世界お遍路 千夜一夜旅日記

2002年06月30日(日) 今日は、これできめ!!

捜し物をししていたら、わたしの大好きな田村隆一さんの本をついぱらぱらしてしまった。
昔読んだ本。「田村隆一 ぼくの人生案内」
この本は、「夢っていうのは、痛みの代償なんだ」というハラ帯の言葉に惹かれて買った。
久しぶりに手にして、今のわたしにとても響く言葉を見つけてしまった。

「旅というのは、未知なものとの交流であって、人、小動物、野草、雑木、海の色の変化、つまり、旅することは、肉眼を養うことなんだ」

そ・の・とおり!!!だああ。

肉眼を養う、のとこが字がでっかい。濃い。いいねえ。

ヤッパ、詩人はすごい。

もう一つ、おまけ 「悩むにも パワーがいるんだよ」
わたし、おもわず、うんうんうん と首振り人形になってしもうた。
ホント、まっこと、詩人はすごか。

田村氏が亡くなったとき、わたし悲しかったもんなあ。
学生時代、彼の詩しか読まないときがあったもんなあ。

この人なんかも時代が生んだダンディだから、後にも先にもなし、だわなあ。

と「なあ」あたりで韻を踏んでいるわたしである。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日もすっきりしないお天気。
3日からのお遍路、まだ梅雨明けしないからやられそうだ、雨に。
しのじんさんのホームページで、しゃちとクラゲののアイコンで遊ばせていただいた。こういうの、楽しい。
クレーテさんが、可愛いクラゲアイコンをつくって下さるらしい。うれしか。

それにしても明日からもう7月?!
あっちゃ~、とジャッキーチェンのような悲鳴を上げてしまうわたしであった。
サッカーで盛り上がっている声がご近所から聞こえる。
TVつけなくちゃ。



2002年06月29日(土) 古新聞に見つけたボケ防止術

むか~しむかし、切り取ったりスクラップしておいた新聞や雑誌の記事を整理した。
その中に「脳から老化を止める」というタイトルの本の広告があった。

んん?
「脳から老化を・・って日本語が変じゃない? 脳の老化を止める・・じゃないふつうはさあ」みたいな感じで眺めていたら、その下に挙がっていた小見出しはタイトルのムムム?とは別に「そうかも」と思わせるものであった。
いわく
 *筋力を鍛える(○・・ただ、家にいると500歩くらいの時あるよなあ)
 *粗食をやめる(○・・粗食ってどんなん・・ふつうに食べているけどねえ)
 *異性の友達を持つ(?・・どんなスタンスの異性の友達なのか、判断が困難)
 *片足で立つ練習をする(×・・するよ、今晩から)
 *日記をつける(◎・・これ、続いているものねえ)
 *芸術に触れる(◎・・文句なし)
 
カッコの中に自己評価をしてみた。

我が父は、パーキンソンで、アルツハイマーが入っている。
父方祖母も、亡くなる前は恍惚系となった。
母方は、そうでもないが、父方遺伝子は「ぼける」系統なのだ。
ボケちまえばっこちのものというご意見もあるが、でも、恐い、困る、この先どうする、なんだよね。
心して、上の項目に○がつくようにしたい!!

「年を取っての話の種は昔した旅の思い出」、というようなことわざがあるはずだ。(アタクシが自己都合に合わせてつくったんじゃなくて)
まあ、沢山思い出つくって、ききたくないよという若いモンに、いやみっちく伝説的な思い出話をするばあさんになってやろう。
こういう浅ましげな目的も、ボケ防止に役立つよねえ、うん、そうよ。
なあんて、独りゴチている土曜の昼下がりでありました。

・・目下の自慢話・・・・
*昔(20年以上)アタシが登ったピサの斜塔・・今は登れない。
*「地球の歩き方 中国」が出る前に中国の独り旅をした。(もちろん中国語まったくわからず)

これに「サウジに行った」というのがつけば・・ねなんて思うのだ。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
パッとしない天気だ。
松山のHサンからのメールに出石寺に行ってアジサイを見たと書いてあった。
お誘い電話もあんまりならないし、メールはともかくとして、郵便お便りもあんまり来ない。なんか、沈滞している感じだ。
仕事をしろ、ってことなんだろねえ。
今日は下のゴミ収集場所の工事、終日うるさい。

昨日、ネット検索で調べものをしていたら、何と某小学生新聞に2000年に連載していた「世界一周できるかな紀行」の私の原稿や写真がヒットした。
ええ、と、びっくり。
「事前許可を求める知らせ」はなかったよ。
時効だから書くが、連載時も不愉快な思いをして、今度はこれ、だ。
著作権は私にある。形式的でも許可は取るべきだよ。
印象的にいうと、上記某新聞社、この辺が荒っぽい。
外ヅラ的には、民主、教育、みたいな立派なことをウリにしているはずなんですが・・・ねえ。
マジ、不愉快だった。
もちろん、沢山の子どもの目に触れるのは、とても嬉しいんですけど・・。



2002年06月28日(金) 夾竹桃の花言葉は・・・キ・ケ・ン

地域に配布されるフリーペーパーを読んでいたら、夾竹桃(キョウチクトウ)のことが出ていた。何と花言葉は「注意」と「「危険」だとか。
あの夏になると、エネルッギュに咲く花に毒があるとは知っていたが、
あのアレクサンダー大王が頓死したのは、夾竹桃の大枝に刺して焼いた肉を喰ったため、と読んだことがあったが・・そりゃ、あんまりな・・である。

大昔、公害地域として名をはせていた川崎市の南部に勤めていた。白い洋服の襟が一日で黒ずんだ。鼻の穴が黒くなる、鼻くそも真っ黒(ホントに)、肌の色が黒ずむ。という感じで、気管支の弱いアタクシめはしょっちゅう風邪を引いたり、ぜん息様の咳をしていた。
そんなとき、夏空に向かって、燃えあがらんばかりにあの空気の悪いところで咲き誇っていたのがキョウチクトウ様。電車の沿線、道路際・・とにかくどこにもあった。どこでも咲き誇る花だった。いつも身体の調子が悪かった私に、あの色がまぶしくて、エネルギッシュな花にもう嫉妬さえ感じていたものだった。
 (私が元気者になったのは、30代以降・・守護霊が変わった(?_?))

いわば、青春の花なので、「危険」とか書かれると悲しいんだよな。
花言葉、「悪女」とか「ジゴロ」とか、いうのダメ?気をつけないと危ないかもだけど・・いつもじゃない・・だって、悪女、ジゴロの人が24時間ぶっとおしで悪いと私、思わないもん・・の心なんですがね。
 ン~ン、ヤッパ、パッとしないか。
あ、ひとつ、いいことが書いてあった。
原爆投下後75年は草木が生えないといわれていた広島の町にいち早く根付き花を咲かせたのがこの夾竹桃。(よしよし)広島市の花だという。(おおお)
そして、「ヒロシマの会」の人たちがアメリカのテロ現場に復興の気持ちをこめて夾竹桃をおくったんだとか。
(あまのじゃくmohejiの独り言・・・こめられた気持ちはよーく分かる・・しかしだなあ・・ニヒリストのUSシティズンがいたらどう思うであろうか・・・モスレムの国で、日本はアメリカに原爆でやられたのにどうして子分のように従うんだ?とよく訊かれたよなあ)

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

透明な空気、短い夏に咲きほこる可愛い花・・というと、私のアタマにはもう、グリーンランドで見たベルフラワーしかない。
紫色の、小さなベルの形をした花が、つかぬ間の夏に谷をおおいつくしていっせいに咲く。
それは美しい眺めだった。
そんな景色の中で、私にすれば、手がキレそうな水をたたえた湖・・(何しろ雪解けの水)で子どもたちは泳いでいた。
いい顔をして、人なつこかった。
日本人と同じ顔をしたイヌイットの子たちなので不思議な気がした。

一緒に花を見に行って仲良くなったデンマーク人夫婦(奥さんタイ人)とイヌイットのおじさんに夕食に招待された。
(しかし、私は3食付きのツアーでもうしこんであったし、やっぱり仲良くなったドイツ人家族とその晩は同じテーブルで夕食しようと言われていたし、失礼した・・それと・・何が出てくるか少し恐い気がしてもいたので。そう、あのグリーンランド旅行、なぜか私、人気者だった。日本人一人旅だったせいか?)

次の日の朝、タイ人の奥さんが私のテーブルに飛んできて「あなたは来なくてよかった、海からがあげてきたアザラシを目の前で切り裂いて、その肉を食べようというパーティーだった、私はもちろん食べられなかった、うちの夫も食べなかった」
ドヒャー!!
でも、イヌイットの人にすればそれが一番のごちそうなんだよね。
ちなみにアザラシはしばらく(約2週間)海に置いておいたのがうまいらしい。
そんな思い出と一緒になつかしい、ベルフラワーなのであった。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
久しぶりに雨が落ちてこない。
洗濯。
おきまりのお昼寝で、父母が私の部屋に来た夢をみた。
帰る連絡、せんとなあ。

仕事も少しだけ形になってきた。
窓を開けておいたら、お隣りの庭にあるクチナシが盛り。すごく香ってくる。
もうそれはすごい。

ということで今日は、優雅に「花尽くしの日記」でありました。



2002年06月27日(木) 芸の力・・越路太夫さんの思い出

寒い。
どうしてだ?と思っていたら、しのじんさんによれば「ヤマセ」なんだそうです。
ヤマセ マミじゃない。(あの子、賢いから私は好きだけど)
ヤマセって、東北なんかで凶作をもたらす北風のこと、だよね。
しかし、この雨で洗濯もできないのは困るよねえ。

 ★・・・・・・・・・・・・・・・・・・★

文楽の名キリバ語りだった越路太夫さんが亡くなった。享年89歳。
越路太夫さんの引退公演のことを思い出す。
もう十年以上前になる。まだ、声の色つやは盛りといってもいい頃の引退で、いろいろといわれていたが、引退公演はすごかった。
国立劇場、満員御礼。チケットが取れなくて、亡き大伯母から譲ってもらっていった記憶がある。
演目は菅原伝授手習い鑑の「桜丸切腹の段」
桜丸は吉田簑助さん、父親は吉田玉男さん、語りは越路太夫さん、三味線はこれも今は亡き燕三さん、典雅としかいいようのない美しい音色の三味線にのって(あんな音を出せる人は今後出てこない・・と思う)、切々と息子桜丸を切腹させる父の情が語られる・・・泣いた。泣けた・・あのとき満員の国立劇場の小劇場のあちこちから、すすり泣きがきこえた。
忘れられない。
簑助さんファンなので、いつもは簑助さんによって命を吹き込まれる人形に集中する私なのだが、あの時は語りが勝っていた。
今思えば、すごい舞台、文楽の歴史的1シーンに遭遇していたのだと思う。

手元に、NHK制作のテープ、桜丸切腹の段がある。今夜は聞いてみよう、久しぶりに。



2002年06月26日(水) 雨の有楽町まで

久しぶりに、都心。
UAのカウンターにエアチケットの発券に。
一応予定通りに取れた。

7/26日夕方成田発便~同日サンフランシスコのりかえでアンカレジ着夜9時(といっても白夜でまだ明るいだろうが)
8/4日夕方アンカレジ発(ナイトフライト)~5日朝トロント着
8/10日トロント夕方発~同日朝ウィーン着
8/17日夕方ウィーン発~同日夜アムステルダム着

多分、アムスに10日くらい。

帰国は、その後フランクフルトまたがコペン、またはストックホルムあたりに飛んで、そこから、バルト3国のどこかの国へ入り10日ほど旅をして帰る。
なぜバルトに行きたいのかといえば、凍れる中世、みたいだから。
それから、このごろ、ビザがいらなくなって入りやすくなったから。 
なんといっても、アイスランドのアークレイリで会った子が、ラトビアからの子で、すごく素朴でいい子だった、ということに尽きるだろう。彼女の話だと、今年はラトビアはお祭り年で、7月がいい、いう話だったが、残念ながら8月終わり、お祭りは終了しているだろう。しかたないね。
この件のチケットについて、アムスのクリエイテイブツアーにコンタクトを取らないといけない。

