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2002年07月05日(金) |
魂消る。 ●鬼が来た!(チアン・ウェン監督) |
新宿武蔵野館に、「鬼がきた!」を見にいく。今日が最終日だったので、見逃すものかと駆けつけたら、文化村のプロデューサーW氏やら、毎日新聞の記者T氏と一緒になる。
脚本、監督、主演の3役を兼ねたチアン・ウェンの才能とか気迫、また映画そのものに、魂消る。
「アンダーグラウンド」に匹敵する、バランス感覚。人間洞察の深さ。そして鮮やかな演出の数々。
中国侵略時の日本を一方的に責めるものではなく、人間を描くため戦争を描くための舞台設定だと重々分かってはいても、一日本人としては胸の痛むシーンが多い。
新宿の雑踏を抜けながら、W氏と「すごいもの見ちゃったなあ」と二人それぞれに映画を反芻した。
ずどーんと重くなった気持ちを転換するために(?)伊勢丹へ買い物に。バーゲンで賑わう中、わざわざバーゲンじゃないワンピースに大枚を使い、帰宅。
恋人のリクエストで、今夜はヒレカツ。たくさんのキャベツを添えて。料理の楽しみは、旅公演に出るので、今夜が最後。
2002年07月04日(木) |
休日の贈り物 ●「桜の園」(森光子) |
3日。新国立劇場にて、「桜の園」を長野を舞台に翻案した森光子主演の舞台を見る。森さんの素敵さは否定しないが、演出の不手際か、どの俳優も手の内でしか舞台に存在してくれず、ちっとも心が動かない。翻案も余りに強引。説得力を感じず、久しぶりに途中で劇場を抜け出してしまう。
公演と公演の間の休みとは言え、恋人は先々の仕事の準備の仕事ってやつで、ずっと働き続け。3日の夕刻から4日の朝までだけ、せめて二人でささやかな休暇を過ごそうと彼が予約してくれていた、お台場の日航ホテルへ。
海を眺めながら、山のように買いこんできた美味しい食べ物と共に、シャンパン、ワイン。ちょっと外に出たくなり、海沿いを散歩して、これまた海の見える寿司屋へ。部屋に戻ってまた飲み続け、知らぬ間に眠っていた。
疲れと不眠のせいで、起きたらもう12時前。いそいで仕度して、チェックアウト。ホテル内のオープンテラスで朝食。食べ終えて彼は仕事へ。わたしはテラスの余りの気持ちよさに、一人残る。
持ってきていた戯曲を精読しながら、誘惑に抗しきれずビールを頼む。他のお客さんは、暑さのせいかみんな屋内。わたしは肌に滲む汗も、紫外線の一斉射撃も気にせず、海を眺めながら、読んだり書いたり、3時間をそこで過ごす。
素晴らしい休日の贈り物。
幸福を噛みしめつつホテルを去り、自宅に向かう途中、目に焼き付いて離れぬ、親子の姿を見る。
改札に向かう人々の雑踏の中、80歳くらいの母が、40歳くらいの身障者の娘をおぶっている。
母は150センチにおよそ満たない小さな体、そして悲しいほどに痩せている。娘の目は濁って遠くを見ており、母の小さな背中の上で完全に脱力し、四肢はだらりと垂れ下がっている。おぶってくれている母の体の温もりを感じられる知覚があるのかどうかも怪しい。
母の折り曲げられた両肘には、くすんだバッグがそれぞれ一つずつ。ふたつの掌で、娘の尻をしっかりと支える。そして、しばし歩けないといった様子で、立ちすくんでいる。
わたしが近くで立ち止まり、声をかけようかと逡巡していると、近くの店員が先に声をかけた。きっとその店の前で長らく立ち往生していたのだと思う。
「大丈夫ですか?」
老いた母は、彼女に視線も移さず、ただただ首をふった。助けはいらない、といった感じで、しゃにむに。そこには意志が感じられた。
店員の存在を振り払うかのように、老いた母は歩き出す。蟻のような歩み。
わたしはしばらく後ろ姿を眺め、それから彼女を追い越し、振り返り振り返りしながら、改札を抜けた。
仕事をしよう、仕事を、作品を世に送り出そう、との思いを強くしながら。この不平等な世の中で、理不尽な生の中で、わたしにも出来ることが、そこにはきっとある、と思いながら。
胸をはって自分は幸福なのだと言うために、やるべきことがある。そのことを忘れないでいなければ。
2002年07月01日(月) |
幸福也。●断腸亭日乗 ●停電の夜に(再々読) |
仕事をしていれば、そりゃあ滅入ることもあるし、疲れることもある。他 人に囲まれて、世界や人間を描出する仕事などしていれば。それでも、今は実に楽しい。実に実に楽しい。
若い主演俳優の、日毎に新しい発見をしていく姿を見守るのは、スタッフ冥利に尽きるし、また、年上の大物俳優とのつきあいとは違って、終演後の楽屋で、今日の芝居について喧々囂々できたり、夜遅くまでともに酒を酌み交わすことも出来る。
毎日同じ芝居の幕を開け、基本的には毎日同じことを繰り返しているはずなのに、毎日が感動的に違う。そして、自分自身の中には、沸々と、まだ誰も知らない感動を見つけたいと思う気持ちが湧いてくる。
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今わたしは、ここ3年間ずっと心に秘めて慕ってきた男性と共に暮らすようになった。好ましい関係を保ちつつも、向こうが結婚しているため世間に秘していた恋が、胸を張れる関係に転じつつある。
わたしはどうしてしまったんだろう?
