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2003年04月23日(水) 毎日飲んだくれてるものだから。

●大阪千穐楽。バラシ(舞台の解体)に最後までつきあって、午前1時。それから酒を飲みに行き、明日は新潟へ移動。
 ここに来てから、毎日仕事して、毎日飲んでいるものだから、書くことをすっかり忘れてしまった。今年に入って、こんなに日記を書かなくなったのもはじめてのこと。

●書きたいことは山ほどあって、読みたい本を山ほど仕入れてあって、でも、ホテルに帰りついた時はいつも酩酊状態。
 明日は移動日。新幹線で読めるし、ホテルでようやく一人、書ける。そんな、取るに足らないことが、嬉しい。


2003年04月19日(土) 初日を開けて、明日は本屋へ。

●大阪公演を開けて、二日目のマチソワ。みんなとっても疲れている。スタッフは大きな失敗をするし、キャストの方は一気に6分も上演タイムを伸ばしてしまう。芝居は生き物とはよく言ったもの。

●しばらく仕事に専念し、大阪ということもあって、毎日遅くまで酒を飲んで過ごした。恋人が昨日までは現場にいたので、しばらくぶりに深夜デートを楽しめたし。
 わたしにとって、恋人は現在最高の友人でもある。仕事を語るのも、人生を語るのも、恋人とならほっとする。意見があっても食い違っても、話が先に進み、自分が今何を考えているのかがはっきりしてくる。その人が常にわたしと共にいられる人ではないというところが、辛いところ。

●仕事をして、酒を飲んで、それだけの毎日が続くと、ちょっとかたわになった気分。世の中から遠く外れて。本を読み、映画を見、現場以外の人に会い、違う人生に触れたい。
 荷物がとっとも重かったので、スーツケースに本を入れてこなかった。このところベッドの友になる本のない生活だった。明日はようやく本屋に行ける!


2003年04月16日(水) とりあえず、心身ともに好調。

●一睡もせずに朝一の新幹線で大阪へ。そのまま、朝3時4時までの仕事を2日こなして、今日、久しぶりに午前1時に仕事終了。当然のごとく飲みにいき、今、午前2時50分。個人的な仕事の流れは非常に好調。疲れて当然の毎日を、非常に気持ちよく過ごしている。どんなに大変な仕事でも、気持ちの在りよう、持ちようなのだと、実感する。

●明日1日がんばれば、あさって、また初日が開く。


2003年04月13日(日) 深夜の荷造りの前に。

●いつものことだけれど、また深夜にバタバタと荷造り。
 しょっちゅう仕事で地方に出かけるので、わたしは1週間用、1ヶ月用、海外用、など幾つかの荷造りリストを作って持っており、それをプリントして、スーツケースにぼこぼこ放り込んでいく。
 この旅は5月第1週までとさほど長くはないが、季節の変わり目なので、衣服の選択が面倒くさい。ちょっと考え込むと、深夜の落とし穴、ぼうっとしたまますぐに1時間くらいたってしまう。これをアップしたら、すぐに始めなきゃ。

●今日はとってもとってもいいお天気。「はる」「はる」と口にして音にしたくなるような空気感。で、わたしも、ひねもすのたりのたりとデスクワーク。
 買い物ついでに寄った本屋で、河野多恵子氏の「秘事」と「半所有者」が文庫に一冊にまとまっているのを発見。両方2度ずつ単行本で読んでいるくせに、迷わず購入。なんといっても、この2作がカップリングされているところが美しい。2作一緒に読める読者は幸せ。これらの小説のことを書きたくなってしまっているが、かつて何度か書いてきたし、荷造りを控えているので自粛。きっと3度目読み終わったら、また書くはず。

※HP Etceteraに もうひとりの「改悛のマグダラのマリア」をUP。


2003年04月12日(土) 時のお腹は蛇腹です。

●雨、ということもあって、またまた「何もせずに休む」のだと決める。何しろ、昨年の12月から、土曜も日曜も祭日もなく働いてきたのだ。「何もするな」と自分に命じて、さて何をしようかと考える。

 ロンドンにいく前に英語の復習をちょっぴりして行ったのに、うまく言葉が出てこなかった悔しさを思いだし、「そうだ、今日は1日英語の勉強をするのだ」と決める。1日やっただけで何になるんだと自らに切り返してみたものの、自分の中に確かに棲んでいる前向きなわたしが、「1日にどれだけ単語を覚えられるかやってみたら?」と問いかけてきた。

