天気予報では、6日が晴れるとのことだったけれど 金曜に行って土曜疲労困憊してるのもな、と思い、 5日の切符をとる。 天気がずれてくれれば、と思ったものの、新幹線が北上するにつれてあやしい雲行き。 角館駅に到着してみれば、割と明るい空。 なんだ、よかった。いいこともあるものだ、と歩きだしたらば、ぽつりぽつり。 この間は知らずに通り過ぎた松庵寺の記念碑を拝み、お墓が近くにないな〜と思ってお寺を出て、時間帯もいいころ合いでお昼に。 雨で冷えそうだったので、きりたんぽ鍋。自家製の豆腐付き。 具が少なめ?と思ったけど、お店のおばあちゃんの温かい人柄と言葉に「また来ますね〜」と店を後に。
雨の武家屋敷通り。 あんまり人がいないなあと思ったら、時間帯のせいだったらしく、観光バスが到着したのか、どんどんとおばちゃんおじさんたちが傘をさして訪れていた。 武家屋敷は前回ほとんど覗いて回ったので、今回は日帰りで時間もないので目的地へまっしぐら。 まずは、平福記念美術館。 武家屋敷通りも、雨に紅葉が映えていたけれど、こちらも大イチョウの木が見事に黄色く染まっていて、すばらしかった。 ずんずんと入口まで行くと、新聞記事の切り抜きが展示してあるので、それを全部一通り読んで、にやにやしてから入館。 ああ、ちょっとどきどきする。 ここってば、入ったらすぐに展示してあってしかもミニマムサイズな美術館なので、気を抜いていたらすぐ見終わってしまうほどなのだ。 準備万端にして、いざ出陣。 うわっ もう最初から原画(?)が!!ひぃ 小田野直武の写生図4点、曙山の写生図も3点くらい。 名前失念(葉脈や枝までほそい線で丁寧に描かれている。直武の絵だ…安心する。そしてこの細部をじっくり見たいと思わせる描き込みが好きなのだ)、カーネーションともう一種…は山百合のような花だったか(カーネーションて、この時代にすでにあったんだ…!花弁の先の繊細なひらひらも忠実に再現)、ひらがなの長い名前の見たことのある花(これよく見る花だ。黄色い花弁に、中心部から血脈のように真っ赤で細い筋が広がっている。その血脈を見事に再現している。さすがだ。)、福寿草(これのみ鉢植え。まるっとしたフォルムがかわいらしい。鉢のデッサンはそれほどくるっていなかった。不忍池図の鉢の遠近法は不思議だ)。 そして隣のガラスケースに移る、と…!船載画!! なっ なんとしたことか! こっこれあ………ガラスケースにへばりつかん勢いで、ロビーで髪を結いなおして再び見入る見入る見入る。 直武の銅版画、存在すらも確認しておらず、思わず目をひんむく勢い。 蘭画の繊細な筆遣いに勝るとも劣らぬ、微細な線。そして流麗なかたち。 この3点に目が釘付けになった。 このわずか10数センチ四方ほどの小さな絵に、なんと多くの情報量がつまっているんだろう。 いつまでもいつまでも眺めていたかった。 ほかの頁も見てみたかった。 ああ……至福。 この3点をみられただけでも、わざわざ角館に来てよかった。ほんとうに心の底からそう思えた。 がしかし、これはまだ序盤戦。入口にすぎないのだ。 入口でこんなになってて、今後どうなる?! 百穂の展示物などを目で軽くさらって(すみません、前回来た時もみたので)、本展示場を横目でチラ見しながら(おいしいものは後に取っておく性質)「あっ あそこに見えるのは不忍池図…!ひー ほんとに来てよかった!」でも、まずは肩慣らしに、と、奥の百穂展示場(ぽくかいてあったはず)へ。 前回、不忍池図の複製画がいきなり初めに展示されていて度肝を抜かれた空間。 今回そこには、直武の美人画(かな?菊になんとか図…いや、花下美人図か?大夫が禿を連れている絵。浮世絵、という説明書きがあった。鈴木春信などを下敷きにしたとみられ、確かに顔の輪郭や目などはそれらしい。画面上部の桜が舞い散るさまは、劣化していなければさぞ美しかったのであろう)があり、おおここにも。