『世界の中心で、愛を叫ぶ』が映画公開の影響もあってか250万部から300万部へと国内小説最多部数をわずか数日の間に50万部伸ばした。(中略)この現象と、金原ひとみ、綿矢りさが多くの人に読まれた現象は一見、相反する動きに見える。
しかし、共通していることに“新たな読者”が加わったことがあるだろう。彼ら彼女たちに届いた背景には、まず口コミ、その後、店頭での話題性やネット上のトピック、いろいろありそうだ。また、実際的なところでは、3作に共通するのが紙質。どれも「かさ高紙」というボリューム感の増す紙を使っている。これにより、一見やや厚い本が2、3時間で読めてしまう。どうにか彼ら彼女らに届いた後、普段、本に慣れ親しんでいない世代が、初めて一冊読み通すという体験をし、そこに人に話したくなるような何かがあったため、さらに急拡大していったように見える。
2004年06月28日(月)
私は黙っていた。夜もだいぶ更けていた。私は疲れていた。キツイ昼間のあとで、さらにキツイ晩を過ごし、私は疲れていた。自分が疲れていて、妻が苛立っているとき、一番したくないことは妻との口論だ。その手の口論は、結果的に自分が長椅子で一晩過ごすことになる。したがって、その手の口論を打ち切る方法は、だんまりを決め込むことである。結婚生活において、言葉は雨のようなもの。結婚生活の大地は枯渇した河や瞬く間に乾燥してボロボロの土くれとなりうる細流だらけだ。セラピストは会話の効用を信じているが、彼らのほとんどは離婚しているかオカマかのいずれかである。結婚生活における最良の友は沈黙だ。
スティーブン・キング『L・Tのペットに関する御高説』 (風間賢二訳、新潮文庫)より |
2004年06月25日(金)
「『基本的なことが何故基本的なのか』が自らわかるのは、一度いろんなことがわかった上での事である」
2004年06月24日(木)
最近、痛感しているのは、人間はただ生きているというだけですごいのだ――ということです。
私は人間の価値というものを、これまでのように、その人間が人と生まれて努力をしたりがんばったりしてどれだけのことを成し遂げたか――そういう足し算、引き算をして、その人間たちに成功した人生、ほどほどの一生、あるいは失敗した駄目な生涯、というふうに、区分けをすることに疑問をもつようになりました。(略)
生きているというだけでもいかに大切かとぼくが思うようになったエピソードを紹介しましょう。前にもエッセイのなかで書いた話ですが、アメリカのアイオワ州立大学の、生物学者のディットマーという博士がおもしろい実験をされました。
それは三十センチ四方の木箱、深さ五十六センチぐらいでしょうか、そのなかに砂を入れて、一本のライ麦の苗を植え、そして水をやりながら数ヵ月育てるのです。すると、その限られた砂を入れた木箱のなかで四ヵ月のあいだに、ひょろひょろとしたライ麦の苗が育ってきます。これはもう当然のことながら色つやもそんなによろしくないし、実もたくさんついていない、貧弱なライ麦の苗が育つ。そのあと箱を壊し、そのライ麦の根の部分にたくさんついている砂をきれいにふるい落とします。
そして、その貧弱なライ麦の苗を数ヵ月生かし、それをささえるために、いったいどれほどの長さの根が三十センチ四方、深さ五十六センチの木箱のなかに張りめぐらされていたか、ということを物理的に計測するのです。目に見える根の部分は全部ものさしで測って、足していきます。根の先には根毛とかいう目に見えないじつに細かなものがたくさん生えているのですが、そういうものは顕微鏡で細かく調べ、その長さもみんな調査して、それを足していく。
その結果、一本の貧弱なライ麦の苗が数ヵ月命を育てていく、命をささえていくために、その三十センチ四方、五十六センチという狭い箱の砂のなかにびっしり張りめぐらしていた根の長さの総延長数が出てくる。その数字を見て、ぼくはちょっと目を疑いました。誤植じゃないかと思ったぐらいなのです。
なんと、その根の長さの総計、総延長数は一万一千二百キロメートルに達したというのです。一万一千二百キロメートル、これはシベリア鉄道の一・五倍ぐらいになります。
一本の麦が数ヵ月、自分の命をかろうじてささえる。そのためびっしりと木箱の砂のなかに一万一千二百キロメートルの根を張りめぐらし、そこから日々、水とかカリ分とか窒素とかリン酸その他の養分を休みなく努力して吸いあげながら、それによってようやく一本の貧弱なライ麦の苗がそこに命をながらえる。命をささえるというのは、じつにそのような大変な営みなのです。
そうだとすれば、そこに育った、たいした実もついてない、色つやもそんなによくないであろう貧弱なライ麦の苗に対して、おまえ、実が少ないじゃないかとか、背丈が低いじゃないかとか、色つやもよくないじゃないかとか、非難したり悪口を言ったりする気になれません。よくがんばってそこまでのびてきたな、よくその命をささえてきたな、と、そのライ麦の根に対する賛嘆の言葉を述べるしかないような気がするのです。
2004年06月23日(水)
――勝ち組だとか負け組だとか、競争社会の勝手な論理で決めつけられてしまう。本人が意識する、しないにかかわらず。
「そういう観念に対して、自分は自分だと言い切れる人と、ものすごく周りの枠組みにこだわってしまう人と、たぶん性格によってだいぶ差があると思うんですよね」
――どうすればそんな煩わしいものから逃れられるんだろう?
