Opportunity knocks
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簡単に今年の総括。
今年読んだ本ベスト
「わたしを離さないで」 カズオ・イシグロ
読んだあと思わず視線がさまよってしまうそんな小説。この人の文章が好きだって、今回読んではっきりわかった。
「マイ・ロスト・シティ」 スコット・F・ジェラルド
今更フィッツジェラルド?と自分でも思いながらも夢中になって読んだ。 ある日突然襟首を掴まれるような読書体験、なるほどと思った。
「半島を出よ」 村上龍
最初から最後まで緊張感が途切れなかった。素晴らしかった。
「雪沼とその周辺」 堀江敏幸
抑制がきいている文章というのは、その背後にある何かを否応無く喚起させるということに繋がると思う。一つのものを提示しながら同時に百のものを想像させるこの人の文章にかなり引かれている。
「エンペラー・オブ・ジ・エア」 イーサン・ケイニン
どの短編もそれぞれ深い味わいがあって甲乙つけがたいのだけど、強いていえば「音階の記憶」「頭の中で何かがかちんと鳴る」が好き。 「夜空の皇帝」は素晴らしすぎ。「夜の旅人」はかなしくて、「スター・フード」はせつない。「私たちの家」はやりきれなくて、「カーニバルの犬またはダイヤモンドを買う男」は読みながら何かがむずむずした。 それぞれの短編のタイトルだけをみていてもなんだかイメージがひろがるような気がする。そんな短編ってちょっとない。
「ゆれる」 西川美和
映画の原作となった小説。自分で原作を書き、さらに監督もしてしまうというその才能には感嘆の一言。映画も素晴らしかったけど、小説はそれ以上に良かった。
「ティンブクトゥ」 ポール・オースター
久しぶりのオースター。犬が語る人間世界。いろんな読み方ができるたのしい小説。
「異国の客」 池澤夏樹
好きなのかまだよくわからないのだけど、文章の雰囲気みたいなものは読んだあと長く残った。またほかのものも機会があれば読んでみようと思う。
「読む力・聴く力」 谷川俊太郎 立花隆 河合隼雄
読む力や聴く力というのはあくまで受動的な行為だと思っていたのだけど、これを読んで考え方が少し変わった気がする。読む力と聴く力、これからも精進して磨きをかけていきたい。
「ダイング・アニマル」 フィリップ・ロス
女のわたしにはよくわからない心理だけど、だからこそ興味深く読んだ。 最後の結末はとても良かった。
今年観た映画ベスト
「硫黄島からの手紙」 クリント・イーストウッド
表層的な史実ではないありのままの現実を教えられた気がする。この映画を日本人より先に撮られてしまった悔しさも少しあり。それでもほんとうに素晴らしい映画だった。イーストウッドはどこまれ大物になれば気がすむんだろう。
「ナイロビの蜂」 フェルナンド・メイレレス
汚いもの綺麗なものが渾然一体となって世の中は存在するんだな、と漠然と感じた。ざらっとした質感のある映像がずっと頭に残った。
「ゆれる」 西川美和
人間の心理をとことん突き詰めた演技が素晴らしい。自分の本音、意識していない部分を表出する怖さと快感。そういうものを感じさせた監督の手腕と感性にただただ脱帽。
「ホテル・ルワンダ」 テリー・ジョージ
正直にいって、この映画の現実を自分の事の様にして考える事はできないと思う。わたしは人が虫けら同然に殺されるのを見たことがないし、命を脅かすような飢餓を体験したこともない。そういう現実的な距離を実感した。でも、うまくいえないけれど、そういう距離を自覚した上で学べることもあるんだと思う。とにかく見るべき映画だったと思う。
「ブロークバック・マウンテン」 アン・リー
一言でいうと「激しい」映画だった。表面的には静かで淡々としているのだけど、常にはりつめた糸が一本あるような雰囲気をずっと感じた。 激しい感情の行き場をさがしにさがして、それでも結局はそのような気持ちと向き合う事しかできなかった人の心がとてもいとおしくなるような、そんな映画。 原作はシッピング・ニュースのE・アニー・プルー。この人の話っていつも吸引力あるなあ。