はじめ、モロッコの予定だったんだけど、8月のモロッコなんて、日干し煉瓦になりそう・・ということで延期。
これだけモスレムが好きなのに今回、1ヶ国もないのがくやしい。さびしい。
いっそ、トルコはイスタンブル回りとも考えたのだが、バルトはやはり、夏の時期でないとサブイ、ということで・・。

帰国は、9月第一週おわり?かな。

この日記サイトのリアルタイムアップのために、ノートPC(ソニーのバイオのあのちっこいヤツが欲しい)を買おうかとさんざん迷った。でも、、高いよな。
このところ、預金通帳の数字がグツンブツンと減るので(遊びほうけているのであたり前ですが)やっぱり・・何で、それだけのために・・、昔は紙のノートに書いていたじゃないか。
コーヒーがこぼれていたり、バターの脂がついていたりで、それがいいじゃないか・・文字をのぞき込んで日本語に興味を持った人と仲良くなることもあったじゃないか・・日本語で自分の名前を書いてくれといわれて北欧を旅しているときは何回か書いたよな・・・で、まあ、やめた。
なにより、おばさんバックパッカーとしては、なくして困るもの、盗られて困るものは持たぬという初期の信条を守ろうということ。中国を旅するときは現地とけ込もうと、洋服までそれらしく、化繊の安っちいのを調達したじゃないか・・これは、まあ、あの悪名高かった外国人料金をチョロまかすためですが。
とにかく、荷物は少ない方がいい。

だから、このサイト、海外に行く7月末から9月始め、お休みします。
ただ、アムステルダムに行ったら、友人宅のPCからメモを元にアップするでしょう、多分?

アラスカは、何でも高い。
ほんとは、マニアックに鯨を追求したかったんだけど、それは次回?(マジに高すぎ)にして当たり前の旅にすることにした。
トロント、さしてカナダには興味のない私がどうして、昨年ここをルートに入れたのか自分ながらワカランかった(忘れた)のだが、要するに、アムスのテクラブ氏(友人ミエコの夫)から、ナイアガラフォール、いいよ、と聞いたからなんだよな、多分。そんで、できたら、北の海のカナダ鯨・・。そういうことだったんだと思う。トロントは、ものすごく治安のいい町らしい。
ウィーンは、いろいろとお楽しみがありそうで退屈しないよ。ザルツブルグ、行くだけはいってみようかと・・・音楽祭を覗きに、さ。

だんだんと、旅のテーマが見えてきたよ。

エア・チケットをゲットした後、神楽坂でやっている古い友人の個展へ。
繊細なエッチング・・なかなかよかった。
彼女は夕方にならないと来ないという。
まあ、電話しないで行ったんだし、ね。
ロクゃんに頼んで、秋になったら、飲み会?といつもいいつつ、会えないこの頃の私たち。彼も、やるぞやるぞ、というだけで・・なあ。狼少年と化している。(いや、彼も立派な中年だ、今や)
前回会ったのは、八木先生のお葬式の時だったぞ。
先日のお通夜でも旧同僚ににいろいろと会ったが、弔問外交っていうのわかるね。
(えらそう過ぎたか (^^;))

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

よく降る。寒い。
カタツムリが、どっかの木陰で、にんまりだろうな。
何年か前、今頃、「もへじ」の子どもたちといった皇居のお庭で「やんごとないカタツムリ」を拾ってきて飼育していたことがあった。
静かな部屋で、あのコ達を水槽に入れておくと、カラが水槽にぶつかってガチガチいったり、2匹がすれ違うときというか、ニアミスすると、やっぱりかなり激しく音を立てて、このコ達、なかなか騒々しいぞと思ったもんだ。

帰宅後、のどが渇いて(一滴も水を飲んでいない)何とおやつ缶ビールをしてしまった。
そして、おきまりのお昼寝。
ああ・・・原稿が・・できていない、進んでないのに・・・。
 



2002年06月25日(火) そりゃないよ・・エジプト

ヒマ(決してヒマじゃないのだがまかせて)ナイルストーリーさんのHPを見ていたら

妻の職業がベリーダンサーであることに不満の旦那が、彼女のライセンス剥奪を求めて裁判をおこした。判決、「イスラム法では神に対して冒涜しない内容である限り、妻は旦那の気持ちを尊重し、従うべきである」として旦那の要求が認められた。(ベリーダンサーを職業として働くものは、政府からの許可証が必要なんだとか)

★あれまあ、そりゃないよ、モスレムマインド。
いいじゃないか・・と思うんですけどね。 
日の元の国にあるという「援助交際」とか、「お主婦さま売春」の話をきいた  ら、このエジプト男はどない思うかしらん?

古代エジプトの出産用の椅子、が遺跡から発見されたんだとか。
大きさは14X17センチで泥レンガ製。(小さいねえ・・と独り言 )上部は使用のためか一部破損。
側面にはお産のときに妊婦の助けをすると信じられていた女神の絵がかかれて
いる。古代エジプトでは、お産のときは真中に穴のあいた専用の腰掛を利用した座りお産」というのが普通であったようで、神殿の壁にも両腕を女神に支えられてしゃがんでお産する女性を描いたものがある。

 ★フーン。

以上、一部またしても勝手にナイルストーリーさんから頂いてきました。
でも、ほんと、エジプト、おもしろいよな・・なんて思うのって私だけ?

 ★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★

旅のスケジュウルをたてながらあちこちに電話。ネット検索。
アラスカに行くんだったら、早くエアチケットの予約をいれた方いいと、アラスカ専門の旅行社の女性に忠告された。
明日、しようと思う。
彼女、お金にならないのに、グレイシア・ベイの船旅情報(高い!!何と3泊1500ドルだって・・ちょっと・・だね、このお値段)を調べてくれた。
後ほど、といって電話を切ってからのアンサーも早かった。
ロシアの旅でお世話になったユーラスツアーズ、ナイルストーリー、私が利用していいと思うところの担当は、回答が早く気が利いて、的確なのは女性だ。
男はダメ。小回りは利かない。回答が遅い。えらそう。
ロシア旅行社なんて、最悪だった。見積りしますとかいって、ついにアンサー来なかったモンな。殿様商売だから、馬鹿くさくて個人なんて相手にしてられん、というのが見え見えだった。
エジプト独りツアーの時、ナイルストーリーと一緒にコンタクトをとった「道祖神」とかいうアジア、アフリカ専門エージェンシーは、旅慣れておられるようだし自由旅行で大丈夫でしょう、というメールがきたもん。そらないでしょ。だったら、エージェンシーとして名を連らねるなっつーの。
どっちも男。ダメだね。

とにかくやりたいこと、見たいとこなど見込みつけないと・・。でも、アラスカでは漠然とクジラが見たい、トロントって何があるの・・ナイアガラみたい(ネットで)、ウィーンはいいけど、ザルツブルルグ音楽祭のチケットの販売は3月で締め切りみたい、残念!!(ネットで)とか、いろいろと見えてきたけど・・・
帰国の前にバルト3国にいきたいし・・とか。
さてどうするんだか。 
これが楽しいんだけど、大変でもあるのだわ。

とにかくとりあえず予定組んで、明日はUAのオフィス、行くぞ。



2002年06月24日(月) お通夜へ

昨夜遅く、昔の同僚から、やっぱり昔の同僚「カトーサン」が亡くなったと電話が来た。
確か、まだ50代半ば?後半? ショック×4
私が新米先生のとき、中堅で転任してきた人。いろいろと教えてもらった方だ。

今朝になって、そのモト勤務校の校長先生からもお電話をもらった。
電話の主はこれまたすごくお世話になったユーコ先生。
いろいろとお話を聞くと、なんと先週学校で倒れて、そのまま逝かれたらしい。
これもショック。
彼女は細くて、楚々として、脳溢血の体型じゃなかったのに・・・
倒れるまでさぞいろいろと不調があっただろうに、職場で昏倒するまでなぜがんばったのか。
つかれて冷房の下で眠ったまま逝かれた男性の先生。(彼はまだ40代後半だった・・)
癌を隠して(多分)仕事をし、家で倒れて、数日後になくなったやり手女性指導主事(50代になったばかり)
こういう「戦死」みたいな死に方が学校現場に増えたように思う。

のらくら好きなこと(仕事も含めて)しかしない私にはいう資格ないかもしれんが、命が尽きるまで仕事しないでよ・・・。
ため息しかでない。

夕方はお通夜に行く・・・・。
こういうの、きつい、つらいよな。

私が教師になった頃、学校はそれなりに変わりつつあったし、窮屈になりつつあったけど、今から思えば牧歌的であったかと思う。
夕方は職員室の後ろで「ビアレストラン」が開いていたし、子どもも、のんびりしていた。
正月、川崎大師でかんだガムを棒の先につけてお賽銭釣っていてご用。それで、さんざん叱った子どものことなんか、今思えば笑う。

またしても、大きなため息が出る。

今は大人も子どもも、ピント張りつめたゴムヒモみたい。もう少し引っぱると疲労でブチンと切れる・・・パンツのゴムはゆるい方が楽なのに・・そういうゆとりはもはやない。
旅から帰ると、この国の治安のよさに感謝はするが、すぐに息苦しくなる。
夜行バスなんかに乗ると、そのしらんとした空気とそれぞれの閉じた魂が冷たくて。
中国やトルコの、人と人が否応なく関わらなければならないかの国のバスがなつかしくなる。

さ、もうお通夜に出かけないと・・・



2002年06月23日(日) オキナワ

この頃カタカナの「オキナワ」という文字をめっきり見なくなった。
「戦後」も遠くなりにけり・・なのか・・

夕方のTVで、沖縄の慰霊の日の様子をやっていた。
稲嶺さんがしゃべり、小泉クンがしゃべり、でも、あのひめゆり部隊自決の地となった野戦病院(要するにガマ・・鍾乳洞)で小学生(中学生かも)が涙流しながら、「戦争はしてはいけない、なくさないといけない」の画像の方が、力あったよ。
私もあそこで、ひめゆり部隊の生きのこりの方からお話を聞いて涙が湧いたから、わかる。
それとあの場で、「天皇には戦争責任はあったよ」と自然に思えた。
この洞窟で沢山の若い人を自決させたのは、彼のせいだ、と理屈ではなく感じた。
もし、地獄というものがあるのなら、昭和天皇は間違いなく今「地獄の責め苦」を受けておられるだろう。あの方は、そんなご覚悟もあったんじゃないか、とも思うが・・・。

ところで、アメリカ軍の最初の上陸地がどこか知っている人は少ない。
沖縄本島ではない。
座間味島だ。
私が初めてザトウクジラを見て、はまった記念すべき島。
その港近くにひっそりと「アメリカ軍上陸地」という記念碑がある。
クジラを見た感動もさることながら、島のオバアに聞いた話も忘れられない。
島には沢山の「拝所」があった。
ある日のこと、その拝み場所でノロさんに拝みをしてもらうオバア3人について回った。島の一番古い拝所についたとき。
一人のオバアが話しだした。
アメリカ軍が上陸する前夜、島民がここに集まり、花火のように落ちる焼夷弾を見たこと、お父さんが自分や母親の首を鎌で切り裂き自決したこと。父親も家族の首を切ったあとに自分で死のうとしたが死にきれずにほかの島民に殺してもらったこと。自分は死んだふりをして3日間死体の中に埋もれて助かったこと・・。73歳(1999年当時)のおばあは泣きながら、語った。
そして、首の傷を見せられた。シワだった首に、がりがりと引きつれた傷痕・・私も涙がにじんだ。
なんであの時、唐突にオバアが話し出したのかわからない。
本土から、鯨を見に来た観光客である私。
船が出るまでの時間、好奇心でオバア達の拝所回りの荷物持ちをしながらついてまわっていただけなのに・・。
こんなこととをなはしたの初めてだ、つらくて話せなかった・・といわれた時には
私、言葉がなかった。機会があったら、聞いた話をしようと心に決めた。

本島でも、セイファウタキに行くバスで、強姦されそうになっている女の子を助けたくても助けられない・・そんな時代があった・・今も似たようなもんだが・・・みたいな話を運転手さんから聞かされた。
タクシーの運転手も言った。「本土からのお客さんには、米軍や戦争の話をするようにしている」と。
オバアも無意識にそんな気持ちだったのか・・・
平和、というとまずあのオバアの話が浮かぶ。

 ★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★

北条、鎌大師の妙絹尼が、老人ホームに行かれるかも知れない、という書き込みを
今朝、Drミッチーの掲示板で見た。
ショック・・・・

アラウンド・ザ・ワールドチケットのことで、ANA、UAと電話。
UAのHPは、電話の番号なんてどこにもなくて、口頭で聞きたくても入り口なし。
ANAは、さすがにフリーダイアルの番号を持っていた。
そこで、UAの電話を聞いてTEL。
インターネットの普及はいいけど、電話入り口を残しておくっていうのは、武士の情けでしょ、UAさん・・でした。

曇り、ちょうどいい気温、で、眠くなる。
またまたお昼寝。
今日はめずらしく我が夢の中に「藤原新也さん」が出て見えた。
不思議、アレーー、キャーー。
どこかの南の島の民宿の大広間、で話してんだよね。
彼のおネエさんのNさん(尊敬する私の知人)のことなど。
この夢、どういう意味があるんだろう。

Nさんにお手紙でも書いてみようか。



2002年06月22日(土) カラスの眼は進化している?