 なんだか地道に、ひとつひとつ単語を覚えはじめる。思いだしはじめる。使った単語集には、赤いチェックシートがついていて、なんだか受験時代に戻ったみたいで、ゲーム感覚。ちょっと飽きて、新しいWindowsに、すでにMacで使っていた「英辞郎」という辞書ソフトをインストールしてみたら、あらびっくり、Macで使っていた時より、数倍の機能が使える。なんと、英文を読んでいてわからない単語が出てきたら、その単語を選択するだけで意味をポップアップ表示してくれたりするのだ。
 悦にいって、読みたいけれど面倒だった英文をMacから移してきて、読みふける。学習にはならないが、ストレスなく英文が読める。
 これは素晴らしいやと感動しながらひとしきり、敬愛するRaimond Carverの評論など読み、疲れたらまた単語学習へ。

 1日が終わってみると、うーん、どれだけのことばを修得したやら。でも、少なくとも、昨日のわたしよりは語彙が増えている。
 勉強する喜びって、これくらいの歳になってからの方が分かるのかしら? 

●恋人は、帰国後も忙しく立ち働いている。今夜11時くらいに仕事が終わるだろうから遅い食事でも、ということになっていたが、電話がかかってきたのは午前1時半。結局、会えないことに。元気であれば、何時だってタクシーを飛ばして会いにいくのだけれど、彼はくたくたに疲れていた。仕方ない。
 食事を我慢して待っていたので、深夜に軽くお腹を満たす。
 淋しいのは事実だが、秋から彼はもう日本から消えてしまうのだから、と厳しい現実を思い起こし、一人の時間を楽しもうとする。

 待っているうちは、一人でも十分楽しいのに、もう待っても仕方ないのだと分かった瞬間、一人が辛くなる。どちらも、状態としては同じ「一人」なのに。

 堀口大学氏だったか。「待つ身の長さ/会う身の短さ/時のお腹は蛇腹です」って詩があった。高校生の時に読んで、ずっと覚えている。この詩に読まれた恋する気持ちは、十代でもちゃんと分かった。だから一度読んだだけで、忘れずにいた。そして、今まで何度となく、そんな気持ちを繰り返してきた。恋しているってことにおいては、わたし、あの頃からそんなに成長してないのかもしれない。

●さあ。明日、目が覚めたら、完全に仕事モードに自分を変えよう。予定通り、明日一日中デスクワークをし、あさって朝、大阪公演に出発する。

※HP Etceteraに「改悛のマクダラのマリア」をUP。


2003年04月11日(金) 懐かしのワープロたち。

●ようやく仕事用の「いつものわたし」を用意して、打ち合わせに出かける。来年4月まで3本の打ち合わせ。いつ来るんだいつ来るんだと呼ばれたわりには企画がたいして進んでいない。ただ、3本分のキャスティングの現状を確認していると、「ああ、これからこういう新しい人たちと出会っていくんだな」と思うことあり、「ああ、またこの人とご一緒するんだ」と思うことあり。良きにつき悪しきにつけ、出会う人によって自分の仕事の在り方まで変わってしまうものだから。
 また、どきどきわくわくする出会いがあればいいなあ。わたし、なんだかんだ言って、人間、好きだもの。

●かねてから、いつか買ってやるいつか買ってやると思っていた「軽いノートPC」を、ついに衝動買いしてしまう。PB G4の小さいのが出た時にはずいぶん心が揺れたが、15インチのを今使っていることと、いかんせん2機目のノートとしては高いってことで、踏み切れないでいた。そんなところに、今日、たまたま型落ちのメビウスを安売りしているところに出くわしてしまったのだ。
 Mac愛好者なもので、Windows機っていうのがマイナス要素だったが、持ち上げてみると、その軽さが迷いを押し切ってしまった。

●帰宅後、箱を開けてまず嬉しくなったのが、その取り扱い説明書たち。Macには全くないと言っていい、紙の説明書が、いっぱいついているのだ。そして、そのテイストは、どれもこれも懐かしい。
 わたしは20歳から37歳に至るまで、シャープのワープロ、「書院」をずっとずっと使い続けた人だ。最初の1台こそ、売り出しはじめの東芝ルポ(液晶が2行分しかなかった!)だったが、以降、ずっと3台の書院で、書き続けてきた。
 あの頃の、取り扱い説明書と、ちっとも変わってない! 