「メゾン・ド・ヒミコ」 犬童一心
美しい男がこれでもかとでてくる映画。あと、はじめて柴崎コウが可愛いなとおもった。
「アマデウス」 ミロス・フォアマン
好きな映画を5本あげろと言われたらすぐさま頭に浮かぶ、わたしにとってそんな映画。これで何度観たことだろう。NHKのBSで毎日モーツアルトを聴いていたせいか、またあらたな感慨を持った。サリエリがモーツアルトに抱く憎しみは年をとるにつれて理解が深まっていく気がする。
「かもめ食堂」 荻上直子
将来本屋カフェを開くことができたら、メニューはお握りとコーヒーとシナモンロールにすることにした。最強メニュー。 人の優しさって何だろうと漠然とおもった。
「間宮兄弟」 森田芳光
とてもたのしい映画だった。佐々木蔵之助のファンになった。
「ブロークン・フラワーズ」 ジム・ジャームッシュ
ロードムービーははっきりいって苦手だけど、これは違和感無くみることができた。かっこいい映画だなとおもった。
今年よく聴いたCDベスト
エゴラッピン 「ON THE ROCKS」
レミ街 「フェスタシエスタ」
パリスマッチ 「AFTER SIX」
Flipper's Guitar 「SINGLES」
WES MONTGOMERY 「SO MUCH GUITAR」
今年は映画も本も音楽もなかなか見たり聴いたりできず、量としてはかなり少なくなってしまったけど、質というか自分にとってこれは必要だと思えるものはだいたい出会えたとおもう。 こんな感じで来年もいろんなものに出会えたらいいなあ。
うわわわ。なんやかややってるうちにもう大晦日。
ばたばたと慌しい家事の合間に、今年一年のことをいろいろ考えてみる。どんな本読んだかなとか、どんな映画みたかなとか、どんな人と出会えたかな、とか。そう考えると今年一年、結構良い年だったんじゃないかな、とおもう。実りのある一年だった気がする。
さて、今日は長い一日だった。 朝4時半に起きて、名駅の魚市場に御節料理の買出し。 数の子やらイクラやら海老やらサーモンやらかまぼこやらをいっぱい買った。 6時過ぎから突然人が増えてきて移動するにも大変なくらい混み合ってきたので、市場の近くにある食堂で朝ご飯をたべて(帆立の刺身と穴子の天麩羅が絶品)7時前には帰宅。
午前中は洗濯機まわしてカーテン洗って冷蔵庫の掃除して窓拭きして食器棚の掃除して浴室の掃除して、あー目がまわるー、ってくらい働いた。 午後はちょっとうたた寝しつつ、本読んだり、年賀状書いたり、市場で買ってきたスルメイカで塩辛作ったり。
で、明日はというと、掃除と買い物はあらかた終わったので、家でゆっくり御節作りながら年越しするつもり。正月はできればのんびりしたいけれど、挨拶まわりとか弟のうちで新年会とかでばたばたしそうな感じ。でも良いお正月になりそう。 来年も良い一年になるといいな。
ご挨拶。 いつもきていただいている皆様、今年一年いろいろとありがとうございました。 不束者ですが来年もどうかよろしくお願い致します。 ではでは良いお年を☆
義母のところからもらってきた花をフラワーベースに挿していたら、 いつのまにか根っこが生えていた。茎の脇に小さな葉っぱも生えてきている。 生きているんだな、とおもった。
早朝から新幹線に乗って3週目の京都。 さすがに息切れしつつ、今年最後のスクーリングだからと自分に叱咤激励。 今日はいつも通り講義を聞きつつも、合間にレポートの要点をノートに書き出したり、今回の講義の中で自分が興味を持った事、疑問に思った事なんかをまとめたりした。スクーリングが終わってからも、レポートに追われるのはわかってるし。そしてそれは後になってやっぱり役立った。