昨夜は、sakurannkoさんが、夜中に、元気いっぱいに来た。
ああ、おばさん不良だ、といったら「そうよん」なんて、お酒のはいった顔が輝いていた。
きれいだよん。
不良できるうちが花よ、やろね。
 
  ★・・・・・・・・・・・・・・・・★

昨夜は、根を詰めて考えたいこと、構成したいことがあって、終夜起きていた。
時間が切れると、思考の集中も続かないような気がして。

夜中に起きているとこの頃すごく不気味なことがある。
それは、カラスだ。
啼くんだよね、深夜に。「ガア、ガア」って。ガ、と濁るので、ハシブトカラス(でかいヤツ)と思うが、鳥って、鳥目というくらいで、夜中はきかないし、寝ているはずなのに・・・。
明け初めてきた朝方ならわかるけど、夜中の2時頃に啼かれると、「どうしたんだ?もしかして、カラスは進化してるんじゃないか。眼が人間のように夜もきくようになっているんじゃないか」と思う。
町中に「真の闇」がなくなって久しいし、だとしたら、カラスの眼だって、そういう環境に合わせて進化するよねえ。
わたしはこのまま行ったら、ヒトも早晩、恐竜のように滅ぶと感じる。だけど、その後の世界はもしかしたらカラスか?
カラス、賢いもんなあ。

  ★・・・・・・・・・・・・・・・・・・★

天気は曇り、肌寒い。
午前から午後、仕事を少し。その後、本を読んでいたら、またしても寝た。
白洲正子さんの「西国巡礼」。この本、さしたる厚さもない文庫なのに980円もした。これは、文庫の値段じゃないよね。白洲さんの文は好きだけど・・・。

起きて、鏡で見たら、顔に座布団のシワが残っていた。トホホ。
こういう、ささいな日常に自分の「年」を感じる。

7月始め、また四国、末にはヨーロッパだし、それまでにやるべきことはたくさんあるのにこのままでいいのか?
そもそも、旅のスケジュールさえもできていない・・。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

室蘭のY氏よりのメール。
「私はサウジに行けません。すみません」
このきまじめさ、好きだなあ。(^^)

室蘭は気温15度あたりをウロウロで、エゴマくんが大きくならないらしい。
エゴマは、母用に徳島の「脱サラ百姓 今関さん」から頂いて来たもの。
母が骨折で畑が十分にできないので、彼に育ててもらうことにしたゴマくんだ。寒いので、有機肥料が効かないのだという。
(有機肥料ってそういうきき方をするのね、という感じ。要するに発酵しないということか。今関さんによると、Y氏は立派なプロの百姓だという)

室蘭発大洗行きの東日本フェリーがなくなったらしい。
室蘭。鉄の町としての黄金時代は今いずこ、だ。
去年の夏、室蘭でホエールウオッチして(不作、カマイルカの群れが見えただけ)
八木先生の記念館に行って、夜は室蘭八幡宮(ここ、鯨八幡ともいう、昔漂着した鯨を売ったお金で社を新築したから)のお祭りでお神楽見て、もちまきで御神酒までもらって。
彼に終日つきあってもらって、私はフェリーで帰ってきたんだった・・・。
楽しい一日だった。
朝捕りイカ定食がうまかったし。
大皿一杯になるほど大きなカレイ(う、このカレイの名前忘れた)がうまくて、お腹いっぱいになったっけ。
またいつかフェリーに乗って、鯨八幡の「鯨神楽」を見に行きたいと思っていたのに。
私は船旅と鉄道の旅が好き。
飛行機が一番きらい。
船の揺れに身を任せていたら眠くなる感じがたまらなくいい。
水にいた頃の人間の遺伝子を刺激するのかな。

高知行きのサンフラワーがなくなったことも悲しいけど、東日本フェリーがなくなったこと。これも悲しい。



2002年06月21日(金) 晴れたら、夏の空 ・・・「A」読了・覚え書き

晴れた。
和歌山より地元産のオレンジを頂き、柑橘類好きとしては嬉しく、ぱかぱか食べながら、お仕事。
以前自分が書いた原稿を、打ち合わせに従ってなおしているのだが「思い、恨み、爆発!!」みたいな所がある。
まあそういうとこ、本筋とはちがうし担当者に「あっさり」に書き直してくださいとといわれているのだが、捨てがたくて直せない・・みたいなとこが、一日にひとつはあって。(笑)思うように進まない。
 けっこう、さっぱりとなんでも捨てるし、直せといわれりゃ節操なくそうする私だが、これは思いが深いんだわ、ね。

そんなんで、「A」を読了。
sakurannkoさんが持ってきてくれた本だけど、求めて手元に置きたい気がしている。肝に銘じたいフレーズがたくさんあるのだ・・・

以下に、前回同様、自分のために印象に残ったところをメモしておきたい。
その一
安岡「この一年あまりずっとテレビを眺めながら暗澹たる思いでいっぱいだったんですよ。自分はメディアの末期的な事態をこのまま傍観していていいのか、という思いがずっとありました」
(安岡氏・・・「A」のプロデュースを引き受けた人)
* 私は末期的なメディアの情報を見ているんだという思いを忘れないようにしないとないと・・などということしかいえないが・・「A」では、やくざや右翼より汚いマスコミの姿がみられた・・。

その二
主婦「どうしてオウムをやめないのよ。頭のいいあなた達がやることじゃないでしょう」
荒木「頭がよかったら何をすればいいとおっしゃるんですか」
主婦「人の上に立つ人になればいいじゃないの。とにかく何をやっても、一度色に染まったオウムは変わらないのよ」
荒木「ぼくたちは変えてみます」
主婦「あなたね、水に赤いインクが混じったら、もう戻らないのよ」
荒木「フィルターをつければ戻ります」
主婦「馬鹿いわないでよ、フィルターで一生を過ごすの?」
荒木「その覚悟はしています」

その三
オウムがかつて大量殺戮に手を染めたとはいえ、山本康晴が執行猶予付きの判決を過去に受けた人物とはいえ、作品に致命傷を与える可能性があるとはいえ、物事には程度がある。・・(略)・・作品は守りたい。しかし、守るためにこの件に関しては明らかに潔白な一人の市民を犠牲にすることなどできない。絶対にできない。

その四
「自分にはオウムが見えていない」と、ぼくは焦燥するが、彼らははじめから見る行為には限界があるとという認識を持っている。
・・略・・・たとえ、どれだけの歳月を費やしたとしても、本質をとらえることなど永遠にできない。努力や執念などとはまったく別の位相だ。「信じる」という行為を「信じない」人間に解析はできない。

・・・まだ付箋を入れたとこ、沢山あるんだけど、入力、疲れました・・・

最後にひとつだけ
森達也氏・・・・ベルリン映画祭の会場で・・・
観客「オウムの信者はもちろん、この作品に登場するメディアも警察も一般市民も皆リアルな存在にはどうしても思えない。まるで、あらかじめ台本を渡されてロールプレイイングをやっているとしか私には思えない。これが本当に実在する人たちなら日本という国は相当に奇妙だと思う、要するにフェイクな国だ」
森「この作品に登場するオウムにも警察にもマスメディアにも、とにかくほとんどの日本人に共通するメンタリティがあります。共同体に帰属することで思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さをぼくは描いたつもりです。・・略・・ドイツ人にはないのでしょうか」
帰りがけにあった老婦人の言葉
「ドイツ人も日本人も、きっと他の国の人だって人間はおなじ。おなじだから、過去にも戦争が起きたし、これからも起きるのよ。だから「A」は大切な作品です」

「A」・・・・私にとっては、久しぶりに読み捨てにできない本に出会った気がしました。

   ★・・・・・・・・・・・・・・★

昼下がり、大昔の××よりTEL。
はああ、びっくりした。
2回、同じ人からまちがい電話が来て、数分後にまたかかってきたので「あなた、よく調べて下さいよ」というつもりで出たら、ちがっていて・・どひゃ。
・・外国のホテルの部屋に突然英語の電話がかかってきて、意味は分かるけど、アタマの回線が急には英語にならなくてアンサーできない・・そんな感じだった。

用件を訊けば、彼としてはしかたなくの電話なんだろうが。私としては、声もあんまり聞きたくないんだわ、よね。
最後の方なんて、ほとんどつかみ合いの喧嘩、していたもんね。(もっとも、つかんだり、たたいたりは私の得意技でしたが)
でもまあ、私は、きれい事はきらいだから、あれはあれで「面白かった」と思ってはいる、力いっぱい闘ったしさ。・・が、大過去×2だよ・・私の守護霊、あの時と変わったもん(笑)
「元気なのか?」
「はい」
「それだったら、いい」
「はい、失礼します」
「昼下がりの亡霊的事件」でした。

思うように生きてきたし、後悔ってあんまりない私だが、彼とのおつき合いだけは、ミステイクだったと思う。
でも、まあ、おかげで、自分の守備領域と限界がわかったし、な。
結果オーライ?ほんと? 
それが人生さ、って明るすぎ、こじゃれすぎ、か。^^;
プハー!!
ビールの勢いで書いてしまった・・・

   ・・・・・・・・・・・
sakurannkoさんから、以心伝心のように電話。来るという。
本、返さなくちゃ。



2002年06月20日(木) 正統的な梅雨空・・今天没有の思い出

今日は、ついにマイ・ホームドクターの鍼灸医さんにいった。
右足中指のしびれ感が治らないのだ。
久しぶりに鍼、灸、など一通りしてもらう。
ところが、右足、右半身、なんか過敏になっていて、鍼が入りにくい。
「けっこう、お疲れだよ、身体」
とは、マイドクターの弁。
そら、そうだよね。
指のしびれ感は、右足首の古傷からのものらしい。「胃経」系の経絡で、それがわかった。納得だ。
「すぐにはやっぱり戻らないよ、少しずつ、で、あれ治ったという感じで治ると思うよ」
よかった。
久しぶりの針と灸で、身体が軽くなって、目がよくなったような・・
この頃会わない旧友達の消息をきく。
ここ、我が友達の「身体の駆け込み寺」みたいなとこだから、彼の方が私より我が旧友の状況にくわしいのは、笑う。