「やっぱり自分ひとりじゃみんな心細いし、自分だけの判断ってものすごく難しいと思うんですよね。よほど意志が強くないと。だからほんとにごく少数でいいから信頼できる人を見つける。自分の判断に対して、助言というよりは『大丈夫だ!』といってくれる人を見つける、ということじゃないかな」
2004年06月22日(火)
数ある女性ファッション誌を見ていると、それらはザックリと二種類に分かれるような気がするのです。つまり“裕福な専業主婦”に優る女の幸せは無いとうことを明確に認識する女性群が読む雑誌と、それ以外の女性が読む雑誌と。
前者は、「JJ」「CanCam」といったところから「VERY」方面へ、さらには「家庭画報」「婦人画報」といったところへ連なっていく、専業主婦連峰とでも言うべき群を女性誌界に形成しています。(略)
専業主婦連峰の雑誌群とファッション面において相対するのは、モード系の雑誌です。モード系女性誌も数々あれど、「専業主婦こそが世界で一番素敵な仕事」という確固たるビジョンを持つ専業主婦連峰に比較すると、そこには「女の人生、こうあるべき」という強い意志は無い。(略)
専業主婦連峰の女性誌が抱く「専業主婦万歳!」という強力な信念に、その他の女性誌群が唯一抗し得るものがあるとすれば、それは「私は馬鹿じゃない」というさほど確かではない自信です。実際、その他女性誌群の読者達は高学歴であったり、知的な職業を得ていたりする。そして、専業主婦連峰の女性誌を読むような人を、「ふん、頭悪い感じ!」と馬鹿にしているわけですが、心のどこかでは彼女達のことを羨んでいる。そして羨む心を封じるために、ちょっと知的な雑誌を読む。(略)
そんな彼女達が読むのは、自らの知的好奇心とファッション性とを満足させることができる女性ファッション誌。絶対に着ないであろうモード服満載のファッションページや、知的すぎてファッションにはまるで興味の無さそうな人物が書く難解な連載読み物、ハワイや香港を絶対に紹介しない海外旅行ページ等を、理解しているつもりになりながら、読む。自らの生活に役立つ情報はほとんど無くとも、「私は馬鹿じゃない」という自覚を深めるためには必要な行為なのです。(略)
いずれにせよ、専業主婦連峰の雑誌とその他の雑誌の間には、言葉にならない対抗意識のようなものがあるのは、事実です。前者は後者に、 「養ってくれる男一人、見つけられないくせに」 という優越感を抱き、後者は前者を、 「ケッ、馬鹿が」 と見下す。もちろん裕福な専業主婦を目指す人の中にも知的魅力に溢れる人はいるでしょうし、「私は馬鹿じゃない」ということを心の拠り所にする人が全員モテない枯れた女というわけではないのです。が、そう思うことによって両者はそれぞれ、自分の中のどこかアンバランスな部分に対して、目をつぶろうとしているのではないか。
最近は、こと内面に関することであれば、自分の美点を自覚していることを表明してもよくなってきたようです。サバイバル時代の今、就職する時でも仕事をする時でも、自分の業績に対して「いやそれほどでも」などと言っていては生き残っていけません。(略)
そんな状況の中で、唯一自己肯定が許されていない分野。それが、肉体です。美人は、自らの美しさに気付いていなければいないほど、その値打ちが高まる。(中略)肉体的に恵まれている人は、 「ぜんぜんそんなこと思ってません」 「嫌いなところだらけです」 と言い続けられなければ、「自分で自分のこときれいだと思ってる」「性格悪い」と言われなくてはならないのです。
女性同士では、少し親しくなっただけでも互いの肉体に関してかなり突っ込んだ話をするものです。その時、“私はあなたともっと親しくなりたいという意志を持っています”というアピールをするのに有効な手段は二つ。すなわち、「相手を誉める」か、「自分をけなす」。