そして講義終了。これで中世、近世、近代の購読と研究の講義が終わった。 後は古代と中古。それを終えてからいよいよ卒論の具体的な計画をたてる。 どの時代のどの作家の文学をどんなテーマでやるか。具体的なものは何も決まっていない。今まで受けてきた中世、近世、近代の文学にもそれぞれに良さがあるし、まだまだ二つの時代の文学も残っている。一つにしぼるのは難しい。というかたぶん、まだまだ自分自身が勉強不足で、それで決めかねているのだと思う。 まだまだ読んでいない文学があるし、知識も足りない、論理も未熟。 だからもうちょっと勉強しようと思う。そのうちに何かの邂逅で、これだ!というものにめぐり合えるかもしれない。タイミングを掴めるかもしれない。 それまで自分のできることをしようと思う。まあ焦る必要もまったくないわけだし。こうやって勉強し続ける事が大学に入った意義でもあるみたいだし。 うん、がんばろう。
恵文社で買ってきた。久しぶりのオースター。 たのしみに読もう。
朝。Rさんと一緒に最寄の駅まで。 Rさんは電車の時間を気にしてはや歩きになっているのに、わたしはというと良い朝だねー、なんていいながらのんびり歩いていたので、駅に着く頃にはダッシュしないといけないくらいの時間になってしまった。 おなかの赤ちゃんをびっくりさせてしまったかも。。と少し反省。でもそれでもとっても清々しい朝歩きだった。
早めに学校についたので、出掛けにRさんにもらった紙袋をあけてみる。朝ご飯だよーとRさんはいっていたのでわくわくしながらあけてみたら、サーモンとアボカドのべーグルサンドと林檎が入っていた。お腹がすいていたのでありがたく頂戴する。素朴な味のするべーグルでとってもとってもおいしかった。こんなにありがたい朝ご飯はほんとうに何年ぶりかなと思う。Rさん、御馳走様でした!
午前中の講義は仁勢物語(伊勢物語のパロディ本)から井原西鶴の「好色一代男」に移って進んでいく。「好色一代男」は、俳諧師であった西鶴があくまで仲間内の読み物として書いた御伽草子で、じっくり読んでみるとなかなか面白い。 本の構成が意図的に源氏物語を模しているのではないかという説があったり、主人公の世ノ介の超人的な好色ぶりや、当時の文化がちりばめられている様子などなど、聴いていてまったくあきなかった。自分の知らないことが多くて、そしてそれに対して少しずつ理解を深めていくうれしさがあって、近世の文学もいいなあとほんとうに思った。 午後も引き続き「好色五人女」の講義が続いて、ずっと古典にひたる一日だった。
五時半に講義が終わって、少し時間に余裕がありそうだったので、新幹線に乗る前にRさんに教えてもらった「恵文社」という書店に寄ってみることにする。 祇園行きのバスに乗って高野まで。高野の交差点を過ぎてから1本目の道を北に入り、800mほど歩く。Rさんに書いてもらった地図を片手にてくてく歩いていたらそれらしい本屋があった。通りに面していて窓が広く、レンガの壁に緑色の両開きの木のドアがある。入ってみると広いスペースに数え切れないほどの本が並んでいて、とても落ちついた雰囲気。置いてある本はどれも興味をひくものばかりで、思わず目がきらきらしてしまった。 と、それはいいのだけど、あれもいいなあこれもいいなあとあちこち見ていたら、どうも2時間くらい時間が経過してしまったみたいで、ふと時計をみてびっくりした。あわてて持っていた本をレジに持っていって、(名残惜しかったけど)来た道を戻ってバス停に急ぐ。 恵文社の界隈はどうも学生街らしく、安くておいしそうな居酒屋や何軒もあってかなり後ろ髪をひっぱられた。とても寒い夜だったので、あーおでんとビール、日本酒でもいいなあ、ゆっくりできたらいいのになあ、と未練たらたらで、それでも二晩連続で泊まりというのも(明日仕事だし)無理ということで、ぐっと我慢した。