帰り、農協の直売所で走りの桃や、完熟プラム、キムチを買う。
ここのキムチがうまい。
そういったら、地元の、日本人と結婚した韓国人の方の「作品」だという。
うまいわけだ。
「あのサッカーの勝利は、キムチパワーが秘密だって言うじゃないの」
「ハハハ、そうかも、ですね」
なじみの、レジのおばさんと話す。
私が、うまい、といっていたら、ちょうど店にいた何人かが聞きつけて「そうなの?」とかいって、求められた。
「辛いんですけど、甘い、美味しいですよ、おすすめ」
でも、回し者じゃやりませんよ、と笑いながら帰ってきた。
桃とプラムもうまかった。
季節の果物は「食わねば」と決めている。
枇杷、サクランボ、我が母がつくった路地イチゴ(5月末から6月がうまい・今年は西国にいたので食そこねた)プラム。楊貴妃が早馬を飛ばして取り寄せたライチ。そして桃。一年中なんでも食べられるが、これらの果物はそういう点でははかない。
このはかなさが好きだ。

あ、ライチがまだだ。なくなんないうちにくわんと、な。

 ★・・・・・・・・・・・・・・・・★

「今天没有」(ジンテエン メイヨウ)
「今日はありません」の意味になるこの言葉、10年くらい前、真夏の北京の町角の食堂で「ほうれん草の肉いため」なんかを注文したときに必ず言われた。
まさに文字通り「今日、ないんだ」と思っていたのだが、ちがうんだな。
恒常的にない。なにがないか?
ほうれん草がないのであります。
ほうれん草の旬は、冬。だから、夏の北京にはほうれん草の料理はない。
餃子の具でさえ、1ヶ月いると、そのときの旬(旬の野菜が一番安い)はいって変わるのだ。
季節関係なく、なんでもある日本から行って「ジンテエンメイヨウ」の意味に気がつくのにかなり時間がかかった。

でも昨秋、北京に行って思った。
今はあれ、言われんだろうと。
なんでも「メイヨウ」が当たり前だった中国だが、この頃めっきりと少なくなった。
これ、寂しい気がする。メイヨウ、と闘って何かを勝ち取る喜びが中国にはあったのに・・・。メイヨウのいってんばりだったシャオジエから「ヨウ」といわせる快感・・あれはもう過去完了となってしまった・・それがさびしい。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大手の週刊誌の仕事をしている某編集プロダクションから、お遍路についての問い合わせあった。
的を得ないと言うか、漠然とした質問。
なんにも知らないで、調べもしないでの電話みたい、だ。
少し意地悪して、あなた、年いくつ? 少しでも本読んだり、調べたりしたの?
とか逆にいろいろきいてやった。
26歳の女性。
あなたみたいなお年頃の人がこの頃遍路道には多いわ。きくより一日でも歩くとわかるかも?
私ってば、チョー意地悪、もしかして。
でもね、インターネットで検索入れて少しでも調べてから、知ってからとかできないの?
質問に答えても、なんかかみ合っていなくてイライラするのだ。
いくつかのサイトを教えて、それらを読むとあなたが聞いてる問題は解決すると思う、それでもわかんなかったり疑問があったら、また電話してきて下さいといって切った。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・











2002年06月19日(水) いい天気・・・「A」文庫版を少し・・

朝からPCの前でブツブツと、カニのあぶくのようなお仕事をしていると、午後は俄然いやになる。
ごろごろしながら「A ~マスコミが報道しなかったオウムの素顔~」(森達也)の文庫版を読んだ。著者は、この前に見に行ったドキュメンタリー映画「A」の監督だ。sakurannkoさんが持ってきてくれたものだ。
まだ読了していないが、気になった、というより印象的だったところを書き出てみたい。

{その一}
荒木「もしかしたら、森さんは信頼できる人なのかな、という印象を私は持っています」
森「どうしてですか」
荒木「はい?」
森「どうして、ぼくが信用できるかも知れないと思うのですか?」
荒木「手紙です」
森「手紙?」
荒木「マスコミの方は、皆、電話かせいぜいFAXです。森さんのように何度も手紙をくれた方は他にいませんでした」
(注  荒木とはあの荒木浩広報部長のこと Aの主人公は彼、といってもいい)

{その二}
破防法弁明で、麻原の陳述に立会人として参加した浅野同志社大教授の話では、最後に発言を求められた麻原が、公安調査庁職員に向かって「破防法を適用しなさい。しかし、オウム以外の団体には今後絶対適用しないで欲しい」と述べたという話が興味深かった。当時のメディアはこの発言について、まったく報道していない。
{その三}
大学に講演に来た麻原にあったときの話で
森「彼のナニが興味深かったのですか」
荒木「・・・表現は難しいです。でも、ひとつだけいえるのは、どんな意地悪な質問でも尊師は逃げないんですよ、きちんと正面から答えていて、ああ、この人は本物かも知れないとおもったんです」

{その四}
森「荒木さんの言葉には二面性があるでしょう?」
荒木「・・・・」
森「立場上、二つの言葉を使い分けていますよね、広報部の荒木と信者の荒木と」
荒木「確かにそうですね」

{その五}
彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムはオウムの内ではなく、オウムの外、すなわちぼくらの社会の中にある。

    ★・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★

洗濯をした。よく乾いて、嬉しい、洗剤のコマーシャルみたいだけど。
昼過ぎに母から携帯に電話。
この頃、うちの電話にしてもいないと決め込んで、携帯にするとというワザを覚えた我が母であった。
父の日に帰らなかったこと、さらには不在だったことを言われた。
昨日、ハガキを書いたことや7月には帰るという約束をした。
帰ってこい、という家族がいることをありがたいと思う。
昔は罰当たりにも「うざい」と思っていたけど・・私もまあるくなった。



2002年06月18日(火) 嵐のような雨が通り過ぎて・・・山椒のさんちゃんは

今日は、すごい雨だった。
サッカーも負けた。
消音にしてTVをつけて、仕事をしながら時々見ていたら、近所から悲鳴のような声が聞こえてきて、あーはいった、あーおしいんだ・・とかわかって面白かった。
まあ、しかたないでしょ。
勝つ人がいれば、負ける人がいるんだから、ね。

    ★・・・・・・・・・・・・・・・★

嵐のようなお天気だけど、こんな時の方が郵便局は空いていると、ドアを開けたら、通路の床一面に枯れ葉が散っている。
「あー、さんちゃん、青い芽、吹いたんだね」
思わず、山椒に話しかけてしまった。
私の長期の留守で、毎度、無惨に葉を茶色にしてしまううちの山椒の木。
しかし、感動なのは、いつも、「復活」することだ。
今回は、新緑の季節なのに、新しい葉もなくて、茶色になっていた。
帰ってすぐの朝、ゴミをだしに出たら、上の階の名も知らぬ住人から、かわいそうなんで、水を時々あげていたんですよ、と声をかけられてお礼を言ったんだけど。
そして、すぐに、ごめんごめんと水をやったんだけど。
約2週間で、うす緑の小さい葉を吹いた。
そして、今日の嵐で古い枯れた葉を落としているというわけだ。
強いヤツ、エライヤツ、と思う。
もう20年以上も前、友人からもらった、20センチくらいの小指のような太さの山椒の木が、今や3センチはある太さ、樹高は私以上だモンね。
私が事故にあった次の年、突如、実をつけはじめて感動した。
なんにもいわない木が、なんか生きていてよかったね、と語りかけてくれているような・・そんな思いで眺めた。
今年は、花を咲かせる時に私がいなくて水がもらえなくて実はダメのようだ・・すまぬ。
でも、葉が復活したら、アゲハが卵を産む。
よかったよ。
旅で長期にいないとき、山椒のさんちゃん、連れていってやりたい、とドアを閉めながら何度思ったことか。

*素朴な疑問*
木って、人間より長生きなのがたくさんいるけど、じっと同じ場所に突っ立っていて退屈しないのか?
私が木だったら、世をはかなんで自殺したくなる。木はそんな気持ちにならんのかしら?
でも、まあ、昨日ここにあった木が明日があっちだったら、驚くよな、困るよな、我らが人間も。
木々たちよ、おぬしら、ムム・・できているヤツじゃ。

   ★・・・・・・・・・・・・・・・・・・★

室蘭のY氏より来信。「男は見つかりましたか」、だって。
みつかんないよ。
あなたがサウジいきませんか、とメールを書こう。

そうそう、紀三井寺門前の土産物屋サンで、知り合いとなったWさんより電話が来た。嬉しかったよ。

たまちゃんの掲示板に、阿波公方さんとウィーンから帰国したその日につぐちゃんが「練習」なさったことを奥さんのじゅんちゃんが書いておられた。
一流の人にして、休みなく・・すごい、と思った。
頭が下がりました。
私もまじめに仕事せねば、と今日は働きました。



2002年06月17日(月) またしても 非生産的な・・世良修蔵のこと

今「世良修蔵」という本を読んでいる。
あのお遍路280回の中司茂兵衛さんの従兄弟。

茂兵衛堂を眺めに大島に行ったおりに、私は茂兵衛さんのお墓をさがして墓地に迷い込んだおりにひときわ立派な「招魂碑」ナルものがたっていた。
その人が世良修蔵。
きいたことがない。
この人誰?と調べたら茂兵衛さんの従兄弟で、明治維新期に名をなした地元有名人だということとが判明。

世良は天保六年、大島郡椋野村 中司八郎衛門の三男として生まれた。(茂兵衛さんちの分家さん、養子に行って世良となった)
文久三年頃から高杉晋作と交わり、奇兵隊書記となって活躍。
第二奇兵隊が結成され、世良は軍監となった。慶応二年六月、幕府の第二次長州征伐に際して奥羽鎮撫総督府の参謀となり、仙台より福島に入った。
奥羽諸藩から会津藩主松平容保の嘆願書が提出されたが、世良はこれを拒否し仙台藩士に恨まれ、明治元年閏四月二十日福島の宿舎において暗殺された。ときに三十四歳であった。
白虎隊が神話化されている会津若松地方では、世良は今も〟大悪人〝。でも、学者タイプの世良は「火中の栗を拾わされた」明治政府誕生のための〝捨石〟に過ぎなかった、のだとか。
世良の本当のお墓は福島にあるらしいのだが、憎まれて削り取られたあとが生々しいのだという。

こういう人って興味がある・・と伝記、というか彼の足跡を追った本を山口県の本屋さんからネットで注文して購入。
本は、長年図書館の館長さんを勤められた方が書かれたもの、で、しっかりと書いてあるのだがもう一つ面白くない。・・・つまんない。
恐い、と思う。
本の行間がかもし出している何かに「おもしろ」がないのだ。
これって、破綻のない人生を過ごされた著者の雰囲気かも知れない。(著者は亡くなっておられる)
どうも、没入できない。
そんな訳で、またしても午後、読みながら入眠。
ちょうどいい温度で、よく眠れるのだ。
とはいっても、早起きでPCの原稿は2本書いたが。
事故の原稿の手直しがあまりすすんでいないが、まあ今日は「ヨシ」とするか。

今日は美味しい野菜をたくさんいただいた。
ナスやキュウリ、トウモロコシ、ピーマン、お芋・・・みんな今が旬の上り坂。
ビタミンをたくさんとると真っ黒になった肌が速く白くなるはずだし、しっかりと心のこもったお野菜をいただこう。感謝、合掌。



2002年06月16日(日) 梅雨の晴れ間

今日は、ややいい天気。
梅雨が来なければ来ないで心配になるし、来たら来たでうっとうしいし。
何より、西国から帰ってきた勢いで長袖モノをほとんどしまったのが浅はかだった。

