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2002年11月21日(木) 稽古初日。

 ものすごーく緊張して、ものすごーく期待して、稽古初日を迎えた。開けてみると、「おい、おい……」って言いたくなるような、悲惨な出来。
 さて、ここからどこまで行けるか。

 ここから仕事が始まる。


2002年11月20日(水) この暮らしが好き。

●明日から新作の稽古。準備に忙しい。いくら準備しても、何か欠け落ちているのではないかと不安になる。もっと勉強しておくことがあるはずだとあせる。現場が始まってみなければ分からないことばかりだと知っていても、何か落ち着かない。稽古初日前はいつもそうだ。

●キャスティングをする。台本が出来上がる。稽古初日を迎える。通し稽古をはじめる。劇場に入る。初日を迎える。千穐楽を迎える。
 だいたいそんなサイクルを、何度も何度も繰り返す暮らし。

 わたしはこの生活が、とても気にいっている。

 ずっと劇場に暮らしたい。

 モスクワから帰ってきて、今まで当たり前だと思っていた暮らしを、実に新鮮に喜べる。


2002年11月18日(月) 書き写すっていう作業。

●この歳になっても、時々、自分にびっくりすることってある。

 このところチェーホフの「黒衣の僧」という短篇にいれこんでいて、何度も読み返して研究していた。でも、ただ読んでいるだけでは、研究行為としては物足りないというかパンチに欠けるので、思いついて全文書写してみることにした。

 写すという行為は、読むことと全然違う。やってみて発見した。これはもう蕎麦とスパゲティくらい違う。右脳で生きてるわたしと左脳で生きてるわたしが混じりあっていくみたいでもある。
 一語一語を、文節文節を、キーボードに打ち込んでいくうち、ただ読んでいた時とまったく違う世界が構築されていく。同じ物語なのに、自分の中に堆積していくモチーフが、思わぬ呼応をしあったり、なんでもなさそうな細部が大きな意味を持ち始めたりする。今まで当たり前のように読に流していた描写が、特別なものとして鮮やかに像を結んだりする。

 寝食を忘れて没頭。最後まで写し終えると、なんと朝10時になっていた。12時に最初の現場に行く予定だったから、一睡もせずに外出。二つの現場で8時までたっぷりと働いた。でも、すっごい元気だし、集中力もある。
 わたし、どうしちゃったんだろう……。今もまだ、興奮状態。
 
 書写という行為には、何かあるな。今度は手書きで、何か写してみようか。

●しあさってから、これから3ヶ月つきあっていくことになる新作の現場に入る。初日の読み合わせにメインキャストのNGが入っており、アンサンブルで入っている若い女優に、「代役お願いね」の電話をいれる。
「本当ですか? ありがとうございます!」と、浮き立つ彼女の心が、びんびん伝わってくる。
 たった1日の代役でも、彼女には大きなラッキーチャンスであり、喜びだ。
 俳優って、本当に大変な仕事だけれど、こういう時、いいよなって思う。人生をたくさん生きることの出来る、稀有な商売だ。うーん、いいよな。


2002年11月15日(金) 先へ、先へ。

●今は次の仕事の準備期間。まだ現場に入るまでには時間があると思っていたら、なんだ、もう1週間もないんじゃない。時間のある内にやっておくべきことが山積みだったので、やおらあせり、机の上に本を積み上げる。

●もういい歳だから、そろそろ自分の作品を創る時期にきているわけで、その種を見つけたり水をやったり、という作業が必用。気になっていたものを読み直しながら、自分の見たいものを夢想する。

●来年はロンドンで大きな仕事がある。自分のあまりもの英語力低下に愕然としているわたしは、久しぶりに英語の参考書を開いている。18歳の頃、あの頃、これでもかと言うほど覚えていた単語は(もともとわたしはがむしゃらな作業に向いていたので)、何処へいってしまったのやら、忘却の彼方。空しい。
 それでも、外国語の勉強が、コミュニケーションへの熱き欲望から始まるというのは、日本語以外に興味のなかったわたしにとっては嬉しいことだ。まあ、どこまで取り戻せるか、それも、英語を話す機会のまったくない生活で。

●なんだ、旅行を回想してる暇なんてないじゃない。うーん、まだ先へ先へと急ぐことしか叶わない、発展途上のわたくし、といったところか。

●それにしても。恋人不在の時間を、ひたすら勉強して過ごすなんて、わたしも面白みのない女だな。
 とも思えるし。
 こんな時に、時間を忘れてやることがあるわたしは幸せ。
 とも思えるし。

