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2002年01月14日(月) |
手紙、日誌、悠長な時間 ●蝶の皮膚の下(赤坂真理) |
忙しい時にはどうしても出来なかったことで、今は出来ることのひとつが、ゆっくりと手紙を書くこと。
万年筆を使って書くのは久しぶりだし、メールにしたって、じっくりと書くのは恋人に宛てるものだけだった。もともと筆無精ではないのだが、人づきあいは悪い。ひと仕事終えて、住所録とかもらっても、すぐになくしてしまい、さして困らない。「出会うべき人には、またきっと何処かで出会うのだ」とうそぶいて、自分の無精と無礼を省みない。
そんなわたしが、机の奥にしまいこんだ「受け取ったまま返事を書かなかった」手紙たちを引きずり出し、机の上に並べている。一度にすべての返事を書くわけではなく、かつてわたしに送られた文字たちを、しばしば眺めて暮らしている。実は、そこでもう、手紙を書く行為は始まっている。
自分の近況を伝えるなら、たかだか便箋3、4枚の手紙より、自分のHPにアップした日記を見てもらった方が早い。相手の近況や健康が気になるなら、電話の方がよほど確実に情報を手にいれることが出来る。
でも。机の上の手紙を眺め、「さて何を書こう、どの便箋に書こう・・・」とその人のことを思い出しながら筆を進め、時には許せない書き間違いに紙を丸め、読み直して読み直して落款を押し、朱が乾くまで煙草など吸い、封筒にいれて、「あらら、郵便番号5桁じゃない」とおもむろに調べ、切手を舐め。そして生まれた一通の封書は、やはりわたしの机の上で、静かに投函されるのを待っている。
この悠長なわたしの時間。これは、電話でもメールでも相手には伝わらない。便利なメールがここまで浸透した今、この「時間」というものが、手紙を書く意味なのだろう。
ということは、何処でも、誰でもよく書いていて、そう、新聞の「声」欄などでも、趣旨を同じくするものが季節に一度は取り上げられている気がする。
ただ、この「そういうものだ」と頭で分かっていることと、暮らしの中でふっと体感することは、だいたい、我が家と樺太くらい遠い。忙しい時には、目の前にいない人のことなど考える余裕がないのだもの。仕事に埋没していると、親の調子の悪いことまで忘れてしまうような人間が、たまさか自由になる「時間」と暮らして、思うことは、実にたくさん。
***
日常の中で、書くということは、実に様々。
今日、わたしのHPも時々のぞいてくれている友人から、メールを受け取った。やはり書くことに心と時間を費やしてきた彼女がわたしに訊く。「人に読まれる前提で日記を書いて、どんな効用があるの?」
効用、と云われてしまうとちょっとたじたじとしてしまうが、実際、こうして不特定かつ不可視の他者に読まれる日記は、自分の日記とはまったく違う。
自分の日記では、自分の知っていることは書く必要がないが、ここではどんな形であれ、ことばにしないと書き進められない。どう書けばいい? どこまで書く? と思案する。それがいい。そしてまた。鍵をかけた日記なんて自戒ばっかりで、自分でさえ読む気にもならない。だから、人が読むと思うと、自戒や落胆の中でさえ、俄然元気なわたしが起きだして、何やら面倒ではあるがちょいと意味ありげな日常を綴っている。もちろん、どっちも嘘ではない。一人の人間は、そうそう一辺倒ではないから。
「時間」があるので、かつてのWEB日記を読み返してみると、「ああ、あの時は心身ともに辛かったなあ」というような時節に、やけに威勢がよかったり軽やかな文章を書いていたりして、個人的に面白い。わたしは職業柄、人を鼓舞するのが上手い方だと思っていたが、実は自分を鼓舞することに長けているのかもしれぬなあ、などと思ったりする。
とまあ、こんな風に、今日も書いており。ガンガンタイピングしていても、それなりに時間はたっており。効用と云えば効用のある日記を、実はやっぱり自分のために書いておったのだな。
***
今日は、今夜わたしがこしらえた、世にも美味しいスパゲティのことを書こうと思っていたのに、「書く」という1トピックでここまで引っ張ってしまった。
うーん、また明日だな。
2002年01月13日(日) |
ことば ●声に出して読みたい日本語(斎藤孝)・宮廷の道化師たち(A・ダガン) |
「声に出し読みたい日本語」が売れている。売れているので、わたしも買って読んでみる。
暗誦できることばを持った日本人が減っていると嘆く著者に共感。
わたしはこの本で取り上げられた幾つかをそらで言えるような人であり、俳優の、音になった「ことば」とつきあう身であり、氏と同じく、「声」を発する時の原初的な喜びや快感を、伝えていきたいと思っている。ああ、早くも現場で仕事がしたい。
