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| 2003年05月31日(土) |
愛すること。愛されること。 |
●午前4時。恋人が仕事を終えて家にやってきた。
働き過ぎ。責任の重い仕事が途切れることなく続いて、緊張の溶ける暇もなく。……台風風の音だけが聞こえる夜にドアチャイムが響き、扉を開けたら呆然と彼は立っていた。
青春期から、相当な時間とお金と愛情をお酒に注いできた彼が、お酒の飲めない体になっている。シャワーを浴びる彼を待ちながらジンリッキーを作って飲んでいたわたしを、バスタオルで体をくるみながら羨ましげに眺める。そして「お腹が空いた」と言う。
その時間で胃に負担がかからないものと言ったら……と、お茶漬けを作る。冷蔵庫にあった塩鮭を焼き、冷凍してあった玄米を解凍し、焼きあがるのを待っている間に、ゆうるりと彼の体をマッサージしてあげる。触り慣れた体、自分の体とおんなじくらいよく知っている体の、凝りに触れ、さすり、あたためてあげる。
午前5時、彼は鮭茶漬けを食べる。肩を落として、でも、「美味しい」と言いながら。ちゃんと食欲があるのでわたしは安心する。
おかわりをして、食べ終えて、「もう眠ったら?」と促すと、「もうちょっとだけマッサージして欲しい」と彼は言う。わたしは「足をさすって欲しいんでしょ?」と答える。「君はエスパー?」と彼が言う。
アスリートレベルに達している腕の筋肉を存分に使って、彼の足の裏からふくらはぎをマッサージしてあげる。そして彼は、眠りにつく。うちのベッドは小さくて二人だとゆっくりできないので、これを書き終えたら、わたしはソファーでやすみ、10時になったら、彼を起こそう。
●今日1日あったことなんて、恋人が訪れたことで、何もかもふっとんでしまった。ライ麦畑を読み進んで、女子高生だったわたしにはさっぱり分からなかったホールデンの心持ちが手に取るように分かり面白いと思ったりして、今日の日誌はそのことだけでも埋まったはずなのに、今や、ホールデンなんてどうでもよくなってしまった。
A氏は、わたしが恋人の体調を気遣って「しばらくこないでほしい」と伝えたことばを真っ向から受け止めつつ、「それでも僕の方があいつより愛しているし、君が寂しいと感じるならいつでも駆けつける、それがあいつに会えないから寂しいという感情であっても」というようなメールを送ってきた。そんなA氏の気持ちを知りながら、わたしはシーツだの布団のカバーだのを全部新品に取り替えて、恋人を待っていたのだ。なんなんだ、わたしって女は。
……A氏は、今日、息子の運動会だ。もう早起きして、きっとお弁当を作り始めているに違いない。出来得れば、わたしと共に息子を眺めたいと願いつつ。
この間、早朝わたしにメールを書いていたら、知らぬうちに息子が後ろにいて、「あんなに美味しい朝ご飯は久しぶりでした……」と、小学校3年生の息子が声に出して読み出したらしい。慌ててノートパソコンを閉じるA氏の姿が目に浮かぶ。微笑ましい。
現実は。一度に二人の男を愛することはあっても、一度に二人の愛情に答える女であることは、ありえない。絶対に、ありえない。
●恋人の寝姿を、そっとのぞいてみる。わたしの視線を知ってか知らずか、彼は窓の方に寝返りをうつ。
他者を愛するというのは、なんて幸福で、なんて重労働なんだろう。
20代なんて、二人三人かけもちしたって、わたし、平気だった。それが今は。でも、逆に、思う。歳をとるのは、存外素敵なことかもしれない、と。苦しみもだえつつも、そう思う。人を愛することがなくって、人生にどれほどの意味がある? 自分を思い、A氏を思い、恋人を思い、そう思う。
| 2003年05月30日(金) |
眠れる筋肉。そして迷い。 |
●そして、昨日書いたとおり、わたしは診断を受けてきた。開けてびっくり玉手箱。またしても、10年前わたしに胡座をかかせたのと同じ状況が……。
診断してくれた人は「素晴らしい」の連発。10年前と同じく、「何か運動されてるでしょ?」と聞かれる。答えはもちろん「NO」だ。
曰く。
「あなたの体格判定は〈理想的〉です。体重、体脂肪率ともに標準です。摂取カロリー(飲食)と消費カロリー(運動量)のバランスがとれている状態と思われますので、今後とも現在の生活パターンを維持していきましょう」
維持っていったって、大酒は飲む、食生活は気まぐれ、運動する暇なんてない、朝でも昼でも気が向いたら寝る究極の不規則生活。それを改善しようと立ち上がったのに、「素晴らしい」を連発されてしまうと、もう、何がなんだか。
でも、つまびらかに結果を見ていくと、体重はかなりオーバーしているし、体脂肪だって標準より多い。間違いじゃないのかと聞いてみると、答えはわたしの筋肉にあった。……多いのだ、筋肉が。多すぎる脂肪も多すぎる体重も、筋肉量が人よりかなり多いことが、すべてをカバーして標準体型とみなしてくれているらしいのだ。と言われて、筋肉の項を見てみると、確かに、全身がフィットネス目標と言われるラインの最高レベルに達している。両腕はすでにアスリートレベルの筋肉量だ。
こういうのって、やはり母に感謝すべきなんだろうか? 確かに、スポーツは何もやってこなかったけれど、歩くのは好きだし、頑張りもきく。なんにも育てようとしていなかったのに、見えないところで、そんなに筋肉なるものが育っていたんだなあ。……ずっと誉められていると、なんだかわたしは長年にわたって宝の持ち腐れをしてきたような気になってくる。座り仕事書き仕事ばっかりして、時間があればソファーに寝っ転がって本を読み。
結局、この素晴らしい(!)筋肉量を維持しつつ、さらなる体力アップに向けて体脂肪を減らしていきましょう、と、目標設定。うーん、でも、今のわたし、去年の今ごろより8キロも太っているし、何処から見ても丸々していて、みっともないことこの上ない。納得いかないけれど、ま、元気であればあるほど、そりゃあ毎日は楽しくなる。それに歳をとると、不良であることも、健康でなければ出来ないことなのだ。よし。わたしは幾つになっても不良でいるために、体を鍛えるぞ。
●そんな結果のあと、気持ちよく運動して帰ってくると、恋人から電話。ずっと体調が悪いとは聞いていたが、昨日、仕事を休み、一日家で休養したと言う。わたしたちの仕事で、それもわたしや恋人のようなタイプが仕事を休むというのは、よっぽどのことなのだ。そのよっぽどのことが起こっていることをわたしは知らなかった。連絡もしてくれなかった。気をつかったのだろうが、どうしてわたしに助けを求めてくれないのか。
会いたいと突然訪れたA氏に、ひどいことと知りつつ、帰ってもらう。助けてあげられない自分と、助けを求められない自分が悲しい。
いつまでこんなことをしているのだろうと、自分を責める。A氏の求婚に心を揺さぶられていた時期だけに、よけい、恋人への思いが募る。でも恋人は、9月になればパリに発ち、奥さんとの暮らしを再開する。でも、それも1年のことだ。その後は、またわたしの恋人に戻るだろう。彼はよく言う。「ずっと一緒にいられればいいね」と。そんな中途半端な誘いで、わたしを引き留める。でも、わたしは、これだけ好きなのだから、それでいいと思ってきた。A氏が現れるまでは。
わたしは一体いつになったら答えを出せるのか。
※HP Etceteraに、「等しく降り注ぐ眼差し」をUP。
●素晴らしいお天気なので、10時半頃ようやく眠りについたものの、もったいなくて1時に起きてしまう。それでもなんだか元気で、床の拭き掃除などはじめる(何ヶ月ぶりだろう……?)。五月らしいお天気を長らく与えられていなかったので、気持ちが弾む。
予定していた芝居は、チケットが意外やとれず、先送り。仕方ないので、次の予定であった、スポーツジムの申し込みに出かける。
1ヶ月まるまる、あと1ヶ月も自由時間たっぷりという2ヶ月のお休みを前に、どうしてもやりたいことの一つが、体の鍛え直しだった。40歳を過ぎて、どうも疲れやすく、(当たり前と言っちゃ当たり前なんだけれど)徹夜翌日の集中力がイマイチだったりする。花粉症に苦しめられるのも、偏った食生活とか、体の軟弱化からきてるのではないかと思うし(実際は体力は関係ないみたいだけれど、何か、こう、気分的にね)、何より困るのは、疲れてくると、歩きたくなくなったり、すぐ座りたくなったりするということ。これはわたしの信条に実に反する。いかん。いかん。こんなことでは。
30歳を過ぎたときも、20代からの変化と、座り仕事が増えたことからくる不安で、体力測定に行ってみたりした。この時の結果っていうのがなかなか凄くって、心臓年齢18歳、運動能力年齢20歳と診断されたのだ。
これにわたしは胡座をかいてしまった。定期的に運動するわけでもなく、煙草はバカバカ吸うわ、酒は飲めるだけ飲むわ、生活は不規則で慢性睡眠不足、おまけに食生活はずたぼろ。それでも、自分は大丈夫って、どこか過信してしまっていたんだな。
で、2ヶ月でどこまで戻るかわからないけれど、運動しよう、筋力を戻そう、引き締めよう、と、考えたわけだ(わたしは、いつもこうして短絡的に行動する)。
明日、別料金を払って(!)カウンセリングとテストを受けてくる。惨憺たる結果が予想されて恐ろしいが、ま、何事も現実を知るところから始めなければなるまい。
●帰宅途中、ふと立ち寄ったユザワヤで、いろいろな布を衝動買いしてしまい、帰宅後、物置からおもむろにミシンなど取りいだし、カーペットがわりにするファブリックに滑り止めを縫いつけたり、様々な袋縫いをしたり、突然の縫い物熱。
18歳で劇団に入ったとき、かなり強制的に先輩の衣装を縫わされたおかげで、まったくの独学だが、ある程度の服なら自分で縫えるし、型紙も作れる。20代は時間はあってもお金がなかったから、ずっとお手製の服を着ていた時代もあった。でも、今はお金で時間を買いたいくらいだから、ミシンを触るなんてこと、ほとんどなくなってしまった。
