や記号の羅列しか頭にないのではないだろうか。世間話は一切しないし挨拶も人の目をみてろくろくしないしどこか子供っぽくて落ちつきない感じなのだけど、PCに向かうと全然違った感じになる。まるで機械と気持ちが通じ合っているかのようにkeyを叩く。目はまっすぐ画面だけを見ていて、指先は滑らかに楽器か何かを弾いてるかのようによどみなく、確信的に動く。そして、調子の悪いところを即座に見つけだし、いとも簡単に直してしまう。 ただ機械に詳しいというだけではなくて、何かこう注目してしまうところがあるんだよなあ。自分には絶対にないものを持っていて、そしてわたしが持っているものには一片の価値もこの人は見出さないんだろうなあ、と目にするたびにしみじみ思うのだ。
この人のほかにもこの店には変わった人がいっぱいいて、機械はまったく触れないけど商品を売りつけるのがものすごくうまいセールス専門プロの人や、笑っている顔しかみたことがない受付の事務の人(笑うせえるすまんのもぐろさんに似ている)、いつも独り言をいいながら店舗のおくの部屋でキーボードを叩いている人などなど、けっこう見ててあきない。
世の中には創造もつかないくらいいろんな人がいるんだよね。しみじみそう思う。
最近出た本で、負けいぬやら勝ちいぬやら騒いでいる本があるみたいだけど、 個人的にそういうこという人ってだいきらい。 負け組とか勝ち組とか、ちょっとまえにもそんなのがあったけど、そういうふうにいろんなものをひとくくりにしちゃうのって非常に安易的で危険なことなんじゃないのかな。あんたは勝ち、あんたは負け、だなんて、よく言うよとおもう。 だから自分の頭でなにも考え様としないばかなやつが、こうだったらわたしは勝ち組、こうしたら勝ち組だなんていってへんな錯覚を起こすのだと思うよ。 書いている本人、言っている本人というのはちゃんとそういうことわかっててなおかつ書いてるのかもしれないけど、なにも知らずに本読んであーそうかと思って鵜呑みにしちゃうやつがいるんだから、わざわざそんなこと本に出していうなよ、と思う。
でもなんでそんなに世の中の人って誰かに何かを決めてもらいたがるんだろう。そんなこと自分で決めればいいじゃない、そうでしょう?
ミスティック・リバーを観にいく。 暴力の輪廻みたいなものを強く感じる。暴力は暴力を生み、いろんなものを失わせてしまう。それでもそんな世界の中で、それらを受け入れながら生きている人間がいる。そしてそんな人間があらたな暴力の引き金になってしまう。
結局この映画は、暴力にまみれた社会というものを肯定しているのかなぁ。それとも肯定せざるをえない世の中だということがいいたいのだろうか。少なくとも救いのようなものは映画の中からは見つけられなかった。主人公の妻は、愛するもののためなら何をしたっていいのよ、なんて言うし。何をしたって、という言葉の中には当然暴力も含まれるわけで、それが結局はまわりにまわって自分の愛するもののところにきてしまったらまた同じことの繰り返しじゃないかと思うのだけどなぁ。
まあそれを観るものに対して問いかけるために作られた映画だとは思う。 観て良かったと思う映画であることは間違いないけれど、なんというか重い映画だった。
久しぶりに風もなく穏やかな1日。 乾燥した空気は冬の日のそれだったけれど、 日差しは柔らかく、春はもうすぐなんだなあと実感。
近くの公園に渡り鳥の飛来地があって、 友達とふたりで様々な鳥を眺めながら歩く。 高く茂った葦の茂みの中を雁や鴨、あおさぎなんかが泳いでいる。 鳥たちが立てるぱきぱきという音(枯れた葦が折れて音を立てている) と鳥たちの鳴く声、友達とわたしの足音(と話し声)以外、とくに聞えない。 時々(ランニングコースになっているので)ジョギングしている人とすれ違ったりする以外はとても静かだった。
そろそろ帰ろうかというとき、ふと葦のしげみに目をやると、 なにやら白くてふわふわしたものが目に入る。 鳥が卵でもあたためているのかなと思って友達とみていると その白くてふわふわしたものがふと顔をあげた。 まるまる太った猫だった。(体を丸めて寝ていたらしい…) すっかり鳥だと思っていたわたし&ともだちは大爆笑。 しかし猫だとは思わなかった。 友達がいわく、たぶんあの猫はハンターじゃないかとのこと。 きっと鳥たちを獲物にしてたくましく生きているんだろうと意見が一致した。 そういえば結構不敵なかおしてたよ。
もうすぐ冬も終わるね、と友達。 そうだね、とわたし。
冬の終わりを感じさせる午後だった。
簡単なことでした。 ただつきとばせばよかった。 あっけなかった。 あんなに簡単に人は殺せるものなのか、と思いました。 それくらいあっけなく妻は死んでしまった。 いや殺された。 ほかでもない夫であるわたしに。 なんの不足もない女でした。料理も上手かったし家事も手を抜かなかった。 不平をいうでもなく口答えもしなかった。妻にするにはまったく都合の良い女でした。 でもそれだけだった。 妻のほかに女を作ったのは結婚して5年目のことでした。 妻とはまったく正反対の女だった。 金遣いは荒く、常に不満を口にし、服装はだらしなく、品のない女だった。 なぜそのような女にひかれたのか、よくわかりません。 でもわたしはその女がかわいかった。夢中だった。その女のいうことは可能な限りききました。 