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■ HONDA TODAY!!(車か!)
もー、BBSでも公言している、今日は「本多デー」(笑)
届け物の多かった今日、その中に「沼津明治史料館」からの通信のバックナンバーが全て届き、 目に止まるもの全てが「沼津兵学校」の文字だらけで、鼻血噴きそうでした。 (いや、何か贅沢してる様で・・・涙笑) 70号まである通信・・・。その中の数号に本多忠直(幸七郎)の文字が見えて 「あああーーー居るよ、居る!!」とマジで涙がうるうる。 愛しい恋人に会えた気分・・・(^^;)
やはり、経歴未詳と言う注釈の中、それでも色々と手繰り寄せてみると、 経歴としてはまず、外国御用出役、別手組頭取、歩兵指図役頭取を歴任(あれ?新御番はどうした?) 慶応4年には28才で歩兵頭となる、とある。(既に鼻血の海・・・おいおい) 大鳥と脱走している時が、に・・・28才!!ぐはあぁぁ!!!・・・・ぼたぼたぼた。(し、しっかり!!)
で、五稜郭降伏後、謹慎後に静岡藩に帰参して沼津に赴任。明治4年陸軍少尉。 この沼津兵学校には元伝習隊の人も居て、本多と一緒に体操方に挙げられてる人では ●山口知重(朴郎) 幕府陸軍士官で伝習士官隊頭取として同じく江戸を脱走。 大川率いる伝習隊歩兵隊頭取として箱館戦を戦う。敗戦のち最勝院で謹慎。 明治4年陸軍少尉となり、後に文官に転向。
この人と本多は江戸脱走の頃からずっと一緒で、 明治5年、沼津兵学校が東京本校への統一のために閉校となったのをきっかけに上京。 二ヶ月後に再び官職に付き、文官の道を選んだ、と言う人であるらしい。
本多はその時に文官ではなく武官を選んだんですって!!。 あー、もう!!・・・本多らしい!!(ここでひと泣き・笑)
やっぱりね、この時、武官を選んで、陸軍大尉までなってんのよ、本多くんは。 だからさ・・・その後の明治10年の西南戦争には行ってると思うのね・・・。
あああー・・・どっかで戦死していたらどーしよう!!(滝川が戦死してるし) でも生き残ってても史料が無いってのは・・・ちとつらいなー。 身を引いてしまったんだろうか・・・。官職から。 うううう。この後だよね、知りたいのは。
しかし、アレです。名前が残っていると言うのは、凄い貴重だなーと思ってしまった。 だってね、明治6年の「沼津城内 旧幕臣割付図」(表題は複写した郷土史家による)にはね、 本多の名前があるのですよ。つまり住居が、載ってる。 この時、上京していた人も多いので、本籍を沼津に残していたり、 家族を残していた場合も住所登録されてるわけで・・・。 本多・・・家族?それとも本籍だけ?(でも御子孫がいると噂で聞いた事があるので、やはり家族がいたのかな)
その一方で、明治3年、すでに体操方しとて赴任しているハズの山口(先述)と本多の名前が 静岡藩の職員名簿「静岡御役人附」に載っていないのは、 箱館帰りであるコトが政府に憚られたためか、就任が名簿作成に遅れたためか きわどいあたりが、ナンとも・・・リアルでしょ。
そう考えると、あの頃の旧幕臣が後の世に名を残していると言うのは、すごく貴重なんじゃないか、と 思ってしまうわけです。ね。
さてさて、この通信を読んでて一番のヒットは、沼津学校刊『仏蘭西歩兵程式』と言う本。 もちろん沼津学校が刊行している本ですが、その本の翻訳・・・大鳥がしているのです!! ああああ!!!本多と大鳥って!!!(違ってる!?違ってないよね!!) どこまでもー!!!!(愛と欲望で目眩が!!)
幸せです。私、それだけで・・・。愛、よね。(いやその)
それにさ、本多が上京して再び官職に付いたのが明治7年7月でさ、 大鳥が一時、陸軍省四等出仕となったのが9月。 翌年の1月までは同じ「陸軍」なんですよー!!!って、もうもう!!(何よ) ああああ・・・・お願い、私を明治に飛ばして!!(切実)
再会した時、大鳥は41才。本多34才。(既に妄想の域に・・・) 年の差7才かぁ・・・・いいなー(くはあぁぁぁっ!!) 再会・・・再会・・・(うっとり)
夢見さん発行、如月さんひごのまるはちさん合同、私ゲストの「乱炎」も今日届きましたvv
それについてはまた明日vv
ああーん、大鳥の夢も良いけど、本多・・・出て!!
2002年12月07日(土)
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