 まあ、何にしろ時間がない。少しでも、先へ先へと進んでいこう。


2002年11月14日(木) 哀しい気持ち。

●恋人が、ヨーロッパに向けて飛び立った。別居をしている奥さんが、病気になってしまい、看病にいくというのだ。今日発つのだということはすでに一昨日から知らされてはいたが、発ってしまったのだと思うと、意味なく胸が痛む。

●自分に巣喰うマイナーな感情の中で、わたしは、嫉妬という感情が最も嫌いだ。それに襲われそうになると、バランスが崩れる。襲われまいと拒否反応が出て、心が乱れる。今日も、「かつてともに暮らした人の面倒も見れないなんて、人として駄目でしょう?」と自分に呼びかけ続けた。

●昼間は仕事の合間を縫って、一緒にランチをとり、しばしのお別れを。場所がふだん寄らない場所だったので、飛び込みのイタリアン。
 食べること飲むことに、時間とお金を惜しまないわたくしたちであるからか、これが実に当たって、彼などは「今年食べた中でいちばん美味しい料理かもしれない」と頬をゆるませていた。仕事の合間であるものの、白ワインをデキャンタで。昼間飲むとまたこれがよろしい。お互いに好もしく思う人と食事を囲むことほど幸せなことがあるだろうか、と、こんな瞬間に、わたしはいつも思う。
 これは絶対、仕事で得る喜びと等価だ。つまり、このささやかな人生に於ける、最上級。

●彼が旅に出る時、わたしはいつも本をプレゼントする。読んだって読まなくったって、旅に連れていく本というのは、大事なものだ。
 今日のチョイスは、わたしの生涯の愛読書、ジョルジュ・サンドの「愛の妖精」と、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」
 後者は、奥さんを訪ねていく恋人に読ませるような本では、決してない。そしてまた、わたしは当てつけにその類の物語を読ませようとする人間でもない。なんだか、手にとってしまったのだ。本というのは、いつも向こうから呼びかけてくるものだから。
 
●理由がないわけではないな。昨日からわたしは未読だった、トルストイの「戦争と平和」を読み始めているから。
 モスクワでは見れなかった、話題の演出家フォメンコの作品が静岡に来るというので、近々見に行くことになっているのだ。その演目が「戦争と平和」。これはやはり、読んでおかないと。
 それにしても、こんな作品を一度きりの人生の内に書き上げてしまう人がいる。かつていた。その事実が、わたしをへこませもし勇気づけもする。自分の過去を思えばへこみ、未来を思えば勇気が湧くわけだ。
「カラマゾフの兄弟」体験を果たして越えるかしら? それにしても、わたしはこうやって、いつもいつも物語に救われて暮らしているな。

●今日から少しずつモスクワでの体験をことばにしていくつもりだったが、どうこう言っても、やはり胸にぽっかり穴が空いていて、とても無理。
 そのかわりに、ロシアの朝夕の空を回想し、Etceteraにアップした。


2002年11月13日(水) モスクワ滞在の記録。

●10月22日から11月2日まで、予定通り、ロシアを訪れた。モスクワに9日間、ペテルブルグに3日間。

 22日、モスクワに到着しホテルの部屋に落ち着いたのは22時過ぎ。モスクワの街を歩き始めたのは23日のことで、この23日に、チチェン人による劇場占拠事件が起こった。そしてわたしは、この夜、事件現場のすぐ近くにあるタガンカ劇場で芝居を観ていた。

 モスクワを訪れようとした理由はただ一つ。毎夜劇場を訪れるためだ。毎日50本くらいのストレートプレイが上演される、世界でも稀な劇場の街、モスクワ。その街で、1日目にあの事件に出会ってしまったのだ。

 滞在中はずっとあの事件に心を占められて暮らした。
 プロになってから数えても、劇場を自分の居場所として暮らし始めて、もう22年になるわたしであるから、何か自分の生きている足場がぐらぐらと音を立てて崩れてしまうような、あって当然の地面が柔らかな殻のようなものに変貌してしまったような、不安な気持ちでモスクワを歩き続けた。

