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2001年05月05日(土) 著者近影

 縁あって、50代の著名な作家とお会いした。もちろん、仕事の縁であるが。
 2月3月並の寒さから、一気に5月の陽気に立ち戻った日の朝。

 なごやかにお話を終えて、駅前のホテルを出る時、フロントにある大きな鏡とその横にあるロココ調の椅子を指さして、彼は何気なく言った。
「著者近影とかいう時は、あの椅子に座って撮ってもらうんですよ。で、キャプションは、”書斎にて”にしてもらうんです。だから、本買った人は、○○さんはすごい書斎で仕事してるんだと思ってる。」
 ホテルを出て、駅から見える大きな神社を指さし、
「外で撮ってもらう時は、あそこの神社の池の縁にしゃがんで撮ってもらうんです。で、キャプションは”自宅の庭でくつろぐ○○氏”にしてもらうんです。だから、みんな、○○さんの家の庭には大きな池があると思ってるんです。」

 なーんて、そんなことを「これぞ5月!」って感じのお陽様に当たりながら、いたずらっ子みたいな笑みを浮かべつつ、ぼそぼそとしゃべり、「それでは」と自転車を駆って去っていった作家の後ろ姿を見送っている間、わたしは、ほのぼのと爽やかに暖かいものを感じていた。その精神への感触が、なんとも見事に「5月」だった。

 仕事に明け暮れたこの2、3日。その瞬間が、穏やかな長い効き目の薬となって、わたしを守ってくれている。


2001年05月02日(水) なんてことない一日なのに、気分は最高。なぜ?

 それにしても寒い。桜が勇み足でほころんでいった4月初旬の暖かさが嘘のよう。

 今日は1日、自分で時間を使えるうれしい日。引っ越して1ヶ月。ようやく区への転入届を出しにいくことができた。
 区役所は、区の北はじ、我が家は南はじ。自転車でとばして15分。のんびり漕いで20分といったところ。やりたいことがいっぱいあるので早くすませようとガンガンとばして区役所に到着し、肝心の転出届を持ってきていないことに気がついた。仕方なく引き返したのだが、おかげで「こうなったら、もうそんなに急ぐこともないわね」と、気分が変わった。
 少し遠回りをして、新緑の川に沿って広がる公園を抜けて帰る。途中で美味しそうな珈琲豆の店も見つけた。気分は上々。家にたどり着き、苦みの深い珈琲をゆっくり味わった後、また区役所に向けてのんびりと出発。無事、新しい住民票と国民保険証を手に入れた。
 どうもせかせか動く癖がついている。休みの日には、こうしてゆったりとした気分で街を移動する方がふさわしい。

 気分のよくなったところで、次の作品の予習。おもちゃのデジタルピアノを鳴らして、歌いまくり。音楽ものをやる時は、まず音符のひとつひとつと慣れ親しんでおきたくなるものだ。そうすると、俯瞰もしやすくなる。声を出すと、悪いガスがちょいと抜ける感じ。カラオケ嫌いのわたしも、こういうのは楽しい。

 更に気分のよくなったところで、夕飯づくり。今晩はハンバーグ。音楽を聴きながら鼻歌交じりで作る。玉ねぎのみじん切りも、時間があるから、飴色になるまでじっくりじっくり炒めてやる。これが美味しいハンバーグには不可欠なのだ。
 焼き上がったものはすぐに食卓へ。一口ほおばって、とにかく我が料理の腕前に感動。まったく、どうしてあれほど美味しくできてしまったのか。ちょっとした気持ちの余裕で、物事はこんなに美しく運ぶものなのか。まったく感涙ものだった。

 いやまして気分よく、メールチェックをしていて、「ガーン!」大ショック。
 Appleからのお知らせメールが、新しいiBookの発売を告げている。重さ2.2キロ。iBookと称しながら、デザインはまるで違う。まるで小さくなったPowerBook G4。もちろんG3ではあるが、なんとDVDとCD-RWの両方が選べるのである。そして安い!
 毎日マックを持ち歩くわたしのゲットすべきは、もしかしたらこっちだったのかもしれない・・・とちょっとショックを隠せなかったが、気を取り直して、愛機の15インチディスプレイに向かっている。最近、「やっぱりMacは重い!」と、長年愛用したPowerBookからVaioに浮気した友人も、今頃は歯がみしているだろう。うーん、それでも2.2キロだから、やっぱ重いのは重いか・・・。

