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2003年06月30日(月) ■
「実験用動物救出作戦」の欺瞞と危険性。


共同通信の記事より。

【警視庁は30日、順天堂大(東京都文京区)に侵入し実験用動物を盗んだとして、窃盗と建造物侵入の疑いで、英国の動物愛護団体「ストップ・ハンティンドン・アニマル・クルエルティ(SHAC)」の女性活動家、ドーン・ハースト容疑者(31)=英国籍、建造物侵入罪などで公判中=と、関係する日本の団体のメンバー数人の逮捕状を取った。
 公安部は同日、窃盗容疑などで東京都内にある日本の団体の事務所を家宅捜索した。
 調べでは、ハースト容疑者と日本の数人は昨年4月、順天堂大に侵入し動物実験用の犬を盗んだ疑い。
 ハースト容疑者は2001年7−8月、大阪大と関西医大、順天堂大の施設に侵入、大阪大の施設から動物実験などを撮ったビデオテープを盗んだとして、建造物侵入と窃盗の罪で起訴され、大阪地裁で公判中。】

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 犬を「盗んだ」というのは、ちょっと犬に失礼な気もするのですが、法律上はペットは「物」として扱われるらしいですから、仕方がないんでしょうね。

 いわゆる「動物愛護団体」にもいろいろなものがあって、映画やドラマ撮影での動物の虐待に反対するグループもあれば、このように、「動物実験」に対して反対するグループもあるわけです。彼らの活動のおかげで、映画では「この作品では、動物を虐待していません」という但し書きがつくようになりました。それはそれで悪いことではないのだけれど。

 しかし、今回の「救出劇」には、大きな問題があるのです。彼らが確信犯かどうかは、僕にはわからないのですが。
 
 僕が大学生のころ、部活で使っていたグラウンドの片隅に、真っ白なネズミのカップルがいました。それを見つけた女の先輩は、「あっ、ネズミだ!」と言うと、学生課に連絡をしたのです。
 結局、その動物実験棟から脱走してきたらしい、愛らしいネズミのカップルは、大捕物の末に捕獲され、どこかへ連れていかれました。
 そのあと、先輩が一言、「かわいそうだとは、思ったんだけどねえ…」

 動物実験の犠牲となる動物たちは、その多くに何らかの役割が与えられています。
 あるものは、癌細胞を植えつけられて、いろいろな条件下で、その進行速度を調べられ、またあるものは、細菌に感染させられて、治療に効果的な薬の試験投与を行われたりしているわけです。
 要するに、ただの動物じゃなくて、ヘタに動物実験棟から出してしまうと、外界に危険な病原体を媒介してしまう可能性がある動物たち。
 安全上の理由からも、勝手に「救出」などされては、困ってしまいます。
 極論かもしれませんが、実験動物を「救出」するために、人類が「滅亡」してしまうかもしれないのです。
 それは、別に動物たちが悪いわけではなくて、人間の都合で彼らを「実験動物」にしてしまっているということですから、本当に申し訳ないことなのですが。
 でも、その一方、動物実験をやらないで、すぐ人間に対して治験をするとなると、そのほうがはるかに人間にとっては危険なこと。
 例えば、人間と犬が溺れていれば、どっちを先に助けますか?
 僕は人間のほうが先です。僕も人間だから。
 動物実験というのは、長い目でみれば、人間にとってのそういう必要悪だと僕は思っているのです。

 それにね、「残酷」って言われるけれど、研究者たちだって、好きこのんで実験動物をなぶりものにしているわけではないんです。
 みんな、「ごめんよ…」と思いながら、動物たちを犠牲にしているんだけどなあ…



2003年06月29日(日) ■
ドタキャンもまた、t.A.T.u.のパフォーマンスという解釈。


毎日新聞の記事より。

【ロシアのアイドルデュオ「t.A.T.u.」(タトゥー)が27日夜のテレビ朝日系「ミュージックステーション」の出演を途中でキャンセルした問題で、テレビ朝日は28日、番組のプロデューサー名でファンに謝罪するとともに、タトゥー側に抗議した。ファンから同局などに1000件以上の抗議があった。】

