Kuragegawa Riv.
>>>http://www.enpitu.ne.jp/usr5/50979/

某小学校教師@11年目の日記。


2005年02月17日(木) 夢を、みる

授業参観が終わったのに再び鬱・・・というか、鬱蒼とした気分ですイエー。・・・基本的に鬱だというのにハイテンションな時ほどヤバいと自覚はしてるんですけど止められないのですよ!



・・・最近、何かにつけ思い出すことがある。今までは、ある一時期を除いて殆ど思い出さなかったこと。思い返すだに恐ろしく辛く・・・逃げていたこと。こんな言い方好きじゃないけど、今流行りでいうところのトラウマ。間違いなく私の人間不信への端緒をつけたある出来事。



その事を思い出すのは、もしかしたら今が乗り切れるチャンスだから?と思ったりもした。だから聞いてみたりした、仮定の話で。もし、もしも私があんな事ぐらいで人間不信にまで陥っている弱いヤツだとしたらどうする、と。





返ってきたメールは心配する言葉。それは相手にとって私らしくないからこそ、なのだろう。心配は素直にありがたい。でも、私が欲しいのはそんな言葉じゃない。





そんな言葉じゃない、そんな言葉じゃないんだよ。私が欲しいのは心配なんかじゃない。心配かけさせておいての矛盾は承知していても、最初からそんな言葉は欲しくない。





欲しいのは、こんな私でも私と認めてくれる言葉なのだと。こんな私でも生きていていいという意味の言葉なのだと。






わかってて、強請る。どうかはやくきづいて。うそでもいいからいって。





・・・必要だと。




2005年02月15日(火) 彼の事情

報道によりますとどうやらいじめが原因だったとのことです。しかし、彼はいつ気付くのでしょうか?自らもまた、抵抗できない人を手にかけたという現実に。


この事件でもまた、やりきれない思いが一つ。自分の立場と、責任と、現実との折衝さ加減。


力を尽くさないわけじゃない。けれど私たち教師とて、全てを把握し全てを管理下におくことなどできないわけで。そして私たちだけの力によって成長するわけではもちろんないのです。重要な役割は担っていても。



「先生は、いじめられたことがありますか?」



日記で聞かれて、こう答えた。いじめたことも、いじめられたこともありますよ、と。



両方の経験があって、わかることがある・・・なんて言うつもりはない。いつだって子どもの世界も大人の世界も、きっと隣り合わせの臆病者同士がつくっているのかもしれない。

2005年02月14日(月) 小学校における英語教育について2

タイトルと違いますが、大阪で事件が起こりました。事情はわかりませんが、どれほどの理由や立場や状況があれども、犯してはならない罪が存在するのだということだけはきっちりと教えねばならないと思います。殺された人も去ることながら、殺した人のために。かつての小学生のためにも。





・・・さて、「小学校における英語教育について」第二段。私が小学校における英語教育に今現在反対する理由の二つ目は、肝心の英語教育の質が高いと思えないからです。



私が授業の質についてどうこう言える立場でないのは十分承知ですが、それを抜かしても子どもたちに英語が身についているとは思えません。AET(Assistant English Teacher←綴り間違ってたらゴメンなさい)の授業が月に一回ぐらい、という思い切り「楽しいゲームをしてくれればいい」だけのゲストの扱い。先生にもよりますが、ずっと同じレベルの授業。(だいたいやるのなんて初期の挨拶、月や曜日、動物の名前くらい)。




英語塾に通っている子どもや帰国子女の子ども(地域的に結構いるんです、うちの学校)はラクすぎてつまらない。逆にほとんどの子はちんぷんかんぷんで、中学校にあがる前から「先生は好きだけど英語嫌い。だってわかんねーもん!」という声もちらほら。こんな寒い現状でそれ英語だ、と言われてもただの時間潰しにしかならないと思います。結局英語というか、総合(おそらくは生活科も)のシステム自体に関わってくる問題だと思いますが、しわ寄せは結局教員に、そしてきちんとした授業をうけられない子どもたちにかえってくると思うのです。



