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| 2008年01月25日(金) ■ |
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| 「日本の喜劇王」の息子の葬儀で起こった「悲劇」 |
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『自伝の人間学』(保阪正康著・新潮文庫)より。
(「日本の喜劇王」と呼ばれた「エノケン」こと榎本健一さん(1904-1970)の自伝『喜劇こそわが命』について。この自伝は、榎本さんが亡くなられる3年前、63歳のときに出版されたものだそうです)
【エノケンの妻からの直話では、エノケンは終生「笑う」のはお客であり、自分ではないと信じていたという。彼は、私生活でもめったに笑わなかったともいう。なるほど、彼の顔面にあらわれていたあの皺は、お客を笑わせつづけたあげくの勲章であろうが、ひとたび自分の時間になるとその皺は、憂いにむすびついていたのである。 昭和30年代に、私は少年期から青年期になったのだが、その折りになんどかエノケンの映画や舞台を見た。それまでの軽妙さは知る由もないが、私には、彼の芸はすこしも面白くなかった。私たちの年代には、もうアピールするものがなかった。むしろスクリーンや舞台でふと見せる素顔のほうに、私の関心は魅きつけられたほどだった。 エノケンにとって、お客が笑わないのは何にもまさる苦痛であった。 <観客が、倅の死んだことを知って、僕がどんなおかしなことをしても全然笑ってくれなかった。おかしなことをやればやるほど、場内はシーンとなってしまうのだ> と自伝で語っているエノケンには、喜劇役者の底知れぬ業がひそんでいる。 映画監督山本嘉次郎の『春や春、カツドウヤ』には、エノケンが一人息子を失ったときの葬儀の様子が書かれている。エノケンの自宅の前には、見物人が会葬に訪れるタレントや俳優を見ようと集まっている。そこに息子(�0譟砲隆修�でてくる。そのときの様子を、山本は次のように書くのだ。 <�0豬�の棺が門から出てきた。その棺に手をかけて、エノケンは嗚咽した。すると見物人から、ドッと笑い声がおこった。「やア、エノケンが泣いてやがら……」。私はこのとき、喜劇役者の負わされた切ない宿命を知った> エノケンの自伝は、喜劇役者の深い哀しみがあらわれている。正直な人間が、実生活ではなにひとつ演技ができず、舞台や映画でのみ演技を続ける生活を送ったあとに、現実に足払いをかけられ、そのことを自覚しはじめた苦しさが凝縮されている。】
参考リンク:榎本健一 - Wikipedia
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芸人さんの葬儀では、ときどき、「湿っぽいのは嫌いな方でしたし、笑顔で送り出してあげましょう」なんていう会葬者への言葉がみられることがあるのですが、このエノケンさんの場合は、亡くされたのが若かった息子さんということもあり(享年26歳)、やはり、嗚咽せずにはいられなかったのだと思います。 その葬儀で「タレントや俳優を見るために集まってきた見物人」たちに「やア、エノケンが泣いてやがら……」と「笑われた」ときの彼の心境は、非常に複雑なものだったにちがいありません。 現代の感覚からすれば、いくらコメディアンであっても、若くして子供を亡くした人を葬儀の際に「笑う」なんていうのは非常識というかあまりにも残酷ですよね。
しかしながら、一方で、息子さんが亡くなられた日にもステージに立ったエノケンには、こんなエピソードも残されているのです(この引用部は某掲示板に書き込まれていたものなので、詳細は事実と異なるかもしれませんが、複数の資料に同様のエピソードが記載されています)。
【昭和の喜劇王・榎本健一(エノケン)さんがひとり息子を結核で亡くした日、それでも舞台に穴を空けなかった。 いつも通り開演と同時に、ステージで「イ〜テッテッテ〜、こけちゃった〜♪」と コミカルな動きで現れた彼に、お客さんがみんな泣きながら 「エノケン!もういい、早く帰れ!帰ってやれ!」と叫んだんだそう。】
このときのことを、エノケンさんは、自伝では「お客さんは全然笑ってくれなかった」と書かれているそうです。いや、観客の立場としては、ステージの上で彼が「おもしろいこと」をやろうとすればするほど、「かわいそうで観ていられない」のではないでしょうか。まあ、そう言いながら、みんな観に来てはいるわけですけど。
僕はこの話を読んで、きっと、息子の葬儀で「笑われた」エノケンは、自分はこんな席でも笑いをとれるという「喜劇役者としての悦び」と、この状況でも笑われてしまうという「人間としての哀しみ」を同時に感じていたのではないかと思うのです。
僕はこれを読んで、観客(あるいは「大衆」と言い換えてもいいかもしれません)っていうのは、あるときにはとても温かく、そしてあるときには信じられないくらい残酷なものだなあ、と考えずにはいられませんでした。 そして、エノケンに向けられた、「早く帰ってやれ!」という言葉だって、悲劇を共有したいという観客の身勝手な感情移入の賜物だという一面もあるんですよね。本当に「帰ってほしい」と思っていたならば、誰も観に来なければ、エノケンは舞台に立たなくても良かったはずだし。
結局、こういう「観客の残酷さ」っていうのは現代でも何一つ変わってはいないんですけどね…… 芸能人の葬儀であれば、会葬者に群がって「今のお気持ちは」とマイクを突きつけることが「当たり前」なのですから。さすがに表立って「笑う」ことはないけれど、テレビで中継される葬儀の多くは、「扇情的」で「興味本位」に取り扱われています。
それでも多くの人が舞台に立ちたがるのは、やはり「業」というものなのでしょうか……
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