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 「お騒がせ」については、折り紙つきの「t.A.T.u.」(t.A.T.u.ですから、こういった事態も予測できなかったわけではないとは思うのですが…
 それにしても、テレビ朝日に抗議の電話とかした人達も、ちょっとなあ、という感じ。
 だいたい、今回の出演拒否事件は、t.A.T.u.側のワガママが原因であって、テレビ朝日の落ち度ではないわけですから。
 一部では、出演時の衣装が過激すぎて「胸が露になって放送事故になる」可能性を考えて衣装変更を要請したテレビ朝日側に、t.A.T.u.側が立腹したためとか。
 
 しかし、僕は、t.A.T.u.のワガママさに呆れ果てると同時に、ある意味「勇気があるなあ」とも思ってしまいます。本人たちが意識してやっているかどうかはともかく、こんなドタキャンなどやったら、普通は芸能界から干されたりするんじゃないでしょうか?
 自分たちの人気に甘えている、なんて声もありそうですが、ある意味こういう破滅的なパフォーマンスが、t.A.T.u.の人気の要因でもあるわけで。
 日本でも何かやるんじゃないか?と期待していた人も多かったはずです。
 生放送の最中にドタキャンというのは、ちょっと驚きましたが。
 しかも、オープニングには出演していて、だからねえ。

 こういう、芸能界のシキタリや世間の仕組みみたいなものに対する挑戦的な態度が、t.A.T.u.の魅力なんだよね、きっと。
 ファンにとっても、振り回される快感、とでも言うか。
 本当のファンは、残念に思いつつも、テレビ朝日に抗議の電話なんかしないはず。
 「それもまた、t.A.T.u.らしいよなあ」って。
 そういうt.A.T.u.の行動が報道されることによって、またカリスマ的な人気が上昇し、さらにメディアはそれを利用して稼ぐ…という拡大再生産。
 結局、t.A.T.u.は、自分たちが「消費される存在」であるということを自覚して、踊り続けているのではないか、と思わずにはいられません。

 いや、僕も観たかったけどね、t.A.T.u.
 胸ポロリくらい、いいじゃん。ダメ?
 正直、今回観られなかったら、もう観られない、もしくは観なくてもいい存在になってしまうような気もしてたし。



2003年06月28日(土) ■
知名度とセールスが比例していないバンド。


「オーケンの散歩マン旅マン」(大槻ケンヂ著・新潮文庫)より。

【筋肉少女帯ほど知名度とセールスが比例していないバンドも珍しい。売れる売れないが音楽ではないとわかりつつも、時々、「いい歳して何やってんだオレは」という気に、正直なる。現在、僕の心の「バンド・ポイント」を低下させている要因の一つは、「労働量に見合う状況を得られていない」という実にチンケな劣等感である。状況とは人気であり金であり評価であり、つまり社会からの「扱い」である。とらわれたら不幸になるとお釈迦様の説いた「執念」に、ズバリとらわれているのだオレは。】

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 いや、ロックアーティストだって、やっぱり人の子なんだなあ、と。
 まあ、こんなことをズバリ書いてしまう大槻さんは、それはそれですごいとは思うんですけどね。バンド界に対する営業妨害かもしれません。

 ところで、この文章を読んで、僕の心に引っかかったのは、一番はじめのところなんです。
 「筋肉少女帯ほど知名度とセールスが比例していないバンドも珍しい」という部分。
 最初にこれを読んだとき、「そんなこともないんじゃない?他にも知名度は高いけど売れてないバンドってけっこうあるし」と感じたのですが、考えてみると、確かにそんなに思いつかないんです。
 
 試しに、「かつて一世を風靡したが、今は売れていない」とか「お笑いの人や俳優が副業でやっている」とかのバンドを除いて、「みんなが名前を知っているけれど、あまり売れたことがないバンド」っていうのを思い浮かべてみてください。
 どのくらい思いつきますか?
 まあ、「みんなが知っている」というのが、どの程度なものか、というのは微妙なところなんですけどね。

 ボーカルのキャラが立っている、という意味では、デーモン小暮の「聖飢魔�供廚覆鵑討いΔ里蓮▲丱鵐匹箸靴討發韻辰海η笋譴討泙靴燭掘覆修譴任癲▲如璽皀鵑涼量湘戮鉾罎戮譴从�ひとつかもしれないけど)、ハイロウズも、前身がブルーハーツだし。
 いろいろ考えていって、「エレファントカシマシ」(あの妙なテンションのマシンガントークの宮本さんの知名度を考えると、ドラマの主題歌の1曲くらいしか売れてないと思う)や「スターダストレビュー」などはどうかなあ、などと思いついたのですが、どうでしょうか?(ファンの人ごめんなさい)