ずっと物置で眠っていた20年前購入の旧型ミシンは、ガタガタと音をたててうるさいったらないのだが、それでもきっちり布送りし、下糸と上糸のコンビネーションもまずまずだ。きっちり布と布がくっついていく。わたしのミシンさばきも、さほど衰えていない。……楽しいのだ。実に実に、久しぶりのミシンは楽しかった。
そうやってお休みを楽しんだあとは必ず、「もっとほかにやるべきことがあるでしょ!」と反省するのだが、まあ、楽しいものは楽しいのだ、と、自分にエクスキューズする。
●ついに村上春樹の訳したライ麦畑を読み始める。高校生のとき野崎訳を読んでいたし(意外にもたいして好きではなかった)、そしてあまりに売れているものだから、「今読まなくてもいいか」と思ってきたのだが、昨日のラブリー・ボーンの翻訳にちょっとうんざりして、何かいいものに出会いたくなってしまった。
読み始めると、まあ、忘れてしまっているせいもあるが、初読みの感じ。
明日からは、観劇だのなんだの、予定がしばらく詰まっている。自分を忙しく動かして、しばらくは、恋人とA氏の狭間で苦しむところから逃避したい。
| 2003年05月28日(水) |
五感の喜び。生きている手触り。 ●ラブリー・ボーン(アリス・シーボルド) |
●部屋の整理、とりあえず最終日。素晴らしいお天気なので、日常着の洗濯に加えて、ベッドの各種カバー類、ソファーのクロスだのクッションカバーだの、洗濯したかったものを次々と洗濯機に放り込む。午前中に一巡目が乾いてしまうという鮮やかな5月の日差し。
8畳ほどあるベランダは、廃棄と決めた燃えないゴミの山。先日遊びにきたA氏が、この量を見かねて、朝のゴミ出しに備えて泊まりにきてくれた。一日肉体労働をしてきた後なので、一時頃には就寝。離れた部屋から小さく寝息の聞こえてくる中、わたしはあれこれ書き留める作業。二時過ぎに携帯が鳴る。その時間は恋人からだ。あまりの忙しさに体調を崩しているという。でも、わたしは何もしてあげることができない。朝、モーニングコールをしてあげたり、激励のメールを送ったり、お呼びがかかったらいつでも飛んでいき、酒を囲むことくらいのこと。せいぜい出来るのは。
気分を変えて、読みかけの本を読む。全米でベストセラーになったという「The Lovely Bone」。ソファーで、お風呂で、テーブルで、ソファーで、読み続け、読み終えたら六時。
●主人公である語り手は、すでに死んで、天国にいる。14歳で、近所に住む男にレイプされ、そのまますぐに切り刻まれたのだ。物語は、彼女の死を家族がどう受け止め、まわりの人間がどう受け止め、生きていくかを、彼女自身が語っていくもの。とても穏やかな天国という世界から。
残酷な現実から端を発しているのに、死後をとても穏やかで温かいものと設定してあるから、彼女の語りには不思議な軽やかさと弾みがあり、みずみずしい。残酷なのは、残された人々生活、現実の方だ。
父親は娘の死が受け入れられず、犯人捜しに生活が囚われてしまう。母親は同じく娘の死が受け入れられず、逆に夫の執念から逃れたくなり、浮気をしてしまう。そして家を出る。亡くした娘への愛情で、生きている娘、息子への愛情は屈折したり目減りしたり、その中で、娘も息子も、姉の死を受け入れようとする。その屈折。また、主人公が生と死の狭間で「すっと触れていった」女の子は、主人公の死にとりつかれ、長じては、殺人のあった場所にいくと、その現場のイメージを追想するようになってしまう。
とにかく、ひとつの死は、たくさんの人の生活を揺るがしていく。主人公はそれを一際明るい視線で見守っていく。
彼女の悲しみは、自分が彼らに触れられないこと。自分が彼らに影響できないこと。明らかに自分の死からすべてが派生していったはずなのに、自分はもう彼らにどう関わることもできないということ。
でも、物語の最後には、崩壊した家族は再生の兆しを見せ、主人公にも、一瞬の奇跡が起こる。作者の視線は、最後には、あくまで人に甘く優しい。
わたしは決してこの小説が好きじゃない。レイプを実際に体験した作者の書こうとしていることは、厳しいけれども前向きで好みなのだが、何もかもが如何にも割り切れてアメリカ的で、リアリティーを感じられない描写が多く。また、作者には関係のないことだろうが、そういう作風に乗っかりすぎた翻訳が、どうもいただけない。
でも、好きであろうが好きでなかろうが、この物語は、五感の在ることの喜びを読者に残す。美醜や善し悪しを問わず、自らの目で見ること。聞くこと。匂いを感じること。舌にのせ味わうこと。自分に、他者に、あらゆるものに、触れること。
好きな人に触れることができる。それが、どれほど素晴らしいことか。そのすばらしさに改めて驚きながら、朝を迎えた。思いついて、6時半に起きるというA氏のためにお弁当をこしらえ始める。
A氏がどれだけわたしに愛情を捧げてくれても、わたしは恋人のことを考え続けている。それを知っているA氏は、今や「無理して忘れなくてもいいから。俺といてくれれば」と、恐れもてらいもなく、一緒にいようとする。
わたしの薦めた河野多恵子の「秘事」を昨日読み終えたA氏は、眠る前に、わたしに宛てて手紙を書いていた。奥さんを病気で亡くした時のこと。今はわたしの健康をひたすらに願っているということ。
恋人のことをひたすらに考えるわたしであっても、ひたすらにわたしを愛してくれているA氏のことを、とても大事に思っている。ただ、それを、うまく形にすることは、今はできない。
彼にも、せめて出来ることをする。彼に触れて起こしてあげ、できたてのお弁当を包んであげる。朝とお昼の二食分。ふたつの包み。そして送り出す。送り出したとたん、一気に寂しくなり、こうして日誌を記す。どうして寂しいのかも、はっきりとは分からないままに。
今日も素晴らしいお天気だ。こんな時間まで起き続けてしまっても、あれこれ考えることで興奮しているせいか、ちっとも眠くない。
9時半に恋人にモーニングコールをかけ、それからまた新しい本の扉を開こうか。それとも、広々とした部屋中を、久しぶりに磨き上げようか? でも、夜は芝居を観に行く予定だから、少しは寝ないとな、などなどと思い巡らしながら、こうして与えられた私自身の現在、私自身の状況から、何を語り始められるのかと考えている。
この世にこうして生かされていることへの、恩返しを、考えている。(そうだ、たまには母に電話して、親孝行することも大事だな……)
| 2003年05月27日(火) |
あなたの精神の大切な部分が亡びてしまうと思うことが…… ●山ほととぎすほしいまま(秋元松代) |
●秋元松代さんの作品を観た。
強靱な精神を持った女性の書く、強靱な精神を持った女性の破滅の物語。そこに確かに、秋元さんがいた。
わたしがお会いした時には、もうかなり御高齢でいらっしゃったが、優しい輝きを放つ目の奥に、自分への、他人への、社会への、厳しさの固まりみたいなものが座っていて、怖かった。強靱であることを自分に強いてきた人独特の、孤高の鈍い輝きのようなもの。どんなに笑っていても、他者をよせつけない、孤独の悲しみと輝き。
●34歳から戯曲を書き始め、死に至るまで、戯曲を書くことのみに生きた秋元さんの、ことば。ことば。
「夜、仕事のことを考えて頭が狂いそうだ。突然に死にそうな不安で大声をあげる」
「時々ふっと空虚になる。すると、さくさくと心の崩れるのがきこえる。孤独と手応えのない自信と。その二つの下で生きねばならぬ」
「演出家や役者に文句つけられて直すような作品は書いちゃいけません。そういうことは言わせないように書くっていうことです。それがホントの劇作家です。あたしは欲が深いのよ、ものすごく欲張りなの。最高のもの、充実したものでなければ、ああ、いいと思わないの、満足しないの」
「私は命がけになることしか知らない人間だ」
「失望を重ねることは何度もあった。いっそ劇作をやめよう、と思ったことは一度や二度ではなかった。しかし私は戯曲に戻った。私を支えてくれるものは他になく、私は何よりも戯曲を書くことを好み、熱く深く戯曲を愛したから、劇作家であることに喜びがあった。それが私の自然な生き方だった」
「かれらが私を老婆とみて優越を誇るなら、せめて束の間の優越を味わわせてやってもいいではないか」
「私よ、お前は勇気を持ち、ただ一人で、生きられる時まで歓びを持って生きて行くのだ」
●女性が一人で、自分と闘い、他者と闘い、社会と闘い、闘い闘い闘い続けて生きていく。そして、一人、死んでいく。
秋元先生のお葬式の手伝いをさせていただいた時、わたしは、わたしなどには想像さえ出来ない、強靱な女性の人生時間を思い、震えがきた。
霧雨の降り続く、寒い寒い、春の日だった。
●何か創り出そうとする時。何かを書こうとする時。いつも思い出す秋元先生のことばがある。
「あなたがこれだけはいいたい、ぜひいいたい、それをいわねば、あなたの精神の大切な部分が亡びてしまうと思うことが、一つはあるでしょう。それを分かりやすく、誰か一人の人に話しかける気持ちで書けばいいのです」
なんて優しく、なんて強いことばだろう。
●こうして、夜中にひとり、わたしは、大切な人たちがその人生を賭して残してくれた指針を、生かせるも生かせないも、ただ、頭を垂れて受け止めている。
| 2003年05月26日(月) |
作業終了。整った部屋。美しい生活。 |
●こういうことはダラダラやってはいけないのだと自分に言い聞かせて、一日、一心不乱に資料整理の続きをする。紙との壮絶な闘い。
頑張った甲斐あって、ゴミ袋3袋分の紙が要らぬものと判明。すっきりさっぱりしたところで、新しい収納道具を買いに出かける。10年分が大きなクリアケース4個におさまり、これまた整理されて空きがたっぷりできた押入に直行。これでいつ何時「あ、あの時のあの資料が……」なんて思っても、さくさくっと出てくる。なんて素晴らしい! 実に実に素敵!