●帰国してからすぐに仕事に追われ、ここにきてようやくゆっくりと自分の時間を持てるようになった。記憶の鮮明なうちに、あのモスクワでの時間をことばにしながら追想し、自分のうちに留めておきたい。少しずつ、ゆっくりと。
 警官の詰めた劇場で観る芝居。事件の悲しみを吹き飛ばすかのように、笑いと喜びに溢れた劇場。上演中止の貼り紙を見て、劇場をあとにする夜。悲劇に巻き込まれてしまった人々の顔、テロリストたちの顔。どうしても不幸へ不幸へと道を選んでしまう世界。
 
 上演中の劇場が、襲われるということ。
 
●●HPの写真雑記ページEtceteraを復活。旅行でほとんで写真を撮ることをしないわたしが撮ってきたわずかな写真をアップしながら、こちらではテロ事件を離れ、楽な気持ちで旅行を書きとどめようと思っています。

 


2002年10月16日(水) ひたすら休む。

●ようやく体調が戻ってきた。
 パリ公演を終え、シャルル・ドゴール空港へ向かうバスの中で急に気持ちが悪くなり、チェックインする時には、もう体中の水分がなくなってしまった状態に。もう朦朧としていて、2分おきにトイレに駆け込むわ、貧血で倒れそうになるわ、回りの仲間は「おいおい、これで11時間フライトするのかよ!」って心配していたらしい。
 事実、胃がひどく痙攣していて、自分でもちょっと迷っていた。でも、フランス語を全くしゃべれないわたしが、ひとりパリに残って、どう治療すると言うのか? 帰ってしまうに限る。
 飛行機に乗り込み、誰が見ても調子の悪そうなわたしにスチュワーデスが声をかけてき、詳しく症状を訊かれる。しばらくしてフランス訛りの英語で医者のような人が話しかけてきたので、再び説明しようとすると、すぐに一枚の紙切れを渡された。記されていたのは二つのこと。
・事故があっても航空会社には責任を問わない
・事故を起こしたら、航空会社に対して責任を負う
 面倒なのですぐにサインをしてたたき返したものの、こうして元気になってみると、そのやり方にずいぶん腹がたってきた。
 そんなものなの?

●相変わらず眠れぬ夜に(そりゃあ昼頃起きだしてるわけだし……)、今年やった仕事の資料をまとめる作業をする。夥しい紙の資料を、ファイルにまとめてゆく。再演に備えて、とりあえず資料はきっちり残していく習慣になっているが、それにしても半端な量じゃなくなってきた。書棚にどんどん増えていく本もそうだけれど、なんだか、歳をとるにつれ、いよいよ身軽じゃなくなっていく気がする。

●ロシアにはなんのつてもないので、ロシア演劇評のメールマガジンを書いているモスクワ在住の女性に、今ロシアで見るべき芝居を教えてもらおうと、メールを送ってみた。
 親切な返信がきたが、その中身のほとんどは治安の悪さを伝え、注意を呼びかけるもの。
 ベルリンやロンドンで観劇天国の幸福ばかり味わってきたわたしには、知っておくべき情報ばかりで、ありがたかった。どうやら、「ちょっと芝居を観にいってくる」って感じの気軽さで行ってはいけないらしい。
 よし、気をはって、行ってみるか。


2002年10月15日(火) 旅の準備に余念なし。

●もともと、休みになると必ず時差ボケみたいな生活を始めるわたしである上に、パリ帰り直後。朝7時を過ぎて、ようやく眠ってみようかなという気になってくる。ロシア時計を見ると午前2時過ぎ。ちょうどわたしが寝る時間。どうせならこのまま出発までロシア時間で暮らしてみようか。

●とういうわけで、先の仕事の準備のかたわら、ひたすらにロシア旅行の準備をしている。大学の第2外国語でとったロシア語は嘘のように忘れており、思い出すのに余念がない。それに、せっかく念願のロシアに行くのだから、読み返しておきたい文学作品がたっくさんある。意地っ張りのわたしは、旅行先で地図やらガイドブックなどを広げるのが大嫌いなので、必死になって地図を頭にたたきこむ作業も必用だ。(この性格のおかげで、わたしはどこに一人旅に行っても、そこで暮らしている人だと思われる。)でも。今度はロシアなんである。手強い。英語は通じないし、ロシア語で少しは話せても、聴く方は壊滅的である。で、準備に忙しい。あれやこれや、やるべきことはいっぱい。