バス停に並んで206系統のバスに乗る。道がかなりこんでいるので京都駅に着くまでに1時間弱くらいはかかりそう。時間は8時少し過ぎ。東京方面の新幹線の最終は結構早いのでちょっと心配になる。といっても駅につくまで心配しても仕方ないので落ちついて待つ事にした。 でもたぶんよっぽど余裕のない顔をしていた顔をしていたのだろうなあ。隣に座っていたわたしより少し年上の女性が、「たべる?けっこうおいしいでー」といって檸檬味のグミをくれた。その女性は「こんな感じでちょっと疲れてるときにひとつたべるんよ」といっていた。あまったるくなくて、でもちょっとほっとするくらいの甘酸っぱさ。とてもおいしかった。その女性の優しさがうれしかった。
京都駅に着いて壱番早い新幹線に乗る。間に合った安堵感で一気に力が抜ける。 あっというまに名古屋に着いて、すぐローカル線に乗りかえる。 自宅近くの駅に着くと、連れ合いが迎えにきてくれていた。感謝。 長いようなあっという間だったような2日間。とても充実した時間だった。
2006年12月09日(土) |
京都泊(かなり長文です) |
今日、明日は泊りがけで京都。とその前にいろいろやることがあって、朝からかなりばたばたした。 何事に関しても必要に迫られないと動けないわたし。2,3日前から準備しておけばもっとスムーズにいくものを、頭でわかってはいてもなかなか実行できず。 たぶんそうやってばたばたするのが最終的に好きな性格なのだろう。 講義の資料や電子辞書のほかに、化粧品、コンタクト、着ていく服にハンカチ、携帯、充電器などなどを慌ててバックにつめこみ、シャワーをあびて髪を乾かしつつ、朝ご飯の準備&今晩の夜ご飯のシチューの下拵え。 そんなときに限って雨で、コドモを駅まで送らなくてはならず、一連の準備を超スピードでやって、やっとのことで家をでる。 コドモを駅に送っていったあと仕事場へ直行。午前中は通常通りパソコン睨みながら単純頭脳労働。 12時半に仕事場をでていったん家へ戻る。作りかけのシチューを完成させ、朝できなかったメイクを簡単にすませると、午前中学校にいっていた連れ合いが戻ってきたので、ちょうどよかったとばかりに駅まで送ってもらう。感謝感謝。
やっとのことで駅についたのが13時45分。ここにきて重大な忘れ物を発見。お土産用に買っておいたささ栗を家に忘れてきてしまった。ぐわーん。 電車の時間を20分後に控え、大慌てでT島屋のグラマシーニューヨークにいってチーズケーキを買いに行く。スフレのチーズケーキの焼きあがりの時間がバスの時間の5分前で一瞬迷ったのだけど、結局ベイクドタイプのものにした。スフレは人気があって滅多に買えないのでちょっと残念だったけど仕方ない。 ついでにFAUCHONに寄ってお昼ご飯にたべるパンを2つ買った。
そんなこんなでやっとバスに乗車。乗り始めて10分くらい後になぜか急激に眠気がきて、しばらく熟睡。 PAで休憩しまーす、という車内アナウンスで目がさめた。時計をみたら1時間くらいたっていた。PAでバスを降り、ミネラルウォーターを買って車内へ戻る。 おなかがすいたのでお昼に買ったパンをもそもそたべながらぼんやりしていたら、急にバスが減速した。まさか、、と思っていたらやっぱり渋滞。 トンネル内で事故があったとかでかなりの間のろのろ運転が続く。 ほんとうなら16時過ぎには京都に着いている予定だったのだけど、この分だと17時くらいにずれこみそうな気配。到着予定時刻を今日お泊りさせてもらうRさんにメールする。
事故現場をやっとのことで通過して17時15分に京都着。 辺りはもう真っ暗で、冷たくて重い雨が降っていた。バスを降りてJRの乗り場へ向う。 私鉄を使うルートもあるのだけど、京都駅からRさんの家の最寄の駅まで思ったより遠くなかったので、JRでいくことにした。 そしてJRの駅を降りてバスに乗るために時刻をみたら、なんと1時間に1本しかないバスが2分前に発車した後だった。。 それでも駅前は時間がつぶせそうなところがあったので、1時間待つつもりでRさんにメールをする。年をとるにつれて時間の流れる速度がはやくなるのか、1時間くらいの時間はすぐつぶせてしまう。