「だったら毎回終わるたびに整理すればいいのに」という心の声が聞こえてこないでもないが、逆に、「これであと10年整理できなくってもなんとかなるか……」なーんて囁きの方が魅力的に聞こえたりして。
●さあ、これでようやく仕事をする体勢が整った。自分の先の足場になる勉強を、地道に始めよう。
でも今日は頑張ったご褒美に、お風呂でのんびり本でも読もう。ゆったりゆったりした心持ちで。
●毎日、自分で作って食べる食事が、とっても美味しい。
わたしの回りには、workaholicが多い。仕事をし続けていないと自分を持て余してしまうのだ。或いは、働き続けることで得られるものに多分の愛情とこだわりを持っているか。
わたしは駄目。休まないと駄目。貧乏になったって休む時には休む。
当たり前な、人並みな暮らしをしていないと忘れてしまうことがたくさんあるし、なんたって、自分で食事を作る時間があったり、ゆっくりコーヒーを淹れる余裕があったり、好きなだけ本を読んだり映画が見れたり、気になることがあったらとことん調べ物に打ち込めたり、そういうことって、本当に本当に、美しい時間なんだもの。
同じ生きるなら、いろんな種類のいろんな喜び、いろんな美しさを、享受したい。うん。間違ってないよね。
●A氏の、「明日にでも結婚したい」という果敢な攻撃は続き、恋人は相変わらず忙殺されて、夜中に「明日○時に起こして!」という短い電話をかけてくるだけ。
夕刻、東北で地震があった時には、うちのアパートもずいぶん揺れて、たかだか震度3くらいで震え上がっていた。結婚するのも悪くないか……と、そんな時に、とっても短絡的に、思ってしまったりするわたしがいる。
| 2003年05月25日(日) |
許せない。●くさいくさいチーズぼうや&たくさんのおとぼけ話(レイン・スミス) |
●酔ったまま薄着で寝て、起きたら風邪ぎみ。薬を飲んで寝てれば治ると、ベッドに戻り、昨日また仕入れてきた本を開く。読み疲れて眠ってしまい、夕刻目が覚めると、嘘のように風邪のにおいが消えている。SARSで苦しむ人々の悲劇が刻々と増加していく中にあって、わたしはなんて幸せなんだろう。
元気になって。山のようにたまった仕事の資料を整理する。今は資料の半分はコンピュータの中にデータの形で残しているが、かつてはすべて紙、印刷物、手書きのものたちだった。ほぼ15年分。個人的な記憶を開くより、仕事の記憶を開く方が、よほど心が揺れる。
●この間整理作業の途中で見つけた折り紙の本を手にとる。
保育園、幼稚園と、折り紙の天才とわたしは呼ばれていた。すべては母に教わったものだが、一度覚えると忘れず、手先が器用だったのか、素早くきれいに折りあげる、と、園内で評判だったのだ。
先日、池田小学校事件の被告宅間の公判があったおり、また被害者の子供たちの姿が取り上げられていた。一人の女の子が、小さい頃のわたしのように折り紙の上手な子で、自分と重なり、親の悲しみが自分の親と重なり、気分が悪くなるくらい辛くなった。
ふだん、すべてのニュースに自分をひきつけて見ていたら生きていけなくなるので、ちゃんと「他人事」というフィルターをいくらかかけてみるわけだが、こういうちょっとしたリンクが、フィルターを取り除いてしまう。
時々、思いついたように、折り紙を折る。
病院で怖くてひどく泣いている子に折ってあげて、涙が止まったこともある。わたしのレパートリーの中では、女の子には百合の花が、男の子には蟹が人気。
大人には、親鶴のしっぽをくわえて子ども鶴が飛ぶ変わり鶴や、夫婦鶴が人気。喜ばれると、わたしは嬉々として折り続ける。そういう時って、なんだかとっても人生がこの上なく素敵な時間に思われるんだな。たかだか紙を折っているだけのことなのに。
他人の人生の、あらゆる素敵な時間の可能性を、簡単に奪う人間が許せない。
| 2003年05月24日(土) |
三文恋愛物語。その渦中にあって。●オイル |
●目が覚めると、久しぶりにいいお天気。求める資料台本が見つからぬまま、わたしの探索整理作業はベランダに鎮座まします物置へ発展。
引っ越してから2年間、何処に何があるやら把握しないままに暮らしていたすべてを洗いざらいベランダに放り出して、質量を半分に減らす。捨てる喜び。
作業半ばで目指す資料を見つけてほっとすると同時に、開けてしまった以上は途中でやめられぬ作業を、忘却の彼方にあった写真だの書籍だのに気を取られながらも、遂行。
とても一人では簡単に進まない作業を、A氏が手伝ってくれる。すぐに「休憩!」と一人言い放ち、日差しを浴びながら喫煙を楽しむわたしの尻をたたきながら、汗をかいて作業を進めるA氏に、「この人とだったら生活できるかもしれない……」などと考えるわたしがいる。なんと短絡的な、と思いつつも、こういう直感に従うべきか……とも思ったり。
開けず触れずの空間にすべて手をいれ、持ち物が半分になる。うーん、素晴らしい。
A氏は、わたしを自分の人生に取り込むための運動に余念がない。そしてまた、その愛情は一生変わらないであろうと信じさせる純粋さがある。
●千穐楽を明日にひかえて、ぱんぱんに入っているだろう野田秀樹氏の「オイル」。知り合いのプロデューサーに電話をかけてコネを使っても、やっと立ち見で入れる勢い。
80年に駒場ではじめて観て以来、特に最近の作品はずっと追っかけて観てきたが、今回は、氏の転換期か?と思われるような異色作品。テーマがなんともストレートに表れ過ぎて、わたしはひたすらに戸惑う。彼の、他者にはなかなか手の届かなかった遊びの部分がそぎ落とされてしまって、実に正攻法。ほとんどの観客はそのストレートさを手放しで受け入れているような感じだったが、如何なものか。わたしには、想像力の喚起される要素が少なく、抒情にも欠けるものに見えてしまったのだが。
でも、それが転換期であるのなら、彼の選んだ成熟の方向なら、いつまでだって見続けようと思わせる力は、ある。まだまだ、ある。もちろん、ある。
●A氏と会うと、必ずそのあと、自分の気持ちを確かめるようにして、恋人と会うことを選ぶわたしがいる。終演後、2時間喫茶店で本を読みつつ待って、一緒に深夜の食事。彼は疲れ切っていて、会った直後は、わたしといることなどまるで気にも留めぬように、仕事のことを考えている。上の空。
それが、時間が進むにつれ、次第に溶けていき、視界にわたしが入ってくる。分かれる頃には、誰も入り込む隙のない恋人どうしに戻っているような気がしてしまう。
三者三様、皆それぞれに全力で生きるタイプなので、もう、わたしが何を選ぼうがどうでもいいような気がしてくる。もちろんそんなことはあり得なくて、そこにまさに、この先のわたしの人生がかかっているのだけれど。
三文恋愛物語は、こうしてまだ続いていくのか?
