娘の持病のことで、主治医以外のお医者さんに話を聴いてみたい、という希望がむくむくとそれはもう健やか〜に育ってしまっている。問題は誰に聴くか、だったんだけど、ようやく1人お目当てのお医者さんに辿り着いた・・・というか発掘したというか。あとは実際お目にかかってみるのみ。
その予約を入れる電話を、朝から病院にかけていたのだが、これがなかなか繋がらない。自動音声の「かけ直したら?」という有難い忠告を無視して待つ。
やっと予約のお姉さんと電話が通じ、病院のサイト上の情報と、実際のそれとの誤差をお互い埋めつつ、無事予約が取れそ・・・というタイミングで部屋のインターホンが鳴る。宅急便の集配のおじさんだよ。何も今でなくても。そしてどうして今、娘はオムツいっちょなの。上になにか着なさい早く。
あれもこれも同時進行なんて、シングルタスクのカーサンには過負荷なんですけど。あうあう言いながら事なきを得る。大事なことを聞き漏らした気がしてならない。ああもう、たったこれしきのことで肩で息をしてしまうカーサンなのであった。
昨夜から漂っていた頭痛の気配が、今朝起きたら決定的に濃厚に確実な痛さになっていた。こうなると何飲んでもだめなのね>薬。いくらなんでも飲み合わせってものもあるんじゃないかと思うってくらい試してみたんだけど。無茶苦茶するよカーサン。なんとしても回避したいという熱い思いが空回り。
朝ごはんのあとも、どうにも起きていられない。座布団とクッションを並べ、フリースのひざ掛けを腰に巻いて寝る体制ばっちり。すまんが娘、ビデオでも見ていてくれ。
ほどなくうとうと(気絶)、ビデオを最後まで見た娘に起こされる。目を開けるとカーサンの寝ていた周りに、積み木の箱やら絵本やらブロックの缶やらがバリケードの如く並べられている。「こりはー、おかあちゃんがあちょぶかなーとおもってー」と娘の解説。えーと、ある意味お供えですか。
「おかあちゃんずっとまってた」えらいえらい。ありがとう。と言いながら、今度は甲子園中継をBGMにまた眠ってしまった。許せ、娘。
おかげさまで午後には治ってきたよ。ひとりで塗り絵なんてしちゃって、カーサンにやけてしまう(親馬鹿全開)。彼女の手の届くところにあらゆるおもちゃがあって命拾いした気がする。たいがいのところに手が届くくらい、背が高くなったんだなあ。
ここのところ、雨の日の外出を楽しみにすらしている娘。赤い傘を差して、赤い長靴を履いて、おかいもんにいくのがうれしくてしかたないらしい。
アカンボ時代「雨=缶詰め」だった頃には考えられなかったよ・・・。そぼ降る雨を見上げてため息をついたもんだが。
前回の雨の日、駅より向こう側の大きいスーパー(サ○ット)にはたどり着けず、手前のちょいしょぼめの中堅スーパー(○イダ)で手を打った記憶が、歩き始めてすぐに娘たちまち甦ったらしい。
「きょうはいいだまちいくの?」先日のお墓参りで乗り換えた「飯田橋」がソラミミでいいだまち。混同甚だしいが、まあいい。今日はスーパーじゃなくて、コンビニでいいんだよ。景品でもらったプリペイドカードを使ってパンを買うんだよ。
「こんみみ?こんみみいくんだの?」ぱちゃぱちゃ水溜りを見つけては小走り。晴れた日よりも足取りが軽い娘。
いつも汗ばむほどにつなぐ手も、「いいのよ」と傘を持つことに専念。手をつながずに歩くことに不慣れなのは、むしろカーサンの方だ。どきどき。道の端を歩くのよ。前見てちゃんとついてくるのよ。振り返り振り返り、小さな赤い傘がちょこまかついてくる。
細かい雨プラス風プラス娘の徒歩スピードのおかげで、傘を差していたのに上着がびちょびちょ。もちろん娘のズボンの裾は色が濃く変わっている。
雨が降って、日が射して、こうして繰り返すうちに桜が咲くんだねえ。
娘には「堂々」とか「おっとり」とかよりも、「敏感」とか「怖がり」みたいな形容詞の方がしっくりくる、とつねづね母として感じている。
もっと小さい頃には強い光や大きな音が苦手だった。夜間の対向車のライトも苦手だったし、単なる西日すらまぶしがりドライブも楽じゃない時期もあった。
以前に比べれば、最近はそういう「環境の刺激」には強くなっってきた。しかし彼女が最も敏感に反応するものが依然として存在する。誰あろう、このカーサンである。
娘に限らず、どんなお子さんにとっても、「母」という存在はある意味絶対的なもので、幼児期だけじゃなく大人になってからだって、その呪縛みたいな影響力は存在し続け、おおざっぱに言ってしまえば、それこそ誰にでもまとわりついて離れないものなんだろう、とは思う。良きにつけ悪しきにつけ。カーサン自身にだってずいぶんくっついているぞ。
それにしても、と思うのだ。娘のカーサンに対する注意力というか、ちょっとした変化を感じ取るアンテナの性能のよさというか、ここのところ激しすぎやしないだろうか。