あらゆることが好転する。あらゆることが喜ばしい。
失ってしまったものはないか? 忘れているものはないか? と自問する。
そうだな。本を読まなくなった。もちろん、新作の初日を開けて、かつ恋をして生活をして、と、物理的な時間のなさもあった。でもそれより、フィクションより自分を取り巻く物語の方が面白かった、そのことが大きい。作品をたちあげること、恋人とのあらゆる交歓。
それでも、常に常に、かつてのようにフィクションに溺れる時間を待っている。恋人の寝息を待ち、一人わくわくしながら開く表紙を。
そうだ。わたしは孤独を失ってしまったんだ。あれだけ仲良くしていた「孤独」を忘れてしまった。これだって、いつかきっと戻っていることを知っているくせに、今、忘れていることが、贅沢にも、淋しい。孤独から派生する喜び、孤独から派生する発見、そんなものをわたしは愛していたんだろう。
今。常に一緒にいたかった人と常に一緒にいられるという、人生でどれだけあるかわからない幸福の時を過ごしているというのに、そんなことを思うわたしがいる。そしてまた、恋人の中にも同じ匂いのものを嗅ぎ取ってもいる。これから、二人して、共生する時間と孤に(個に)戻る時間を、うまく生き分けていくようになるのかもしれない。それなれればいいと思う。お互いの仕事のためにも。
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わたしは今日、久しぶりの休日を過ごした。部屋を片づけたり、本を読んだり、料理をしたりしながら、こんな風に思った。
仕事に熱中していると、どうしても仕事が表、生活が裏に思えてしまうけれど、表裏一体の暮らしをしなければ、様々なものを発見する五感を失ってしまうだろうな、と。
恋人は、今日頭脳と肉体をどちらもフル稼働する仕事で、クタクタになって帰ってくる。気分転換に外で一緒に一杯やり、それから上出来のカレーライスを食べてもらう。「牛丼かと思った」と笑われるほどに沢山いれた牛肉のシンプルなカレーに、夏野菜のガーリックオイルソテーをたっぷり添えたもの。
人と暮らすことの喜びに、食事を用意する喜び、食べてもらう喜び、共に食卓を囲む喜びがある。喜びが待っているかと思うと、あらゆることが好転し、ちょっと自慢したくなるような料理をわたしはこの1ヶ月でたくさん作った。おかげで、2ヶ月で5キロしぼった体重が一気に2キロ戻ったけれど。
明日の九州日帰り出張に備え、仕事を片づけてから眠るはずだった彼は、疲れに抗しきれず眠ってしまった。ここにも喜びがある。人の寝息を感じる喜び。
どこから眺めても、その眠りの中で疲れが少しずつ溶けているように見える。必要な眠り。だから、そのまま眠らせてあげて、朝、早く起こしてあげようと決める。朝に弱いわたしは、それまで眠らず、寝息を聞きながら、仕事したり書いたりして過ごす。
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「断腸亭日乗」を読みながら、なんでもいいから毎日を書き留めてやろうと思う。思ったので、今日はこうして書いている。幸福なことばかり書き留めることに、ちょっとした戸惑いはあるのだけれど。
2002年06月11日(火) |
日々 ●小さなエイヨルフ(イプセン) |
●初日を開けてから5公演目。休演を挟んで主演俳優が突然芝居を変え、まわりも気の抜けた演技。いらいらと本番を見守っていた演出家は、終演後俳優達を楽屋に集め、檄をとばす。
●昨日は休演日。恋人は朝から仕事に出かけ、わたしは余りの天気のよさにふらりと羽田空港へ出かけ、海を撫でてきた風を楽しむ。
