月の輪通信 日々の想い
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熱がでた。 先週の金曜日のこと。 一晩、寝たら下がるだろうと、グダグダゴロゴロしていたら、結局三日三晩、39度の熱の海を漂っていた。 夏風邪だそうである。 膀胱炎でも腎盂炎でも新型インフルエンザでもなかったらしい。
講習や部活で外出の多いアユコやゲンに替わって、アプコが実によく働いてくれた。 学校のサマースクールやプール通いの合間に、洗濯物を干し、みんなのお昼ご飯を用意し、米を研ぎ、皿を洗った。 ドロドロと眠ってばかりの母のところへやってきては、「お水、いる?」「アイス、食べる?」と、世話を焼く。 買い物に行けば、「あっちのお店の方が安かった。」としっかり値段もチェック。 これまで一人では取ったことのない外からの電話にも、きちんと応対できた。 挙句の果てには、疲れて帰ってきた父さんの靴下を脱がして洗濯機に入れる徹底した主婦ぶり。 天晴れであった。
いつまでたっても「末っ子姫」と呼ばれ、しっかり者のアユコの補佐役という居心地のいい役割に甘んじてきたアプコ。 いつの間にか一人前に、母の不在を補うことが出来るようになっていた。 子どもの成長というのは、思いがけなく速い。 有難い事だなぁと思う。
さて、 「自然治癒力」というものを盲目的に信奉している私は、少々発熱したくらいでは、なかなか医者にかからない。 寝て、寝て、寝倒して、次に目覚めればきっと熱は下がっているはずと、悶々と熱と闘う。 心優しい父さんは、そんな私の強情を知っているから、「医者、行ったほうがいいよ。」と何度も言うものの、強引に私を医者に連れて行くことは出来ないでいる。 子ども達ももちろん、心配はしているものの、しゃあないなあと頑固な病人を呆れて見守る。 実家の父母には、「アンタもエエ歳なんやし、ちゃん診てもらわなあかんで」と叱られた。それでも、愚かモンの娘は「ま、熱も下がったことだし、今度はちゃんと診て貰うかも・・・」と、あいまいに頭を掻く。 たまに寝込むことがあっても、数年に一度。 大きな怪我も持病もなく、頑強な体。 そんな風にして、私は40ン年、この肉体と付き合ってきた。
今回の母の霍乱の知らせを聞いて、京都のオニイが二晩続きで電話をかけてきたらしい。 こちらからのメールの返事すら気まぐれにしか帰ってこないオニイにしては殊勝なこと。 熱の下がった朝に「今朝からほぼ復活。ご心配かけました。」と短いメールを打ったら、こんな返事が返ってきた。
「調子悪くなったらすぐ病院行ってくれ みんな心配しとる 余り肝冷やさせんといて欲しい」
お、怒られてもうた! オニイに! 息子に!
ちょっとビックリして、 ちょっと嬉しかった。
多分、将来、私が年をとって、強情で頑固ないじわるばあさんになったとき、 「こら、たまには若いモンの言うことに従え」 と、私を叱ることが出来るのは、心優しい父さんではなく、ぶっきらぼうで理屈屋のオニイなんだろうなぁと思う。 多分、アイツに怒られるのが、年老いた私には一番こたえるに違いない。 悔しいけれど、そんな気がする。
最終的には、オニイに叱られたからというわけではなく、近所の医者にかかった。 その診断の結果が、心配していた膀胱炎でも腎盂炎でもなく、ましてや新型インフルエンザでもなく、ただの夏風邪だったいう、なんの面白いオチもない結末。 「ほら、みてみ、なんともなかったやん。」 と、得意気に「自然治癒力」を鼻先にぶら下げて、快復をアピールする愚か者が一名。
馬鹿も風邪を引くらしい。
暑い日が続く。 仙台での展示会の搬入日が近い。 相変わらず、窯も乾燥機もフル回転。 工房は、仕事場だけでなく、荷造り場も階段も窯の熱気を含んで、ジワジワと熱い。 年寄り達の居室とPCのある事務所とお客様を迎える玄関の展示室は、クーラーで強制冷却。 あちこちパタパタと移動しながら仕事をしていると、だんだん体が温度変化に追いつかなくなってくる。 おまけに昨夜、自宅の押入れで面倒な探し物をしたものだから、例によって埃のアレルギーが出て朝から鼻水くしゃみが留まらない。 どうにも冴えない1日。 それでも、怒涛のように荷造り仕事。 嗚呼!