| 2003年05月23日(金) |
雑味を剥いで、恋をする。 |
●休み中の快楽は、好きなだけ好きな時間帯に本を読めること。「明日は何時起きだから……」という縛りもなく、物語の中に没頭できる。
その快楽を放棄して、とりあえず、今日も部屋の整理、過去の投棄を進める。捨ててしまえば。記憶の中のものを反芻することで、自分の過去の捏造がはじまる。その是非はともかく、自分のかつての時間もフィクションのようにしてしまうことで、わたしは人生半分過ごしてきた。
嘘つきミッチャンとして「全身小説家」(原一男監督)に描かれた井上光晴ほどではないが、いまだに「ありのまま」の自分なんてものがよく分からずに、色んな側面で色んな自分が出てきてしまう。そしてさらには、TPOに合わせて自己演出するのがうまいものだから、自分の正体がどんどん混迷をきたす。この資質は職業的には実に役にたっているのだけれど、精神に破綻をきたすことがあるので、休める時には、「ニュートラル」を心がける。なるべき人と会わないで、リハビリをする。自らがまとう雑味をちょっとずつ剥いでみる。今はそんな時期。
●テレビを流しっぱなしにしていたら、綾戸千絵さんが出ていて、しばし手を休めて見入る。歌しか聴いたことがなく、その人となりは全く知らなかったものだから、ちょっとびっくり。歌ってないと、どこを切っても大阪のおばはんが出てくる金太郎飴のような人。しゃべくりはうまいし、どえらく明るいし、吉本を見て育った根っからの関西人であるわたしは、受けまくり。久しぶりにテレビを見て、大声を出して笑った。
切ないことつらいことを知っている人の強さに敬服しながら、わたしはまた荷物の整理に精を出す。
●A氏が家に来ていて、うちの台所でなんだか脚本を書いている。わたしはわたしで、こうして日誌を書いており、書き終わったら、また整理の続き。
36歳の恋人と46歳のA氏の間で、わたしは「なるしかないか……」と揺れている。恋人と呼ぶ人が妻帯者で、横恋慕してきたA氏が独身で求婚しているというのも、なんだかおかしな話だ。
恋人は長らく別居しているし、一度A氏と結婚しようとしたわたしを必死に止めたのも恋人自身だ。わたしも恋人も、ろくなものじゃない。
恋をするって、幾つになっても、なんて大変なんだろう? いや、歳をとればとるほど、雑味が減って、まっすぐになって、自分が生きることに直結してきて、よけいに難しい。よけいに心がふるえる。若いときにはなかった感覚だ。
それにしても、子供の頃は、自分が40歳を過ぎても恋に身を焦がしているなんて、想像もしなかったなあ。でもまあ、想像もつかないもう半生が待っていると思うと、それはそれで楽しい。
恋人とよく酔って言い合う。
「お互い長生きしようよね」って。
もちろん、老いて一緒にいるかどうかは、想像の外だけれど。
| 2003年05月22日(木) |
過去は振り返らない主義。 |
●来年頭にある再演仕事の台本が見つからない。
なんたって台本にすべての情報が書き込んであり、台本さえあれば何はなくとも仕事ができるので、それがないとなると、これは困る。かつてやったのは、ちょうど引っ越しをした時とかぶっているので、どこかに紛れ込んでしまったに違いない。
決死の覚悟で、開くことを悉く避けていた押入の中身を部屋にすべて出してみる。
紙に押しつぶされそう。
●昨日朝まで眠れず、かつ2時間ほどの睡眠で起きてしまった。もう今夜は日付の変わる前に寝ようと思っていたら、恋人から「ちょっとだけ飲む?」の電話。
行っちゃうんだなあ、これが……。
+++++
そして、帰ってくる。かたや過激に働いている男と、仕事を休んで栄養補給している女と。共通の話題があるわけでもなく、無理して話してもさほど盛り上がらないので無理して話さず、といった夜なのだが、何気なく一緒にいるだけでほぐれてしまう。
●2年前、引っ越しをした時は仕事の真っ最中だったので、仕事机の引き出しを引っ張り出して段ボールにざざっと開け、テープ貼りして、といった調子で運び、そのまま押入に詰めてしまった。それを開くというのは、なかなかに恐ろしいこと。まだPCを持たぬ頃の、手書きの草稿や走り書き、ワープロ原稿などが山のように出てきて、恥ずかしいったらありゃしない。
自分の過去を記録することが嫌いで、写真を残すことも嫌いで。……それでも、そんな紙の山や、人にもらった写真などが散在しており。
明日もこの整理の作業が続く。
とにかく、捨ててやるぞ。
| 2003年05月21日(水) |
水曜日は映画の日。●シカゴ ●Bowling for Columbine |
●東京の多くの映画館が、水曜日は女性に限り千円でロードショーを見せてくれる。休みになったら、水曜日は2本ずつくらい映画を見てやろうと決めていた。そして今日が、休みを迎えてのはじめての水曜日。チョイスしたのは「シカゴ」と「ボウリング・フォー・コロンバイン」
●「シカゴ」は、前もっての評判に加えて、ロブ・マーシャルという監督に興味を持っていた。一昨年だったか、サム・メンデスの「キャバレー」が赤坂で上演され、演出に脱帽したことが記憶に新しいが、その共同演出がロブ・マーシャルだったのだ。わたしは、舞台映画併せて4本の「キャバレー」を見ていたが、洗練され研がれてはいるのに人間味や現実感は増している振り付けといい、大人の練れた歌といい、視覚的で誰にでも分かるのに洒落ている演出といい、最後の最後の「誰がなんと言ったって俺はこう見せるんだ」的な大胆な解釈といい、かつてのものをすべてにおいて凌駕するものだった。
サム・メンデスの方は、先に映画監督として「アメリカン・ビューティー」で高い評価を得ている。よって、もう一人にも期待は高まる。
オリジナルである舞台版の「シカゴ」はかつてロンドンで観た。ウテ・レンパーがツアーに出ていたので、2番手が中心だったが、楽しめた。でも、「楽しめた」という感想。……それが。
舞台ならではの構成である脚本を映画に置き換えるための視点、工夫。映画だからこその諸々の遊び。スピード感。カメラワークにより迫力を増す、振り付けとステージング。現実感と虚構性のバランスの良さ。
……いいじゃないか、面白いじゃないか。もう、わたしは存分に楽しんだ。大人っぽく、洒落てて、キュートで、かっこよくて、馬鹿馬鹿しいくらいに人生を謳歌する方向性。さらには、作り手がミュージカルを愛している気持ちが、バンバン伝わってくる。見終わると、爽快この上ない気持ち。
ミュージカルの喜びを満喫。「これだよなあ、日本でもこういうの作りたいよなあ」とあれこれ未だ見ぬミュージカルを夢想しつつ、新宿から恵比寿へ移動。
●「シカゴ」は、主人公ロキシー・ハートが、自分をだました浮気相手をパンパンパンとあっけなく撃ち殺してしまうところからドラマが始まる。まさに、「パンパンパン」といった擬音を当てたくなるノリで。
「Bowring for Columbine」は、その銃社会を根本から問うドキュメンタリー映画。
監督のマイケル・ムーア氏は、不屈の探求心と確信犯的な無邪気さで、「なんでアメリカだけ、こんなに銃犯罪が多いんだ?」という問いに、カメラを担いで単身立ち向かっていく。コロンバイン高校の銃乱射事件に端を発したこの疑問は、多くのアメリカ人、多くの他者の思いの代表みたいな単純さを備えているので、その行動のすべてが肯ける。
銃の保有率の問題か?
血をもって制覇をなす、アメリカという国の、根源的歴史的資質なのか?
暴力性を売るサブカルチャーの影響か?
親が悪いのか?
貧困が原因か?
恐怖を国民に植え付けるマスコミの責任か?
とにかく、「……だからなのかなあ?」と思えるところに、自らが乗り込み、自らで答えを見つけようとする。答えは見つからなくても、病巣の有り様は、次第次第に見えてくる。隠れた痛みが染み出してくる。それらは染みだすたびに、重なり合って、複雑な絵を描き出していく。
日本に流れてくるCNN報道なんかでは伝わらない現実が、胸をしめつける。
ただ。
彼の持つ無邪気さは常に人間に欠くべからざるユーモアを伴い、余りに深刻な問題を扱っているにもかかわらず、折々に笑える。それはやっぱり、彼がしっかりと多くの人の代弁者であり得ているからだ。共感と、邪気のない大胆な行動は、笑いを呼ぶ。この映画は、かくして、辛辣に問題提起するドキュメンタリーでありながら、エンタテイメントであることに成功している。……その危ない綱渡りは、同じ時代を生きる小さな表現者の目からみると、実に実に感動的だ。
●2本を見終えると、複雑な気持ち。
40年、人並みに生きてくると、出来の悪いわたしでも、少なくとも自分が人生を世界をどうとらえているかは、わかってくる。表現を仕事とする我々は、その仕事の中で、自分の在りようだの思いだのを露出していく。
こういう真逆の作品を並べてみると、その視点のあまりの違いに戸惑うのだ。じゃあわたしは、どういう視点で、どういうやり方で、どういうノリで、どういう方向性で、他者に渡すのか?と。
観客に差し出す球体みたいな物を持っていて。それをどの方向から光を当てるかは、もう無数の方向性。球体だからどこから見たって結果的には一緒なはずなのに、作り手には、その何処か一点を選ばないとはじまらない。光を当てる方向を選ぶ、責任がある。
●そんなこんなを抱えて、家に帰り着く。自分のプライベートな問題は山盛り。仕事で抱える問題も山盛り。で、今夜は、自分にとっての表現とは?なぞと考えだし、埒のあかぬ思索にふけり、働いてもいないくせに、心中は忙しいことこの上ない。まあ、それはそれで、生きている感じが実にするのだけれど。
自分の時間がまったく持てない仕事を続けてきたものだから、映画もすっかりご無沙汰だった。休みの間くらいは、取りこぼした分を補填していこう。
| 2003年05月20日(火) |
こんな思索などはるかに超えて…… |
●無為の時間はたちまちに過ぎていき、眠りの前に呆然とする。
抜け殻のまま、わたしは感じ、考え。
何も変わらず何も得なくても、この1日はちゃんと、わたしの一生の持ち時間にカウントされていく。
時が進んでいるのに、自分は進まない、そのことが怖い。だから無駄でも、考える。
いろんなことがあって、気持ちが揺れてて、何も書けない。
自分を慰撫するために、今夜は敬愛するレイモンド・カーヴァーの詩を写す。
********************
幸せ
朝はまだとても早く、外はまだ暗い。
わたしは、コーヒーを手に窓のそばで、いつものように早朝の
思索というやつにふける。
新聞配達の少年とその友達がやって来るのが見える。
二人ともセーターを着て帽子をかぶり、
一人の子は、肩からかばんを下げている。
すごく楽しそうだ。
何もしゃべってはいない。二人とも。