 基本的には、「売れているから知名度が上がる」もしくは「知名度が上がったために売れる」ということでしょうから、「あまりセールスで目立たなくても知名度が高い」というのは、バンド内にキャラが立っている人がいてトーク番組などで有名だけど曲が売れない、なんてパターンか、地道に長年良質の活動を続けて、大ヒットはないけれど名前が浸透しているかのどちらかなんでしょね。
 まあ、本当に全く売れてなかったら、プロとしてバンドを続けられているわけがないのですが。

 そうそう、これとは逆に、エイベックス系のアーティストって、「こんな人いたの?」とか思うような人がいきなりオリコンの上位に入っていたりすることが多いような気がします。
さすがに浜崎あゆみとかELTくらいは判りますが、あとの人達は、歌を聴いても誰が歌っているのやら…
 みんな、区別ついてるの?



2003年06月27日(金) ■
「集団レイプをする元気」よりも、少子化対策に必要なもの。


毎日新聞の記事より。

【自民党行政改革推進本部長の太田誠一衆院議員が26日、鹿児島市内での公開討論会で、早大サークルの集団レイプ事件が話題になった際「(集団レイプする人は)まだ元気があるからいい。正常に近いんじゃないか」と発言した。

 関係者や太田氏によると、討論会で少子化問題や残虐な青少年犯罪の増加などが問題となり、太田氏は「男性にプロポーズする勇気がない人が多くなっている」と発言。司会を務めた評論家の田原総一朗さんが「プロポーズできないから、集団レイプするのか」と問うと、太田氏は「まだ元気があるからいい。そんなことを言っちゃ怒られるけど」と話した。

 公開討論会後、太田氏は毎日新聞の取材に「発言部分だけとらえれば、極めて軽率な発言と言われても仕方ない。『レイプというのは重大な犯罪で、厳しく罰されなければならない』と付け加えたかったが、話題が変わって口を挟めなかった。異性を求めるのならば、結婚相手を探すべきだ、と言いたかった」と語った。】

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 「異性を求めるのならば、結婚相手を探すべきだ、と言いたかった」のなら、最初からそう言えばいいのに。だいたい、司会をしていた田原さんの発言もおかしくて、「プロポーズできないこと」と「集団レイプすること」とは、全然ベクトルが違う話なのに。

 「男性の女性化」、生物学的に言えば、「オスのメス化」というのは、けっこう前から言われていること。僕は、そういうのも時代の変化で、プロポーズしたい人はすればいいし、できない人はしなくていいと思いますよ。
 確かに、女性側にも「男なんだから、オトコらしくしなさいよっ!」というような考え方が根強くあるのも事実なのですが。

 まあ、男らしさ、というものの詳しい定義はさておき、この太田議員の発言を聞いたとき、僕が思ったのは、「この人は正気なのだろうか?」ということでした。
 彼は男性で、僕も男性ですから、男性の性欲というものについては、個人差があるにせよ、理解することは可能です。「集団レイプ」なんて行為が、ある種の人々の歪んだ支配欲を満足させるんだろうな、ということも想像することはできます。
 でも、それを「元気があっていい」なんて言う事は、信じられないことで。

 たぶん、この太田議員は、オスとしての自分の本能に忠実な人なんでしょうね。
 そして、集団レイプされた女性の気持ちは想像できずに、レイプする側の男にしか感情移入できないタイプなのでしょう。
 「オレは男だから、そういう衝動も理解できなくはない」って。
 しかし、いくら鈍感な男の立場からでも、自分の身内や恋人が、集団レイプの餌食になったら、どんな気持ちになるかくらいは、想像できるんじゃないかなあ。
 そういう「弱い立場になること」なんて、考えたこともありませんか?