昼から夜にかけてちょっとした「大人のお楽しみ会」
名にし負う、で、ホントに楽しかった。

帰宅以来の1週間、どっちかといえば毎日のように精進落としだった。
少々反省。
明日からは仕事をしようと思う。

   ★・・・・・・・・・・・・・・★

旅行人の、蔵前仁一編集長がバリでなんと600ドルの絵を買った。
それってバックパッカー誌のボスとしては違反じゃないの?(なにしろ私、最後のページから読む、というよこしまなことをしていた・・うしろしまなことか?)
でも、前のページをめくったら、絵を見たら、それ、私好み、いいんだわ。
バトウアン・スタイルの絵、というとかでバリの自然や生活、生き物などがすき間なくぎっしりと描いてあるヤツ。いいよお。
じっくりと本文を読むとなんと2800ドルを、600ドルまでデスカウントしてのお買い物。いいじゃんよ。
ウブド、去年私が行こうと計画していて、テロ騒ぎで宿まで取ってあったのにやめたんだった。
マイレージが持ち越しできないところまで溜まっている。サウジに行くことになったら、タイまでの往復にこのマイレージを使おうと思っていたんだけど・・ダメだったらバリもいいかも。

またまた、遊ぶことしか考えていない私でありました。
こんなに怠け者で、罰があたりませんように。
合掌。




2002年06月15日(土) 明日は父の日 そして天川弁財天社

やや、二日酔いです。
頭が痛い・・・しかし、明日は父の日だし、なんか見繕って送らないと・・・母の日プレゼントをしているので父の日にしないわけには・・・・
ということで、街へ。

よそ行きにもなる明るいクリーム色の半袖シャツを送った。
宅急便の紙を書きながら、あと何回母の日や父の日のプレゼントができるんだろう・・などとふっと考えてしまった。
去年は郷里に帰った、たしか。あんまり具合が良くなかったので・・・。今年も決していいとはいえないようだが。

あとは家で静かに読書。
足と靴の本、藤沢周平の時代小説。
ドイツでは、歩き方と靴の選び方を子どもの時から親がしっかり教えるという話にうーんと思った。正しい、ね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここ数日、時々思い出すのは、なぜか天川弁財天社。
あの奥吉野のゆかしい神社のことだ。
ミッチー先生の掲示板に天川の奥宮である弥山のことを書き込んでから、なんか妙に気になる。

初めて天川に行ったのも今頃だったような。
確か、友人と仕事を一日休んでいったんだった。
夜になると闇の中に社がしんと静まり返って、本殿のパワースポットにはなぜかでも、夜になると人がやってきた。
あの時、社殿のパワースポットで蓮華座を組んで瞑想する男性の後ろに白い炎のようなモノが見えた。
身体を囲んで立ち上るような白い炎が確かに見えて、動く。
目がおかしくなったか、と何度もこすった。
友人に見えない?と聞いても見えないというし、でももしかしてあれってオーラってヤツ、と思った。
私のチョー不思議体験。
あれ以来、仏像の光背は、仏のオーラなんだ、仏師はそれが見えたんじゃないか、と思うようになった。
私の場合、見えたのはあれ一回きり。
多分私の身体や心が自然に対して開かれたベストの状態で、あの天川の龍穴、吉野の「力のポイント」で私の潜在能力もアップされた結果なんだと勝手に考えている。
目の錯覚だったにしてはあまりに鮮明だったし、私も正気でありすぎた。

あの年は、8月に勘九郎が洞川の竜泉寺(天川の隣村)で、奉納舞いをするというので見に行っている。あの時も、舞が始まる前に主催者が「龍神さまが喜んでおられます」といったすぐあとから、大峰の方から薄霧がやってきて、小雨がちらんと降った。
晴れた日だったのにあれは「龍神」の喜び表明か、だった。すごく不思議だった。それはあの場にいた人みんなが懐いた感想だった。

あのときに弥山も登ったのだった。
山頂の「国見が原」で、日の出を待つ時間、何かはしらんが「大いなるモノはおられる」みたいなひらめきが突如来て、びっくりした。
あの後、2回天川にいった。
宮司さんの借金問題で神社が売られるとか何とかいう問題でもめていた時期もあったようだが、今はどうなっているのかな。
気になるというのは、来いってこと?
そういえば、このところ奈良に行っていない、あんなに好きで通っていたのに。
西国歩きで、半日遊んだが・・奥吉野や吉野に入っていないなあ。
私は奈良まん中より周辺部が好きだ。
奈良の偉大な田舎ぶりがわかるのは「周辺」なんだわ。





2002年06月14日(金) 午前様・・トホホ

手紙類を整理し、美容院に行き、夕方都内へ。
渋谷は、サッカーの勝利で若者大衆が大盛り上がり。
恐いくらい。暴動、寸前だった。

西国の完歩のお祝いしましょうといって下さった空手有段者の某氏と渋谷待ち合わせだったのだが、危ない感じだったので、銀座へ移動。
銀座はサッカーの「サの字」も感じられなかった。
この落差はなんなのだ?

空手某氏は酒強し。
マッチョ。
完全に負けました。
別に競うつもりなんかなかったんだけど、一緒に飲んでいたら、力一杯酔っぱらったということです、はい。
ご帰宅、深夜どころか、明け方でした。

これを書いている今も(15日午前)、なんか気持ち悪いよ。
アルコールが残っている・・はあああ・・参ったね。

そういうわけで「粗日記」、お許しを。
ロシアの思い出を書こうと思っていたんですが・・・。




2002年06月13日(木) まだ足指が変?

西国から帰ってそろそろ一週間。だけど、右足の中指の感覚がいまだ少しおかしい。鈍くなったまま。
あと少しこのままだったら、カネサカさん(私のホームドクターのような鍼灸医さん)いかないと・・・。

午後、白洲正子さんの「熊野古道」のエッセイを読んでいたら、いつの間にか眠ってしまっていた。まだ、やっぱりどっか疲れているんだろうね。
夕方、Iさん来訪。お願いしていた本を持ってきて下さった。
二人して、秩父のグルメワイン、源作ワインを空けた。
おいしかったわ。
話は、女の老後から、金パチセンセイでやっていたという性同一障害の問題まで。
面白い時間だった。
Iさん、また飲もうね。
今度は「プロミス」を見に行く約束をした。(ジョークじゃないよ、プロミスって、アラブ、イスライルの子どもを撮ったドキュメント)

・・・・・・・・・・・・・・

2000年の今頃、私はシベリア鉄道に乗っていた。
乗車したものの、荷物を入れるとこもなにもわからなくてウロウロしていた私をお世話をしてくれたのは、アリョ-シャという8歳の男の子だった。
座席を動かし、そこに荷物を入れ、ベットを作り・・とかいがいしくサポートしてくれた。
これ、日本の8歳の男の子にはできないだろうなと思った。だって、仕草が「紳士」なんだもん。
アリョーシャは、夏休み(ロシアの夏休みは6月に始まって8月まで)で、おじいさんおうちにお母さんと行くところだったんだけど、降りるまでの2泊3日、その態度は変わらなかった。
「この何にもわからない日本から来たおばさんを守るぞう」みたいな感じで、ほかの車両から私を見物に来る人からガードしてくれたっけ。
私が乗った列車が「ロシア号」といったインターナショナルな列車だったら、よかったんだけど、あまり外国人の利用しない(モスクワまで行かない)ローカルなヤツだったから、私はめずらしかったらしいのだ。
アリョーシャの紳士的な、大人っぽい態度は、日本のあまやかされた子ども(特に男はダメだあ、日本の子供は世話されることしか念頭にない子が多いから)にはできない態度だよなあ・・と感じたものだった。
なつかしい思い出・・・・
シベリア鉄道は、キケンだ、という話も聞いていたので、緊張していた私だったが、6月のシベリア鉄道は、休暇で旅をするファミリーでいっぱい。のんびりとした車内の雰囲気はいい感じだった。
バイカル(もう一度行きたい!!)まで、いつかまた乗りたい・・と思う。




2002年06月12日(水) きたない・・・そして、太る耳穴のナゾ

うちの中がきたない。
掃除、と思いながら、進まぬ。
出てきたモノを眺めたり、読んだりしていたらいかんのだが。

うちの掃除と格闘の最中、夕方、mさんが近くにいるから、とケーキと芳香のクチナシの花を持ってよってくれた。
しばらくぶり。
いろいろと話す。
週休2日制になって学校は大変らしい。

ホントに梅雨に入ったようだ。
梅雨になる前に歩き終わってよかった、と思う。
昨日の暑さから一転して肌寒い。

私の愛読書「旅行人」の読者欄を読んでいたら、「新幹線に乗ったら、リクライニングが動いた、国内線にのったら、イヤホンがさせなかった。原因は自分が太ったせいである。体重3けたはきついぜ」に、笑う前にフーン? 
だって、いくら太っても耳穴ってデブにならないでしょう。ドーナツの穴みたいなモンなんだから。イヤホンがさせないほど太る耳穴ってどんなん?
この疑問を投書しようと思った。

ちなみにもう一つの私の愛読書は「噂の真相」である。

それにしても、クチナシのいい香り、この香りにつりあうくらいにお掃除をしないとな・・と志は高いのだが。




2002年06月11日(火) 男求む 続き・・・

梅雨入りらしいけど、ホントに梅雨に入ったの・・・というお天気でしたな。

ナイルストーリーさんに「男の一人や二人拉致して・・拉致されて喜ぶお人はおらんのですか」とメールをしたら、また返信が来た。
以下、平気な顔で無断転載・・名前のとこ、××なんで・・だめかなあ?

「こんにちは、ナイルストーリーの××です。

  > 一人や二人、ナイルストーリーの周辺におられない?
  > 拉致されて喜ぶようなお人が・・・

  そんなやつがいたら、どうして今ごろ私が独身なのですか?
  って、ウソウソ。

  アラブは好奇心旺盛な女性にはすごく面白いところなのですが、
  男性にとっては、アルコールは飲めないし、女性の顔は
  みられないし、エッチな雑誌もエッチな場所もなければ、
  それほど魅力はないってことなんでしょうかね???

  サッカーもボロ負け、予選敗退だし・・・

  でも、絶対に行ってやるー。

  気合だけは十分な××でした。
  また状況をご連絡しますね 」

はははは・・・
ナイルストーリーさん、すきだなあ。
××さんには会ったことはないけど、ぜひに一緒にサウジに行きたいもんですう~う~~。と、これまた あやしいラブコール。
それにしても、男がいないと始まらんのだわ。

・・・・・・・・・・・

今日は、久しぶりに怒った。
留守の時、某信販会社から、頻繁に電話が入っていた。
私のカードとは関係ない会社、おかしいし気持ち悪いので留守電にはいっていた番号に電話したら、かけたご本人、お宅にはかけていない、何かの間違いだろうという返事。
私はそちらが残したナンバーで電話しているのだから、かけていない、ということはないでしょ、よく調べて下さい、もしかして、わたしの電話番号が悪用されて、そちらに登録されているんだったら問題だから。
でも、かけていませんよ、私の顧客の番号にお宅の番号はないから・・
そう、わかりました、NNTで調べて、ことによったら警察にも相談に行くかも知れません、いいですね。
待って下さい・・・。
お宅の会社だって、発信記録とか簡単に調べられるんじゃないですか?それをしないのだったら、私が調べてやるまでのことだというんです。気持ち悪いですよ、身に覚えのない信販会社から何度もそれも、夜8時頃の留守電というのは。わかりますか。警察に相談しますから。
わかりました・・もう少し時間を下さい、調べます。
今朝、電話したときもそういったでしょ?
ということで、数時間後、また電話があった。
「すみません、お宅に確かにしていました、押し間違いでした・・」
私の電話が悪用されているのではないんですね?
「そうです、私のミスです」
アホヤロウ・・といいたかったが、真剣に詫びているふうだし、ごっくんと飲み込んで「了解しました」といって切った。
まったく、なんだろ、ね。

・・・・・・・・・・・・・

出かけて、本屋をのぞいたら日本の街道シリーズに「鯖街道」があった。
歩いたとこだ、と購入。熊川から先を琵琶湖ではなくて、京都に向かって歩いてみたい・・なんて野望?を持ってしまったことだ・・・。
ああ、旅は麻薬、よ。