駅前の大きなショッピングモールに入って、スーパーマーケットでいろいろみていたら(実はスーパーマーケットが好きです)Rさんから電話がかかってきた。 連れ合いさんが飲み会で京都まででるので、ついでに車で駅まできてくれるとのこと。お言葉に甘えて待つことにした。 どきどきしながら、コンビニの前にたっていると、濃紺の四輪駆動車の中からRさんとつれあいさんが降りてきた。 はじめまして、とご挨拶。連れ合いさんにははじめて会うのだけど、長身で細身でメガネが似合っていて、思慮深そうな目をした素敵な人だった。ふたりで並んでいると、なんというかとても仲が良さそうで、月並みな言い方だけどお似合いのふたりだなあとおもった。
車に乗せてもらってRさんちまで。途中で連れ合いさんが駅で降りて、Rさんが運転を交代。 あまり日常的に車を運転しないRさん。とても緊張していた。 途中、すれ違いが難しいくらい細い道を抜けてRさんちに到着。車庫入れでさらに緊張しているRさんに代わって、車を駐車場に入れる。やっとRさんより得意なものを発見して少しうれしくなったり。でも運転に慣れればすぐわたしよりうまくなってしまうんだろうな。
はじめてお邪魔したRさんのお家。版画の絵の具が机にいくつも置かれていたり、不思議な形をした植物がいっぱいあったり、想像以上に素敵だった。居心地良く住まれている雰囲気が伝わってきた。 ノンカフェインの良い香りのするお茶をいれてもらって、いろいろな話しをする。本棚の本の話、おなかの赤ちゃんの話、食べ物の話、グレートギャッツビーの翻訳の話、植物の話、数え切れないくらい。 人と話すのがあまり得意でないわたしなのだけど、Rさんには不思議に緊張することなく話すことができる。たぶんRさんが聞き手として優れているのと、お互い聴いたり話したりする割合が一緒なのだと思う。 つまり一方的に話し手とか、一方的に聴き手でいるのではなく、聞くのと話すののバランスがいいのだということ。
しばらくそんなふうに話したあと、Rさんが夕ご飯の支度をする傍ら、少しお手伝い(かぼちゃの皮をむいた、お皿を運んだ)をしたり、講義資料を読んだり、オーディオにかけてもらったバッハの練習曲を聴いたり。 夕ご飯は、かぼちゃとトマトのスープ、ブロッコリーとロースハムのパスタ、アボカドとサーモンのサラダ。南瓜とトマトのスープは南瓜の甘味とトマトの酸味がとてもよくてすごくおいしかった。ブロッコリーのパスタはつぶつぶのブロッコリーにオリーブオイルとガーリックの風味がきいていておいしかったし、アボカドとサーモンのサラダは、檸檬とケイパーとみじん切りにした玉ねぎがアクセントになっていて、これもまたすごくおいしかった。それに加えて誰かに食事をつくってもらう幸せ。 世の中の人は、食事を作ってくれる人に対してもっと感謝しなきゃいけないとおもう。誰かが作ってくれたご飯って、ほんとおいしいんだから。
ご飯の後、ふたりでお皿を洗って後片付け。その後、またお茶を飲みながらチーズケーキをたべたり、(Kさんのお家の)林檎をごちそうになったりしながら、いろいろ話す。今度は写真や絵本の話。お勧めの本をいくつか教えてもらった。山本昌男という人の写真がとくに印象に残る。あとでネットで検索してみたら、蒲郡の人なのだそう。日本ではあまり展覧会を開く事はないみたいで、ロンドンでの展覧会が近々あるみたい。ロンドンまでいけないしなあ。機会があればじかにみてみたいなあと思う。 それから念願だったRさんの版画、じかにいろいろ見せてもらった。 パソコンではわかりにくい色のグラデーションや、質感など、とても素晴らしかった。 いつか本屋を開く事ができたら、きっとRさんの版画をかざりたいなあと思う。
そんな感じで時間のたつのを忘れて話しをしていたら、飲み会から連れ合いさんが帰ってきた。お茶のむー? のみまーす、というやりとりがとてもほほえましくて、あらためて良いなあとおもった。とてもしあわせそうで。