ただ音にする、そのことから生まれる所感は、まず意味を離れて心地よい。そこを経て再生した意味は、豊かなものとなって人の中に住み着く。
相変わらず、享受のみの生活。そんな自分が鬱陶しくて仕方ないが、享受の喜び、手応えは、確かなもの。他者によって生かされていると、つくづく思う。
2002年01月12日(土) |
不健康がお似合い ●半所有者(河野多恵子)・ブルールーム(D・ルヴォー) |
なんとか朝型生活者になろうと、早く寝ようとしても眠れず、例えば飲んだ勢いでそのまま眠れてしまえても、やはり中途半端な時間に目覚めて、夜の真ん中で途方に暮れてしまう。
それでもなんとか、複数の目覚ましで強制的に朝を迎えても、健康的な空気の中で仕事をする気になれない。むくむくと妄想が頭をもたげ、書かずにいられなくなったり、自分の見たい景色が広がっていくのは、どうしても夜の中において、なのであった。
憧れの「健康」はひとまず脇に置き、やはり夜の人として生きるのか?
河野多恵子氏は「半所有者」を、一体どんな時間帯に書いたのだろう?
原稿用紙30枚かそこらの短篇に描かれるのは。
病院から自宅に戻り、通夜を待つ妻の亡骸の上に乗っかる夫の姿。彼は死体との交わりの中で、女の官能にさえ至る。つまりは、すでに肉として喜べなくなった女の体と交わる中で、女の喜びを代わりに己が肉に移し込んでしまうような一体感を味わっているのだ。
なぜ交わるのか、それは愛か? どの刹那、死体との結合という絵が彼の裡に浮かんだのか? 妻の死体は如何にして夫をその行為に誘ったのか? それは妻の一生かけた貯めこんだ、女の業の表出なのか?
読むたびに匂い(臭い)を変えそうなこの小説、こんなものを朝方書くと思うとぞっとする。いや、でも、きっと朝の時間に書いたに違いないと思えてしまう、作者の企みを、感じてしまうのだ。平明な文章、淡々とした時間の運びの中に。
我が青春の劇場「ベニサン・ピット」で、「ブルールーム」を観る。シュニッツラーの「輪舞」を舞台化したもの。
一言で云えば、セックスの話のオムニバス。いちばん危ない題材を見事なバランス感覚で演出するルヴォーに、久々に感服。そして、昨年仕事で知り合った女優、秋山菜津子の鮮烈さ。軽やかに、かつ執拗に「女」でありながら、時折ユニセックスな存在になって自分の「女」を不機嫌そうに眺めていたりする。
ナルシズムから見ても、愛し過ぎたり嫌いすぎたり、ぎりぎりのところを行きつ戻りつ。
本はバシバシ読めてしまうし、観劇予定は続くし。休暇に入っても、享受するばかりのわたし。
才能も企みもない人間は、やっぱり夜中にこそこそと、妄想を膨らませ、不健康にまみれて仕事するのが似合っているのかも。
劇場に朝方までいた興奮から醒めず、本を読めば読むほど目が冴えて(今は「宮廷の道化師たち」を大事に大事に少しずつ)、7時半頃ようやく眠りの中へ。
ほっとしたせいもあるだろうが、目覚めたのが午後3時だと知った時はがっかり。これからは規則正しい生活をしようと思っていたのに、休暇初日がこれとは。
まあ、昨日仕事が終わったばかり。現場から現場に移動して働き続けることで見失ってしまったものがある、と、この休暇を待ち望んでいたわけだから、しばらくは心も体も解放してやろう。
この深夜重点型不規則生活を正すのに、1週間くらいかけて、その間は別に何も手につかずぶらぶらしている、なんてのも、悪くないかもしれないな。
そしてひとつ仕事が終わった。大きな大きな仕事が。
千秋楽は。
いつも通りでもあり、お祭りでもあり、別れでもあり。
大切に作りあげてきたものが、夢のように消えてしまう。
「儚い」という言葉を、思い出す日。
仲間のスタッフたちがまだバラシをやっているのを尻目に、4時頃帰宅。
さて。わたしはいよいよ、4ヶ月弱の失職者生活に入る。
昨日、今日、と、連日の痛飲。
もちろん、状況はずいぶん違っていて、昨日は恋人とお互いの現在を話しつつしっとりと。今日は、劇場のプロデューサーたちと、これからの仕事の話、プラスつまらない世間話に盛り上がりながら。
この先、他者とコミットしなくなる個人的な休暇を控えていると思うと、普段なら「早く帰ろう」と思う席での時間も惜しくない。
勝負は独りでしなければならないのだろう、と思う。
でも、独りで生きてきたとは、とても思えないし、他者といなければ世界が広がらないのは当然のこと。
ただ、他者といる時間が、そうそう充実していないと感じるのは、それぞれが違う現在を抱えていて、それぞれ、真っ直ぐにそのことどもを他者にぶつけられないからなのか?
