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■ ケータイ小説、3Pで挫折;
去年あたりから、マスコミでよく取り上げられるようになったケータイ小説。読者のほとんどは10代の女の子だそうです。
「ケータイというツールが、新しいブンガクを生むやもしれぬ」
などと発言する周辺専門家もいて、これまで興味のなかった人たちにも気になる存在に(あたしもな)。
人気作品が次々書籍化されるとゆーんで、たまに書店で手にとってみるのですが、だいたい3Pくらいで閉じてしまいます。 つまらないっつーか、耐えられんのよ; 書き手の、ある程度突き放した客観性がゼロに等しく、語り手の主人公に共感しづらい事この上ありません。
ちなみにケータイ小説を扱うサイトへ行って、読者感想(家庭環境に恵まれない主人公の少女が偶然出合った少年と恋に堕ち、レイプその他の苦難を経て結局分かれてしまう話らしい。粗筋だけでパス;)を読んでみると、
「友だちにすすめられて読みました。号泣しました」
「こんなに悲しい思いをするなら、ふたりは出会わなかったほうがよかったと思います」
「感動しました!こんなお話を書けるなんてすごい」
……いや、これで感動できる方がむしろ特殊能力だよ。
予定調和に支配され、泣けることだけを期待される物語。 ハーレクインを矮小化したC級世界。 これで感動してしまうほど読者の感情構造は単純なのかと、そちらに泣けてきます。
先日の新聞のコラムに、
「ケータイ小説は文学ではない。読者がケータイ小説に求めているのは、自分の日々の暮らしとつながるリアリティと共感、その世界に属しているという安心感なのだ」
とありました。 ケータイ小説には「レイプ」「援助交際」「リストカット」「純愛」という4つのキーワードがあって、閉塞した貧しい若者たちに共通するリアルな現実として認識されるんだそうです。
これ、あたしの子ども時代だと「友情」「家庭環境」「将来」「異性への憧れ」ってなところかなー。 せめてもの共通項は「貧しさゆえの挫折」くらいでしょうか。
おそらく読者は二種類に分かれる気がします。すなわち、
主人公と自分の「不幸の共通点」に共鳴する子。 「物語」に驚き、こんな境遇でなくよかったと安心する子。
どちらにせよ、読者は小説を通して自分の存在意義を確認しようとしているのであり、そのようなものは深い哲学や人生の指針を求める文学足りえないとコラムも結んでいました。
ケータイ小説と文学を隔てるものは何か。 それは、主人公が己の立ち位置にぎりぎりの誇りをもっているか否かに尽きると思います。 そしてもちろん、共感する読者が主人公の合わせ鏡であることは言うまでもありません。
自分の立場に誇りがもてないのは、それがおよそ納得いくものではないからでしょう。 欲してやまないものを楽々と手にしてる者がいる、なのにどうして自分は――嫉妬は劣等感を煽り、憎悪へと変化します。
現代は格差社会と言われるけれど、そんなものは昔はもっと露骨にありました。貧富や家柄、教養の格差は誰の目にも明らかで、”分相応”をわきまえることが美徳だったのです。
しかし、以前は自分が所属する世界に忍従せざるを得なかった故あきらめもついたことが、今は表面的(あるいは物質的)均一化によって曖昧になり、見果てぬ夢や錯覚に翻弄されやすいのかもしれません。 そのため、自分の”不幸・不運”だけが、強く認識されてしまうように思います。
最近流行の「幸せのボーダーを下げる」や「もとめない」などは、「庶民が貴族の真似をしようなどと考えるだけでも不遜。叶わぬ夢を見るのはやめて身の丈に合った生き方をせよ」を、プライドを損なわない程度に言い換えているに過ぎません。
夢に疲れた人々は、せめて口当たりよい言葉になった屈辱と挫折にすがり、あきらめを受け入れるのです。
2007年11月27日(火)
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