新古今東西お笑い見聞録



笑いの原点

2003年01月16日(木)

書く書くと言って今日まで引っ張ってきましたが
今日こそはちゃんと書こうと思います。
今日はお笑いについて熱く語りたいのですが
本題に入る前にお断りします。

今回の文章は非常に高慢で高飛車で偉そうで
人にとっては読んでいて腹立たしさを感じると
思いますが真剣に私のもつお笑いというものへの
こだわりを書いていきますのでご了承下さい。

私はお笑いの原点は落語だと思っています。
これは今までこの新古今東西お笑い見聞録を読んでもらっている方は
おわかりだと思うのですが、江戸時代から変わらぬ面白さで
現代まで語り継がれている落語こそが原点だと思っています。

そして原点が落語だと思っている以上、この流れに乗らない
形式で笑いを取ろうとする芸人たちをここで酷評してきたのですが
それは落語の中にこそ笑いの要素が全て含まれていると思っているからです。

昔は昔の笑いがあり、今は今の笑いがあると言う人もいますが
私は違うと思っています。たしかに言いまわしや舞台など
現代からは想像しにくく身近ではないかもしれませんが
笑いを生み出す材料は非常にすぐれており昔のものであっても
今でも充分に笑うことが出来るからです。

私は落語を知らずして笑いは成立しないと考えています。
理由は簡単です。クラシックに音楽の全ての要素がありクラシックを
おろそかにしては良質の音楽を生み出すことはできないのと同じように
落語をおろそかにしては良質の笑いは生み出せないと結論付けています。

クラシック音楽も落語も何百年にわたって人々に愛されて来ています。
それは両者の中に笑いの真理が存在するわけで、それがあるからこそ
今までも、そしてこれからも人々に愛されつづけていくのです。
そこが私がここで酷評している笑いとの違いと言っていいと思います。

さて話しは少しずれますが「落語は古くて面白くない」、
「落語は意味がわからない」という人をたまに見うけます。
私はそう言う発言を聞くと「それは知識が足りないからだ」と思ってしまいます。
過去に書きましたが芸人の知識量は生半可なものではいけないと書きました。
それは知識の量がそのまま笑いのバリエーションに繋がるからです。

ただし知識がある人イコールおもしろい人というのは認識が違います。
もしそうであれば東大や京大にいる人は例に漏れずおもしろいということに
なってしまいます。
はっきりと断言したいのは知識があり、そしてそれを活用する術を知っている
芸人が間違いなく面白く、そうでない芸人はその程度のものであるということ。

しかし知的な笑いというものは見る側、聞く側にもそれ相応の知識を
要求されるわけで、活用する術は必要ないにしろ知識は見る側にも
必要となってきます。

現在学校指導要項の改善でどんどん知識が低下してきています。
その知識の低下が下らない笑いに繋がってしまっているのではないかと
思えてならないということがあります。

明石家さんま
ビートたけし
島田紳助

彼らは豊富な知識のもと、多くのバリエーションの笑いを生み出しています。
だからこそ非常に長いあいだトップを走りつづけることができているわけです。
それを考えると今の若手にどれだけ知性を感じることができるでしょうか。

話しは落語に戻りますが、落語を聞く際には時代的な知識、
文化、風俗の知識、言いまわしや言葉、表現の知識など
多くの知識が必要となってきます。
そして「枕」から「本題」そして「下げ」に流れる噺の中の
伏線を読み取ることができる知性が必要となります。
簡単に言えばこれらがなければおもしろいとは思えないと
言うことになるわけです。

落語を軽んじている芸人がいるとするならば、それはその芸人の
知性の低さと能力の低さの現れだと思っています。
もう一度言います。
笑いの原点は落語にあります。
全ての要素がその中にある以上それをまずは学ぶべきです。

古臭い、今は今の笑いがある。
というのではなく、なぜ江戸時代からこの21世紀まで愛されているのか
考えてみてください。
それが良質な笑いを創り出す王道であり、
見る側は本当の笑いを知る機会になると思います。

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