Opportunity knocks
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安倍内閣の閣僚である松岡農林水産相が自殺。 6通もの遺書を書きながら、この人はいったい何を考えていたんだろう。 死者に鞭打つようだけど、死を選択することですべてを綺麗なまま別の次元へ転化させるようなそういうやり方を、未だに美しいというか立派なものだと考えている人がいるんだなということにおどろいてしまった。少なくとも亡くなった松岡氏はそんなふうに考えていたような気がする。でなければ、日本国万歳、なんて書けるわけない。
自殺するくらいならなぜ大臣を辞職しなかったのだろうか。辞職していたら死ぬ必要もなかったかもしれない。生きていれば別のやり方で何かができたかもしれない。 こんなかたちで死ぬなんて卑怯だとおもった。そして、そんなかたちで死なせてしまった周りの人間も同じく卑怯だ、とそうおもった。
2007年05月20日(日) |
江戸絵画 プライスコレクション |
伊藤若冲の展覧会にいってきた。
若冲は江戸時代中期の絵師。緻密な描写と大胆な構図、卓越した色彩感覚など、明らかに同時代の絵師と同列にできない存在感があり、見れば見るほど魅入られていくようなそんな雰囲気がある。 なかでも「鳥獣花木図屏風」は1日見ててもあきない、と思った。 今回の展覧会はアメリカ人であるジョー・プライス氏の膨大な江戸絵画コレクションの一部を公開しているのだけど、プライスは大学を卒業したばかりの頃、ニューヨークの画廊でずっと埃をかぶっていた若冲の作品に出会って非常に衝撃をうけたとのこと。 プライスは若冲の作品を「自然を取り出して再構築した芸術」と評していて、それがとても印象に残った。名前も知らない東洋人の、しかも何百年も前に生きていた人との出会い、それはとても幸せな出会いだったんだろうな、とおもう。そんな思いがひしひしと伝わってくるようなコレクションだった。
それにしても、江戸時代中期の画家の感性が今これほど広く受け入れられているのをみると、人間の感性というのは数百年前であろうが何であろうが変わらないものなんだなとあらためて思う。ただその感性を誰にも思いつかない表現で描いた若冲はやはり特別な人だったんだなとおもった。
ふとみると、天道虫が観葉植物にとまっていた
まるで自分のうちです、とでもいうように寛いでいた(ようにみえた)
しばらくずっとそんな天道虫をみていた
ずっと風邪でふせっていたので家の中がたいへんなことになっている。 まず冷蔵庫の中がいろんなものでごったがえしてるし、机や畳みの上に本やら雑誌やら紙切れやらが山積みになっている。部屋の隅にはほこりがふわふわしてるし観葉植物は外にだしてもらえず弱々しくなってるし布団は湿っぽいしアイロン台が出しっぱなしになってるし洋服は衣替えの途中でぐちゃぐちゃだし洗濯物が浴室が…
あー、書いてたらもう疲れてきた。でもやっと体調が良くなったのだからとりあえず手をつけなければ、・・といいつつこんなこと書いているわけで、どうにもやる気がおきない。こまったものだ。でもやるけどね、ちゃんと。 しかし、ちょっとの間家事の手をゆるめるだけで家の様相というのはずいぶんかわるものです。ふだんのわたしはえらい。 と自画自賛したところで、さーはじめるとするか。
2007年05月15日(火) |
こうのとりのゆりかごについて |
熊本の慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」に3〜4歳児と見られる子供が入れられていたと、今朝のニュースできいた。 3、4歳といえばもう言葉も話せるし、小さい範囲ながらも社会性などが芽生える時期。そんな子供を、と思わず言葉がつまる。
「こうのとりのゆりかご」に対しては概ね賛同しているし、子供の生命を最優先に考えた制度だと思ってはいるけれど、それでも今朝のニュースのようなことが起こると、いろんな問題点はまだまだたくさんあるんだと気付かされる。 要はその問題点に対してもっと国が(民間にばかり背負わせるのではなくて)本腰を入れて対処に乗り出せばいいのだけど、そう簡単に動きそうもない。それどころか、ここぞとばかりに「こうのとりのゆりかご」に対するバッシングが集中するだけで終わってしまうような気がする。
慈恵病院の行動は、あくまでこの問題(子捨て、虐待)を社会全体で考えていこうという試みでしかないのに、それに対して国や一部の人々はまるでなにか悪いことでもしているかのように冷ややかな目でみたり一方的に非難したりしている。それがまずおかしい。餓死する赤ちゃんや捨てられる嬰児が後を絶たない中、まず赤ちゃんのための受け皿を用意する事がなぜいけないのか。足らない点があればその都度知恵をだしあって検討していけばいいと思うのに、なぜかその存在(こうのとりのゆりかご)自体を全否定してしまう。どうしてそういう極端なことしかできないのか。
国が臭いものには蓋をしろ的な姿勢を省みる事がない限り、子捨てや虐待は増え続けるとおもうし、社会はさらに悪い方向へむかっていく気がする。そういう世の中で子どもを生み育てていこうという人が減っていくのは当然の結果だとおもうし、いくら少子化対策を講じてもこれでは穴のあいたバケツに水を注ぐようなものだとおもう。
反対だ反対だと青筋立てて起こっている人には、ただ反対するのではなくてどうすればよりよい制度になるかを真面目に考えてもらいたい。 少なくとも子供を助けようとする善意の芽をつむようなことだけはしてほしくない。
掘りたてのたけのこをいただいたので、糠と一緒にくつくつと煮てみた。
ゆであがったたけのこを豚ばら肉と一緒にさらにくつくつと煮てみた。
思ったよりおいしくできた。
のだけど。
さっきからなんだか口の中がぴりぴりする。
アクがきちんとぬけてなかったのかな。
ビール飲んだらなおるかな、と思って1缶飲んだ。
なおったかな。
昼間、本と一緒に花売り場のすみっこで安売りになっていた植木鉢を買った。
白のインパチェンスとヘデラの薄ピンクみたいなの。なんだろう名前。
2つで500円だった。
どんどん茎が太くなっていく麒麟草と一緒に窓辺に置いた。
白がきれい。
元気でそだってくれるといいな。
さて2缶めに手がのびないうちに本持ってねよう。
おやすみなさい。
本を買いに行った。こんなに腰をすえて本を買ったのは久しぶり。
「コレラの時代の愛」 G・ガルシア・マルケス 「チャーリーとの旅」 J・スタインベック 「真鶴」 川上弘美 「パリの廃墟」 ジャック・レダ 「生かされて」 イマキュレー・イリバギザ
さらに図書館に寄って、やむをえず購入できなかった本を予約。
「下流志向」 内田樹 「雨月物語」 青山真治 「ユリイカ」 ダ・ヴィンチ特集 「言の葉摘み」 宮沢和史
私がとても若く、ここではないどこかへ行きたいという衝動を抱えていた頃、大人たちは「そういう胸の疼きは大人になれば消えるもんだ」と請合ってくれた。何年もたって大人になったら、「中年になれば治る」と言われた。中年にさしかかったら「もっと歳を重ねれば熱も冷める」となだめられた。しかし私も今や五十八歳である。そろそろ耄碌して落ちついたって良さそうなものだ。
なのにちっとも熱は冷めない。
「チャーリーとの旅」より
さー読もう。
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