*注*本日の日記は多分クソつまんないと思います。完全に教員採用試験受験モードに入っております。用語の解説はんなヒマないのでしません。ただし未熟ですので、ツッコミをしてできるなら掲示板に意見を書きましょうそうしましょう。ワタクシが喜んで使わせていただきます♪だってこのサイトはワタクシによるワタクシのためのサイトですから。うくくくく。ちなみに本人クソ眠いので話の脈絡なんかありゃしません。
で、本日は絶対評価の話。なんで絶対評価って、最近話題になるワリにはすっかりワタクシのアタマの中から飛んでいたから(爆)
んでもって時代の背景として、人と比べる時代はもう終わったというコトなのでせう。
絶対評価の定義、というのは自分で自分を測る、というコトですよね?(あくまでワタクシの考えですわよ?)これってさ、すっごくすっごくキビシイコトだと思う。今、どれだけの人間が独立していると言えるだろう?例えばワタクシにしたって、在学して、きちんと単位取っていれば取れる大学だからこそ今の大学を選んだ。大学を選ぶ時に思ったのは、「私は絶対ラクな方向に流されるから在学すれば免状を取れる大学に行こう」とな(爆)。通信教育を受ければ免状を取れる教育学部というのは沢山あったけれど、そういうトコロは受験しなかった。受かったら、行きそうだから。あやうく坂本ちゃんの先輩になるトコロだった・・・ってのはどうでもいいとして。ああ脱線。ハナシを元に戻そう。
えーと、絶対評価の定義とは「自分で自分を測ること」。これって、すごくキビシイことだとホントに思うのよ。相対評価なら他人と比較してなんとかなった部分も、絶対評価だからこそ厳しく見つめなきゃならないってあるし。そう、「自分で自分を測って、興味・関心のある方向を定めることが出来る」かわりに、「自分の限界を認める」ってコトもあると思うのだわ。しかも「興味・関心のある方向を定めることができる」からイイっていうのはどうだろう?例えばワタクシは書くのが大好きだけど、思い通りにかけた:思い通りに書けねえコンチクショウッ!っていうのは1:999の割合なのですよ!イカン、ハナシがまた脱線。
絶対評価とは「自分で自分を測り、自分を見つめることができるもの。」・・・と書いてて気付いた。教師が測る(っていうか、成績出す)んじゃないか絶対評価って?(爆)こうやって自分で脱線しまくるから今日も注意されたのだ。えーとなになに、「評価基準に達したかどうか」を評価すると。なるほどねー、さすが文部科学省。あー、眠くてナニを書いているのやら。
そぉいやワタクシは絶対評価、賛成派なのですよ、ケチつけてるようだけど。そして教育者として考えなきゃいけないのはどのように子どもに結び付けていくか、だ。結局絶対評価の大問題点とされている足並みの乱れ(教師によって成績の付け方違うんじゃねーか)ってのは、「通知表への信頼感がなくなる=受験に使えないジャン」ってコトですわよね。でも、そもそも受験って学力を見るためのもの。そして学力とは「学ぶ力」であって、「目の前の連立方程式を解く力」じゃないワケですわよね。「その連立方程式をどういう状況で立式したからこそこういう解き方だと推論し実証する」のが究極だと思うし、それを見るためには、やはし絶対評価なワケですよ。で、その究極に近づく過程でやれ計算練習やら、やれ反復練習やらがあるわけですよ。ワタシだってこんな究極には近づけないっていうか無理。補充するのには遠慮なく先人の知恵を使ってだね。・・・ああますます絶対評価から遠ざかっていく。いいかげん寝ろワタクシ。
で脱線ついでにバラバラ書いていると、絶対評価っていうのは教師にとっても自分の教育観・教育評価観を明確に出来て、より考えるコトができるし、児童を注意深く観察することも出来るのですのよね。そして通知表、というワケで他の先生方とも論議できるし、共通認識を持つことができるワケですよ。
っていうかねむくてもうナニ書いていいやら。あーもう、明日からは今日までに出た問題を更に深めてイきたいと思います。こんなに眠くないウチに。とりあえず書くぞー、という決意表明なのですよ。あと二日だけど(爆)