 気分のよい日は気を取り直すのも早いものだ。
 これから更けゆく夜を、楽しんで仕事して過ごす。

 雨が降ってきた。TVを見ないので、天気予報というものになかなか接しないのだが、明日もまた雨だというの?
 ああ。あったかさが恋しい。


2001年05月01日(火) 五月の葉っぱのように。

 時すでに5月。このHPを立ち上げたのは、昨年の5/7。歳をとればとるほど1年が短く感じると言うし、自身、実感もしてきたことだが、この1年は長かった。仕事から仕事へと追われて過ごしたからか、それとも、自分が停滞しているからか。
 日記をつけていくことも。無作為の他者に読まれてよいようにと書くことが、弾みになることもあれば、いきおい意味がないと思いこむ要因にもなり、よくぞ1年続いたことであった。時折もらう感想や励ましのメールに少なからず応えようとしてきたのだろう。そしてまた、自分の書いた文章が、思わぬ時に自らを救ってくれることもある。「継続は力なり」などと言う、手垢のついたことばを、再び信じてみようかという気持ちになってくる。

 今日も5月とは思えぬ冷え込む1日。わたしの気分も天気に似て、うっすらと影が差し、弾けない。諸々の思いが流れの速い雲のように、心中をよぎっていく。
 先日亡くなった作家のことを考え、「模倣犯」を書いた宮部氏のことを考える。
 劇作家、秋元松代氏は、自らの並ならぬ世界への憤りやら愛情やらをいったん鎮め、作品に転化していくのだと語った。そして、俳優や演出家に一言一句でも変えられるようだと、作品としての価値はないとする完璧主義者だった。結婚はせず、老いてからは親族と一切の関わりを絶ち、壮絶なる孤独と共に生きていらした。書かなくなってからも書けなくなってからも、「作家」として生きたはずの彼女の、その孤独なる精神生活を思うと、その強靱さにわたしは言葉もない。自らの作品から得る収入で晩年を過ごし、いつまでも自分と他者両方に厳しく、最期は、自らの最高傑作が劇場にあがり、観客の喝采を浴びているさ中、苦しみもなく発っていかれた。作家として、最高の幕切れを、ご自分で演出されたようであった。強い女性だった。わたしの想像などはるかに越えて。
 宮部氏の「模倣犯」を読み終えて感じたのも、作家としての彼女の、無類の意志の強靱さだ。
 彼女が精緻に構築していく物語には、彼女の現世への思いが色濃く織り込まれていく。彼女の精神、彼女の手によって捏造された物語が、現世を映し出す鏡になっていく。そしてその鏡は、時に沿って、作家としての彼女の成長に沿って、より相対化された厳しいものになっていく。更にまた、これが宮部氏の最も素晴らしいところなのだが、どんな人間にも、同じく暖かい視線を注いでいる。そう、初期作品から読み進めてくると、人物の相対化の仕方と愛情の注ぎ方のバランスがどんどん絶妙になってきているのだ。悲惨な犯罪描写が多くても読後感に人肌のぬくもりがあるのは、それによるものだろう。
 存在しなかった物語を存在させてしまう力業、信じさせる技術、まっすぐな視線で対象や現実を見据える自らの世界に対する位置取り。
 わたしは同世代の女として、彼女の存在を誇らしいとさえ思う。そして、いつも通り、無力な自分に思い至る。

 HPを立ち上げようとして最初に日記をつけた日、わたしは5月をこんな風に書いた。

 また五月がやってくる。
 四月を迎えて、また花の季節がやってくると思ったように、新緑の季節がやってくる。五月の葉っぱはまだ成長の途上。人の手の大きさで言えば小学校五年生くらい。葉と葉の間からまだまだ空が垣間見える。その緑はまだ淡く薄く頼りなく葉脈だってはかなげで、陽の光は思うさま彼らをすり抜けてくる。
 五月は木漏れ日のいちばん美しい季節だ。

 自分が自らの人生でまだ何も成し遂げていないと落ち込むよりは、歳がいくつであれ、5月の葉っぱのような人でありたい。途上であるからこその、美しさ、軽やかさ、風通しのよさ。
 ざわめく心をひとり鎮めて、伸びゆくエネルギーに変えていきたい。5月の葉っぱのように。


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