多くの場合、それはコンビネーションで利用されているようです。 「○○さんって、すっごく色が白いですねぇ。いいなぁ、私なんかもうソバカスだらけ」 「えっ、そんなことないわよ。よく見て、ほらここのところなんかシミになりかけてるんだから。あなたの肌の方がずっとキメが細かいわ」 と、互いが一回ずつ相手を誉め、自分をけなす。その見事なキャッチボールぶりはほとんど、 「もうかりまっか」 「ぼちぼちでんな」 というやりとりに近いものがあるのです。 慣例を知らない余所者が、 「もうかりまっか」 という問いに対して、 「お蔭様でガッポガッポ」 などと正直に答えてしまうと、場は白けてしまうものです。同じように女性同士の間でも「○○さんって、すっごく色が白いですねぇ。いいなぁ、私なんかソバカスだらけ」という人に対して、 「そうなの、よく秋田出身ですかとか言われるわ。あら、あなた本当にソバカスがいっぱい。皮膚科に行った方がいいかもよ?」 などと正直に返してしまうと、“わかってねぇ奴だな”ということになってしまう。
もちろん内面において優れた資質を持っている人にも、多くの幸福が訪れます。しかし内面の美点がもたらす幸福というのは、長年にわたって服(の)み続けなくては効き目が出ない漢方薬のように、いかんせん即効性が薄い。外面の美点がもたらす幸福と比較すると派手さに欠けるのと同時に、その幸福の元にあるものが内面の美であるのかどうかも、イマイチ判然としにくいのです。(略)
当の「外面的美点をたくさん持った人」というのは、どのような気持ちで日々を過ごしているのであろうかということには、単純に興味があるのです。おそらく美人達の日常は、非美人には想像もつかないようなものであろうからして、その点については是非、美人の皆さんと腹を割った話をしてみたいとかねてより私は思っている。 「本当に、ブスじゃなくてよかったって、しみじみ思うの……」 「ごもっともごもっとも。私も生まれかわったら一度、美人ってやつになってみたいと思うもの、マジで……」 などという話ができたら、さぞや勉強になろう。 ところがそればかりは、どれほど親しい間柄であろうと、できないのです。たまに女同士のお酒の席で大胆な性格な人が、 「あなた、子供の頃から自分のことを自分でかわいいって思っていたでしょう?」 などと美人に対して絡むことはあるのです。しかし美人はどんなに酔っていようと、 「何言ってるの、そんなこと思ってないわよ」 としか、返さない。その場にいる全員、“嘘つけ……”と心の中で思っているわけですが、それ以上突っ込むわけにも、いかない。 「ゲロッちまえば楽になるぜ……」 とカツ丼を出したいくらいの気分にすらなるのですが。
編集者を目指す者として、ひじょうに参考になる着眼であるとともに、スタンスのとり方(当事者でありながら冷静な観察者<第三者>である)、ユーモアの効かせ方の微妙な加減など、ただただ感服するばかりです。こういう俯瞰的なものの見方をする女性には、あまり会ったことがありません(たまにいらっしゃいますが)。酒井さんはきっと、「地図が読めてしまう女」なのかも、と邪推してしまうわけなのですが。(←マネ)
2004年06月21日(月)
「私もそれ、色違いで二つ買ったんですよ」
2004年06月18日(金)
「腹へったな」 「そういやそうだな」 「もう12時半だし、そろそろメシ食うか」 「そうだな」 「お前、なに食いたい?」 「うーん。何でもいいよ」 「何でもってお前、何かねえのかよ」 「いいよ、お前の食いたいもので」 「そうか? じゃあ、そこのマクドナルド入るか」 「えーーー!! マックぅ〜〜〜?」
2004年06月17日(木)
「ピーコは男子トイレを使う」
2004年06月16日(水)
(数年前の、シーズン中の一日。試合前の甲子園球場にて)