2002年06月10日(月) 求む!!男・・・

本日、少し、あやしいタイトルで失礼。
ふぬけて、頭がおかしいわけではありませぬ。
事情を説明しましょう。

サウジアラビアに行きたいのです。
そのためには「男」が必要なのです、はい。

昨年、私がエジプト一人旅でお世話になった「ナイルストーリー」さんのホームページに「サウジ、旅トモ募集!」を発見。
私「いきた~~い」

サウジアラビアはいまだ、観光鎖国している国で、つい最近開放国となったブータンと並んで私が「行きたい」と思う国。さらにはこの国に女が入ろうと思うと、男連れでないといけない。
外国女集団が入ろうすると、娼婦の集団かなんかとまちがわれるらしい。
男連れ(というか男にエスコートされた女いう立場)で、やっとビザがおりるといういうわけ。
もちろん、女一人での入国なんかは不許可、どころか、逮捕されるという21世紀にあるまじきお国なのだ。
ただ、観光化されていないのであちこちにごろごろと転がっている遺跡などは大昔のまんまだし、海なんかもきれい、ということで、。
何よりチョーレア系のお国というところがいい。垂涎。
で、私、高額の費用(バンコック集合・・3000ドル・・高い・・(-_-;))は、定期預金をクズしても・・と思って募集仁応募ました。
応募メールに一言「男の確保はできているのでしょうか。女だけあつまってもしょうがないのでは・・それが心配です」
心配、大当たり。
男の応募がない・・ので今のとこ、10月2日より10日ほどの予定、催行、不確定。
そ、そんなああ。
返信メールに「サッカーで、ドイツに6点も取られるから男に人気がないのでしょうかね」なんていうやっけっぱちぎみのお言葉もあって。
私は「どっかから、男の一人や二人、拉致して来ることできないんですか?」 などとキケンな再返信して。

そんなわけで、「男」が必要なのですよ。サウジに3000ドルだしていってもいう男が・・・
いませんか?ねえ。
誰か、行きませんかあ?

行きたいなあ・・・

  ☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

今日は、お昼に久しぶりにMさんと会食。
その後に、Kさん宅に、旅先から送ってあずかってもらっていた品を取りに行った。疲れと腰イタできついという話だったが、思ったより元気そうでよかった。
夜は、スヌちゃんと電話で話す。
これも久しぶり。
彼女は、私がいない間に香港に行って来たらしい。
香港の新空港のバリアフリーぶり、快適さをきかされた。
香港は英語が通じなくなって代わりに北京語がツーカだったらしい。
香港人も、「中国本土化」しつつあるのか?





2002年06月09日(日) まだ ふぬけ・・・

今日は、首が痛い。何で今さら・・だが、足の甲も腫れている。
ヤッパ、年かねえ。
気分は、いまだふぬけ。
この20日あまりが夢幻のよう。
タンスの中のセーターや、しまっていないストーブを見ると、改めてやっぱりずいぶん長く留守していたんだわ、と思う。
浦島タローの心境がわかるよ。

当初、姫路くらいで帰ろうと思っていたのに、いけそうか?と勢いで、結願してしまったので、その反動がどっと来ているのかも知れない。
最後まで行く、という決意にかけていたもん。
勢いでいってしまった、という感じだし。
ただ、いい歩行(ほぎょう)ではあったと思う。

ストーブをかたずけ、洗濯物をお遍路・巡礼用の引き出しにしまい、昼寝を決め込んでベットに入って西国の本をのぞくと、お寺で見るべきモノを見てきてないなあ・・と苦笑い。
西国の寺は大寺だし、1時間近くはいるのだが、やっぱり、だ。気持ちは歩く方に向くからなあ。

3時間も昼寝。ものすごい贅沢。昼からになると、歩きながらあくびがでて、今眠れたらどんなにか気持ちいいだろうとよく思った。

ところでこの日記、我ながらよく続いているとびっくりしている。
多分、こんなに日記を書き続けているのは生まれて初めて。
「継続は力なり」とわかっていても、そういうことができない一夜漬け的ヒトだったから。
子どもの頃は、夏の終わりに、できごとをでっち上げてページを埋めるのに苦労したよ。

しばらく旅はなし。(といっても、7月になるとまた真夏遍路があるが)
本来的には旅の日記なのだが、しばらくは身辺雑記と、昔の旅の思い出話を書きたい。せっかく続いているのだし・・・

歩き遍路から帰るとあんなに昂進していた「食欲・・・キムチ、ケーキ、甘栗が食べたい」がない。
それだけ、体が弱っているのかとも思うが、せっかくの「巡礼ダイエット」、4キロ減がビールの飲み過ぎでリバウンドしないようにしたいもんだ。
とここに決意を書いて戒めとしよう。(^_^;)



2002年06月08日(土) やや・・ふぬけ・・です

今朝は思い切り寝坊。
しかし、起きてもなんかぼやん、だ。
過去日記を読んで、すごい誤字脱字を直す。
その後、また眠る。

午後からやっと洗濯をした。

日焼けした手や腕の皮がむけ始めている。
昨日の満願の湯が、単純アルカリ泉だったせいだろう。
顔も真っ黒。
これ、しろくなるまで時間がかかりそう。
というか、しろくなる前にまたお四国だけど。

谷汲山から頂いてきたお水でお湯を沸かし、うちのお大師さんにお茶をあげた。

気分はやや、ふぬけ・・です。
可もなく不可もなく、平穏充足って感じ。

おめでとうメールを下さった方々、ありがとうございました。



2002年06月07日(金) ★結願!!(~o~)★

朝、4時50分に目が覚めてしまった。
もう少し寝ようか、と思って目を閉じたのだがダメ。起きて支度をした。
5時50分、おばちゃんに送られて出発。
がんばるヨー。今日で厳しかった西国ウオークも終わりだ。

中山道ルートに乗る。
例のごとく高札がある。
六部堂、かつてこのあたりで旅の六部さんが亡くなり、あわれんだ里人がお堂を建ててお地蔵さんを祭った。
いつの頃か痛みのきつい病に効き目あり、という事になり・・・
関ヶ原宿の入り口にある。
このあたり、松並木も残っている。

7時10分、垂井宿相川橋の辺でちょうどいいベンチがあったので一休みしていたら、自転車、地下足袋のおじさんに「なにしとるん?そんな杖持って」と話しかけられた。
おじさん、ワシも少し休んでいくかと、自転車から降りて、わたしの杖やら地図を見ていろいろと地域の歴史とか見どころをはなしはじめて止まらない。
今年80歳になるというこの方、地域のことにめっぽうくわしい。
すごいですね、といったら、そりゃ15年もこの地域の歴史を勉強する会にはいっとったもんですと。
「おじさん、わたし、もう行かないと・・」と20分を過ぎて声をかけたら、そうか、そうや、と怒濤のしゃべくりを止めて名残惜しそうであった。

きょうは、熊野を一緒に歩いたM氏が愛知から谷汲山で迎えて下さる予定なのだ。
3時の約束。
お待たせしないで着きたい。それにうちに帰ることを考えるとできるだけ早い時間に結願したいのだ。

なお、垂井の一里塚は、家康が一里塚の建設を命じた頃そのまま。国史跡であった。

青墓は、照手姫の墓があるので有名だが、おじさんにいわれた井戸をみていけ
というのはパスした。

和宮降嫁のおりにきれいに整備されたという赤坂の宿を最後に中山道からはずれる。
今度は、本命「巡礼街道」だ。
しかし、セメント工場が軒を連ねて、「巡礼街道」というより「セメント街道」という感じ。

中山道はコンビニのたぐいがないのでトイレに困る。
揖斐川河畔の三町大橋に立派なトイレがあったのでほっとした。
一応、予定したコースタイムよりかなり早めに動いている。
道からはカゲロウがたっているけど、何といっても最後だモン。
力、でるね。
道行く人に挨拶すると、どこいくん?谷汲山か?という質問はやはり中高年に多い。
名鉄揖斐線、廃線の線路を越える。強者共の夢のあと。
いよいよ、今日の難所「小野坂トンネル越え」だ。
トンネルの上を越える道だ。
地図の通りに行ったが、道が切れている・・・・
アリャリャ、こういうの、もう慣れてはしまったがやっぱり途方に暮れる。
結局、草繁茂、倒木がとうせんぼしているその向こうに、かすかに山道の痕跡。おそるおそる、しかし、ここしかないよ、とずんずん行くとあった、りっぱな道が。
松尾心空師の「勘やで」を思い出す。

これを越えれば谷汲村。
谷汲山華厳寺は「そこ」だ。

しかしあつい。
30度近いんじゃないか。
20日からこっち、通り雨はあったがまったく降られていない。降られるのはきついが、この夏を先取りしたような天気にも参るよ。汗が目をさして痛い。

谷汲山門前に「満願の湯 谷汲温泉」を見つけた。
おお!!
お参りが終わったら、はいるぞう。
それにしても、寺へのアプローチの長いこと。
1キロはある。
やっぱり大寺である。

着いた。
堂々とした山門、涼しげなモミジの木陰。
なかなかいい感じのお寺である。
しかし、またまた石段、だ。
大したことはないけれど、最後まで登らせてくれますね、観音さん、である。

手水のお水が美味しい。
口を濯ぐ前にがぶがぶ飲んでしまった。
石段のまん中にM氏の姿。
「ついたよ!!Mさん」
「早かったねえ。まだだろうと思っていたよ、イヤイヤ、アンタはエライ!!」
ありがとう!
2時55分。

ゆっくりとお参り。
なんか、さわやか。すごく爽やか、気持ちいい。
四国遍路を結願したときとは別の何ともいえずいい感じが身体に来る。
比較の問題ではないけれど、厳しい道だったと思う。
終わった。達成感がある。
なにか許された、感じ。

写真を撮ってお寺をあとにした。
満願の湯入り、でると、M氏がビールの自販機から缶ビールを持ってきて下さった。
ぷしゅ、ぷは~~う、うまーいいい。
これが楽しみだったんだわ。
ビールが甘く感じた。

岐阜から名古屋にでて、新幹線に乗る前に改めてM氏が精進落としということで
ご馳走して下さった。
名古屋名物うなぎのまぶし、とかっていうヤツ。美味しかった。
またまた、生ビール、土佐名酒司牡丹。

自宅帰着11時45分。
ワタシの「○×歳記念イベント 西国徒歩巡礼」は終わった。
前から、後ろから、横から応援して下さった方々、本当にありがとうございました。
















2002年06月06日(木) ★関ヶ原だ!★

6時半出発。
今日もいい天気だ。国道沿いのホテルから、中山道に戻る。
中山道といっても、今や歩道なしの車道だから朝は交通量が多い。だから結構危ないし、不愉快な道になる。
「おまえ、国道、行けよ」といいたくなるダンプトラックはぬけ道で走るし、急いでいる若者はものすごいスピードで走り去る。

豊郷から、高宮、鳥居本、番場、醒井と宿場が続く。それなりの風情がある。それを横目で見て、説明版を読んでいると、歩きが鈍る。しかし、黙々、ぽくぽくと歩く。全然おもしろくもなんともないが、足も痛くなし、ボヤン状態で進める。
これもまたいい。

醒井の駅でトイレを借りようと、国道沿いに出たら、ずいぶんおしゃれな建物があった。
「水の駅 醒井」、まだオープンしたてだ。なんと、この町でわいている湧水を引き込んで建物のあちこちでわき出させているのだ。ボトルを持っていたら、くむのはただ、という。
私はこのごろお昼にいつも、500ミリボトル1本は冷たいモノを取る。
そうしないと、体の疲れが早い感じがするのだ。
今日はこの湧水をボトルいっぱいにいただいて飲んだ。
おいしかった。
売店では、日本、世界の名水を30種ばかりも集めて売っていた。
こじゃれた和食レストランもあったし、フードコーナーもあったし。私はフードコーナーで、ソフトクリームを食べたのだが、近くの牧場産とかでおいしかった。
ここで、ゆっくりしてでたのは1時すぎ。早めのコースタイムがすっかり遅くなった。
醒井というのは、ヤマトタケルノミコトが、毒矢で傷ついて高熱に苦しんだ時にここの水に浸かったら醒めた(直った)というところからのネーミングだという。