会いたいといえば会いに行き、何かがほしいといえば買い与えた。 そのころのわたしにとって女はわたしの生活のすべてでした。 妻の存在が妙に気になりだしたのはそのころです。 妻はわたしがよそで女と会っているのにまったく気がつかない様子でした。 帰宅が遅くなっても何も言わず、平素の態度のままだった。 そのうちわたしは無意識のうちに、妻がわたしの浮気に気付き、なしくずしに結婚生活に終止符が打たれるのを待つようになりました。 子供もなく、何か障害になるものもなさそうだった。妻がわたしに愛想をつかしてくれるのを待つだけでよかったのです。 しかし妻は態度を変えなかった。なぜ帰宅が遅いのか、どこでなにをしていたのか、なぜ背広に香水の匂いがつくのか、問い詰めるようなこともしなかった。 わたしが帰って来るのを待ち、食事をつくり、掃除をし、洗濯をしました。
わたしはいぶかしみました。ほかに男でもいるのだろうか、そう思い密かに妻の様子を観察したり、バックの中身を調べたりしました。 しかし妻が他の男と会っている形跡はまったくみられなかった。わたしはそのうち苛立ちを憶えはじめました。 ほんのささいなことで妻にあたるようになった。つまらないことで妻をなじり罵倒しました。 しかし妻はほんとうに自分に非があるかのようにわたしにあやまった。なぜあたるのか、なぜなじるのか、聞こうとしなかった。ただわたしにあやまりました。
そしてそのうちわたしは怖くなった。なんの反応も示さずただわたしの言うがまま、されるがままになる妻が怖くなった。 わたしに女が出来る前と、妻は変りがありませんでした。変ったのはわたしかもしれません。 変ってしまったわたしは妻のことを厭わしく思った。消えてくれればいいのに、と思いました。 事故か何かで死んでくれればどんなにすっきりすることだろう、そう思うようになりました。 しかし妻は事故にあいそうもなかった。もともと慎重な性格の上に妻は外出することがあまりないのです。病気一つすることがないじょうぶな女でした。 ある日、いつものように妻が台所で食事の用意をしているときでした。 妻は手を滑らせて指の先を少し切ったようだった。妻が手際良く傷口を消毒しばんそうこうを貼るのがみえました。 妻は傷の手当てをしたあとまた普通どおり食事の支度をしていました。 食事のあと、何か飲む物をとりに台所へ入ったとき、わたしは床に血のしみがあることに気づきました。 妻が指を切った時におちた血でした。血は、まるでたったいましたたり落ちたかのように鮮やかな赤色をしていた。何かを問い掛けるようなそんな血の色を、わたしはしばらくの間見つめていました。今でもなぜかそのことは覚えています。 そしてわたしは妻を殺す事を決意しました。今にして思うとその血のしみがきっかけになったのかもしれません。 妻は生身の人間なのだと、生きている限りわたしのそばを離れないのだと、心底怖くなったのです。 そしてわたしは妻を殺しました。海へドライブに誘ったのです。 そして崖の上からつき落としました。簡単なことでした。 わたしはほんの少し手に力を入れて妻の背中を押すだけでよかった。 妻は死にました。 わたしは妻を殺せばもっと自由になれると思いました。楽になれる、と思ったのです。 女ともうまくいくだろうと思いました。 でも違っていた。 わたしは妻が生きているときよりもっと妻のことを考えるようになりました。 起きているあいだ中、常に妻のことが頭をよぎるのです。 妻はいつもわたしを見、穏やかな笑みを浮かべています。わたしのしたことなど関係ないかのようにわたしを見つめるのです。いっそのことうらんでくれたら、なじってくれたら、呪ってくれたら、わたしはきっとらくになれたでしょう。 でもそうはならなかった。
耐えられなくなりました。女とも結局別れてしまいました。 わたしは妻を殺しました。 妻がいなくなればわたしは妻から離れられると思ったのです。 でも違っていた。 わたしはこれから妻を弔いながら罪を償っていくつもりです。 それがわたしのなすべきことだと思うからです。 はなす事は以上です。 よくわかりました…。あのですね。ひとつあなたにお話することがあります。 実は、奥さんは生きていたんですよ。海に落ちた後潮に流されましてね、通りがかった漁船に助けられたのです。 奥さんは意識不明の重体でした。病院に運ばれたあとも意識が戻らず身元も不明でした。2ヶ月ほどその状態が続いたでしょうか。 病院側も対応に困っていたのですが、ある日突然意識を取り戻されましてね、ご自分のことを話されたのです。 奥さんはあなたのことを待っているとおっしゃいましたよ。 罪をつぐなって戻られるのを待つと言われました。 奥さんにすまないという気持ちがあるのなら、はやく刑期を終えて奥さんのもとに帰ってあげてください。 今度こそきっとおふたりはうまくいきますよ。ええ。 男はそう刑事に言われたあと、言葉少なに頷いた。 男が獄中で死んだのはその5日後のことだ。 男は自分の首を自らの手でしめて自殺した。 男はおそらく自分で自分を自由にするために死んだのだろう。 そんなふうにしか自分を解放することができなかったのだ。 男はきっと安らかな気持ちで死んだに違いない。 やっと望む物を手に入れたのだから。
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