そういう意味では、恋人と語らう時間がいちばん。
人を愛するってことは、歳をとると、ずいぶん滋味に溢れたことになってくるものであるなあ。
2002年01月07日(月) |
無為 ●独り居の日記(メイ・サートン) |
遅く目覚め、何もしない休日。
時間をかけて読み損ねていた新聞を読み、整理などをする。
現在の自分に欠けているもののことを考えたりする。
ベッドの中で少しずつ読み進めてきたメイ・サートンを読み終えた。
あと3日4回の公演を残しているが、打ち上げパーティーが催される。
とても良い集まりだった。
わたし自身は問題を抱えており、満足な仕事をしたとは言えなかったのだが(他人の評価は違うかもしれないが)、同じ仕事を愛している人々が歓ぶ姿はうれしいものだ。
もうすぐ現場から離れ、しばらく他者と仕事をせず、自分のやり残してきたことを詰めようと思っているが、その時が近づいてくるにつれ、劇場が愛おしい。
現場を4ヶ月も離れて、わたし、平気でいられるかしら?
仕事はじめ。
いつもの「おはようございます」という挨拶が、「おめでとうございます」とか「今年もよろしくお願いします」とかに変わったくらいで、公演中の芝居を、いつも通りに上演する。
マチネ終演後、スタッフ全員で新年会。総勢40人。
大勢の宴会が苦手なわたしは、近くにいた人と少ない酒量でたくさんしゃべって笑い、酔わずに帰った。
突然、ジャック・マイヨールが自殺した事実を思いだし、帰り道から彼のことを考え続けていた。「孤独」の2文字をキーワードにして。
休みになったら、言葉にしながら考えてみたいことが山ほどある。
でも今は。
明日から昼夜昼夜昼、と、5れんちゃん。千秋楽を間近にして、いちばんきついところ。
読みかけの本を抱えて早めにベッドに入り、明日に備えよう。
2002年01月02日(水) |
今日はこんな1日 ●80人の遺書(文藝春秋)・黒猫白猫(クリストリッツァ) |
午前。
配送業者のノックで起きる。母からの荷物。
大晦日からお正月を、風邪でウンウンうなりながら独り過ごす娘を不憫に思い、元旦から料理をして、おせちと共に送ってくれたのだ。
これには泣けた。百万回でも「ありがとう」って云いたかった。
午後。恋人が部屋を訪ねてきてくれる。
母の料理に、ぬる燗の日本酒で、心和むひととき。
日が暮れて。
彼は会社の新年会へ。駅まで見送る。
恋人が帰った後は、いつも彼のいたところだけ、ぽっかりと穴の開いてしまったよう。そこだけ空虚なのだ。だからその足で部屋に帰る気にはなれず、辺りをウロウロ。しかし寒い。本屋が開いていればなあ、とコンビニに入り、幾多の読む気にならない雑誌の中から、文藝春秋を購入。そして、喫茶店が開いていたらなあ、とモスバーガーに入り。
特集の「80人の遺書」というのを読み出したら、やめられなくなってしまい、じっくり全部を読破した時には、もう9時を過ぎていた。
愛しい人との時間のあとで、文藝春秋、しかもファーストフードのコーヒーで、おまけに読むのが他人の遺書ときた。・・・笑えるね、まったく。
部屋に戻ると、すっかり暖かさは消えていて、風呂が沸くまで、久しぶりのチェロタイム。またふりだしに戻っているので、休みに入れば、と、待ってくれているチェロに言い訳をする。
そんなこんなの休日を終え、明日から仕事。