2002年09月25日(水) |
最高裁が出版差し止めを認める |
日経(H14.9.25付)社会面に、柳美里さんの「石に泳ぐ魚」の出版差し止め請求について、最高裁判所は、差し止めを認める判断をしたと報じていた。
表現の自由の保障は、自己表現、自己実現を行うために不可欠な人権である。
しかも、それだけではなく、表現の自由の保障なくして民主政治はあり得ないことから、表現の自由は極めて重要な人権である。
それゆえ、表現の自由は、他の人権に比較しても特に保障されるべきであるとされている。(これを「表現の自由の優越的地位」という。)。
出版によってプライバシー侵害をされた被害者が、損害賠償請求することはよくあることである。
その場合は、出版物自体は世間に公表されており、その出版物が本当にプライバシーを侵害しているのかを世間の人が判断することも可能である。
これに対し、差し止め請求を認めると、世間では、それが妥当かどうかの判断材料さえもない。
また、出版する側から見ると、表現行為自体が認められないのであるから、表現の自由に対する著しい制約になる。
そのため、裁判所が出版物に対する差し止め請求を認めることは非常に慎重であった。
今回、最高裁が出版の差し止め請求を認めたということは、その意味では大きな意義がある。 今後、憲法の教科書では必ず挙げられる判例となるであろう。
余談であるが、柳美里の今回の作品は、作品として昇華されていなかったのではないだろうかという気がする。
ただ単に、その人のプライバシーを書いただけで終わっているのではないか。
柳美里の作品をいくつか読んだことがあるが、作風はどろどろの私小説である。
今回の作品は、「私」だけでなく、「友人」まで、作品として昇華できないまま書いたのではないだろうか。
もちろん、裁判所は、判決文に作品の評価に関わるようなことは絶対に書かない。
そのようなことを書くと、文学に司法が土足で踏み込むことになるからである。
ただ、判決の背景には、作品として昇華されていないものを、その人のプライバシーをあばいてまで発表する必要があるのかという疑問があったのではないかというのが私の推測である。
|