●マン・レイの写真展を仕事の前に見るつもりだったが、持ち時間の短さに予定変更し、またしても本屋へ。6300円もするイプセン集を購入。自分が演出する現場を持つために、このところ戯曲ばかり読んでいる。恋をすることに時間をつかっていることもあり、小説を読む時間がめっきり少なくなっている。そろそろ淋しくなるころだ。川上弘美の「センセイの鞄」の続編「パレード」と池内紀氏のエッセイを購入。どちらも眠りの前の時間に優しそうな本だ。恋人は先にベッドに沈み込んでいる。隣に滑り込んで、ページを繰ろう。
書かなかった間に、新作が一本開いた。
書かなかった間に、同時に二人の男性に、一生に一度あるかないかの愛され方で愛され、どちらか一人を選ばなければならないという苦行を強いられた。
一つの幸福を捨て、一つの幸福を選び、一人の男性を傷つけ、一人の男性と喜びを分け合っている。
今日という日にいて、昨日のことを振り返って思う。明日のことは本当にわからないものだ、と。
そんなことを瞬間瞬間感じるような日々だった。突然降りたった幸せに戸惑い、手に入れた幸せの行く先にわずかに怯え、それでも明日のことはわからないからこそ、今日を楽しんでいる。
2002年04月02日(火) |
ういういしい気持ち。 |
果物屋さんに雇ってもらうことになる。ただ、果物を売るのではなく、フルーツジュースを売るスタンドに配属された。デパートの入り口とかで、ジューサーミキサーを並べている、あのスタンドだ。
仕事でキャスティングに参加するようになってからというもの、タレント事務所のマネージャーからことあるごとに挨拶されたり、付け届けをもらったり、なんだか、わたしはちっともエライ人ではないのに、エライ人と端から勘違いするような待遇だった。そんなわたしも、明日からジュースを売るお姉さん(おばさん?)だ。
時給はたった900円だけれど、いいじゃないか。本職じゃないんだもの、1ヶ月限定で雇っていただけるだけ有り難い。
そう言えば、上京し大学に通い一人暮らしを始めて、最初にやったアルバイトが、デパートの売り子だった。なんと18歳の時以来である。それに、こういう時間給の安い仕事も長らくそれ以来だな。
司会のお姉さんをやったり、テレビ局でカラー調整のモデルをやったり。日本料理の仲居をやっていたらスカウトされて、スペイン料理屋の雇われ店長をやったり。ギャラの安い俳優時代は夜しか働けなかったからずっと水商売。なんだかんだ言ってアルバイトで高給取りだった。
時給900円。うーん、いいかもしれない。
この休みが始まる時、もしバイトをやる羽目になったらお弁当屋さんで汗を流しておばさんたちと働くとか、そういうのがいいなと思っていた。なんとなく、ラインは一緒だな。
恋人は今日から仕事で渡欧。彼はわたしがそんな風でもあまりがっかりしないらしい。逆に面白がっている。変なの。
休みは仕事仲間が新作の稽古場で熱くなっているのを見にいこう。4月は忙しくなりそうだ。
アルバイトをすることにした。財布をなくしてから、もうぴーぴー言いながら暮らしていたけれど、出歩くたびに人におごってもらう現実にさすがに反省し、明日面接に行く。40歳になってアルバイトをしようとは思わなかったが、先の読めない仕事をしているのだから、これからだって、はてどうなることか。
選んだのは、事務の仕事と、果物屋さん。40歳という使いにくい年齢で、しかも4月末日までしか働けないわたしを、果たして雇ってくれるんだろうか? そう自覚しつつ、果物屋さんに決まればいいな、などと贅沢をほざいている。せっかくだから、普段とまったく違う仕事を経験してみたいじゃない、そりゃあ。
あまりに風邪が治らないので、病院で血液検査を受けてみる。すると、な、なんとわたしは、花粉症になっていた。それも数値を見るとかなりひどい。重症。
まわりからは「花粉症じゃないの?」と言われてづけてきたのだが、散歩に出れば必ず調子がよくなるわたしが花粉症だなんてありえない! とつっぱねてきた。そ、それが!