顔色の変化、声色の変化、感じ取るたびに眉をへの字にして「おかあちゃんげんきだの?」続いて「ごめんなちゃいだのーーーー」と毎回泣かれた日にゃあーた。「眉を曇らす」とはまさにああいう表情のことを言うんじゃないの。 ※謝るべき理由もない状況のときには、謝らなくていいんだよ、と諭すと「はーい」とやはりへの字のまま従う。その従い方がなんていうかこう従順というか盲目的というか・・・。カーサンもんのすごい権力を手に入れた気分になる。気分じゃなくて、実際ふるっているんだろうけど。
昨日だって、大きい公園で楽しくおとーさんと滑り台していた。調子に乗ったおとーさんが後ろのお子さんの通行の邪魔になっていたので、カーサン大きめの声でそれを知らせた。途端に娘にこにこが一変、「うわーーーーーー」と泣きながら駆け寄ってきてカーサンの膝にしがみつく。ちちちちがうよ、おとーさんがさ。
寝る間際「きょうはたのちかった」と微笑ましいコメントをつぶやいたと思ったら、「でもおかあちゃんがおこったとおもってないちゃった」と続く。はいはい。すみませんでした。・・・謝ってるじゃないですか(北村弁護士風に)。
カーサン自身もそういうとこのある子どもだったらしいけど、ここまで娘の反応が徹底的だとなんだか不安になってくる。そんなにいつも怒っているかしら。そんなに厳しくしているかしら。いつもおかあさんは怖い顔をしている?足りないのは何、過剰なのは何。
よせばいいのに、夜泣きのついでかなんかのときに「そんなにおかあさんのこと怖い?」と訊いたら「おかあちゃんこわいんだのーー」と泣かれてしまった。言葉にすると決定的になるなあ。ほんと馬鹿だ>自分。「お母さんは娘が大好きだよ」と言葉でも態度でも説明してくっついて寝たけど、娘からの愛情の量には敵わない・・・。愛情表現が少なすぎるのかしら。
確かに嫌がろうがなんだろうが、測定と注射に関しては有無を言わせない。調べたいことがあるとPCに向かってしまって娘の相手がおろそかになる。
そういうカーサン自身常日頃感じている罪悪感みたいなところを、娘の態度でダイレクトに刺激されて不快なのもある。思い当たるフシはある、でも、という状態。例えば娘が活動する半日以上の時間、100%彼女の満足いく相手は出来ないんだよ。カーサンも人間だもの。
深刻に悩む、とまではいかないものの、なんだかなあという気持ちを抱えている今日この頃。幼稚園に行ったりすると、また変化するのだろうか。ついつい4月からの新生活に期待がこもる。
ま、カーサンが発揮してしまう力の塩梅とタイミングについて、ちょっと注意しながらやってみるよ。PCに向かうことについてもね。
ここ数日でいろいろ思うところがあるんだけど、まだうまく整理しきれてない部分も多いので、ちょっとだけ覚書として。
インターネットというツールがあってほんとによかった。カーサンせっかちの待ったなしなので、知りたい調べたいことがあると、我慢がきかない。娘と二人きりで部屋にいるというのに、ついPCに向かってしまうこらえ性の無さよ。すまんなあ、娘。週末はちゃんと遊ぼう。
持病関連のサイトを片っ端からあたり、今まで敢えて通り過ぎてきたサイト(イタイのも中にはある)にも足を止め、とにかくヒントでもキーワードでもいい、なにか拾いたい。
1型糖尿病の小児の患者を診察している、感じのよさそうな医者はどこにいる。なんて曖昧なんだ>特に後半。でも後半も大事なんだ。
特定の医療機関の実名を挙げて評価しているサイトなんてほとんどない、あっても・・・ということは、ネットをさまよううちに段々わかってきた。それでも匂いだけでも、としつこい私。くんくんくん。匂いにもいろいろある。それもわかってくる。結構面白い。
本当は患者の会とか患者の親の会、みたいな組織に所属するべきなのかもしれない。でも、まだそれはいい、とどこか頑なな自分がいる。まだいい。まだ必要ない。
発症したときも、そういう組織に加入すべきかどうか、とても迷った。でもそのときの気持ちは「他の人がどう感じたかなんて興味ない」正直言ってそういう偏屈な孤立主義でいっぱいいっぱい。
今は少しだけわかる。自分と同じ経験をして混乱の渦中にいる人の助けになるなら、と思う先人たちの存在を、その気持ちを。
でもまだいい。自分で出来ることは、まだあるみたいだから。必要と感じたら、そのときに頭を下げようと思っている。
ネットの力って、本当にすごいと思う。医療という分野で、ネットにはまだ発揮しきれていない可能性がいくらでもありそうだよ。カーサンとしては、使い方次第という点に充分気をつけていこうと思います。
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