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2005年04月30日(土) 教育改革の前提

「子供一人ひとりのよさや可能性」を尊重する教育は、
百人の子どもがいたら百通りの「よさと可能性」を尊重した教育をめざすことになる。
だが、果たして学校にそんなことができるのか。
それが原理的に不可能なことは、論証するまでもない。
ところが、この論理的な矛盾を曖昧にしたまま、
できるだけ子供の主体性を尊重した教育を行なおうとする。
そうすれば、当然のことながら、
学校や教師が見なす限りでの「よさや可能性」を生かした教育にしかならない。
社会の維持、存続にとって必要だという合意のうえに、
伝達されるべきとされる知識やスキルを、
税金を使ってできるだけ多くの子どもに身につけさせようとする。
これが公教育の基本的な役割である。
この役割をはずしてよいのであれば、公教育は必要なくなる。
つまり、一人ひとりの子どもの「本当の自分」を大切に扱うレベルまで、
公教育には個別化した対応は求められていないのである。
そもそも「本当の自分」というフィクションを相手に、
税金を使って巨大な学校システムを動かすことなど無理ばかりか、
まやかしでしかない。(刈谷剛彦『なぜ教育論争は不毛なのか』)


sora |MAIL