そのあと、パソコンで明日の朝の学校への道筋を教えてもらって、時刻やバス停の場所まで教えてもらった。行き当たりばったりのわたしとはやっぱり違う。おかげでとても助かった。それから、いつか本屋を開きたいというわたしの大それた目標を話したら、店作りの参考になる本屋があるよーと「恵文社」という本屋を教えてくれた。これもまた地図まで書いてもらってくわしく教えてもらった。
あっというまに日付けが変わる時間。最後にちょっと映画でもみようかーということになって、チェコアニメ?なのかな?見た事のないような不思議で素敵な短編映画をみせてくれた。テレビというものがないRさんち。映画を見ているのは知っていたので、テレビがなくてどうやって映画みてるのー?ときいたら、これでみてるんだよー、とプロジェクターが出てきた。これを天井に映して、寝ころんでみているのだそう。なんて素敵なんだろうと感動。 そんなわけで、ふたりで仰向けになって(連れ合いさんは壁にもたれて天井を見上げながら)映画をみた。緊張しているような、リラックスしているような不思議な感覚。とても素敵な時間だった。
お風呂をわかしてもらって、パジャマまで用意してもらって(何ももってこなかったわたし)就寝。いろいろあったけれど、疲れというものを感じなくてほんとうにたのしくて有意義な一日だった。
フェルナンド・メイレレス 「ナイロビの蜂」 今年はほんとうにどうでもいいようなことで忙しすぎて、あまり劇場まで足を運べず見逃した映画がいっぱいあった。これもその中のひとつ。 公開の時から良さそうだなあと思っていたのだけど、その期待以上に素晴らしかった。
一見、相反するもの、例えれば善人と悪人、新しさと旧さ、進歩するものとそうでないもの、イギリスとケニア、白人社会と黒人社会などなど、それらは相反するようでいて実はお互いがお互いを内包している。つまり、善人の中に悪があり悪人の中にも善があるというか、新しさの中には必ずそれを阻害しようというものが存在し、旧さの中にも新しさを求めようとするものが存在するというか。世界はこれはこれ、あれはあれ、という感じできっちりわけられるものではなく、幾重にも幾重にも内包されているものなんだな、とそんなことをおもった。
あとこの映画は、政治や経済の暗部が絡んだ事件を軸にしながら主人公の男女の生き方をそれに沿わせているのだけど、それがへんに安っぽいものでなくてそれもまたよかった。(以下はかなりねたばれです) 最後のシーン、男があの結末を選んだのは、たぶん、ずっと自分と相手の間にあった気持ちのずれみたいなもの、最後までわかりあうことのなかった部分に対して、自分は何ができるのかと考えた末にとった手段だったんだろうとおもう。 ただ単に、愛してたからとか、さびしくてとか、生きる希望をなくしてとかではなく、あくまで能動的にそういう行動を選んだんじゃないかな。 だから最後が悲劇にならずにすんだというか、わたしはなんとなくそうおもった。そしてそんなところがすごく共感できた。
監督は「シティ・オブ・ゴッド」を撮った人らしく、ざらっとした質感の残るような映像がすばらしかった。 できればもっと大きなスクリーンでみたかったな。ほんとうに。
2006年12月03日(日) |
冬季スクーリング1日目 |
朝、眠い目をこすりながら始発の電車に乗って京都へ。 電車に乗る前は真っ暗だった空が、だんだん水でといたように薄くなっていって、七時前には綺麗な朝焼けの空になった。 でもこれは完璧に冬型の空。寒い一日になりそう。 7時40分京都着。西大路経由の市バスに乗って大学まで。 スクーリングも数をかぞえてだいぶ慣れてきたのか、特になんの感興も無く教室配当表をもらって指定の教室へ入る。