 嬉しくなって、ぺらぺらとめくってみると、やっぱり内容は分かりきったことばかり。うんうん、それでなくっちゃ。初心者と呼ばれる人が、いかに早くマシンの核心をつかみマシンに心を開くかが、説明書のほぼすべての存在理由。
 ワープロってものと出会うために、説明書を愛読書のように読みふけった頃を思い出す。

 自分で言うのもなんだが、わたし、小さい頃から字がきれいな方だった。高校生の頃、ノートが自分の字で埋まっていくのが大好きで、そういう意味では勉強って奴が苦にならない人だった。
 それが、親元を離れ上京して、何もかもが新しい世界に飛び込んで、「わたしって何?」と自問する時期を迎えると、自分の字が大嫌いになってしまった。ノートに手書きの字が並んでいるのを見ていると、「自分臭く」って、書く気が萎えてしまうのだ。

 そして、ワープロと友だちになった。キーを打ったと同時に活字に変換されていくのが、実に心地よかった。自分臭さがその場で消えるんだもの。もう、毎日、あのラップトップを開けていた。書きながら考えることを覚えたのも、ワープロで書くようになってからだ。この即変換書きに慣れてくると、ようやく、手書きで書くことの喜びが戻ってきたりした。面白いものだ。

 初代書院は20代の頃ともだちに譲り、2代目3代目は、捨てきれず、物置に眠っている。物置整理をする時には、つい箱から出して電源をいれてみたりしてしまう。何度聞いたか、その起動音。懐かしいぼこぼこのキータッチ。今思えば、あまりにも面倒な操作性。でも、本当に大事な、ともだちだった。

 懐かしのワープロたちを思い出しながら、軽量メビウスを使えるものにしていたら、あっという間に時間が過ぎていく。その軽さにまた、「あの頃は重い重いラップトップを抱えて、新幹線に乗ったりしてたんだよなあ」と、またしみじみ。
 物は物でしかないけれど、人の時間がしみこむと、そんな風に愛おしいものに変貌する。捨てたもんじゃないな。

 と、なんだかわたしは調子を取り戻してきたようでもあり。

 さて、旅の仕事まで明日1日となった猶予期間、どう過ごそうか。


2003年04月10日(木) 本の神様に感謝の物語。●穴(ルイス・サッカー)

●起きてしばらく考える。
 仕事のための「いつものわたし」を、どうしても用意できそうにない。打ち合わせのための資料は昨夜のうちに準備ができているのに、資料とともに連れていく自分の準備ができていないのだ。
 この2,3日のうちに行けばよい、1対1の打ち合わせなので、体調悪しと電話して、明日にしてもらう。相手が仕事し慣れた相手なのでよかったものの、いい歳して、わたしはこんなことを言っておる。まったく、この「わたし」という人は、つきあいきれない。

●読みかけの本を持って、近所の河川公園へ。ここはちょっとした桜の名所。
 
 花びらがちらほら散りゆくベンチで読了した本は。
 ルイス・サッカー著「穴」。また、友だち全員に奨めたい本を見つけてしまった。
 まずい時にまずい場所にいたために、罪の濡れ衣を着せられた少年スタンリー・イェルナッツは、少年院がわりの更正施設に放り込まれる。そこは、もう水が干上がって100年たつ湖の跡。臑に傷もつ少年たちは、毎日毎日乾いた大地に、穴を掘り続けるという苦行を課せられる。いろんなタイプの少年がいて、子供とは言えいろんな人生のやり過ごし方があり、スタンリーはちょっとしたことから、穴掘りを通して冒険を強いられることになる。
 実はこの穴掘り作業、人間性を回復するための方策でもなんでもなく。
 実はこの湖の跡地に、イェルナッツ家の歴史が深く関わっていて。

 運命を受け入れがちだった少年が、自分の運命を切り拓いていく児童文学なのだが、その描き方が、ちっとも説教臭くない。(その手のものが、わたしはいちばん苦手。)やっとの思いで、小さな選択を繰り返していく先に、彼の冒険は始まる。その冒険をはらはら追いかける読者の前には、シンプルな伏線が実にナチュラルにしかれていて、すべての物語進行を、ストレートに納得させてくれる。
 その伏線、これがまた、愛せるものばかり。人生が愛おしくなる類の伏線ばかりなのだ。強者にも寄らず、弱者にも寄りすぎない、人生のつぼを押さえた伏線としての物語たち。