もし手があいていたら、二人は腕を組んで歩くだろう。
朝はまだ早く、
二人は一緒に配達をしている。
ゆっくりこちらへやってくる。
空が白みはじめたが、月はまだ川の上に青白い顔を見せている。
あまりに美しく、しばらくの間、死も野望も愛さえも入り込むすきまがない。
幸せ。それはふいにやってくる。そして、早朝のこんな思索など、
はるかに超えて迫ってくる。
**********************
| 2003年05月19日(月) |
わたしはじゅうぶんに幸せなのに。●トリツカレ男(いしいしんじ) |
●健康のみを自慢にしていた人だったのに、30歳になりたての頃、神経を患い、入院した。顔の左側の神経がまったく通っていない状態で1ヶ月過ごし、もしかしたらこのまま戻らないかもしれないのでそのつもりでと言われつつ静養した。でも、幸いなことに、医者を驚かせるスピードで、わたしの左半分の神経は復活した。退院時には、神経をいじめると再発するよと脅かされた。
朝、起きてすぐに、左目の筋肉が痙攣しているのを感じる。鼻の左半分も、神経が鈍くなっている。危ない兆候。今日は目を使うのをやめなければと思う。……ただ、パリへ発とうとしている恋人と、A氏の求婚の間で揺れる心は、この歳になってみると、三角関係のああだこうだみたいな艶っぽい話でもなんでもなくって、自分の一生を自分がどう考えているか、愛情というものの正体をなんだと思っているのか、どうしたら人を傷つけずにすむのか、どうしたら自分が傷つかずにすむのか、といった、実に現実的なレベルで惑い、不安定きわまりなく、苛烈な振幅の中、つい、何も選びとれない自分を苛んでしまう。
神経は休まらない。でも、休めなければ。……そんな1日だった。
●それでも、またいしいしんじ氏の本を1冊読んだ。何かに取り憑かれて、たとえば、オペラだったり、三段跳びだったり、昆虫採集だったり、探偵ごっこだったり、とにかく、マイブームみたいなものが突然嵐のごとくわき起こって、しばしそれに取り憑かれて暮らす。その繰り返しの中で暮らす、変わった男の物語。いしい氏らしい、寓話だ。
トリツカレ男は、ある日、ある女の子に取り憑かれる。で、奇妙な、かつなんとも切なく美しいラブストーリーが展開する。
読むことで、また少し救われる。(こんなに救われているんだから、元気なときに、「プラネタリウムのふたご」の美しさについてはゆっくり文章にしよう。物語への感謝を込めて。)
●自分が取り込まれている愛情問題だけじゃなくって、書きたいことはたくさんあるのに、平穏な気持ちでなかなか書けない。今も左目は痙攣を続けているので、今夜はきっとコンピュータの電源を早くきった方がよいのだろう。
●昨日、わたしは「幸せになりたい」と書いた。
わたしは実は、今だってじゅうぶんに幸せ。そんなことはよくわかっている。それでも、「幸せになりたい」と願い、どうすればより幸せかと、生きてる限りは当然のように考え続ける。そのことで、こうして憔悴してしまったりする。
いつまでたっても、生きていくのが上手にならない。
| 2003年05月18日(日) |
わたしは幸せになりたい。●プラネタリウムのふたご(いしいしんじ)●白鳥の湖 |
●今日、書き留めておいた方がいいことが、たくさんある。
でも、指先がお酒でほんの少し麻痺していたりして、どれほど書き留められるかどうか。
●昨日、かねてからわたしを愛してくれていたA氏と食事をともにした。離れがたくなって、朝まで一緒に過ごした。心がゆるゆるとする、それは穏やかな時間を過ごした。
奥さんを亡くしてから、父親として母親代わりとして、息子を一人で育ててきた彼が、一人の男として、真剣にわたしに向き合っている。その男の姿を、わたしは確かに愛おしいと思う。また、彼に抱かれていると、わたしは親鳥の懐にいる雛のように安らぎ、闘っている自分を忘れることさえ出来る。
そして今夜、恋人からの電話を受け、わずかな持ち時間をともに過ごす。もう4年間、毎日恋しいと思い続けた人。
常軌を逸したハードワークで、体力的には限界の状態で働き続けている彼を見ていると、何にかえても、彼を守りたいと思うし、守れないならそばにいたいと願う。そばにいることで、なにがしかの力になれる人間でありたいと思う。一緒にいることが叶わなくても、叶わなくても、願う。彼といると、わたしは闘い続ける人になる。
酒を飲みながら、日々感じることを、それぞれにぽつりぽつりとしゃべりあう。ただそれだけで、わたしたちが如何に似通った人間であるかが分かるし、如何に違う人間であるかを、同時に認識する。そうしながら、お互いが懸命に暮らしていることを分け合って、今の癒し、明日の力にしようとする。
別れ際、「明日7時に起こして」と頼まれた。早起きして2時間ほど仕事してから現場に赴くのだと言う。そしてまた。
「起こすときに、まずシャワーを浴びるように言ってくれる?」と彼は頼む。
明日、わたしは、7時に起き、彼を起こすだろう。そして、「まずシャワーを浴びてね」と言うわたしがいる。
家に帰り着くと、A氏からメールが届いている。今夜も会いたいのをこらえて家路についたと告げるメール。
布団の中で寝汗をかいて眠っている息子に、「昨日は大好きな人と一緒に寝られてお父さんはとっても幸せだったのだよ」と報告したと彼は書く。
……なんだか、連載恋愛小説みたいな日記になってきたなあ。
でも、自分は、実際その渦中にいて、もう、何を選べばいいのか、自分の中に湧き上がる様々な思いを、誰にどう伝えればいいのか、どう行動すればいいのか、何もわからない。
気がつけば、やはりわたしは一人でいる。一人の時間を、これからどうすればいいのか思い悩むことに、費やしている。思い悩むことでつまづいて、この先もやっぱり一人なのではないかと怯えている。
●双子の話を読み終えた。読み終えて、これは「愛の妖精」「悪童日記」に続く3つ目の、わたしの双子物語になった。
このことについては、そうね、明日書こう。今夜のうちに書いておくべきは、これがまったくもって、稀有の美しい物語であるということ。
●自分の、愛情にまつわることを書いていると、書いているうちにも様々な思いが去来して、時間がどんどん流れていく。何を基準に過ぎていくやら時々分からなくなる、夜の時間が。
書きたいことのどれだけも書き留められないし、そんな自分のあれやこれやより、実はもっと書きたいトピックがあったはずなのだ。
でも、今夜は手つかずで終える。
自分以外の人を愛するということは、なんて大変なことなんだろう。そして、異性を愛する限り、一人に限定しなければいけないという社会通念の中で生きることの、この不自由さ。
いや、社会通念の問題ではなく、一人の人のみをパートナーとして愛するということが相手に与える、安心感の問題なのだ。その約束事があってこそ生まれる種類の愛情が確かにある。そしてまた逆に言えば、そのことが当たり前であり自然である時に、二人の人間は様々な美しさを人生に見いだすことができるのだろう。
とか、なんとか、理屈じゃなくって。でも、理で詰めていかないとはまりこむ罠が目の前に見えていて。
わたしは幸せになりたい。すべての人間が、例外なくそう思うように。
| 2003年05月16日(金) |
そして読書三昧は続く。 |
●双子は運命に操られた末に分かれ、今や違う空の下に暮らしている。かたや夜空の見えない街で星を語り、かたや天才奇術師に……。あまりに面白いので、なかなか先を読む気になれない。一章読み切るごとに、本を閉じて、まったく違うタイプの随筆など読んだりしている。当然、物語の先が気になっているので、しばらくしたら、またおもむろに扉を開く。
わたしは、もう3日間、双子に取り憑かれている。
●久しぶりに台所に立つ。
このところの余りに忙しい暮らしの中で、最もわたしを感動させたのは、深夜2時を過ぎてから行きつけの飲み屋で食べた「ゴーヤーチャンプル」だった。ほどよい苦みの残ったゴーヤと、ふっくらした玉子。うっすらした醤油の香り。まともな食事をとらずに酒をくらっていたわたしと恋人は、おそるおそるお店の人にたずねた。「ごはんって、もらえたりします?」
白いご飯にゴーヤの緑と玉子の黄色をのっけて、口に含んだ瞬間、お米の存在に感動した。だって、それだけで食べるより、ご飯と一緒に口に含んだ方が美味しかったのだもの。あったかくって、甘くって、みずみずしい。
それが忘れられず、自分で作ってみた。やっぱり、記憶の中の味にはかなわない。料理自慢のわたしではあるが、「美味しい」って思うのは、食べて幸せだと思うのは、決して味だけによるものではないことは、知っている。
しばらく自分で食事を作ることのできる生活が続く。
●そう。休暇に入った。骨休めがすんだと思える時がきたら、先々の準備にかからねば。
明日は、コンサートでご一緒したプリンシパルが本拠地で踊るのを観にいく。
※HP Etceteraに「生きてることに身を任せる」をUP
| 2003年05月15日(木) |
双子が分かれざるをえないように。 |
●双子の物語は、大きく括って二通りに分けることができる。
双子が一緒に過ごす時間を描くもの。
双子が別々に過ごすもの。
……そして、そのどちらに属していようと、離別の時というのが、大きなドラマとして描かれる。
今読んでいる、いしい氏の物語。全体のボリュームの半分にいかないうちに、双子は別離の時を迎えている。わたしの心臓は、水にあげられた魚の心臓のように泡立ってしまう。
双子の物語に弱い、それはすなわち、双子の別離に弱いということなのだ。
自らのかたわれ、自らの一部、自らの写し、自らの鏡、自らの愛憎のすべて。
それを、どうしようもなく失う時。敢えて捨てる時。分かれることを余儀なくされる時。
そんなこんなの、双子につきまとうメタファーやレトリックに弱いということは、これまたすなわち、わたしはいつまでたっても「自分」と格闘し続ける、未成熟な人間であるということだろう。
●久しぶりに、午後までゆっくりと眠る。目覚めると雨が降っているので、あっさりと外出予定を取り下げ、家で乱読の時間を過ごす。夜には仕事で疲弊した恋人と会い食事とお酒。静かに語らい、少しだけ彼を鼓舞する。
昨年、結婚の約束までしながら断ってしまったA氏からは、もうすぐパリに行ってしまう恋人を批判し、「おまえを幸せにできるのは俺だけだろう」と告げる、長い手紙が届いた。
A氏の無償の愛情に心はもちろん揺れる。でも。欠落だらけの恋人を、わたしの鏡としての恋人を、慰撫しあわない伴走者としての恋人を、自分の人生から切り取ってしまうことはできない。どう考えてもできない。
穏やかさと激しさの狭間で、わたしはまだ、激しさに寄っていく。
双子のかたわれとしての恋人と、わたしはこれからどうなっていくのか?