午前の講義は近世文学購読。近世の出版事情について勉強する。 近世以前、つまり16世紀中頃以前、文学作品は人の手でひとつひとつ写本されて世の中に伝えられていた。今のように数々の出版会社が林立して、システマティックに文学作品が世に送りだされる時代には考えられないような世界がそこにはあったらしい。 先生は膨大な書物を写本するということを大掛かりな伝言ゲームに例えられていたけれど、文字を書くということさえも特別だった時代のことを考えればそれも頷けるような気がする。 今わたしたちが認知している平安時代の物語、例えば源氏物語なんかも、いろんなバリエーションのものが保存されているとのこと。 つまり、わたしたちが今現在源氏物語だと思っている書物は平安時代から写本として語り継がれてきた一つのものにすぎないわけで、どこかの偉い文学者か役所の人が、数ある源氏物語の中から、「うーんこれがなんとなく立派で筋書きが整っていて良さそうだから、これにしときましょう」という感じで選んだのが今の源氏物語なのだそう。ということはよくよく考えると原作は原作の形をもはや留めていないと考えられるわけで、もしかしたら源氏は最初の時点では全く違うお話だったということも考えられる。わたしだったら写本の途中でいろいろ自分風にアレンジしちゃうかもしれないしなあ。そういうものが後世に伝わった可能性もないとは言えない。そう考えると、歴史というものは膨大な時間の積み重ねであるということがよく実感できる。
で、近世の出版事情に話を戻すと、書物の出版が写本という形から版本という形になったのは17世紀の初頭ぐらいからであるらしい。 小さな版木をひとつひとつ組み合わせて刷ったもの、つまり凸印刷が最初だったのが、しだいに原稿自体をひとつの大きな版木に彫ったものを印刷する凹版印刷へと変わっていったとのこと。短時間に大量の複製ができるにしたがって、文学というものの存在も次第に変遷していくわけで、そういうプロセスがとても面白いなあと講義をききながら思った。先生は最初は教授然とした感じだったのだけど、だんだん関西弁が強烈になってきて、「わかるやろー、ここはこうなってこうなって、だからこうなるんやでー、おもろいやろー!」と明らかに上方芸人ののりになってきて、それも聴いていてたのしかった。来週の講義もたのしみ。
午後はお昼をはさんで、近世文学研究の講義。井原西鶴の「好色五人女」。 「好色五人女」は実際にあった江戸時代の実話をもとに西鶴が書いたお話で、姦通やら密通やら情死やらそんなことがたくさん書かれている。八百屋お七なんかは浄瑠璃とか文楽でよく上演されているから結構有名かな。 物語の内容はともかく、その文学の成り立ちや、当時どのようにその読み物が読まれていたのかなど学術的な面でいろいろ興味がひかれるので、しっかり講義を聴いていきたいと思う。
5時半に講義が終わってすぐ京都駅へ。 バスで帰るつもりでチケットセンターにいったらもうすでに満席だとのこと。 仕方ないのでいちばんはやい新幹線で行く事にしたのだけど、そちらも乗車率100%以上で、結局名古屋まで座れずじまいだった。やっぱり12月はいろいろとせわしいのかもしれない。
今週は週末にRさん宅にお邪魔する予定!ずうずうしくお邪魔してもいいのかなー・・とも思うのだけど、タイミング的に機会を逃すといつまたそういう機会があるかわからないので、おもいきって伺うことにした。でもとてもとてもたのしみ!それまで体調ととのえて、年末のあれこれもいろいろ少しずつやっておこうとおもう。大掃除とか年賀状書きとか。がんばらなきゃ。
師走。 毎年そうなんだけど、12月はほんとうに時間の過ぎるのがはやい。 たぶん、やらなきゃいけないことが多すぎて時間のことを考える暇がないからなんだろうね。
今月は3、10、17日と毎日曜ごとに京都で講義。 朝の9時から夜の6時まで隙間なく。 近世文学購読ということで、井原西鶴の「好色五人女」を取り上げるらしい。江戸時代の文学ってあまり触れる機会がないから、 きちんと勉強してこようとおもう。
胃腸風邪ひいてちょっと病み上がりなのだけど、 今月いっぱい気合入れて乗りきらなきゃ。がんばるぞー。
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