 「少子化対策」なんて言っているけど、集団レイプ犯のほうが、プロポーズできない男より「元気があっていい」なんて国なら、子供がいなくなって滅亡したほうがいいよ、きっと。

 太田議員、あなたは「少子化」が、「男の性欲減退のせい」だと思っているかもしれないけれど、現実は違うと僕は思います。
 みんなが子供を作りたがらないのは、将来像が見えない、この社会の未来に絶望しているからです。
 そして、そういう人々の気持ちを汲み取ることもできない、この国の政治に失望しきっているからですよ。

 たぶん、あなたにはそんなこと、想像もつかないと思いますけどね。

 そのうち、「戦争するくらいの方が、元気があっていい!」とか言い出しそうだな。



2003年06月26日(木) ■
はなわ「佐賀県」に秘められた、葛藤と戦略。


「九州ウォーカー・2003.No14」の記事「『佐賀県』を歌う芸人はなわにインタビュー!」より。

【上京した時、周りの芸人は千葉県など中途半端な田舎の出身ばかり。佐賀県っていう地味な所から来たのは俺だけだった。で、俺のキャラは田舎者だってひらめいたんだよ」】

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 「S・A・G・A、さが〜」で一躍時の人になった、はなわ。
 歌詞の内容からは、故郷佐賀県をバカにしているといえなくもないのですが、この曲のプロモーションビデオに出演した佐賀県の古川知事からは、感謝状を送ることも検討されているとか。
 確かに、まずは名前をアピールする、という意味では、これ以上の宣伝はなかったかもしれませんから。
 僕は、彼の「佐賀県」という歌は面白いと思うんですが、彼の芸そのものは、ちょっと言いすぎで感じ悪いな、というところもあるんですけど。
 
 僕も含めて、田舎者というのは、都会人に対してコンプレックスを抱きがちなもの。だいたい、標準語で普通に喋っているのを聴いただけでも、「カッコつけやがって!」とか内心思ったりするもので。
 でも、その「田舎者」も、考えようによっては、「個性」なんですよね。
 確かに、佐賀県の出身者は、東京都の出身者よりもはるかに珍しい存在なのですから。
 開き直って、「田舎者」というキャラで勝負した、「はなわ」という人は、先見の明があったなあ、という気がします。やっぱり、芸の世界では「キャラが立っている」というのは、すごく大事なことでしょうし。
 コンプレックスを感じている部分も、実は「個性」となりうるんだ、というのは、意外とみんな気がつかないところで、見事な逆転の発想なのです。
 他人に誇れたり、笑い話にできるような「故郷」があるというのは、転校族だった僕にとっては、うらやましいところもあるんです。
 堂々とバカにできるのも、「故郷」だからだものね。
 故郷への愛着を語れる人に対して、僕はいつも、羨ましいような、妬ましいような、複雑な気分になるのです。
 
 ちなみに、彼の故郷の人々は、「吉田屋なんかない!」とか「ヘルメットなんか被ってない!」とか言いつつも、満更でもないみたい。
 田舎って、話題になるだけでもけっこう喜んでいたり。

 でも、「ライバルは鳥取県!」というのは、どうかと思います。
 むこうには、砂丘があるしなあ。 



2003年06月25日(水) ■
25年目の「勝手にシンドバッド」


Musicnetの記事より。

【6月25日でデビュー25周年を迎えるサザンオールスターズ。その25周年記念日にスペシャルBOX「勝手にシンドバッド」をリリース! しかも25万個限定です。12cmCDシングル仕様でリマスタリング音源の2曲(「勝手にシンドバッド」「当って砕けろ」)、そしてボーナス・トラックにはサザン初の「勝手にシンドバッド」カラオケ・バージョンが収録されています。伝説の25周年バージョンのジョギングシャツにサンバホイッスル、超貴重なデビュー当時のリリース・パンフレット復刻版まで入った、必携のアイテムです。また、当時の仕様と価格で完全復刻させたデビュー当時のドーナツ盤もリリース。これも手に入れなくちゃ!】

〜〜〜〜〜〜〜

 今日は、サザンオールスターズのデビュー25周年の記念日なんですね。
 実は僕も、この「勝手にシンドバッド」のCD買いました。
 このサザンオールスターズのデビュー曲が世に出たのは、僕が小学生の頃で、最初に聴いたときの印象は、「なんだこの歌は?」でした。
 うちの親などは、「歌詞が何を言っているのかサッパリわからない、なんでこんなのが売れるのかなあ」としきりに首をひねっていましたし。
 今となっては、日本人の国民的音楽のようなイメージすらできあがっているサザンの歌なんですが、最初の頃は、へんな大学生(当時メンバーは、青山学院大学の学生だったので)やっている、キワモノ的なバンド、というイメージが強かったような気がします。
 アップテンポの曲で、ノリで勝負!だったのが、ドラマの主題歌にもなった「いとしのエリー」で、大人にも聴けるバンドとしてメジャーになっていきました。
 「ザ・ベストテン」で、「チャコの海岸物語」の「ここ〜ろ〜か〜ら〜すきだよ○○」の○○のところに、いろんな女の子の名前を入れて歌ったりしていたのも懐かしい。
 TUBEみたいに、「夏限定のバンド」もみたいに言われていた時期もあったっけ。