●最終日はとってもいい出来で、わたしはご満悦。
バラシを終えて、はじめて一緒にやったスタッフたちと飲んで帰り、眠りが足りていなかったせいか、すぐに酔っぱらう。今だって、ミスタッチしないでキーボードを叩いているのが不思議なくらい、酔っぱらっているんだな、これが。
寝る。今すぐ寝る。
| 2003年05月13日(火) |
双子だの、無常感だの。 |
●最近、どうしたわけかやけに早起きのわたしは、今日もすでに眠い。明日も朝が早いので、迷わず寝るぞ。本当は、夜中にどうでもいいことを書いてる時間とか、ベッドでうだうだと読んでる時間が好きなのに、いやはや、どうしたわけか。健康的ってのも、なかなかつまんないもんである。
●読み始めたいしいしんじ氏の新作。まださわりだが、どうも双子の物語であるらしい。
わたしは双子の話に滅法弱い。もう、そういう質(たち)だと言っていい。
物語の中の、忘れ得ぬ双子が二組ある。ジョルジュ・サンド「愛の妖精」のランドリーとシルヴィーネ。アゴタ・クリストフ「悪童日記」のぼくら。(続編では名前があったが、なんといっても”ぼくら”と自称していた彼らが印象的だ。)
双子の持つあらゆるメタファーに心が揺れやすいのは、自分を愛したり自分を憎んだりという精神のぶれを、幼い頃から激しく経験してきたせいだろうか?
今や物語に双子が出てくるだけで、小鼻のあたりがひくひくとする。「こ、これは……」と、活字を追う目がちょっとすわってくる。
さて、いしい氏の書く双子や如何に!?
●SARSの報道に接していると、他人の悲劇に胸が痛み、人間の無力さに慄然とし、対応の非人間性に苛立ち、我々の存在など遙かに超越した大いなる負の力の律動を感じる。ひとことで言ってしまえば、無常感ばかりがつのるのだ。
●コンサート、別のホールで明日たちあげ、それでおしまい。短い仕事だったが、はじめてつきあうスタッフが多く、どれも良い出会いであったので、ささやかに嬉しい。
| 2003年05月12日(月) |
一気に開けた初日。●フリップ村のとてもしつこいガッパーども(レイン・スミス) |
●コンサートの初日が開く。
やっつけ仕事と呼ぶものの、少ない持ち時間で開くというのは、プロが集まっているからこそできること。わたしの仕事は、少ない持ち時間をどう活用するかを背負った、進行、いわば仕切りというやつ。やってほしいことをはっきり提示していけば動く現場なので、実に気持ちよく仕事ができた。
●昨日はタフなリハーサルのあと、「明日は朝早いんだけど……」と思いつつも、恋人と深夜の食事。流れて行きつけのバーへ。
わたしは快調に飲んでいたが、疲れのたまった彼は、眠って1時間ほどした午前5時頃、わたしのベッドで突然の体調不良を訴える。体をさすってあげたりして、なんとかまた眠ったものの、気になって早起きして、出かけるぎりぎりまで彼の介抱。辛さや痛さを、全部わたしがもらってあげたいような気持ち。
わたしも今日は眠りが足りていない。仕事をしている間は好調だったのだが、家に帰り着いたとたん、ぐったり。これをアップしたら、今夜は早く眠ってしまおう。
●昨日読み終えた絵本は、ガッパーという奇妙な生き物と、デキルという名の(原語はなんとcapable。すごいネーミングだ。青山南という翻訳者はそんなに好きではなかったのだが、この「デキル」という訳はいけている。)女の子の物語。
物語はほかにも探せる内容だが、とにかくとにかくレイン・スミス氏の絵がすばらしい。痛みやら悲しみが、本を開けると、ふわーっと漂いあふれて、見るものをくるみこみ、切なくさせてしまうような絵。
今夜は、最近お気に入りのいしいしんじの新作を持ってベッドへ。
頭の中では、コンサートで歌われるナンバーがまだリプレイされ続けている。
| 2003年05月10日(土) |
今、ここにいると……。 |
●ほぼ半日、写譜ソフトと格闘する。
Finaleとか、いいソフトは出ているらしいが、如何せん高い。で、Melody Assistantというフランス製の安価なソフトを使ってきたが、何の問題もなく動作していた。大の採譜好きであるわたしは、仕事で「楽譜に起こしておいたら便利だろうな」と思えるものはすぐに採譜してしまう。このソフトと出会ってからは、ほぼゲーム感覚の趣味となってしまった。五線にさくさくと音符だの休符だの乗っけていくと、自動演奏してくれてチェックも簡単。大好きな作業のはずなのだが……。
今日起こそうとしていたのは、朗詠。1小節が23拍とか31拍とか、毎小節ごとに違うんである。マニュアルを読んでも読んでも、そんな設定の仕方、出てきやしない。だいたい西洋にて起こった平均律では、そんな楽譜を書くことなどあるわけないのだ。それを無理矢理いじくり、様々なチャレンジをしていたら、もう20回はフリーズの憂き目にあってしまった。なんとも無駄な時間を過ごすことに。あーあ。
誰が見てもそんなに手間がかかったとは思えないだろう楽譜を携えて、明日は最終稽古へ。14日まで、稽古、仕込み、舞台稽古、本番、本番、バラシ、仕込み、本番、バラシ、と、怒濤の時間が続く。2日は眠れないな。
●昨年の今頃、わたしに求婚してくれた心優しき男性は、奥さんを失ってから、ずっと一男児の立派なお母さんがわりをつとめている。どんなに仕事が朝早くても、きっちり朝ご飯を作り、お弁当を作り、夕御飯の下ごしらえをすませてくる。とにかく、すごい人。
母の日に、プレゼントを贈ろうと、Amazonでルイス・サッカーの「穴」をお届けする。親子で読める、最高の一冊だ。
ところが。間の抜けたわたしは、受取人が代引きで支払うように申し込んでしまったのだ。……そんなのプレゼントでもなんでもありゃしない。
陳謝陳謝のメールを送ったら、ちっとも怒っておらず、仕事帰りの道道を「プレゼントきてるかな」と楽しみに帰るという返信。
「いい人だ。いい人過ぎる……」とつぶやきながら、昨年、一度は結婚しようと決めながら、やっぱり今の恋人の元に戻ってしまった自分を思い起こす。
今、ここにいると、何が正しいかなんてわからない。今、ここにいると、何を選ぶべきかなんてわからない。せめて無様に生きないために、考えられる限りの問いかけを自分に浴びせてみるだけ。
恋人は九月になると、パリに発ち、長らく離れていた奥さんと、また暮らしはじめる。
| 2003年05月09日(金) |
今日もどきどきわくわく。●永遠の出口(森絵都) |
●長いことこの仕事をしているが、バレエ団のスタジオに足を運んだのははじめて。しかも、そこに名だたる踊り手と振付家が介しているのだから、緊張するのは当たり前。
土足でいいですよと言われたが、敬意をはらって、持参の稽古場靴に履き替えた。
稽古は、振りが入ってしまった後のブラッシュアップの段階。何度も振りを繰り返しつつ、振付家の細かいチェックが入り、踊り手同士でお互いの息を確認していく。息の詰まる凝縮された稽古。
5分の曲の間、3分は、女性と男性がほぼ体のどこかを触れあわせたまま。その間2分は、男性はリフトにまわっている。体中の筋肉は常に緊張と収縮を強いられているのに、わたしの目に見える体の線は常に柔らかい。瞬間的な力が入るときも、動きのしなやかさは止まらない。
違う土俵で闘う人々を見るのは、なんと楽しくわくわくすることだろう。俳優やジャズ系の踊り手、ミュージカル系の歌い手とは、仕事の中でたくさん知り合ってきた。でも、あまり出会わないバレエダンサーやオペラ歌手たちとの出会いは、ちょっと素人感覚でどきどきしたりする。もちろんしばらく見ていると、同じクリエイターとして、その表現の根っこを探る目が活動を始めるのだけれど。
なんにしても、刺激的な時間を過ごした。
●一気にやる気が立ち上がり、コンサートの楽曲整理にいそしむ。歌い手と踊り手がはじめて合流するあさってのリハーサルが円滑に進むように。
●森絵都氏の「永遠の出口」読了。
小学生時代から高校卒業までの、少女の心の動きを活写する。まさに、活写。あらゆる感覚が懐かしい。あらゆる感覚に共感する。女の子なら誰でもこれを自分の物語だと思って読むのではないかと思うほど。
大イベントであったお誕生日会も、はじめて理不尽の恐怖を知らしめるファシスト教師も、初恋も、反抗期も、家族旅行も、初デート初恋愛も、初アルバイトも、あらゆることが、飾りのない実感から描かれている。
一人であること、家族の一員であること、学校の生徒であること、恋人同士のかたわれであること、時期々の仲間の一員であること。
そしてまた、そのすべての立ち位置から、逃れようとすること。
実に当たり前でありふれた存在の主人公が、ありふれた人生を、一喜一憂しながら、かけがえなく生きていく姿を追いかけるのは、実に実に爽やかなことだった。
また、お友達みんなに奨めたい1冊に出会ってしまったなあ。
