懊悩煩悩
目次|過去|will
2002年04月26日(金) |
ゆとりゆとりって格好悪いよ |
いきなり喧嘩腰のタイトルですみません。 昨日の夕刊を読んでいて知ったのですが、小・中の教科書から漱石と鴎外の文章がなくなるとか。今更な話題なのかもしれませんが、ものすごいショックで。
漱石の文章との出会いは今でも記憶に鮮明に残っていますが、塾の国語のテキストの問題文でした。「坊ちゃん」の冒頭の十数行という短いものでしたが、幼い私の心をがっちりと掴むのに充分な量で、この続きはどんな話なんだろう、と問題そっちのけでワクワクしていたのをいまだに思い返すことが出来ます。早速図書館へ行って借りて読んだときのあのときめきといったら。なんて面白い文章なんだ、この展開の心地よさはなんだろう。まだまだボキャブラリー貧困で意味がわからない言葉もありながら、それでも伝わる面白さ。一度読んだあとも、何度も何度も図書館へ借りに行って読んで、その度に新しい発見があって、いつしか借りるだけでは満足出来なくなって、文庫版を購入して…国語の授業で「坊ちゃん」をやると知ったときは嬉しくてたまらなかった。もちろん大いにはしょられましたが。先日もまた読みかえして、下宿先の主の婆さんと坊ちゃんの会話の場面のテンポの良さに新たな感動を覚えました。
その、漱石の文章が載らなくなると。
本当に勿体ないことだと思います。授業でやるやらないは別にしても、載せることぐらいはしてもいいんじゃないかと。漱石のみならず、鴎外も同様です。明治の文豪、しかも共に外国に滞在し、並々ならぬ経験を持ち帰った人々の文章を載せずして、何が国語か。ゆとりゆとりとバカのひとつ覚えみたいに言ってる暇があったら、名文をたくさん載せてどんどん読ませるべき。どうせね、土曜が休みになったって勉強しませんよ、それが学生ってもんです。勉強するとしても塾というオリの中で無理矢理させられてやっととりかかるぐらいのもんです。だって学生は遊びたいんですもの。今以上授業時間を削ったり内容を簡単にしたって、情操豊かな子供なんて育ちませんぜ。バカな子供か、せいぜい知識詰め込み型のコチコチに凝り固まった発想しか出来ない変にマセたガキが量産されるだけです。
ふと何気なく開いた教科書の1ページが、その人の人生を決定づけるものになるかもしれないんです。まあ私の場合は塾の教科書でしたけどね。出来ることなら、可能性の扉は多く開いているほうが良いに決まっとります。選択肢の少ない人生なんて、つまらんもんですよ。
|