金 「おいイガワぁ、ちょっと来いや」 井 「ああカネさん、なんスか?」 金 「こっちこっち、こっちやねんて」 井 「なんスか、なんスか? 嫌ですねェ、ベンチ裏なんて。なんかヤキ入れられるみたいで」 金 「まあそんなようなもんや」 井 「え?」 金 「いやいや、こっちの話」 井 「怖いなァ」 金 「いやな、じぶん(注:関西弁の二人称の一種)もすっかりエースになったなあ思うてな」 井 「なんスか、急に」 金 「年俸も2億超えたもんなァ」 井 「ええ……、まあ……」 金 「それでや。じぶんもそろそろ実力に見合ったモノを持ったほうがええと思っとんのじゃ、ワシとしても」 井 「モノ、ですか」 金 「せや、ごっつー“上モノ”や。じぶん、コレ、知っとるか?」 井 「ああ、チタンネックレス! 知ってますよ、磁気が出て肩凝りに効くとかっていうやつですよね?」 金 「おお、おお、ヨシャヨシャ。知っとるなら話が早いわ」 井 「そういやカネさん、いつの間にかそれしてましたよね」 金 「せやせや。これがな、じぃーつにええ。肩凝りなんかスーッと消えていくねんて」 井 「へぇー」 金 「それだけやないで。朝がちゃう、朝が。二日酔いなんて『アラ、どこ行ってしもうたのん?』てな感じやし、快便カイベン今夜はホームランや!てな具合や」 井 「ネックレスで快便、ってどうなんスかね」 金 「だまっとけ」 井 「でも使ってるの、カネさんだけなんでしょ?」 金 「何を言うとるのかね、キミは。これだから野球バカは困りますね、まったく。世の中知らなくて」 井 「なんで急に東京弁なんスか」 金 「じぶん、シンジって知っとるか?」 井 「シンジ……、ああ、あのウクレレの」 金 「そうそう、♪ア〜アやんなっちゃった、ア〜アアア、ってドアホ。驚いてどないすんねん。サッカーや、サッカー。オランダのロンドンで活躍しとるやろうが!(注:本当はロッテルダムです)」 井 「はあ。で、そのシンジがどうしたんスか?」 金 「あいつも付けてんねん」 井 「へぇー、そうなんスか」 金 「ワールドカップでつけとった。ワシ見た」 井 「カネさんがサッカー観るんですか」 金 「社会勉強です」 井 「だからなんで東京弁なんスか」 金 「で、どや? 欲しいやろ」 井 「ええーっ!? 要りませんよー」 金 「欲しいやろ」 井 「だから……」 金 「欲しいんやろ?」 井 「……いくらスか?」 金 「ヨシャヨシャ、ちょい近く寄れや」 井 「なんで周り気にしてんスか?」 金 「コレでどや」 井 「え、三本? なーんだ、そんなもんなんだ。もっと吹っかけられるのかと思いましたよ、ビックリしたなーもう」 金 「人聞きの悪いこと言うもんやないで。かわいい後輩のためやないか」 井 「はあ、ありがとうございます、ってなんで俺、お礼してんだろ。ま、わっかりました。ナイターの後に払いますよ、三万円」 金 「ドアホがっ! ボケッ。ツェーマンで買えるわけないやろが! さんびゃくまんじゃ、さんびゃくまん」 井 「えええ゛ーーっっ!? メチャメチャ高くないスか、それ?」 金 「かわいい後輩やから特別価格やで。しかも、今なら二本で五百万」 井 「勘弁してくださいよー、ジャ●ネットじゃないんスから」 金 「さらに! 今ならもれなく、プロが使用した『カネモトモデル』のスパイク付き」 井 「それってカネさんが履きつぶしたゴミじゃないですか〜」 金 「じぶん、年俸いくらやったっけ」 井 「に、におくちょい。『推定』ですけど」 金 「だったらええやないけ。これつけて投げれば、ええ球いくで〜。直球なんか、ビシーーッとインコース決まるで〜」 井 「ウソだ〜」 金 「チタンやからね」 井 「理由になってないし」 金 「買うてくれはりますね」 井 「げっ、今度は下手からですか」 金 「買うてくれはるんですね」 井 「分かりましたよー、買いますよー。でも一本でいいスよ。ったく、ひどいなァ、もう」 金 「まいどおおきに。ほな、黒やるわ」 井 「赤がいいですよー、俺」 金 「赤はワシんじゃ」 井 「色も選べないんですかー、三百万なのに……」 金 「よーしイガワ、準備せい。試合じゃ、試合じゃ〜! やっぱり甲子園は燃えるのー!」