 この本を今日という日に読ませてくれた「本の神様」に、また感謝。(まあ、本屋で選んで買ったのは自分自身なんだけれど。)
 この本は、わたしにとって、ちょっとした「触媒」になった。

●カメラを宅急便で受け取った父から電話。そうとう嬉しかったらしく、ふだんの無口が、大変な饒舌に。
 夜には母から電話。いかに父が喜んでいるかという報告。日がな一日、3台のカメラの調査とチューンナップで過ごしたらしい。母に言わせれば、「死にかけてても、珍しいカメラを目の前に見せたら、しゃきっとする」ような人だ。
 ふだん親不孝な娘は、実に幸せな気持ちになったものである。

 うーん、明日はいくらか軽やかに、仕事に出ていけそうだな。

※HPのEtceteraに、散歩みやげをUP。

※閉鎖していたBBSを、気まぐれに復活。3年前の記事は、とりあえず削除して。毎日書いていて、なんらかの手触りが欲しくなったのかもしれない。


2003年04月09日(水) 不調期の過ごし方。

●調子の悪い時に取るべき行動というのは、長い一人暮らしの経験上だいたい決まっていて、まず、部屋を掃除する。とことん掃除する。洗濯もする、床の拭き掃除もする。終わった仕事資料の整理だってする。ふだん手をつけないところまできっちり綺麗にし、整頓したら、コーヒーを淹れて、ソファーで本を広げる。ソファーに疲れたら、お風呂に好みの入浴剤をいれて、また本を広げる。湯に体を任せたまま、しばしろうそくの灯でぼんやりしたりする。
 今日はこれで終わり。
 
 いつもはこれにあてのない散歩が加わったり、手の込んだ料理が加わったりするのだけれど、今日はこれだけで終わってしまう。とにかく、休みのない仕事で、部屋がひどい様相を呈していたものだから。

●調子の悪い時は、何か画期的な喜ばしいことや、時間をかけた努力や、ぶれの激しい大きなイベントや、そういう触媒が飛び込んでこない限り、すぐにはよくならないことを知っている。わたしはそういうタイプだ。
 だから、今以上に自分を落ち込ませる類のものを消していく。自分を救うほどではないものの、気分をほぐしやすい環境をつくる。

●明日は、来年の仕事の打ち合わせ。そのころ、自分がどうなってるのかさっぱり分からなくっても、今こんなに揺れていても、「いつものわたし」を携えて出かけていく。

●倒れるフセイン像、米国讃歌するバグダッド市民、無政府状態の中での略奪、どの映像をとっても、そこに当事者として存在しない限り分からない、人心の複雑さが見える。
 一人一人の心が分からない上に、マスであり、しかも極限状況だ。わたしはただただ画面を眺める。

●それにしても、松井はすごい。彼の1本のホームランは、なんと雄弁でなんと力強く美しい表現であることか!
 あの1本に匹敵するような表現を、わたしのこれからの仕事の中で実現することは可能だろうか?


2003年04月08日(火) 人生の、こんな時期。●一瞬の光(白石一文)

●帰国して、自分の調子の悪さに気づいた。心の居所が、どうも悪い。
 
 ロンドンでの公演成果は上々だったものの、自分の仕事がどうもうまく転ばず、誤解を受けたり、意気阻喪するほどの誹りを受けたり、思い出すと懐かしいいじめのようなそれらは、英国での仕事に慣れていないわたしにとって、跳ね返そうとしても跳ね返せない強さがあった。
 簡単に言ってしまえば、わたしをこころよく思わない人物がおり、わたしをはじき出す行動を(無意識にかもしれないが)とり続け、その人間の社会的影響力が強いものだから、わたしの存在はどんどん翳っていったということ。
 実際、評判のよい芝居を創りあげた喜び、認められる喜びと共に、自分自身の足場がどんどん崩れていくような瞬間を味わった。
 帰りの飛行機の中で、働く気持ちがどんどん萎えていき、この先日本での地方公演を降りてしまおうかと、真面目に考えたりした。

●久しぶりに我が家でとる長い眠りから目ざめて、近所の公園は桜が満開だろうと外に出ようと思ったら、雨がしとしとと降り出し、まずは何か本を読み出そうと考える。1冊読み終えるまでは、自分のことを何も考えずにいようと。
 手にとる本がタイムリーな内容であるということは、わたしの暮らしによく起こること。今日の読書もやはりそうだった。
 白石一文「一瞬の光」を、夢中になって読んだ。
 