面倒な探し物というのは、他でもない。 アユコとアプコ、二人分の浴衣。 今夜、父さんが二人を京都の祇園祭に連れて行くという。 去年特訓して、一人で浴衣が着られるようになったアユコと、兵児帯ではない「オトナの結び帯」が嬉しくてたまらないアプコ。 二人分の浴衣にアイロンを当て、小物類揃えて、夕刻を待つ。
毎年毎年、忙しくて、「どうしようかなぁ」と首をひねりながらも、必ず祇園祭に出かけていく父さん。 去年まではアユコ一人だったが、今年はアプコも京都デビュー。 両手に花の賑わいだ。 「仕事を兼ねて」とは言いながら、きりりと浴衣を着付けた娘らを連れて、京都の夜をそぞろ歩く事が、嬉しいのに違いない。 仕事のときとは違う、明らかに緩んだ笑顔の父さんが嬉しい。 「はいはい、せいぜい楽しんでいらっしゃい。」 ワクワクドキドキの娘らとともに、軽自動車に詰め込んで、駅へと向かう。
アユコ、この17日で17歳。 花開くように娘らしくなり、大人びた物言いが多くなった。 あと何年、父さんと行く祇園祭を「嬉しい」といってくれるのだろう。 「今年はちょっと」と別の男性のエスコートで出かけていくようになるのは、いつなんだろう。 カラコロとなれぬ下駄の音を気にしながら、小走りに父さんの背を追う姿はまだまだ少女の初々しさ。 もう少し、時間はあると、思いたい。
父さんの個展4日目。 アプコ、ゲンを連れて会場へ。 お昼をはさんで、父さんの級友や陶芸教室の生徒さんたち、長年お付き合いの常連さんなど、たくさんのお客様が入れ替わり立ち代りおいでくださった。
「あれもこれも作りたいのに、時間が足りない!」 「間に合わない!」 「もう、あかん。」 制限時間ギリギリまで、焦ったり呻いたりしていた父さん。 結果的には、個展会場の展示スペースが足りなくなるほど沢山の点数の作品を作り上げたというのに、それでもまだ 「あんなものを作って置けばよかった。」 「あれが仕上がってたらよかったのに」 と不満そうに呻く。 大きな個展のたび、毎度毎度のことだけれど、この人は自分の成し遂げた仕事に対して「満足」ということを知らない。 「まだまだ、次の個展もあるんだから・・・。今、100%出し切っちゃったら、次に続かないよ。」 と何度慰めても、父さんは不満そうに首をひねる。 この「飽くなき探究心」がこの人の最大の力なのだと私は思う。
十分に会場を見て回って、お留守番のアユコにお土産を買って帰ろうと地下の食料品売り場へ降りたところで、携帯電話のベルが鳴った。 オニイが会場へやってきたという。慌てて買い物を済ませて画廊へ戻る。 画廊には、オニイのひょろりとした姿。アプコが嬉しそうに久しぶりに会うオニイに擦り寄っていく。 「忙しかったら、来れなくてもいいよ。」といいながら、案内状だけは渡しておいたのだが、都合をつけて出て来てくれたのだろう。 何日か前、オニイは何かちょっと気掛かりな電話をかけてきていて、心配していたので、顔を見られて嬉しい。
オニイはその前の帰省の折にも、珍しく父さんご指名でなにやら夜遅くまで話し込んで帰っていった。何か思い悩み始めていることがあるようだ。 一人暮らしをはじめて数ヶ月。 衣食住の慌しさに慣れ、生活そのものがある程度落ち着いて、学校で学んでいることや将来の仕事について、ようやく想う余裕が出てきたということか。 それでもまあ、とりあえず、見る限りでは元気そうだ。 よかった。
会場には、ちょうど私の大学時代の友人Yさんが同僚のお友だちを誘って訪ねてきてくれたところだった。Yさんとは数年前、やはり父さんの個展の会場で慌しくお会いして以来の久々の再会だ。展示してある作品を一点一点丁寧に見て、感じたことなど率直に話してくださる。 有難いこと。
話の途中に、学生時代読んでいた本の話や共通の友人の近況などを交えて楽しい時間を過ごした。ン十年の時の隔たりを越えて、若いひよっ子だった頃の気分がよみがえってくる。 思えば、私がYさんと出会ったのは、ちょうど今のオニイの年頃。学科は違ったが、サークル活動や趣味のお寺めぐりなどを一緒に楽しんでいた。楽しい学生生活だった。
その頃の私は、将来の進路について一応の希望は抱いてはいたものの、具体的な未来を思い描くことが出来ないでいた。 果たして自分がどんな道を歩んでいくのか。 いったい何が成せるのか。 どんな人とともに、家庭を築いていくのか。 「先が見えない」ということの不安にいつも苛立っていたような気がする。
今思えば、先の見えない真っ白な未来があるということは、青春時代のもっとも贅沢な特権だったはずなのに、何故あんなに不安になったり苛立ったりしていたのだろう。 一生の仕事を持ち、家庭を育み、当たり前の人生をがっちり築いているように見える「オトナ」達の「安定」を、何故あんなに羨んだりしていたのだろう。 毎日、自分のことだけ考えて生きていて許されていたのに、何がそんなに苦しく重かったのだろう。
40台半ばの「オトナ」になってしまったおばさんには、あの日の不安、あの日の苛立ちの意味は、もう判らない。 かといって、自分の仕事を持ち、子ども達を産み育て、人生の後半戦を生き始めた現在を「安定」とも思えない。 抱えていくもの、担がなければならないものは増えたけれど、やっぱりそれほど「先」が見えたわけじゃない。 あの頃に比べて、少しお利巧にになったことはといえば、 「先はみえなくてもいい」 「先はみえないからいい」 と思うことが出来るようになったことくらいか。
帰り際、父さんのいないところでオニイがそっとささやいた。 「かあさん、あの作品、どうなったん?」 オニイは私の先日の日記を読んで、焼成中に破損した父さんの作品のことを気にかけていたらしい。 「どうもならへんよ。窯場の隅に置いてある。」 「ふうん、そっか。」
思えば、家にいる頃、オニイは父さんの仕事について訊くことはあっても、作品そのものの出来についてはほとんど尋ねたことはなかった。 陶芸の学校に進んで、自分の手で土を捏ね、物作りを学ぶようになってはじめて、作家としての父さんの仕事に関心を持ち始めたということなのだろうか。
失敗しても、呻きながら立ち直り、再び作り始める。。 作っても作っても、「まだ足りない」と首をひねり、新しい土に向かう。 そんな父の背中。 オニイ、よく、見て置いてな。 それはきっと、いつか君の力になるはず。
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