授業は「業(わざ)」を「授(さずける」から成り立っています。毎時間毎時間授業をこなす中で、(そして案外知られていないと思うのですが、授業以外の仕事もたくさんある中で)全ての教科を100%の力で、準備も授業の展開も何もかも・・・というのは正直、無理な話です。それでも何があるかと問われれば、「毎時間、この時間にはこれを身に付けさせる」という目的意識を教師がもっている、ということだと思います。指導書みたいに立派じゃありませんが、今日一日の私の授業とその目的を私の言葉で振り返ってみると、


1時間目:音楽・・・「ミッキーマウスマーチ」の合奏(特に木琴・鉄琴の子に重点指導)・合唱は二部合唱の構成に慣れさせること

2時間目:国語・・・「話す・聞く」のテスト。終わったら試写「ごんぎつね」で、少しでもごんぎつねの物語を覚えて欲しい

3時間目:算数・・・「分母」「分子」「分数」の用語の理解と、実際に問題がとけるようになること

4時間目:図工・・・「4年生の思い出」表紙づくり。大きくなった時に4年生だった自分を少しでも感じてほしいから。

5時間目:社会・・・「山地と低地のくらし」のテスト。テストは子ども、そして私の授業運びの確認。




・・・と、自分の言葉でざっくばらんに書いてみました。再三言うように指導書・指導案に書けるような立派な目標ではないですが、目的意識だけは忘れずに授業をやっています。



もちろん、総合の英語には「異文化の言語や生活環境に慣れ親しむ」という目標があります。でも、現実には慣れ親しむどころか嫌いになっている子どもも多いこの有様。「塾に行っている子だけがわかる」というのは、少なくとも授業ではない・・・と思うのが私が英語教育に反対する理由の二つ目なのです。




勿論各地域差・もっと言えば自治体における格差はあります。私の結論は一般的とはいえないかもしれません(そこらへん間違えないでくださいね)・・・では、次回は理由の三つ目。もうしばらくお付き合い願います。
















↑エンピツ投票ボタン

My追加






2005年02月12日(土) 小学校における英語教育について

学級閉鎖は何とか免れました。二年目にして学級閉鎖まで体験するのはちょっと…と思っていたのでありがたいです。


時に、少し前に(こうやっていつもタイミングを逃す)小学校における英語教育の是非が話題になりました。世論としては賛成が多く、教員としては反対が多いという正反対の結果が出ました。で、何でこうなるかなあという事を私なりに考えた結果、まとまったので少し書いてみようと思います。



まず第一に、これはよく海外に行くという人から聞いて納得した話なのですが、日本語と英語は表現方法が正反対だということです。例えば「あめ」という言葉は「雨」にも「飴」にも、ひらがなのままだと取れます。私たち日本人はその区別を音の高低でつけているのです。「雨」ならば「あ」と「め」の音の高さは同一、「飴」ならば「あ」に対して「め」が高くなるというように。

一方、英語は意味の区別にアクセント(強弱)を用います。皆さんも覚えがありませんか?センター試験で最初の方に出てくる、アルファベットの上の小さなダッシュマーク。英語も同じ綴りで意味が違う事がありますが、その際の区別は単語の中のどの一部分を強く言うか、で異ならせます。
しかし、両言語共に高さや強弱がないわけではありません。いえ、あるから混乱してくるのでしょう。それでは日本語は強弱を、英語は高低をどこで使用するかというと、それは感情表現で、なのです。



例えば怒る時。私たち日本人は、普通は声を大きくだします。その時、怒る対象との距離はあまり考えません。体育館の端同士でも、教室の近くにいてもです。「雨なのに傘ささないなんて駄目でしょう」が「飴なのに笠…」と混同しないのは、単語の高低を守った上で「怒っている」という意味で大きい声(強にあたりますね)を出しているからです。



一方、英語は高低に一定のルールがあります。疑問文は基本的に語尾をあげる、というように。英語に明るくないので他に上手い例を見つけられませんが、高低の補強として腕をあげたり下げたり、をよくします。



このように、全く性質の異なる言語だということを理解して勉強を進める能力は小学校中学年までは少なくともきついと思います。というのが私なりの小学校での英語教育に異を唱える理由の一つです。




…と書いたところで携帯での更新字数が見えてきました。続きはまた今度。

カコ ミライ メール