Journal
INDEX|back|next
●苛酷な日々が続き、相変わらず4時間くらいの睡眠で自らをたたき起こし、仕事場についたら、格好悪いなと思いながらも、QPコーワゴールドとかを忘れずに飲んでいる。
そんな暮らしの中で、父親を亡くしても明るくタフに働く人あり、愚痴を言い続ける人あり、どんどん他人に厳しくなる人あり、流れにただただ身を任す人あり、様々。みな、いい奴ばっかりなのだけれど、状況が苛酷になってくると、それぞれの資質みたいなものがうっすらと見えてくる。
●仕事も佳境。毎日が勝負って気分で、しばらく暮らす。
2003年02月10日(月) |
現在のこと。近い将来のこと。 |
●3日間ほど留守をしたものの、感覚はあっという間に現在の仕事場に戻り、集中を楽しむ1日。
●来年初頭、再演の仕事が決まる。立場はぐっとあがったものの、再演は再演。1年先に自分のやっている仕事が見えてしまうということに、一抹の淋しさを感じる。
●とは言え、まだまだ到達点の見えない目の前の仕事。日本で開けたら、ロンドンへ持っていくという、演劇人としての、日本人としての、責任感。
初日まで、とにかく、現在の自分のフルで生きることだな。
●大阪公演の千穐楽を終え、終演5分も経たぬうち劇場を出て、新幹線に乗り込み、現在の現場へ。先のまだ見えぬ闘いがそこでは続いていて、すぐさまそこに仲間入り。明日からようやく腰を落ち着けて仕事ができる。
●千穐楽は、長い演劇生活の中でもめったにないほどの幸福なものだった。このわたしに心から感謝してくれていた人々に、逆に静かな感謝の意を表しつつ、仕事を終えた。
首脳陣に加わると、お金のこととか、どんどん面倒なことが増えていくものだけれど、でも、やっぱり、この商売はよいのだと実感して、少し心がリフレッシュ。
明日も朝が早い。さあ、眠らなければ。
2003年02月08日(土) |
定住者であると、気づかないこと。 |
●大阪、東京の、行ったり来たり生活。悲喜こもごも。
●定住していないと、自分が誰だかごまかせなくなる瞬間があり、ホテルのベッドで、移動を控えた仮眠のための我が家のベッドで、考える。
わたしは誰で、何をする人で、何処に必要とされている人間なんだろう?って。
すると、やはり、思うわけだ。今の自分が、本当にやりたいことは何なのかって。
●今やっている仕事は、社会的には、外せない仕事。でも、いなくなっても社会は動く。その中で、どう闘い、どう自分自身であり続けるか。そういう疑問と対峙して、明日、東京に戻る。大阪公演は千穐楽。それを見届けずに、現在進行形の仕事場に戻る。移動生活、とりあえず終了。
●稽古後、ドタバタと支度して、稽古場から前作の地方公演初日を控える大阪の劇場へ移動。仕事して、日付が変わってからそこの仲間と賑やかに酒を飲み、翌日は平和に舞台稽古を進行。その平和さを祝ってまた酒を飲み、6時起床で新幹線に乗り込み東京へ。現場に着いたらすぐに稽古。すべての仕事を終えたのは11時。2日ぶりに会う恋人と酒を飲んで、ようやく帰宅。明日はまた6時起床で大阪へ。
●忙しいのが、性分として好きらしい、と、この間書いたが、やっぱり、居場所がふらふらするってのは、疲れることらしい。新幹線の中では、常に、泥のように眠って、みっともないったらない。明日の朝も、きっとそう。
●ロシア旅行の貴重な時間をともにしてくれた女性が、明日、大阪の劇場を訪ねてくれる。これはちょっと楽しみ。どんな話ができるかしら?