 25年間もトップアーティストとして活躍してきたサザン。
 でも、サザンだって「国民的アーティスト」としてスタートしたわけではなくて、最初のころは、いつ消えるかわからないミュージシャンのひとつでした。
 そして、あんまり売れない時期があったし、「サザンなんてもう古い!」なんていわれた時期もあったし、活動休止の時期をけっこうはさんだりもしています。
 「25年間トップにいた」と一言で言っても、、実際は山あり谷ありだったのです。
 本当に「国民的」になったのは、昔からのリスナーが子供の親になってきた「真夏の果実」以降、あるいは「TSUNAMI」以降なのではないでしょうか。
 サザンの音楽自体は、20年前の曲でも現在の曲でも、聴けば「やっぱりサザンだなあ(たまに桑田圭祐のソロ名義やKUWATA BANDと間違えることあり)」と解るサウンドで、そんなに大きく変わってはいません。
 専門家が聴けば、いろんな違いがあるのかもしれないけれど。

 僕がサザンオールスターズの25年間を思い出してひとつスゴイなあ、と思うのは、彼らが「音楽」以外にスキャンダラスな事件で話題になったことは記憶にないことです。
 桑田圭祐、原由子夫妻も、いまや日本の理想の夫婦像。もちろん桑田さんもモテるでしょうから、全く何もなかったとは考えにくいけれど、それでも波風が外に伝わってきたことはありません。
 それに、この2人ばかりがクローズアップされる中、メンバーも先日体調不良でひとり脱退しただけで、ずっとオリジナルメンバーです。
 なんでアイツばっかり、って思ったりすることもあったんじゃないかなあ。

 サザンオールスターズは、本当に凄いバンドだと思います。
 まだまだ、第一線で頑張ってくれるでしょう。
 話題になって、みんなの心に残った名曲たち。
 その一方、けっして暗い話題をみんなに見せることがなかった、バンドとして、人間としての矜持。

 「勝手にシンドバット」を聴きながら、なんだかとても懐かしく、そして新鮮な気分。
 25年前の小学校に入りたての頃には、「バカな曲だなあ〜」と思ってたのにね。

 あと25年くらいは、いけるかな。



2003年06月24日(火) ■
「人生ゲーム」が教えてくれたこと。


共同通信の記事より。

【「上司と反りが合わず、仕事を辞めてフリーターに」「子どもがケータイを使いすぎ、6000ドル払う」−タカラは、今の父親を取り巻く世相を取り入れた盤ゲーム「人生ゲーム BB(ブラック&ビター)」を26日から発売する。
 人生ゲームは「人生山あり谷あり」のコピーで1968年から販売。今年で35周年を迎えるのを記念して、お父さんを中心に家族全員で楽しめる身近な内容とした。
 ゲーム盤の各升目には「サッカーくじ(toto)で1等当選」や「ひそかな研究・発見で見事ノーベル賞」といった“縁起の良い”ものもある。価格は3600円。】

〜〜〜〜〜〜〜

 懐かしいなあ、人生ゲーム。このコンピューターゲーム全盛の時代に、まだ健在だったんですね。
 僕が子供の頃には、「一家にひとつ」はあったような気がするこのボードゲーム(当時は、「盤ゲーム」と呼んでいたような気がします)ですが、子供心に、「やっぱり学歴があったほうが、給料高いんだなあ」とか、「生命保険には入っておいたほうがいいなあ」とか思っていた記憶があります。
 あの頃は、友達の家に行って、何もやることがないねえ、というときに、押入れの中からこの「人生ゲーム」が登場してきたものでした。
 あの「お札を扱う」という感覚が、当時は新鮮だったなあ。
 それに、このゲームって、他人を陥れてでも勝とうとするやつ、なぜかルーレットの目に恵まれて勝ってしまうやつなど、けっこうプレイヤーの性格が出るんですよね。
 僕はいつも、考えすぎて失敗するタイプでしたが。

 ところで、今回の人生ゲームでは、いろいろと現代の世相を繁栄したイベントが盛り込まれているみたいなのですが、どうしても暗い話が多くなるみたいです。
 こんな時代に、誰がした、とでも言いましょうか…
 