●昼間はは拉致被害者一時帰国のニュースに釘付け。
 選択の余地のない人生を生きること。家族というもの。色々と考えることの多い時間。

●多和田葉子がバイリンガルとしてドイツに暮らすことで、自らのことばを解体していくエッセイを読み、自分のことばとのつきあい方に欠けている側面を痛感。演出家に必要な情感だけを持ち、必要な分析力と哲学のない自分を前に、「これから」を考える。


2002年10月14日(月) 久しぶり。

●今日、パリ公演から帰ってきた。
東京公演を終えてから、滋賀、新潟、福岡と回り、パリでツアー終了。ひとつの芝居で、また3ヶ月が過ぎた。

●3ヶ月の間に、恋人との関係に亀裂が走り、もう自分の人生なんてどうでもいいやって気持ちにいったんはなったものの、性格のせいか年齢のせいか、表面上は立ち直り、懸命に仕事をしてきた。癒えているわけでは決してないので、実に毎日がつらい。
愛しあえなくなったわけではない。愛しあい方がわからなくなってしまったのだ、お互いに。

●ちょっとした先の打ち合わせなどは入っているものの、基本的に11月半ばまで仕事はお休み。1ヶ月のオフ。
こんな時であるからと、モスクワとサンクトペテルブルグの旅を予定している。これまでの文学的興味からと、どうしても実物に出会いたかったアンドレイ・ルブリョフのイコン、聖三位一体を、トレチャコフ美術館で見るために。夜はもちろん、毎日劇場に通うつもり。大学時代に勉強したロシア語を、久しぶりに復習している。

●書かなかった間に読んだ本の中で面白かったもの。
やっぱり、「海辺のカフカ」。そして、チェーホフの幾つかの短篇。チェーホフは全集を頭から読み直している。生きていくことはどの時代も同じ。面倒で、理不尽で、愛おしく、切ない。


2002年08月27日(火) 停滞と、停滞から救ってくれるもの。

 本番中。淡々と毎日が過ぎていく。
 
 小さな、いらいらすることがいっぱいあって。
 それは、たくさんの人の集まる現場を仕切ったりまとめたりするわたしの職種では、まあ、日常なのだけれど、このところ、いつものようにうまく職能の中で生きていけず、小さないらいらたちは膿のようななりのストレスとなって、体にたまっていくような気がしている。

 それは、恋人との距離感をうまく取れない時期が訪れたからか。

 それは、自分の将来への不安からか。

 それは、ちょっとした人間への嫌悪なのか。

 こんな時は、とりあえず、世界中の、どうしようもない不幸や、不公平の中で暮らしている人たちのことを考える。特に、そんな中で逞しく生きていこうとしている子供たちのことを。

 そうすると、肩にのしかかるつまらないことの重みが、ちょっと軽くなって、生きているということだけで喜ばしいことなのだと、思い出す。
 いらいらなんてしていては、疲れていては、1日1日、大切なものを取りこぼして過ごしてしまうように思え、自分を鼓舞したくなってくる。

***

 
 恋愛の停滞期(というか、恋人の仕事が過度に忙しく、会えないだけなのだが)とともに、また読書熱は戻っている。最近では、スティーヴン・ミルハウザーの「マーティン・ドレスラーの夢」が抜群に面白かった。一晩かけて一気に読んだ。(読み切らずには眠れなくなってしまったのだ)

 美しき夢。悪しき夢。愛すべき世界。憎めべき世界。喧騒と静寂。高揚と倦怠。表と裏。幼さと成熟。進歩と停滞。未来と過去。成功と失敗。書き連ねればきりのない、世界の混沌が、そこには書き記されていて。

 ひとりの才能ある若者が二〇世紀初頭のニューヨークで成功の階段を上ったあげく失墜するというシンプルな物語の中に、わたしの夢と落胆のすべてがあった。それも限りなく才能ある遠いものに荷担されて。美しい夢のように。悪しき夢のように。

 自分の現実が一掃されてしまうような、自分の現実により引き戻されるような、奇妙な読書体験だった。恋愛やら仕事の方が、物語より力を持っていた最近のわたしを、揺り動かす体験だった。

 こんな出会いの夜も、また、ささやかなことに取りこまれがちなわたしを救ってくれている。

 最近は、チェーホフをひたすらに読んでいる。年内に全集を読破してしまうつもり。今の自分の波長に、あっているのだ、とにかく。



 


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