町中を清流が流れて、バイカモの花盛りだった。

カンカン照りの中をまたまた、ぽくぽく、と進む。
お次は柏原の宿だ。
宿の真ん中へんで、「中山道 ひとり旅 めざせ完歩」などという幟を背中に背負ったおじさんとお兄さんの間くらいの男性と会った。
しばし立ち話。
長野から、ときどき歩きに来てつないできた。明日、13日目で完歩だという。
なんと1日50キロ歩くことがふつうとか。ひえーーーーだ。昔の健脚旅人みたいだ。
つい、メールアドレスまで交換してしまった私であった。

またぽくぽく。そろそろ、関ヶ原の宿決めをしないと、だ。
岐阜に入って、今須の郵便局で中山道のはがきを買ったときにタウンページをみせてくださいと頼んだら、宿ねえ、と調べてくださった。駅近くには2軒あるが、とおしえてくださった1軒は満員。もう一軒があいていた。
はじめの方が観光の方にはいいんですがね・・後の方が土木の方なんかが長期で泊まったりするので、ということだがべつにかまわない。

行こうとしたら、局長さんが、「送っていきましょう、軽トラやけど」と上着まで着込んで出てきてくださった。
ああ、いいえ、今日はまだ元気なんですよ、歩けますから。
でも関ヶ原の坂はきついですよ。それにまだ1時間以上歩かんといけない。
平気ですよ、大丈夫です。
手を合わせてお礼を言ってお断りした。
ありがたいことだが、いろいろとみたい所もあるし、自分で行きたいのだ、わがままですみません。

寄り道好きな猫のようにうろうろしながら宿(つるや)着5時40分。
おばちゃん一人の宿。
お客は私一人。

明日は最後のコースになる・・・



2002年06月05日(水) ★長命寺、観音正寺を打つ★

昨日の若者たち、なんと5時前からばたばたして出ていった。
まるで早朝から台風がすぎていったようだ。
早く出るのはかまわない、しかし、もっと、静かに・・ができない馬鹿者どもよ、ったくさ。

7時半に朝食をいただいて、今日泊まる豊郷のビジネスホテルくらまの位置もYHのペアレンツから教えてもらった。
しかし「あっこ、連れ込みでっせ」
「でも電話帳なんかにはビジネス、とありますよ」と私がタウンページを見せると、そうやな・・でも地元ではあそこは連れ込み、いうてますわ。
へえ・・どんなとこなんだ?楽しみなような不安なような・・。

7時45分、でた。
長命寺まで、3キロほど、着くと808段の石段のを登るという。
長命寺へのアプローチに入って、どんどん登るが、石段なんてない。どっかで間違えた、ともって戻ると、1台の車。
「これ、長命寺へいくんですか、」
「いくとおもうで、どうしたん?」
「石段、ときいていたのになくて、間違えたのかと、今戻ってきたとこなんです」
「まちがえとらん、わしらもいくし、乗ったらええ、もどったらいかんで」
ええ・・といいつつも乗せていただいた。
あっというまに山上わきの駐車場だ。
少しいくと確かに下から延々と続く石段がある。
えええ・・?どこかに登り口があったんだよねえ。
うなっていてもしかないので、山門からさらに切幡寺くらいはありそうな石段を登った。

険しい崖に張り付くようにある大寺だ。
本堂、護摩堂、三重の塔など、みんな国の重要文化財だ。
お参りをしかけたら、携帯がなった。
私の携帯の着メロはなんとミッキーマウスマーチで、こういう静かなお寺で鳴り響くととても恥ずかしい。
でるとS氏だった。
彼は、今日仕事が休みなのでわたしと「同行3人」するはずだったのだが、ずいぶんと早い。
11時頃安土駅に着くようにして、観音正寺から豊郷まで一緒に行くことになった。
ワタシ的には、昼に安土くらいかな、と、考えていたのでもしかすると少し待たせるかも、だが。
お参りを済ませて、車に乗せてくださったご夫婦にしっかりとお礼を言い直してお別れした。観音正寺まで乗せていくで、ともいってくださったのだが、それは歩きますので、ということで。
石段を下りていくとワタシが間違えた理由が判明した。
車道と、石段道は右と左に別れていて、ワタシは目についた車道に自然と入り込んでしまったのだ。
S氏が、昨日の電話で「長命寺は切旗さんのように石段の上にある寺」とはなしてくれたので、私はアプローチがあって石段と考えていたのだが、いきなり石段の道だったのだ。そういうことだったのね、だ。
知らなかったとはいいながら、車の方に拾ってもらって楽をさせていただいたわけだ。
一休みで、自販機のところで、飲み物を買って休んでいると、バスの運転手さんが「歩いているん?」と話しかけてきた。
いつか、定年になったら、四国を歩いてお遍路したい、とか。今石段道を見つけられなくて、乗せてもらって楽をしてしまった、と話したら、今日はこの後観音正寺さんもあるんやろ、あそこは大変やし、ここでは楽しとけと、観音さんはいわはっているんと違うか、といわれた。
そうでしょうか。

11時安土駅があるし、あついがへたばらずに歩く。
このへんは、水郷、というらしいが、確かにそういう感じだ。
葦が琵琶湖の水を浄化し、再生につながるというのをテレビでやっていたけど、この風景の中を歩いていると実感できる。
水縁をサイクリングロードがはしっていて、そこを歩く。地図のコースではないが、こういうチョイスもありというのがこの地図のいいところだ。
水辺の緑の藪の中ではいろいろな鳥の声がする。
平和な、日本的景色の中のウオーク。

安土駅着、11時40分。
S氏、駅前のベンチで待っていた。
ごめん、ごめん、がんばったんだけど。
いいよ、自分で昨日もいっていたやん、昼近いって、その通りだね。
その後、私は大量の水分補給と軽い昼食。
12時過ぎに出た。
何しろあつい。
話ながら進む。
目の前に広がっているでかい山が観音寺山だという。
まず桑実寺。
登るほどに汗が滝のように出る。
名前の由来は養蚕発祥の地だから、らしい。
しかし、境内には、桑の木は見あたらなかった。
モミジ、ばかりなりけり。

しばらく休んで、また登る。
なかなかの山道だ。
上り詰めると本丸跡だ。
ここの山頂は城跡なのだ。
さて城跡で大迷い、なにしろ道があちこちにある。
「こういうところこそ、道しるべをつけて欲しいよね」
と二人で怒りながらも、この道だろう、というところを進んだ。
2時10分着。
ここは平成5年に火災で本堂消失。今、工事の最中だった。
銅板1000円喜捨。
お参りの後涼しいところでやすんでしばらく時を過ごした。お水がおいしかった。
いつまでも休んでいられない、ということで下山。
今度は道は中山道へ。
しゃべりながら進む。

私のゴールは豊郷だ。
まだかなりある。

豊郷は、あの伊藤忠や丸紅の発祥の地。要するに追近江商人の地だった。
ふたりして、そうだったんだ、といいながら街角にある説明版を読んだ。

6時、S氏と近江鉄道豊郷駅前でさよならした。
話し相手がいて楽しい一日だった。

その後私は「くらま」へ。
見た感じは全然、連れ込みではない店構え。
外には「ビジネス」とあるし。
どうしてこれが?と思うが・・いろいろとあるのだろう。
フロントにいたおねえさんも感じがよかった。

やれやれだ。あと残すは結願寺。



2002年06月04日(火) ★近江八幡YHにて ★

昨日はすごくたくさん書いたのに結局、シグマリオン不具合で アップできずにみんな消えちゃった。ワードに作ってからコピーすればよかったんだけど・・・むなしい。
今朝、サポートに電話して復旧した、よかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今朝は、久しぶりにお寝坊。竹生島行きの船が10時20分、朝御飯もしっかりといただく。新聞も久しぶりに熟読してしまった。
ここは、まるで、向田邦子さんのドラマのセットのような旅館だが、決してきれいなわけではない。
しかし、ご飯は夕べもうまかった。
私はお茶のうまい宿ってそこそこと見ているのだが、ここで朝いただいたお番茶はおいしかった。
ちょうどいれたので、と女将さんが持ってきてくれたコーヒーもおいしかったし。
とにかく、住と食の落差が那智の滝くらいあるんだわ・・・・・・・

シグマリオンの不具合についてNTTに公衆電話もしたいので早めに宿を出た。
くつをはいていたら80歳の女将さん、今日は同級会なんだという。
何人、集まられるんですか?とお聞きしたら、10人。
それってすごいよ。
私の世代の同級会、80代で10人いるだろうか?

港の公衆電話で、フリーダイアルで電話。指示どうりにしたら、シグちゃん、直った。よかった。

今日は彦根に泊まろうか、と思っていたのだが、S氏が「県道彦根近江八幡線は一本道、迷わない。いける」とメールをくださったので、行くことにした。彦根で半日、彦根城を見学というオプションもあったのだがさすがに早くおうちに帰りたくなっている。
お城に詳しい某氏によれは、彦根城は名城だという。そういわれると、好奇心おばさんとしてはいきたいのだが・・また今度ということで。

竹生島は琵琶湖に浮かぶ一枚岩の島。三大弁財天や札所の宝厳寺、縁結びの神社などがある。聖なる島といってよい。
一枚岩ときいただけでパワーがありそう。
あの、エアーズロックもそうだもんね。
船はゆっくりと走る。
約40分で到着だ。
急な階段の上に赤い建物群が見えてくる。
何しろ、彦根行きの船の出航時間まで40分しかない。あの石段をあがってお参りをして、弁財天さんにもご挨拶をして・・忙しい。
出だしはよかったのだが、なんと一番上は弁財天さん。納経所はここだ。ずるをして弁財天さんにお参りをして納経をし、石段を降りて観音さん、と思っていたら、しっかりと納経所に忘れ物。もう一度戻ることになった。
観音さんにしかられた感じ・・だ。ここの観音さん、なかなかにお厳しいよ。
2ケ所をお参りしていたら、もう11時半過ぎ。後5分となった。縁結びさんにはご縁がありませんでした。
大昔、出雲大社にいったとき、友だち3人に縁結び守りを買ってきたら、1年くらいの間にみんななんか決まったよな。自分のを買わなかったのを、後悔、複雑な思いをしたことをつい思い出してしまった。

宝物館もあったしもっといたかったが、後に残った22キロを考えると、長居はできなかった。

彦根着12時15分。
お城が目の前にそびえている。
待ってろよ、彦根城。またくるぜい。
船を下りて、琵琶湖汽船の人に近江八幡に行く県道は?ときいたら、バスがある、電車もといわれた。いいえ、徒歩巡礼です、といったら、ヒマしていた職員が3人もよってたきて道を教えてくれた。仕舞いに今夜の宿のYHがはいった地図まで出てきて「きいてよかった」ということになった。
笑ったのは、あっちへ帰るしな、夕方になったら送ってやるで、といわれてしまったことだ。
「いいえ、歩きますので、今日は歩いてないし元気なんですよ」
といったら、そうか・・元気やなといわれて、みんなで送ってくださった。
ありがとうございました。

さざなみ街道ともいわれる琵琶湖沿いの道は広い歩道がついているし、浜辺の道もよく整備されていて気持ちいい。
県道の騒音に疲れると海べりを歩いた。

一時小雨が来たが、かえって温度があがらずにありがたかった。
24度。このところ、28,27度がふつうだったし、ずいぶんと涼しい気がする。
水車橋というところで、野宿している自転車で琵琶湖一周というおじさんに出会った。
大阪から、という。
青森まで自転車で行ったことがあるという。

琵琶湖の波の音を聞いて歩いていると、なぜかバイカル湖を思い出す。
ものすごくきれいだった。
静かだった。
村が中世そのものだった。
そしてなにより、琵琶湖岸に打ち寄せる波は、バイカルを見て日本海だ、と叫んだという抑留者の悲しい話を思い出す。
湖畔の村の丘には抑留者のお墓が60基あった。

宿着、6時。YHは町中から勧業会館を移築した築100年の建物。なかなか感じがいい。
夕食は、近江牛のステーキ。おいしかった。
昨日からまじめにご飯を食べているなあ。
泊まり客は、外人さんと、徳島からの定年おじさん。
おじさんはうちがいやで、もう1ヶ月も放浪だという。

9時半近くに若い子のグループが来た。
こういうのはルール違反。
やだね。
YHのおじさんも、うちはほんとは9時までなんだよとかってきかせていた。
今もとなりでうるさい。
外国でもYHを利用する私だが、若者はもっと周囲や時間をわきまえる・・・。
それに和式の建物をコンクリートを歩くのと同じ感覚で歩くからドスドスって響く。はあ・・と私、ため息。





2002年06月03日(月) ★近江今津だが・・・★ アップしましたよ!