 しかし、もともと人生ゲームって、けっこうブラックな雰囲気があったのも事実。
 前のバージョンでは、最後に子供を売り飛ばして(?)一人当たりいくらかのお金に替えられたのです。
 これって、リストラより怖いですよね…



2003年06月23日(月) ■
捏造された「戦争のヒロイン」


朝日新聞の記事より。

【「戦争のヒロイン」は国防総省がつくった偶像だったのでは──。イラク戦争で捕虜になった後に救出された米陸軍上等兵ジェシカ・リンチさん(20)の「物語」に、欧米メディアが疑惑の目を向けている。大量破壊兵器の情報操作疑惑とあいまって、ブッシュ政権の説明には疑いの声が強まる一方だ。

 リンチさんは3月23日にイラク南部で捕虜になった。米政府筋は当時、「多くのイラク兵を倒した」「敵の銃弾を浴びて重体」「イラク側はまともな治療をしていない」など米側の武勇談とイラク側の非道さを強調。リンチさんは瞬く間にヒロインに祭り上げられた。

 米特殊部隊が4月2日に収容先の病院から救出した際も、自動小銃で武装した部隊が突入し、リンチさんをヘリコプターで搬送する米軍映像が繰り返し放映され、緊迫感をかき立てた。

 しかし英BBCテレビは、▽リンチさんの体には銃創がなかった▽イラク側は可能な限りの治療をした▽病院にイラク兵は1人もいなかったので救出劇に危険はなかったと報道。「国防総省がハリウッド映画みたいに演出した」と批判した。

 ワシントン・ポスト紙も17日、リンチさん周辺や国防総省、イラクの病院関係者ら数十人に取材した特集を掲載。リンチさんの部隊は道に迷った末にイラク軍と遭遇し、慌てて交戦したため味方の車両同士が衝突▽この事故でリンチさんは重傷を負った▽銃の故障でリンチさんは1発も発砲していないと指摘。軍情報に基づく3月時点の同紙の報道を訂正した。

 国防総省は「事実に基づいておらず、ばかげている」(ホイットマン報道官)と反論している。しかし、民主党の大統領候補の一人、クーセニッチ下院議員は同省に資料公開を要求。「リンチさんはブッシュ政権による物語のシンボルにされた」と批判する評論家も増えている。

 リンチさんは、いまも陸軍の病院に入院中で、国防総省は「捕虜になってから救出されるまでの記憶は残っていない」としている。 】

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 この救出劇は、アメリカ国内では「美談」として語られ、リンチさんの救出劇は映画化がすすめられ、半生記には高額のギャラが提示されていたとか。
 僕は、この救出劇を聞いたとき、映画「プライベート・ライアン」を思い出したのですが、ひょっとしたら、国防総省の人も、あの映画をイメージしていたのかもしれませんね。
 (ちなみに「プライベート・ライアン」はフィクションです。でも、モデルとなった話は存在します)
 
 しかし、これが「捏造された美談」だとして、「そんな捏造をするなんてヒドイ!」と素直に怒りを感じるかといわれると、僕はあんまりそうでもないのですが。
 アメリカはイラクと「戦争」をしていました。
 戦時中だったら、相手が敵だったら何をしてもいい、というわけではないでしょうけど、イラクと戦争していたアメリカ国民にとって、正確な報道よりもプロパガンダのほうが意味があるのではないかなあ、と。
 極論なのですが、「戦争に勝つためなら、やれることはなんでもやる」という姿勢は、けっして異常ではないと思います。これらの「救出劇」によって、国民の戦意高揚がはかれるのなら、無人の病院に武装集団が「突入」してみせたり、遭遇戦で銃の故障で捕虜になり、国際法にのっとった捕虜としての扱いを受けていたとしても、虐待されていたかのように国民にイメージさせることは、「戦略」として間違ってはいません。
 「イラクでは、捕虜はキチンと扱われている」とか、味方同士の事故で捕虜になったなんて「正確な情報」は、国民の対イラク感情を改善してしまい、戦争相手への「憎しみ」を薄れさせる効果しかないでしょうから。
 むしろ、化学兵器や核兵器の使用に比べたら、かわいいものじゃないかなあ、という気もするくらいで。