2003年02月02日(日) |
忙しいのが好きらしい、どうも。 |
●早朝出勤、終電帰りが続く。明日もこの調子。あさってはその上、稽古後新幹線で大阪入り。前作の大阪公演の照明づくりを朝まで。そのまま舞台稽古を終えて、東京の稽古へ。その稽古が終わったらその日のうちにまた大阪入り。本番の面倒。どうなってるんだ、まったく。
●でも、忙しければ忙しいほど燃えてくるわたしが、確かにいるんだな。睡眠もとれないのに、元気が失せない理由は、逆説的に、この忙しさにあるのかもしれないな。
2003年02月01日(土) |
いたわりつつ、いじめつつ。 |
●稽古はお休み。劇場で基礎工事が行われる間、これからの仕事を円滑に進めるための、資料作成を一日中。朝の9時から夜の10時まで、コンピュータに向かう。
明日も朝が早い。40歳を過ぎていると見られることがほとんどないが、現実は現実、もういい歳なわけで、こう寝不足が続くと、さすがのわたしもこたえてくる。
でも、20代の後輩たちの方が、もっとこたえているように見えるのは、どういうわけか? わたしがたまたま仕事の後飲みに行ったことを知ると、「こんな疲れる中で、飲みに行くんですか?」と目を丸くしたりする。ほぼ毎日飲んで帰るってなんて知ったら、どう思うだろう?……逆に恥ずかしくって言えないな。
元気だけが取り柄でやってきた。わたしの元気は人に派生する。だからいつも元気でなきゃいけない。自分をいたわることといじめることのバランスを、上手にやってかなきゃあな。
2003年01月31日(金) |
発し損ねたことばたち。 |
●忙しすぎたり、疲弊し過ぎたりしている時、大事なことばをかけ損ねることがある。
後輩に「違う!」といったあとで、なぜそれが間違っているのかちゃんと教えてあげることば。
うまくいってない俳優を、叱咤激励することばと、こんなことなんてことないんだと逆に激励することば。
労をねぎらうことば。叱ることば。感謝することば。さらなる進化を共有しようとすることば。苦労を分け合うことをちょっとした喜びに変えることば。
●帰りの電車に揺られながら、酒を飲みながら、ベッドで明日への目覚ましを合わせながら、わたしはいつも、足りなかったことばのことを思う。
わたしはことばで、仕事をしている。
全体を思いやり、個を思いやり、自分を伝えるための、ことば。
●明日は劇場仕込みのため、朝が滅法早い。一分でも早く寝なきゃと思いつつも、今日自分が発したことば発し損ねたことばを反芻し、過ごす。
発し損ねたことばたちを、正しく弔い、正しく埋葬してから、ようやく明日にたどり着けるような気がする。
●目を配るべき、人が多すぎ、情報量が多すぎ、ちょっと追われ気味。追われると、人間的な行動を選び取りにくくなる。大事なことを取りこぼさないようにと願いながら、ただひたすらに、やるべきことを一つ一つこなしていく。つぶしていく。……ちょっと疲れてる。
2003年01月29日(水) |
ソーネチカのようであれたら。 |
●休日、2冊の本を読了したが、穏やかな、ゆるゆるした感動を押しつけられて、読んでいる時こそその気になってちょっとぐっときたりするのだが、本を閉じた途端、「けっ」と投げてしまうつまらなさがある。
夜、ベッドに、新潮クレストの新刊、リュドミラ・ウリツカヤの「ソーネチカ」を持って入る。ボリュームの半分を読む。
●ソーネチカは、読書することにおいて、類い希な才能を持っている。物語を読んでいる限り、誰よりもその物語世界と上手に和合することができる。彼女はどんな苦境にあっても、その読書の才能から得た世界との対峙の仕方を崩さない。つまりは揺るがない。現実と虚構を行ったり来たりする才能を持った者には、現実など、「半分」でしかあり得ない。
ソーネチカは、人生を捧げる夫に「ドストエフスキーなんてつまらない」と言われても、揺るがない。ドストエフスキーを読むことの喜びを知っている彼女は、ただ、こう思う。「もう彼とはドストエフスキーの話をしなければよいのだ」と。
●わたしには、そんな強さがない。だから、揺らぎに揺らいだ1日の後で、仕事の後で、またお酒を飲んで、引き戻し作業をする。
わたしは、「ドストエフスキーなどつまらない」と言われたら、いかにドストエフスキーが面白いかを語らずにはいられない人間でしかないから。その程度の自我なので、毎日苦しむ。
ああ、ソーネチカのようになれたら、と、自分を憐れみながら。