シグマリオンの不具合でアップできず。
後日いたします。

   ・・・・ ☆ ・・・・ ☆ ・・・・ ☆ ・・・・ 

ビジネスホテル れんが亭を6時30分に出た。
今日のルートは途中まで、通称「鯖街道」だ。
若狭で水揚げした魚を京までとどけた道、鯖が特に多かったことからこの若狭街道が鯖街道とも呼ばれたのだ。

朝のうちは涼しいが、今日も暑くなりそうだ。何しろ空に雲がない。
歩くうちに問題が・・・お腹が痛い。
遠敷川近くのガソリンスタンドでトイレをお借りして飛び込む。
朝は、昨夕京都駅で買った梅おにぎりとお茶だった。
あたるようなモノを食べた覚えはないのだが・・・敢えていえば、おにぎりの中に混ぜ込んであった高菜がよくなかった?
または、昨夜、蒸し暑かったのでクーラーを送風にしておいた。もしかして、身体を冷やしたのか。
今日は、水を補給しながら様子を見なくては・・だ。

上中町に入って、古墳の脇を通過。
外堀は埋められて、カボチャとかが植えられていたがなかなか立派なモノだ。
近くの人が、この辺、田んぼのなかや町中にまだまだいろいろとありますよ、といっていたけど、さすが、だ。
昨日は宿の女将さんが「小浜は人口少ないけど、お寺は多いわ」と笑っていっていた。何しろ、国宝級の寺や仏像が多いんだもん。大陸文化の玄関口のひとつだっただけの事はある。

瓜割の滝という名水公園があったが、水と聞いたら飛びつく私だが今日のお腹具合を考えてれば通過した方がいい、ということで寄り道しなかった。少し残念だ。
上中駅の近くに「親玉旅館」という、面白い名前の宿があった。
なんの親玉かねえ。ネーミングの由来を知りたいところだ。

10時45分、熊川宿に入った。ここは、鯖街道の要地として、宿場として栄えたところだ。町並みにそのころの雰囲気が色濃く残っている。
タバコ屋サンの明治の頃の看板がおもしろい。
「これ、なんでも鑑定団」に出したら、いい値がつくよ」とは観光客の言葉。

今津にはいった。
この旅で初めて、トンネル抜けがある。
寒風トンネルと、水阪トンネルだ。
寒風トンネルは短かったが、水坂は800メートルあまりの長さ、おまけに中で曲がっていて出口が見えない。
いくら歩道があっても気持ちはよくない。

トンネル抜けをしてヤレヤレ、で歩いていたら、道にしゃがんだおじさん2人から声がかかった。
「そんな杖持って、勇ましいカッコしてどこいくんや、山登りか」
「いいえ、西国徒歩巡礼」
「お寺か」
「そう、竹生島にお参りです、次は」
などとしゃべっていたら、一人のおじさんが「ワシ、これから今津に帰るで、乗せていこか、このさき303号は歩道はないし、せまいしまがっとるし、危ないで、のっていけや」
時計は1時半。
まだまだ元気な私である。
丁寧にお断りした。

民家はないが、すぐ近くに救護施設がある。
その関係で不思議な雰囲気の人たちがお散歩していた。

車に乗れといってくれたおじさんは、私が歩いているとうしろから来てさらに誘ってくれたが、重ねてお断り。
しかし、あとで後悔した。
本当に303号は、通る車の5台のうち3台はダンプ系で、人気の少ない道だから飛ばしてくる。よけてくれる車はいいが、中にがまったくその気配なし、で、私のわきすれすれですごいスピードでいくものもある。恐くて、泣きそうになった。
あのおじさん、車観音さんだったのかも、と思ったことだった。
自衛隊の演習地付近が特に荒れている。自衛隊さん、道の草刈りしろよ、といいたい。何しろ、ささやかに白線で仕切った歩道も草でふさがっているのだから。

今津の宿(福田屋旅館)着4時半。
さて。福田屋さん、昔はとてもいい宿だった・・と思うのだが、今は恐い感じ・・・だ。
なんか、古すぎて。
お風呂にいったら、なんと「軍用旅館」の鏡があった。
ホントに時間が止まっている感じだ。

しかし、食事は美味しかった。
特に滝川豆腐と、スズキの焼き物が絶品だった。
息子さんが板前さんなんだという。
「大阪で、25年も修業したんです」
なかなか愛想のいい女将さんが嬉しそうにいっていた。
この方のお顔も、昔美人の典型だった。
今は、ちょっと「魔法遣い」の風情があるが。

宿の裏は琵琶湖がきれいだった。












2002年06月02日(日) ★小浜にて停滞 足が喜ぶ★

今日は、用で大阪まで出た。
今津まででたついでにツーリストインフォに寄ったら、なんと長命寺行きの船が廃止になっていることが判明。さらに泊まろうと考えていた国民宿舎今津荘も取り壊し。ドヒャーである。
つまり、船の出ている彦根に1泊して翌日長命寺まで歩くことになる。
ここは地図がない。
勘、だねえ。

一日歩きを休んだおかげで足がずいぶん楽になった。特に足裏が大喜びしている感じ。よかったね。
また、明日からがんばろう。
明日は鯖街道を歩く。



2002年06月01日(土) ★29番松尾寺打つ、小浜まで・・琵琶湖への道★

東舞鶴、トップイン発6時35分、鍵をフロントではなくて専用のボックス(フロントに人がいてもよ)にいれたり、お湯が余剰電力の利用なのでお風呂2回分しかない、とか・・いろいろと変わったところのあったホテル。でも、禁煙ルームを持っていた。(満員で私は入れなかったが)ビジネスホテルもさまざまだということがここまでくるとよくわかる。
旅館で食事付きもいいが、昨日も今日も、すぐ近くに大きなショッピングセンターがあったので、そこで食事をしたり、朝食を買ったり、野菜や果物の系の栄養補給の材料買ったりできた。欧米で、YHに泊まると、買い物して自分で作る、が基本なので私には違和感はない。それに、微妙な地域性をスーパーで探すのもおもしろいし。たとえば、ミネラルウオーターを売ってないとか、お寿司のネタが新鮮とか。
まあ、好きなモノを好きなように食べられるこの方が自分らしくていい。

今日は距離が出る。
で、気になる右足首の捻挫古傷にサポーターをした。そしたら、かえって痛いではないか。30分ばかりも歩いて取った。してもしなくても痛いんだったら、しないがいい。
今日は土曜なのでに中学生が自転車で行く。女の子はあいさつするが、男は無視、だ。部活なんだろか。
ウオーキングする人も多い。
おじさん二人が私に「どこいくん?あおばさんか?」と声をかけてきた。
はい、今日はその後小浜まで行くといったら、ここからでも35キロあるで、青葉山寄ってからいくんかい?えらいことや、といわれてしまった。
そうなのよね。
はい、わかってます、がんばります。

青葉山松尾寺.
今私が持っている徒歩地図の発行もとだ。
この地図がなかったら歩こうとは思わなかったし、岩滝であった「ありの会」の運転手さんにも住職によろしく、といわれているので是非、松尾心空師にお会いしたいと思う。
青葉山は、699メートルある若狭富士といわれるこのへんの名峰。
松尾寺派その山麓にある、馬頭観音が本尊のお寺だ。
この観音様のご真言て、なんかおもしろいんだけど、滅多にいわないからうまくいえない。
例のごとく、若干の山登り。なんと松尾寺の周辺には人家も20軒ばかりあった。まあ、標高280メートルほどだから、あってもふしぎはないが。
階段の長い、落ち着いたたづまいの寺。
手水のお水がおいしくて、何杯も飲んでしまった。
まだ、人も少ないのでゆっくりとお参りした。

納経所にいったら、なんとうれしいことが、待っていた。
西国を2回徒歩でまわられて、出かける前にいろいろと資料をいただいたり、助言をくださった、横浜南区シバヤマさんからメーッセジが届いていた。 
「よくがんばって歩きました。これから1週間は山坂も少なく歩きよくなりますので気をつけてがんばってください」
すごくうれしかった。
日記を読んでいてくださったんだと思う。
シバヤマさん、ありがとうございました。
とてもうれしかったです!
心配メールをくださる、友人知人も多い。これもありがとうございます。
応援があるから、ありがたい、力をもらう、としみじみと思う。

ご住職さまには、本があるから歩かせていただいています、とお礼を申し上げ、運転手のシラスさんにお会いしたこともお話しした。
どうしてもわからない、というところが時々ある・・・といったらにこにこと「勘やで」の一言。笑った。そうですね、そのニュアンスです、それで、やってきました。
ジュースをお接待でいただいた。おいしかった。本も、ともってきてくださったのだが。買い求めさせていただきました、といったらそうか、そうかとうなずかれた。シバヤマさんの話になって「あの人は歩くの速いからなあ」「そうなんです、そうなんです」。あの方は1日40キロ平気だからなあ。

松尾寺発10時。納経所の方が、本堂前の道を丁寧に教えてくださった。

ショートカットのために国道を歩くと決めている。もっとも、歩道があったら、の話だが。

高浜、大飯と、美しい海岸線、海。でも原発の基地だ。関西の電力の供給地となっている。そのせいでか、まちには立派な建物が多い。そして、原発近くの海が一番きれい、みたい。

黙々と歩道歩き、時々トイレや休憩に手頃な場所もあるし、今日は快適だ。しかし、あつい。黙々すぎて、ほとんど瞑想歩き、携帯がなったのも気がつかず、お昼のおにぎりを食べながら、着信がはいっていてびっくり。
今日、足もほとんど痛くない、おかげさまで。
こうなると、休み休みだったら結構歩けるぞ。
有効期限切れのゲンタミン軟膏が効いたらしい。

途中で、岡津製塩遺跡というのがあったので寄った。
このへんは「調塩」という、課税が大和朝廷から課せられていたのだという。
4時近く。まだ、10キロ以上距離が残っているのに寄り道とはこれいかにだが、好奇心には勝てませぬ。


いよいよ、国道はずれて、小浜までの海岸ぐねぐねルート。
どんな道かと思っていたら、なんと自転車専用道路。しかし、自転車の人には2人しかあわなかった。10キロもあるのに。なんか地元民には忘れ去られている感じの道だ。
さすがに疲れが来て足が痛くなってきている。
なにより、右足首が心配。
ふうふう状態で、6時50分、小浜駅前のビジネスホテルれんが亭着。明日は、一日休んで、大阪・徳島へ行くので駅至近のホテルとした。

8時過ぎに町に食事に出たら、居酒屋とスナックのみ。かろうじて、ラーメン屋をみつけてはいるがここも居酒屋状態。メニューにカレイの種類だけで4種もあった。こういうのを肴にプハー(ビール飲み音)をしたら極楽だろうが、巡礼中は酒断ちなので、はあああああ・・・・

アップする前に寝てしまった。あついと、体がすごく消耗する感じがする。
で、6/2日早朝アップでした。



 < 過去  INDEX  未来 >


moheji.s [MAIL]

My追加