2002年04月09日(火) |
W.A.モーツアルトのすみれ |
1.一輪のすみれが草原に咲いていた 己の中に身をひそめ、ひっそりと それは可憐なすみれだった
そこへ若い娘がやってきた 足取りも軽く、元気いっぱいのようすで 向こうから、向こうから、 草原を超え、そうして歌をくちずさんだ。
2.すみれはひそかに思う、もしわたしが この世で一番美しい花だったらいいのに、 ほんのつかの間でいいから 恋しい人が私をつみとって その胸にわたしをぐったりするほど押し付けるまで ほんの、ほんの、 15分間だけでいいから・・・・・・。
3.すみれの気持ちを知ってか知らずか、娘はやって来て すみれのことなど気にとめず、 哀れなすみれを踏みしだいた!
すみれは土にめりこみ、息も絶え、それでも 喜んで思うには、もしわたしが死ぬのだったら、 彼女の手にかかって死ぬのだ、 彼女の足許で死ぬのだ・・・・・・と。
(哀れなすみれよ、それは可憐なすみれだった)
ゲーテの詩であり、W.Aモーツアルトの一番有名であろう歌曲「すみれ」です。
このような曲を明朗に歌うのです。 ほんとぜひとも音楽をきいてほしいですね。
ぱっと聞いたところでは、あぁ、なんて素敵、すみれって純真。
でも、そんな風にだまされてはいけませんよ。
『可憐なすみれであるからこそ、痛たましい一瞬のドラマを音楽で描きだした。しかも、この歌曲は、悲劇でなく、喜劇の軽やかさを帯びている。 モーツアルトは牧歌的なシチュエーションにおいて起こった悲劇的な小事件をユーモラスなタッチで音楽へとまとめていく。すみれの歌唱においては、このユーモアの表現が必要であり、一般にはシリアスに歌われすぎていると私は思う。モーツアルトが友人達と楽しんだ場では、この曲はきっとそうした趣向で演奏され、友人達を楽しませ、笑わせさえしたのではないか、と私は思う』
こちらは「モーツアルト2つの顔・磯山 雅」から抜粋したものです。 ひーちゃん、これにマジ感動っ!!
可憐さを求めているわけでもなく、かわいそうなすみれを表しているのでもないのですよ。
すこしニュアンスは違いますが、残酷な歌を明朗に歌いあげる。これはシューベルトの鱒にも共通するような気がします。 ドイツ文学の傾向なのでしょうか。
************************************* くだらない余談になりますが、こないだふと道端にすみれが咲いていました。すみれだっと思い出し、この曲を伝えたく彼に歌いながら詩をすこしぺらぺらとしゃべりました。
話の途中だというのに、 「あーあの女のコなにやってるんだろーー」
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私の中では、ほんともう踏み潰されたすみれの気分でした。
喜劇ちっくですか?
ええ、それが狙いです。。。。
ほんとモーツアルトはおもしろい。
音楽的にもおもしろいしね。
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