 調子のよい時、つまりは、仕事に夢中であったり、仕事の成果が目に見えていたり、恋人とうまくいっていたり、そういう時に読むと、ただティピカルに傷ついた人物たちの傷の癒しあいの物語と、軽く読み流してしまったかもしれない。
 でも。
 人がどれだけあやふやなものに支えられて一瞬一瞬を生きつないでいるか、人がでれだけあやふやな根拠で人を愛したり、人に愛されたりしているか、そんなことを切実に考える今、白石氏の書こうとしている痛みの塊のようなものが、こちらの心にどんどん食い込んでくる。
 話の内容がどうあれ、結末がどうあれ、人物の書き分けがどうあれ、作者が何故これを書かなければいられなかったかということの本質が、はっきりと見える小説なのだ。

 一気に読み終えると、もう午後6時を過ぎていて、しばらく自分のことを考え、ささやかに「頑張ろう、とりあえず逃げないで」と、自分を励ましていた。

●昨夜の夢に、パリにいる奥さんに会いにいった恋人が出てきた。
 
 旅に出る前に、わたしに買い物につきあってくれと彼が言う。いいものを見つけたんだ、と。よく見知ったファッションビルの地下に降りていく。このビルがこんなに地下深く潜っていたのかと驚きつつ、何階も何階も降りていく。
 いよいよ行き止まりにたどり着くと、小さなショウウィンドウが白く光っている。これを買おうと思うんだと彼が指さしたのは、そこに一点だけ飾られた、深紅のパジャマ。てかりのないシルクで、比翼仕立てがゆうるりとしたカーブを描いている。
「いいじゃない、これ、わたしがプレゼントしてあげるよ」と言うものの、店員はどこにもいない。時計を見ると、ビルの閉館時間が近づいている。店員を呼ぼうとすると声が出ない。「奥さんに会いにいく彼に、プレゼントなんてしなくっていいじゃないか」と妙に現実的に自分を引き戻そうとする気持ちと、どうしてもこれを買ってあげようと、出ない声をどうにか出してどうにかこれを買ってあげようという気持ちと。

 白く光るショウウィンドウの前で立ち往生しているわたしの前から、いつの間にか彼の姿は消え、店員を呼ぼうとしても声の出ない、買おうとしても買えない、わたしだけが残った。そこで目が覚めた。

●たまった郵便物を1枚1枚チェックしていると、味気ないはがきが一枚。ずっと懇意にしていた演劇プロデューサーからだった。
 現在の劇場を退き、地方の劇場の立ち上げに行くという報らせ。
 わたしが演出家としてデビューすることを、いちばんに押してくれていた人だった。
 余白に「ごめんね」と一言だけ自筆で書いてある。
 何も聞かされていなかったので、ただ呆然と文面を眺め、また自分の味方が一人消えてしまった寂しさに包まれる。
 小説の話をしても、映画の話をしても、仕事の話をしても、恋人とはまた違う、息の合方を実感できる人だった。

●そういう時期なのだなと思う。こういう時期に、しっかり生きないでどうする、とも思う。本当にしっかり生きられるかどうかは、別として。
 結果ではなく、自分が何を選んで何を遠い先に見据えているかで、人生は変わっていくのだ、きっと。


2003年04月05日(土) 動く心。

●マチネ、ソワレ2回公演で、千穐楽を迎える。
 オールスタンディングオベイションで、カーテンコール、1200人の観客に迎えられ、「感動的」ということばがちょっとちゃちに思えてしまうほど、皆、心を動かす。もちろん、わたしだって、そう。

●目標に達するというのは、淋しいことでもあり、虚脱を呼ぶものでもあり、色んな感慨をここのところ味わったが、今日は、シンプルに、感動的だった。劇場にいるということが。

●順調にバラシ作業を終えて、午前6時に解散。それぞれに英国人スタッフと別れを告げる。

●6時半にホテルにたどり着き、1時間ほど、恋人の部屋でビールを飲む。彼はギリシャ公演の下見に発つのだが、その前に、パリに住む奥さんに会いにいく。それを公然と知らされていつつ、彼を送り出すことに、猛烈な寂しさを覚える。

●感情はめまぐるしく動き、心はくるくると転がり、そんな中、わたしは明日帰国。もうすぐ午前8時だ。ロンドンの朝は曇り空。少しだけ眠って、また動きだそう。
 どんな時でも、どんな状態でも、責任持ってこの自分の体を動かし続けなきゃならない。いつかこの世から消えてしまう時までは。


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