花粉症なんてやわなものに、このお外大好き人間のわたしがかかる訳ないと強く思いこんできたので、外にいる時は症状が出なかったらしい。
わたしの思いこみもたいしたものだ。
そうだと分かってからも、わたしは外にいる限り平気なんである。どんなに長い時間でも。その代わり、外出中にインドア状態が訪れると、いきなり発症する。病は気から。本当にそうなのね。
うーん、明日の面接は、いきなり鼻水ずるずる、なんてことにならなければいいが。まさかアウトドアで面接してくれないよな・・・。
※HPに「かわいい奴ら」をUP
2002年03月27日(水) |
夫婦って…… ●秘事(河野多恵子) |
帰京して、日記を書くのも久しぶり。
「秘事」を再読した。最初に読んだのは1年前くらいだったろうか? 時間がたつと印象がわずかに違う。あの時は、自分の恋情を支えに読んだ。今回思うのは、夫婦という小さな社会、夫婦という他人が作る新しい血縁のこと。やはり、両親と過ごす時間の中で読んだからか。
主人公夫婦の次男が、自分の結婚式の日に両親に告げる。
「おふたりは僕の最も大好きなご夫婦なんですよ」
わたしも同じ言葉を自分の両親に告げることができるだろう。両親はわたしの理想とする夫婦だ。理想を掲げすぎると、実現に障りがあるのか、自身はなかなか結婚できない。
「秘事」を読むと、結婚をしないことが人生における大きな損失のように思えてしまう。
生きるということや人生の時間を満たすことの、ささやかにして十分な美しさを描くのに、たまたま夫婦という枠を使っているだけのこと。そう思っても、なお「夫婦」というものに魅かれてしまうのは、ここに描かれる夫婦があまりにわたしの理想に近いからなのかしら。
それにしても、時間軸があちこちに動き、視点もあの人にこの人に移るのに、読み終えたとき、読者であるわたしはしっかりと彼らの人生を把握している。その緻密な描写力に、改めて驚く。
帰省前に初桜を見たと思ったら、もう東京では満開を過ぎてしまった。ここ2日の雨で、散歩道は濡れた花びらに敷き詰められた。
悲しくも美しい風情があった。
2002年03月13日(水) |
初桜 ●小説新潮3月号 |
●医者にもらった薬はまったく効かず、何か見当違いなものを服用している気になって、市販の薬に切り替える。がぜん調子がよくなってくる。はてどういうことだ。これなら明日くらいには実家に戻れそう。
●小説を読んでくれた友人から電話がかかってくる。「ここを書きたかった」という芯は十分に心が動くけれど、その確信に持っていくまでの技量が不足しているとの辛辣な意見。4、5日クールダウンしたので、さて手を入れ直そうかと腰が少しあがる。ちょっとした興奮を冷ますために、常より長く公園を歩く。梅は散り、こぶしが旺盛な生命力で咲き誇る。暖かさにだまされた桜が一本。初桜。曇り空の中でみる木に咲く花たちは、あわあわと優しい。
●文芸誌を買っても、いつも読むのは狙いを定めた2本くらいなのだが、風邪を治す静養期につき時間があり、頭から熟読。たくさんの文章、たくさんの物語、たくさんの……。まとめて読んでいると、自分にとっての読書ってものが曖昧になってくる。決して活字中毒者として読んでいるのではないのだ。決して今の文芸界を知りたいわけではないのだ。
作品を読むのは、わたしにとってやはり儀式的なものだ。はてしない物語のバチスアンがあかがね色の本の表紙を開けた時のように……。
本屋だの図書館だので出会う。表紙を開くまで中身はわからない。少しずつ世界に取り込まれる。最後のページをめくる時には、もう誰かと世界を共有している。読む前のわたしと読み終えたわたしの、微差を抱えてしばし過ごす。
不器用なので、読書にもそんな手順がわたしには必要。がむしゃらに享受して喜べるものでは、決してない。
*HP/Etceteraに「春がきた」をUP
実家に2週間から20日間は暮らす予定になっていたので、相応の荷物を宅急便で送る。あとは本人を新幹線で運べばよかったのだが、その本人の風邪がぶり返してしまった。
母の喘息は重く、そのアレルゲンを退治すべく家を掃除することも今回の帰省の目的だったのに、風邪を引いていたのでは帰れない。風邪を移されたりしたら即入院と言われているくらい、母の喘息は重いのだ。
病院に行き、気合いをいれて治すことに。ウイルスに二次感染しているのだろうと診断され、抗生物質をのみ、静養する。
母は、娘を心待ちにする気持ちと、風邪を持ち込まれては困るという気持ちの間で、辛そうな様子。わたしは、「退散してくれよ、頼む」とウィルス野郎にお願いして過ごす。