※久しぶりに、HP Etcetera更新。
| 2003年05月08日(木) |
眠れば元気になる体。 |
●昨日は、日本酒、ジン、テキーラと飲みついで、すっかり酔っぱらってこの日記を書いて寝た。(書く時間を考えれば、2日に1日は酔っぱらって書いていることになるが)実に実に、ご機嫌に。
それが翌朝起きてみると、なんだか調子の出ない体。二日酔いじゃなくって、この半年の疲れがようやく出てきたのだ、という感じ。予定としては11日のリハに備えて、コンサートの台本と楽譜をきっちり整理するはずだったが、急遽変更。「今日はうだうだ休んでやる」と心に決める。
●北上次郎氏が新聞で絶賛していた森絵都氏の新作を手に、ベッドへ。眠くなったら、何も気にせず目をつぶった。仕事の電話で2回起こされたが、なんと1日でほぼ18時間くらい眠った。「元気を取り返してやったぞ!」と、目覚めたときはいい気分。
今日は、コンサートで踊る、有名プリマのリハーサルを見にいく。劇場ではなく、稽古場で、振り付け師と二人で探っている段階。これはちょっとどきどき。
| 2003年05月07日(水) |
いい1日だな、今日は。 |
●今日は、この夏から秋へとはじめてタッグを組む演出家と出会う日。11時に眠って、12時半に恋人の「食事しようよ」電話を断ってしまうくらい、ちょっとばかり緊張してた。
この度は、やっつけ仕事でしかないコンサートの手伝いみたいなもの。9時に現場について、スコアと台本を受け取って、11時には、職業的にもう現場を仕切ってた。……そんなことはどうでもよくって。今日はちょっとした出会いがあった。
歌い手の一人は、最近ミュージカル界で売り出し中の男の子。何度か、わたしたちの稽古場に見学にきていたりして、初めて会うわけじゃない。でも、ひとたび彼が歌い出したとたん、わたしの鼓動は早鐘状態に……。
似ているのだ。わたしが10年前、心から愛した人に。
歌は彼にとって「水」らしい。水を得た魚のように、歌い始めると、彼自身がほころんでいる。神様から与えられたのびのある高音で空気を震わせるときの、ちょっと誇らしげな表情。ぼくはほころんでいるよと、恐れもてらいもなく、世の中に自分を表明している。……その顔が、かつての恋人のもっとも美しい姿にそっくり。
ふと目線を下げたときの、上まぶたのつくるまあるい丘の曲線。まつげの生え際の、三日月のようなライン。鼻筋の向いた方に視線をやるたびに、その曲線に心が動く。ふと上を向いたときの首のライン、歌い上げるほどに赤くなっていく耳たぶ……などなど、ちょっとしたところに様々な喚起の要素があって、わたしは密やかにドキドキする。
こんなことって、あるんだなあ。似てる人が目の前にいて、似てる人が今をきらきら生きているから、かつての自分の愛情まで、きらきらと蘇ってしまう、そんなこと。
職業人の仮面をかぶり、さくさくと現場を進行しながら、わたしがたかだかリハーサルの歌なのに目頭を熱くして感動していたことなど、誰も知るまい。
いい1日だな、今日は。
●恋人から珍しく午後8時半という早い時間に電話があるも、わたしは打ち合わせ中。久しぶりに恋人と二人での食事、そして酒の時間が待っていると思うと、わたしはまたどきどきわくわく。2時間待たせて、ようやく邂逅。
そんなこんなのあれやこれや、またほかのトピック、と、書きたいことは山ほどあれど、……今夜はどうしようもなく眠い。
また、明日、書くとして、眠ってしまおう。
| 2003年05月06日(火) |
飽かず読む。心は揺れる。●家庭の医学(レベッカ・ブラウン) |
●好きな時間に好きなだけ読むものだから、妙な時間に眠り妙な時間に起きる。昨夜は午後9時に寝て、このまま12時間くらい眠ってやれと思っていたのに、1時半に起きてしまった。そのまま、また読み続けた。……馬鹿だ。
梅田の紀伊国屋で仕入れたものを読み終え、渋谷にある行きつけの本屋に出かける。今日は意識的に日本人作家のものばかり、6冊。本屋で金は惜しまない。持たざる時を迎えたときに泣けばよい。
●久しぶりの渋谷は……と言っても3ヶ月が過ぎただけのことだが……知らない店が2、3軒できていて、なんだかやけにわたしに対して空々しい。あんなに毎日通った街なのに。
恋人と深夜に通ったあんきもの美味しい居酒屋は1月に閉店してしまったが、そこは早くも風俗店に変貌していた。
本屋だけが、わたしに優しい。
渋谷に今度通い始めるのは10月。毎日そこを歩くようになれば、また街はわたしに懐を広げる。だいたい、そんなものだ。
●レベッカ・ブラウンは「体の贈り物」を読んでいたが、今日読んだ「家庭の医学」の方がはるかにわたしには好ましい。
それぞれの章に医学用語のタイトルがつけられ、つきはなしたような冷静な枠組みの中で、主人公にとってかけがえのない母親の闘病と死、家族たちの看護生活が語られる。
昨日の白石一文もそうだったが、生と死にまつわるものばかり、このところ読んでいる。白石氏のそれが、そのことをどんどん普遍化しようとするのに対して、「家庭の医学」では、ただただ、ある家庭の、ある母親の、生と死、それをみとる人の目に映る生と死、が、描かれるに過ぎない。どちらがどうとは言わない。わたしの「今」は、後者に心がより動いた、ということか。
わたしは、わたしの母のことを考える。考えるだけで、ずいぶんな時間が過ぎた。
●去年の5月、わたしに結婚を申し込んでくれた人が、最近のわたしの報われぬ恋愛の成り行きを知り、いまだに「待っている」と言ってくれる。9月にパリに発ってしまう恋人のことを思い、日々揺れるわたしの前で、いかにもその人は、わたしを幸せにしてくれそうに思える。しかも、彼は、わたしが恋人を思い続ける限り自分からはわたしに関わらないというルールをちゃんと守って暮らしていた。
そんな人を前にして、わたしは、恋人を追い続ける。何があっても。これはもう、どうしようもない。
●明日は朝早くからの仕事なので、早く眠ろう。午前1時から眠気と闘いながら起き続けていた。買ったばかりの本を枕元に積んで、どれから読むか悩みながら。
| 2003年05月05日(月) |
休日ならではのこと。●不自由な心(白石一文) |
●何もせず、ただ本を読んで過ごした。ベッドで、ソファーで、食卓で。1冊を読み終えたら、買い物に出て、すっかり生活感のなくなった部屋に生活の匂いのするものを補充した。ゆっくりコーヒーを淹れ、丹念にサンドウィッチを作って食べた。仕事をしているときは、コンビニのあのサンドウィッチの三角形を見るたびにげっそりするものだが、自分で作ってみると、サンドウィッチという食べ物の美しさが思い出される。はじめてこんな食べ方をした人に感謝する気持ちが湧いてくるというものだ。
何か美味しいものを食べているとき、よくそんな感謝の気持ちが湧いてくることがある。どんな食べ物にも、最初に食べてみようとした人が存在し、当たり前と思われている料理法も、かつて誰かが、どうしたらこれはおいしく食べられるんだと、研鑽を重ねた結果にほかならないからだ。見た目がグロテスクでも美味なものをいただいたりするときは、もういない何処かの誰かに手を合わせたい気持ちになる。
食べるっていうことが、生を繋ぐものだから、ここまで食文化は発展している。生きたいっていう思いと、よりよく生きたいっていう思いが、ずっとずっと営々と、繋がってきた先に、自分がいる。そんなことを考えながらサンドウィッチを食すのも、休日ならではのこと。
●最近お気に入りだった白石一文。このたびは短編集だった。この人の作品では、作者の書こうとしていることが、そのまま登場人物の台詞や心情描写になって現れる。物語は、それを導き出すための筋立てにほかならない。
現れる彼らの人生観はかなり偏っているので、それに鼻白む人はまったく読めないだろうし、それにくすぐられる人には愛せる作品になるんだろう。わたしは後者なのだが、さすがに似通った登場人物の感情吐露に疲れてしまった。この人が、もっと物語そのものにこだわった作品を読みたいと思う。
●旅から帰って、ポストをのぞいて、その場で封を破った郵便物があった。かつて住んでいたN区税務署からの郵便物だ。
引越しをしてから3年目になろうというのに、昨年末、突然、税金徴収の知らせがきた。すでに現在の区でちゃんと税金をおさめているはずの時期なのに、7万くらいの課税をされ、延滞懲罰金さえたっぷりついている。
なんでこんなことになるのだと、つらつら考えていて、かつての取引先の事務ミスを思い出した。住所変更の知らせが反映しておらず、支払い調書が古い住所で送られてきたので、発行しなおしてもらったことがあったのだ。