(数週間後の東京遠征中。試合前の神宮球場にて) 金 「イガラシー。どや最近、肩の調子は?」 五 「あ、カネモトさん。ちーす。それがですね、イマイチなんスよ、ここんとこ。今晩あたり、カネさんにホームラン打たれちゃうかも、なんて」 金 「ちょっと来いや」 五 「は? なんですか」 金 「ええからこっち来いや……」
(お断り:この物語はフィクションです。登場するすべての人物名・商品・金額などは実在のものとは一切関係ありません)
2004年06月15日(火)
――2004年6月某日 (工事の音) ガガガガガガガ…… J 「オリンピック開幕まで、残すところ2ヶ月となりました。会場等の建設作業が遅れている模様ですが、このままのペースで本当に間に合うんでしょうか?」 G 「οχι,οχι,φιλοζ (いやいや、友よ)。何が心配だっていうんじゃ? 当日に出来上がっておれば、それでええんじゃろうが?」 J 「はあ、しかしこの建物なんかの状況を見るとですね……」 G 「チッチッチ。お前さんらセレス(古代ギリシャ語で「中国」)の連中は、“四千年の歴史”がまるで自分たちの専売特許のように言っとるが、こっちだって文明発祥から四千年じゃからのう。甘く見てもらっちゃあ困る」 J 「あのう……、中国じゃなくて日本人なんですけど……」 G 「ええんじゃよ、そんなこたあ。どっちだって一緒じゃろうが。よいか、ワシたちはこうしてワシたちのペースで道を作る、コンクリを打つ。昔からこうしてやってきて今の世界の繁栄があるんじゃ。大丈夫じゃ。こちとら四千年じゃからのう、四千年。分かるか? ウッホッホッ」 J (小声で)「あなた方もこだわるんじゃないですか、やっぱり……」 G 「なんじゃ?」 J 「あ、いや、何でも。じゃあ8月にまたお会いしましょう」 G 「うむ。心配するこたあない。ムサカ(ギリシャ料理)でも食べて国に帰るんじゃな。料理だって“四千年”じゃからのう、ウッホッホッ」
――2004年8月29日(大会最終日) (工事の音) ガガガガガガガ…… J 「あ、いた! おじさん。やっぱり全然間に合わなかったじゃないですか!」 G 「ん? おうおう、あの時の中国人か。どうじゃ、素晴らしい大会じゃろう」 J 「ていうか今日はもう最終日で、男子マラソンがスタートしましたから、たった今」 G 「おうおう、そうか。それは何よりじゃ。マラソンはオリンピックの花じゃからのう。ときにお前さん、“マラソン”の語源を知っておるか?」 J 「そんなの子供でも知ってますよ」 G 「そうか。四千年じゃからのう。ウッホッホッ」 J 「笑ってる場合じゃないですよ。謝罪の言葉のひとつでも聞きたいって、みんな思ってますよ。間に合いませんでした、ごめんなさいって」 G 「何を言っておる! 誰が間に合わないと決めたんじゃ。お前さんはマラソンという競技を知らんようじゃな? どんなに速い奴でも、ゴールまであと二時間はあるということじゃ。ウッホッホッ」 (再び工事の音) ガガガガガガガ……
2004年06月14日(月)
スランプってある? 「そんな贅沢なもの、ないよ。スランプがあるってことは、すらすら書ける時があるってことでしょ。そんなことないもの。常にスランプだよ。絞り出して絞り出して、これまで捨ててきたものの中に何かないか、いつも未練がましく探してる。シケモク拾いに雰囲気近いね」
「ドキュメンタリーとドラマの違いって分かる?」 脚本があるかないかってことじゃないの。 「ドキュメンタリーにだって、脚本がないわけじゃないよ。あたしが思うに、ドキュメンタリーは見えるフィクションで、ドラマは見えないフィクションだよ」 見えるフィクションって。 「実在するフィクションとも言えるかな。交通事故があった。目撃者が証言した。目撃者は確かにその場にいたし、実際にその目で事故が起きるところを見た。彼は言う、よくある今ふうの若者の無謀運転だった。だけど、記憶は嘘をつくし、その人の知識や先入観で口にすることは違う。確かに運転手は若かったし、髪を染めていた。だけど、彼がストレスの多い仕事で白髪が目立つので髪を染めていたことや、親が倒れて急いでいたことを知っていたら、その目撃者はそうは言わなかったでしょうね(略)」