まずいこれは心してかからねば。まずは下の説明文を読んでから顔を上げよう、と読んで次の絵へ…って、うぉい!! これってあれじゃないか! 12年に一度しか公開されない、大威徳神社の明王像図!!! こっ………これは……… 前回来た時、再訪のときはこの御開帳時か?と一瞬頭をよぎったほどの貴重な奉納品。 まだ十代半ばあたりに確か描いた貴重な一品。 よもやここでお目にかかろうとは!! しかも、本展示場ではなくこっちのコーナーに!?えっ これどういうこと!?惜しげもなさすぎ!?さすが地元…すげえ、すげえよ百穂さん!(というか、この展示会を企画運営なさっている方々!!) いやあ、もうこれは……素晴らしいの一言に尽きるわけで。 本当は険しい山を登って神社にお参りしないと見られなかった、しかもその12年に一度のめぐりあわせの年に。雷雨の中の静謐な温度管理をされた美術館で見られようとは、僥倖であります。ああ、ここは蓬莱か? 木板に直接描かれた力強い筆致は、若さの表れだろうか。 彼の人が描いたと思うと、何もかもがいとしいと思えてくる。 顔が百面相のようになっており、腕も尋常ならざる数だ。よく見たら足が3本ずつ生えている。こういった想像上の人(?)を、どのようにして描いたのだろう。資料があったりしたのだろうか?それとも、先人の描いたものや仏像がお寺などにあったとか?不思議だ。 ところどころ、絵具が欠け落ちている個所がありながらも、その力強さは二百数十年経った今でもこちらに伝わってくる。祈りとか、その根源のところにある人の想いを凝縮したものを見た気がした。 自分の見た限りの直武の絵の中では、異彩を放っていて、最初にポスターで見たときも心臓を射抜かれたようだった。 これがあの花鳥画を描いた人と同じ筆によるものかと思うと、一人の人間の内面における多様性や面白みというものについて考えが及ぶに至る。 さて、この展示室における直武画最後の一枚は、鷹が鳥を捕えている図。鳩だったか… 練習画のようで、鷹の羽の辺りや余白の部分にも鳥の下書きや練習描きのようなものが見られた。鷹と鳥が丁寧に着色してあるだけに、興味深い。鷹の鋭い眼光や、くちばし部分などは目を見張るほど写実的に描かれ着色されていて、そこだけをじっと見つめていたいほどだ。それなのに練習帳のようなほかの絵が入り混じっている。なんとも可笑しいというか、ほほえましいというか。またこの人の人柄について柔らかな要素が認識されたように思う。
展示室の奥には、とっても自分好みの4点が展示されていたが、作者の名前を失念…中国風の風景がとても幻想的で、画面の奥行きがどこまでも続くような、見入ってしまったらハニ丸のように絵の中に吸い込まれてしまいそうな作品群だった。 名前は………なんだったであろうか。小林?幸…?ううむ。メモっておけばよかった。
さていよいよ、秋田蘭画とその周辺展の核心部分。 こ・れ・が、秋田蘭画でっす!の展示場に入る。と、ラップの芯が3本置いてあるではないか。なんとうれしい心遣い。これで不忍池図を観るのだ。わーい。紙を丸めて遠くから眺めるという奇行をせずとも、オフィシャルに窓絵を楽しめる趣向になっておるのですな。すばらしい。展示も末期にさしかかっており、ラップの芯も多くの人に使用された様子。うんうん、よかったよかった。 まずは曙山の絵が数点。(花の名前失念)にナイフ図や、花篭まっぷたつに描いた図、あとは何だったか…すまん曙山。曙山の絵も好きだよ。清廉で。 直武画もすべて覚えているわけではないが、12歳ころの作品、酒瓶を持っていそうな風体のおじさんの絵もなかなか衝撃的。水墨画のような筆遣いの衣服に朱色(にみえる)をきかせた色彩。こちらも明王像図とはまた違った意味で、彼の別の側面をみることができた。時代の違いもあるのだろうけど、題材といい、筆致といい、12歳にしてこれは天才の域だよなあ。 