時期的にも、税額的にも一致するので、わたしはその旨N区に手紙を書いた。そこからが長い闘いで、とにかく、きっちり説明を手書きで丁寧に書いたにもかかわらず、「払わないと財産差押えとか、嫌な結果になるので、払った方がいいですよ」ってな感じの郵便物が届き続けるのだ。で、また事情を記して調査を願う手紙を送ってみる。すると今度は、「陳情のある場合、月に2日直接相談できる時間を設けるから、来い」ってな感じの印刷物が届く。……休日などまったくない忙しい時期に、1週間に1度届くそれらの郵便物に、どれだけ嫌な思いをしたことか。
で、このたびようやく、この面倒な疑いから解放されたのだ。でも、一言の謝罪もない。ただ既課税額7万円の下に、今回課税額マイナス7万円、要納付額0円と書かれた納税票が入っているだけ。
まったく馬鹿にしてる。でも、世の中はそういう理不尽なことばかり起こるものだし、いつまでもその理不尽に取り付かれて人生を終えてしまう人だっている。この小さな理不尽からこの度逃れられたことは、ちょっとした幸い。ただまあ、役所に対しての憤懣やるかたない思いは、なかなか消えないけれど。
●明日もお休み。恋人と深夜食事ができるかも、と言いあった夜だったが、「今終わったよ」と電話のかかってきたのが2時半のこと。さすがに今日は断念した。残念。
仕方ない。今から菖蒲湯でもいれて、また深夜の読書を楽しむつもり。
| 2003年05月04日(日) |
迷える惑星、ふたたび新たな航海へ。 |
●今年年頭から始まった、長い長い仕事が、昨日ようやく終わった。大千穐楽。
あまりに多くの責任がのしかかるポジションだったため気の休まる暇がなく、また、人間関係で悩むことあり、仕事を放棄してしまおうかと悩んだことさえあった。それでも、4ヶ月の苦楽ををともにした仲間たちに助けられながら、なんとか無事航海を遂げることができた。
豪華客船に乗る時もあり、犬かきであっぷあっぷの時もあり、手漕ぎボートに乗る時もあり、仲間と競泳することもあり、見えない誰かに水中深く足を引き込まれそうになる時もあり、溺れるところをすんでのところで救われる時もあり、曳航される時もあり。……でも目指す港が視界に入ってからは、ゆうるりとゆうるりと、たっぷり息を吸いながら、顔を水から出した時には思いっきりまわりの風景を楽しみながら、マイペースで泳いだ。……たどり着いた港は、航海の遂行を思いっきり祝福してくれる、素晴らしい場所だった。
湧き上がるカーテンコールを袖から眺めながら、少し泣いた。戻ってきた主演俳優としっかり抱擁しあって、また少し泣いた。何年も仕事をして、出会っては別れ始まっては終わりのサイクルにすっかり慣れているはずなのに、今回ばかりは、はじめて仕事をなし終えた新人のような初心さが戻っていた。(仲間に「××も女だったんだな」とからかわれたけれど。)
●今は東京へ戻る新幹線の中。窓外には白い帽子を冠った山々が見えている。初夏の陽気の中に残る雪は、冬の真っ只中から始めた仕事の長さを思わせ、季節を感じることもなく過ぎていった時間の中で取りこぼしたものたちのことを思わせる。何かを得ようとすると、必ず何かを失っている。だからせめて、自分が何を失ってきたかだけは、気づいていたい。
●そして今は、我が家のテーブル。昨夜は、舞台をばらし終わって午前1時からの打ち上げ。ホテルにたどり着いたのが5時、そのまま帰ってきたものだから、帰宅してすぐにベッドにもぐりこんでしまった。ようやく起きだしたところ。
●とりあえず2日休んだら、ちょっとした仕事が待っている。これも、今は「ちょっとした」なんて言ってるけれど、新しい仕事場との出会いなんだ。ふたたび、新たに、泳ぎだす。
●大阪公演を見にきてくれた友人のホームページをのぞいていたら、わたしとの短いデートのことが書いてある。そこにはわたしが「悩める惑星のようだ」と書かれてあった。響きのよい、身に余る形容で、ちょっとうれしくなった。
「惑星」を大辞泉でひいてみる。
�‖斥曚亮�囲を公転し、みずからは発光しない、比較的大きな天体。
�⊆体蓮⊆袁咾�未知であるが、有望と見られる人。
彼はたぶん�△琉嫐�で使ってくれたんだと思うのだが、わたしは自らは発光せず、何かの光を誰かの光を受けて、公転し続ける自分を想像する。
わたしにとっての太陽って何なんだろう? 公転の周期も、その軌道も知らないままに、わたしは周り続けているんだ。
今、自分がどこにいるのかわからないままに、「でも、確かにひとつの航海はおえたのだから」と、また新たに泳ぎだす。今、ひとつの公転の途中にあるのでも。今、確かにひとつの公転の最初なのであっても。悩める惑星には、「今」のことしかわからない。
| 2003年05月02日(金) |
終わりを前にして。雑感。 |
●ラスト3回のマチソワ前だっていうのに、わたしは1時間寝たところで、大変な悪夢を見てしまう。母が、本当に悲惨な目に会う夢。気も狂わんばかりに飛び起きたのが5時。そんな時間に電話をかけるわけにもいかないので、いつも連絡しないことを詫びるメールを送る。そしてそれから、眠れない時間が延々と……。
わたしは大事な人を大事にすることが、とっても下手な人だ。今大事にできてるのは恋人ただ一人で、それ以外の大事な人を、ちっとも大事にできない。不器用といえば不器用だし、駄目な人間といえば、駄目な人間。
で、読みかけの白石一文を読み続け、出勤時間を迎えた。
●地方で仕事をしてみると、思いがけず素敵な職業人に会うことがある。
今、客席案内のリーダーをやってくれてる女性が、まさにそんな人。客席からガンガン俳優が登場するため、面倒な客止めをいっぱいこなさなければいけないのに、一度稽古を見ただけで、しっかりと把握し、また、伝えるべきを使っている人間に伝えるのが、すっごくうまい。そして、わたしが恐縮してしまうほど、その仕事に燃えてくれる。また、その姿がまわりから、実に生き生きと楽しそうに見える。長く大変な仕事の最終地で、こういう人と仕事をできるのは、本当に楽しい。
何処に根付いて働いていようが、素敵な人はたくさんいる。たびたびこういう出会いをする。それは、とても幸せなこと。
●大千穐楽を控えて、みんな「とうとう終わるんだ」と、長い仕事の締めくくりの時が来たことを、同様に感じている。
開演時、すべての俳優が客席から登場する。一人一人、客席通路の上から下へ下っていく。そのいちばん上に、毎日わたしはいる。最後に下っていく60代の大女優が、出番の前に闇の中でわたしの手を握る。高揚していて、とっても手があったかい。わたしも、「いってらっしゃい」という思いをこめて、握り返す。そんな一瞬が、苦労だの疲れだのを帳消しにしていく。
ショーほど素敵な商売はない。それは本当だ。
●さてさて、いよいよ明日は5ヶ月にわたる仕事のしめくくり。今夜はしっかり寝なくっちゃ。
●午後4時、仕事場についてみると、みんながみんな二日酔い。まあ、長い長い仕事の中で、いちばん飲める日だったからね。
舞台は開けてみると、タイムが7分も一気に伸びて、しまらない内容。はじめて見るお客さんたちには遜色なく中身を受け取ってもらえるかもしれないが、全公演を見届けてきたわたしには物足りない。いや、ちょっと残念な出来。
1月初頭からはじまった仕事も、ようやくあと二日三回で大千穐楽を迎える。残りはなんとか、気持ちよく終えたいものだ。
●この仕事を終えたら、ちょっとしたコンサートの手伝いをして、そのあと丸々2ヶ月の休暇に入る。その休暇をどう過ごすかと考えていると、とってもわくわく。まあ、ほとんどが勉強の日々になると思うけれど、この歳になると、勉強する時間を持てることがうれしい。それがもちろん、これからの自分の仕事の布石になるわけだし。
●深夜、名古屋で打ち合わせを終えた恋人から電話。昨日、思いっきり寝たらしく、元気な声。弾んだ声を聞いているだけで、こっちまでうれしくなってくる。
いつだったか、休みの日(確か日記にも書いたと思うが)、疲れきってわたしのベッドで丸1日寝ていたことがある。明るくったって、お腹がすいたって、うるさくったって、とにかく、むさぼるように眠り続ける。
日ごろ鋭く人や物をとらえる二つの目が、柔らかなまあるいまぶたの裏で、ひっそりと休んでいるのがわかる。どんどんよじれ乱れていくシーツの皺の隙間に、彼の疲れが吸い取られていくみたい。
どんな絵より風景よりも、飽かず眺めていられる。
日ごろぎりぎりまで働いている人が、疲れを癒し、明日への新たな力を蓄えるための、深い深い眠り。大事な大事な、命を蘇らせる眠り。
わたしは1日中、彼の寝姿を見て過ごした。
その1日があって以来、「昨日思いっきり寝たからね」ということばを聞くだけでうれしくなる。あの時の寝姿を目の裏に呼び起こし、また愛情を確認してしまう。
こんな思いを持ち続けて、もう、5年が過ぎた。5年間、わたしは1日も休まず、彼のことを思い続けている。これはもう、立派にわたしの人生の一部だ。