「般若の面って、よくできてますよね。感心します。あれとそっくりの顔を、時々女の中に見ること、ありませんか。一瞬の表情、女が共通して隠し持ってる同じ一つの表情をよく捉えてるって思うんです」
みんな、TVドラマとか映画とか観て、こんな奴いないよ、とかこんな台詞言わないよ、って文句言うじゃない。でも、ファミレスとか居酒屋とか行ってごらんよ。普通の人のほうが、よっぽど嘘臭い、TVドラマ臭い台詞言ってるんだよね。みんなの考えてるリアルが、完全に虚構と現実で逆転してるんだよ、今の世の中。
「悲しむのって、エネルギーも技術もいるし、タイミングもあるから。いろいろ考えちゃうと悲しめない」 非難を承知で言うけど、悲しみって、イベントなのよ。きちんとイベントを実行しないと、後を引くわ。でも、実際のところ、きちんと悲しめる人って、少ないの。
最近の、みんなのリセット願望って凄いわよね。雑誌見るとリセットして本当の自分を始めましょうって、大合唱よ。凄いわよね、これまでのことをなかったことにしちゃいましょうっていうのは。 「でも、日本の場合、それって経験があるからでしょ。明治も、戦後も、一夜にして百八十度変わって、今日から変わりますって言われて、ハイッて言って変えたわけだし。で、みんな意外とそれが平気だったりする。前例があるわけだ」 そう。だから、今も、みんな、自分から変えようと思わないけど、外から誰か来て、変えてくれないかなあって思ってる。そうしたら変わってみせるのにって。素敵な人が上に来たら、俺たち、ちゃんとやるよ、潜在能力は凄いよって、思ってるの。
「実は、僕もねえ、リセットされたんですよ」 え? 「まさしく、さっきあなたが言った通り。女房がね、子育ても一段落したから、私は自分の人生をやり直したいって。これまであなたたちに使った時間を取り戻したいんだって」 まあ。(中略) 「あなたは、本当の私を知らない。妻として、子供の母としてとしか見てくれないって。でも、何なんですかね、本当の私ってのは。妻も母も、本当の私じゃなかったんですかね。じゃあ、僕はどうなんです? 彼女と接している僕は本当の僕なんですかねえ。僕にも本当の僕があるとは思わないのかなあ。笑っちゃいますよ」 みんなそうよ。 「みんな?」 みんな、本当の私はこんなんじゃない、私はこんなじゃないって思ってるわ。そして、誰もが皆、素敵な人を待ってるの。本当の私を見つけ出してくれる、本当の素晴らしい私を引き出してくれる、本当の私を理解してくれる素敵な誰かを。 「その素敵な誰かとやらの顔を見てみたいもんですね。さぞかし立派な御仁なんでしょう」 さあね。きっと、誰もその素敵な誰かの顔を見たことないんじゃないかしら。いつまでも彼らは、夢見る瞳でその人を待ち続けるのよ。顔に皺ができても、背中が曲がっても。
あたし、お別れを言いに行くの。 「お別れ?」 そう。長いこと不自然に続いていた関係があってね。今日こそ終わらせようと思ってたの。
あたしは考える時間がいっぱいあったから、考えていたの。どうして神様を必要とするのかって。 「どうしてなの」 あたしね考えたの、それはね、誰かを殺すためよ。 「え?」 そうなの。人間ってね、嫌なことは自分のせいにしたくないの。気分の悪いことや、嫌いなことは、他人のせいにしたがるのよ。人を殺すのって、嫌なことでしょ。だけど、殺さなきゃ困ることとか、殺したほうがその人にとって得することとか、沢山あるわけよ。その時に、神様がいるととても便利なの。神様に命令された、とか神様のために、とか神様の名において、とか言えるでしょ。 人を殺す場合だけじゃない。何かとてもひどいことがあっても、誰かのせいにできないとつらいでしょ。自分のせいだなんて、絶対に思いたくない。誰かのせいだって考えることって、とても気の休まることなんだもの。後悔や反省よりも、人を憎むほうがずっと楽。そういう時に、神様がいるの。あたし、分かったの。人は他人を殺す生き物なの。だから、人を殺しやすくするために神様を作ったのよ。