それしても、作品すべてを網羅しているわけではないのでわからないが、作風が年を経るにつれて繊細で洗練されていくのは、彼の人柄がどんどん滲み出てあらわれたからなのか、そこの成長過程というものも加わっているのだろうか興味深い。 笹に白兎図では、熊笹の先鋭さと対比された白兎の柔らかな曲線と毛並みがうつくしい。 曙山が習作としたのであろう、花篭を縦割りにした絵。 とても細長い、モチーフは菖蒲のような…葉が特徴の絵。 岩に牡丹図。青の使い方が大胆で義躬のそれも目をひくものであったが、直武のそれは比べるとやはり完成された美しさだった。 鷺図。傑作中の傑作、と大絶賛の説明書き。 これを書いた人は、ほんとうに鷺図が大好きなんだろうなあ、と思わず見入る。羽毛の動きを特にほめたたえていたので、じっくりと。 陰影もうつくしく、また鷺の下に描かれた花(牡丹だったか)も丁寧に描き込まれている。 芍薬花篭図か?花篭ではなかったようにも記憶しているが、二輪の青白いものと赤みを帯びた芍薬が描かれた一枚。 この青の芍薬から漂う色香のような清純さのような、それこそやはり女人を描いたのだろうかと思わせるしなやかさや、またその奥に見えにくいがしっかりと細いながらも通った芯を垣間見る思いで、じっと何度も見入ってしまった。 あの青の、白と交わるはかない色相。花弁の柔らかさと妖艶さすらたたえる曲線。このモチーフは好んで描かれているようであるが、美人画でもあり、自画像でもあったのであろうか。 この絵をこの目でみられたことに感謝する。
唐太宗・花鳥山水図が重文であることを知らずにいた。珍しい印象を受けた人物画。彼が左利きではといわれるゆえんであろう右向きの人物。手にはコオロギ、だったか。食べるのか… そして、左右二幅の花鳥山水。これはうつくしい。 右側の鳥が戯れる赤い果実の生る植物。この色の深さに目を奪われた。 どこにも派手なところもないのに、この何度も塗り重ねられた赤(としか表現できないのがもどかしい)と深緑が、絵の奥へ奥へと誘ってくるかのようだった。 左側の天に向かって細いながらもまっすぐに伸びる枝。 先端はもう細っていて、か細いといって差し支えないほどだが、それでも先の芍薬のように細くも芯の通った潔さをかんじさせる。 こちらも、その姿勢が清廉で目が離せなくなるうつくしさだった。
不忍池図。 これが、あの。 もう、いろいろな思いがつまりすぎて、何を思い出したらよいのかわからなくなる。 とにかく芍薬を見、鉢を見、不忍池湖畔を見、空とそこを舞う鳥たちを見て、近づいては離れを繰り返した。蟻もいた。 そこにあるのが信じられないようで、この目で見ているのに、ほんとうに網膜に映っているのか自信がなくなるほどに、そこに不忍池図は、あった。 祈りをささげる場で、何も思い浮かぶことができないように、その前に立った間はただただ、みつめるとい行為をするのみだった。 ラップの芯で覗き、覗きながら離れ、また近づき、芍薬が立体感を持って現れる瞬間があり、またいつもの画面に戻り。 彼の描いた絵と対峙…対面できたことへのよろこびから、つい不忍池図に向かってほほえんでしまっていた。 これはもはや自分の中で絵画であるというよりも、旧知の知人にでもなったかのような感覚だった。
好きな部分をもう一度、違う角度や離れた場所から見直してみたり、またじっくりと同じ部分を見つめ返したり。 来た道を戻り、再確認をし、あらためてすばらしい彼の残した絵たちを眺めた。 もっと見ていたかったが、充分にじっくりと観た。 ほんとうに、心は満たされ、美術館の屋根には雨が打ちつけても、雷が轟いて、も堅牢な館に守られながら、十二分に堪能することができたよろこびで胸をいっぱいにして、平福記念館を後にした。 雨は、すこし小降りになっているようだった。
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