2002年03月04日(月)now and then
「私が私だ」と言うときに、私は私の現在の肉体だけでは「私」になれない。 感覚だけで「私」になろうとしたら、 私は私の肉体を苦しいほどに支配しないと「私」になれない。 もしかしたら、自分の肉体感覚だけで自分になろうとしたときに、 私は手首を切って血を見ようとするかもしれない。
生きてきて、今、ここに存在する、という統一的な自分を支えているのは、過去の歴史性なんだ。
【中略】
私は子供の頃ずっと、自分はなんで学校に行かなくてはならないんだろうとか、 なんで勉強しなくちゃいけないんだろう。 それって大人の勝手な都合じゃん、って思っていた。
だけど、私が毎日、家庭という小さな空間を出て学校に通っていたのは、体験するためだったのかな。 日々なるべく違う体験を大勢の人間のなかでするためだったのかな。
そして、その体験は一瞬のうちに過去になり、歴史の中に吸収されて私の世界の一部となる。 生きるっていうことは、現在の体験をどんどん過去に送りだす作業。 過去にエネルギーを注入すると、過去は力を得て歴史化する。 歴史性は私という存在を根底から支え、動かす。 それによって現在の自分は未来に押しだされていく。
たくさん映画を観たり、本を読んだり、他人の話を聞いたりしたのも、 それらもみんな、自分のバックボーンである歴史を肥やすためだったのか。
この文章は、田口ランディのメルマから抜粋。
あたしは「歴史」って凄く素晴らしいと思ってる。 でも、それが云う「歴史」とは日本や他国においての「歴史」。 他の社会や物事においての「歴史」は好きだけれど、自分自身の「歴史」は嫌いだ。 まして自らの「歴史」を紐解こう、なんて話になるのはまっぴらごめんであって。 あくまでも自分以外の「歴史」と云うもの。
だから此れを読んで考えさせられた。
あたしには過去の記憶が殆ど無い。 無いと云うよりは抹消させている。 抑え込んでいる。 あたしの中で出てくるな、と信号を発信しているの。 幼稚園、何した?小学校、誰と遊んだ?中学、何を学んだ? よく分からない。 それは学園生活以外でも然り。 家でも恋愛でも全て忘れようとしてる自分が居る。 それじゃダメなんだ。 過去を見つめなくちゃ今のあたしは出来上がらない。 「あたしはあたしだ」と言い切れる自信。 胸を張って言える様になりたいなぁ。
そういえば、前に聖書科の先生が言ってた言葉を思い出した。 「キリスト教では過去が前にあって、未来は後ろにある」 解り辛いけど、納得した。 別にクリスチャンでもないが、キリスト教の考えには支えられる事がよくある。 「あたしに罪を犯す人を許すから、あたしの罪も許して?」 みたいなのが「主の祈り」ってのに、あるんだけど良いなぁと思う。 だからって殺人を働いてオーケーってわけじゃないけどね。
過去を未来に生かす。 先の事は考えなくて良いの。 その通りだと思う。 でも、今のあたしには出来ない。 心掛けてはいるものの全く前進しないの。 毎日の課題だなぁ、これ。
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