2004年06月13日(日)
NHKよるドラ『もっと恋セヨ乙女』を、深夜の再放送で観た。
真中瞳が久し振りにカワイイ。佐藤藍子がすっかり「女」になっていてびっくり。ついでに、山口あゆみが艶っぽい。まあ、そんなことはどうでもいい。このドラマは真中演じる主人公が恋をしまくってはフラれる、という話らしいのだが、僕が見た回では、彼女はとある路上詩人の男の子に恋をしていた。
路上詩人というのは、簡単に言えば「ストリート系相田みつを」。道端にござを敷いて、希望者に筆でオリジナルの詩を書いてあげるわけである。もちろんそれは、ほんのりと癒してくれる詩だ。その彼が真中に書いてあげた詩が、こうだった。
「大丈夫 助走が長ければ長いほど きっと高く飛べるから」
なるほど。で、真中はサクッと恋に落ちたわけだ。おいおい、である。『冬ソナ』放送中のNHKとはいえ、あまりにもベタ。透けて見える「癒し」というコンセプト自体が散々使い古されているだけに、ちょっと引いてしまうところもあったが、一方で思い当たることもあった。
「あ。でもこれ、俺が買った本と『同じ』じゃん」
そう、最近何気なく買った本が、言ってみれば「路上詩人」的な内容だったのだ。その本とは、絵本『男のたしなみ』(扶桑社・税込1,200円)。1ページが1枚のカードになっていて、それぞれにオトナが人生を生きていく上での「教訓」のような言葉が記されている。
それぞれの言葉には、イラストが添えられている。「タイツくん」という、頭から全身タイツをすっぽりかぶった“もっこりキャラクター”の2人組(ピエールとジョナサンという名前がついている)が、苦汁に満ちた「オトナ生活」のひとコマを切り取っているのだ。この「タイツくん」というのは、イラストレーター高橋潤の「ちょっと暑苦しい熱血キャラクター」で、『Tarzan』誌上などでも活躍しているので目にした人もいるかもしれない。
とにかくこの「思わず首を縦に二度振ってしまう言葉」と「ペーソス溢れるイラスト」で、一枚一枚笑わずにはいられない。登場するキャラクターたちが微妙にリアルなのもいい。真面目で一生懸命なタイツくんたちを見ていると、思い詰めた気持ち、凝り固まった脳が解き放たれる。そして百二十枚のカードを一気に読み終えたとき、何ともいえない「脱力感」が心地よく全身を包んでくれるのだ(やや大袈裟)。あー笑った。
つまり「心に効く言葉」を求めたという点では、無意識に僕が手にしたものは、件のドラマのなかで真中瞳が求めたものと同じだったわけだ。立場を変えて考えれば、作り手はまだ「癒し」でいけると踏んでいるということ。
言葉自体は聞き飽きても、「癒しニーズ」はまだまだ続きそうである。
まかせると 言ったからには まかせなさい。
やらせないなら タダめしは2回まで。一万円まで。
死ぬまで がんばるな。
2�厠イ譴董/討魄Δ后�
カネのないとき 伴侶を探せ。
「釣りはいらない」は 500円以上で。
手放すのは惜しいが、持っててもつまらない。
売り惜しんで 期限切れ。
恋のはじまりは 多少不自然でもよい。
時どき人生を 語ってもよい ことにする。
演技も マナーである。
騒ぐ奴 辞めない。
高橋潤・松岡宏行『男のたしなみ』(扶桑社刊)より抜粋。タイツくんのウェブサイトはこちら。
2004年06月12日(土)
「ライバル心は、ある。そう発言するのが恥ずかしいとも思わない。だって、いい仕事、いい演技をしてる誰かを見ると、ほんとに悔しいんだもん」
成宮寛貴(なりみや・ひろき) 俳優、21歳。TBS系ドラマ『オレンジデイズ』出演中。 |
(朝日新聞6月5日付朝刊より。同世代で実力をつけている俳優が多いことを受けて)
2004年06月05日(土)
|