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「子供一人ひとりのよさや可能性」を尊重する教育は、 百人の子どもがいたら百通りの「よさと可能性」を尊重した教育をめざすことになる。 だが、果たして学校にそんなことができるのか。 それが原理的に不可能なことは、論証するまでもない。 ところが、この論理的な矛盾を曖昧にしたまま、 できるだけ子供の主体性を尊重した教育を行なおうとする。 そうすれば、当然のことながら、 学校や教師が見なす限りでの「よさや可能性」を生かした教育にしかならない。 社会の維持、存続にとって必要だという合意のうえに、 伝達されるべきとされる知識やスキルを、 税金を使ってできるだけ多くの子どもに身につけさせようとする。 これが公教育の基本的な役割である。 この役割をはずしてよいのであれば、公教育は必要なくなる。 つまり、一人ひとりの子どもの「本当の自分」を大切に扱うレベルまで、 公教育には個別化した対応は求められていないのである。 そもそも「本当の自分」というフィクションを相手に、 税金を使って巨大な学校システムを動かすことなど無理ばかりか、 まやかしでしかない。(刈谷剛彦『なぜ教育論争は不毛なのか』)
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