 これが問題になるアメリカという国は、たぶん、イラクとの戦争において、圧倒的に余裕があったということなんでしょうね。自己批判をしてみせるくらいの余裕。
 本当に、やるかやられるか、という状態の戦争であれば、「勝つために、生き残るためには仕方なかった」と言われれば、誰も、そのプロパガンダを否定できないはずなのに。
 「やらせ」ができるくらいの余裕のある戦争。劇場の中の戦争。
 もちろん、いくら戦力差が大きくても、前線の兵士たちにとっては、辛い体験だったでしょうが。

 メディアも、この行為を批判してはいるものの、彼女を英雄にする報道を最初に疑いもせずに行ったのも、実は彼らなのです。
 その場で検証もせずに(ちゃんと調べて報道する気があれば、彼女が救出された時点で、もう少し正確な情報が得られていたはず)、政府と軍はウソツキ、とか言ってもなあ…
 戦争に勝つためには、誰だって嘘くらいつく、という想像ができないの?
 
 このリンチさんの「やらせ」は、たいした問題じゃない。これは、小さな嘘。
 むしろ、戦争の原因であった「化学兵器」や「大量破壊兵器」の有無やその証拠について検証していくことのほうが、大事なのではないでしょうか?
 もし、そういう兵器の存在が「捏造」であったとしたら、それは、ヒロインの捏造どころではない、この戦争自体の大義が問われる問題だと思いますから。
 僕の個人的な見解としては、世界で最も大量破壊兵器を有している国が「お前は持つな」とか言うのは筋違いのような気もするんですけどね。
 本来は、アメリカにだって在ってはいけないもの、じゃないの?
 あの状況で、戦争をする以外の解決法はなかったの?

 僕たちは自分の世界を自分の目で見られる以上の広い範囲で知ることができるようになったけれど、それは、あくまでもメディアという「他人の眼」を通してのもの。
 見せかたしだいでは、どんな虚構も「事実」になりうるのです。
 
 最後にひとつだけ。
 僕はこの記事を読んで、捨てたもんじゃないなあ、と感じた部分がありました。
 それは、「イラク側は可能な限りの治療をした」というところ(これだって100%真実じゃないかもしれないけどさ)。
 当たり前だけど、イラク人にだって、戦時下でも敵の負傷兵の命を救うために頑張った人たちがいるのです。
 それは、忘れてはならないことだと思います。

 戦争を望んだのは、リンチ上等兵でも、彼女を助けようとした人々でもないはずなのに。



2003年06月22日(日) ■
「食通」必ずしも真ならず。


「マイ・ファースト・ビッグ 『美味しんぼ〜豊潤な味わい!厳選の牛肉料理編』」(小学館)の連載コラム「美味しんぼ塾」(雁屋哲・著)より。

【血の滴るような肉をぎゅいぎゅいと噛みしめたい。その時に出て来る血と肉の混ざった味を楽しみたい。そう言う快感は「和牛」からは得られない。
 「和牛」が極端に高く評価される理由の一つは今まで日本の「食通」と言われた人達が皆老人で歯が弱かったからではなかったかと邪推している。
 「箸でちぎれるほど柔らかい」と言うのが牛肉のほめ言葉になっている所なんか、私のその邪推の肩を持つものだね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、「和牛」に対する雁屋さんのコメントは、僕も「箸でちぎれるほど柔らかい肉」が大好きなので、個人の好みなんだろうなあ、とは思いますけど。
 しかし、よく考えてみると、今の日本で「美味しい食べ物」と世間的に認められているものの基準って、確かに「高齢者向け」になっているような気がします。
 要するに、そういう権威付けをしているのが「大人」だということなんでしょうね。

 たとえば、マグロのトロなんて、僕が子供の頃に食べたときは、全然美味しいとは思えませんでした。「なんか脂っこい食べ物だなあ、どうしてこれがこんなに高いんだろう?赤身のほうが美味しいのに」と感じたものです。
 今では好きですけどね、トロ。
 他にも白子とか(あれも生臭くって、あんまり美味しいとは思えなかった)、キノコ類とか、子供の頃は「美味しいから食べてみなさい」と大人に言われて「マズイ…」と絶句した食べ物って、けっこうあります。
 確かに、大人(それも食通)は柔らかい物が好き、ということは言えるのかもしれません。
 しかし、それもまた、体を作る時期にある若者と、あまり栄養を摂りすぎては成人病の元凶になってしまう大人の体との合理的な違いなのかなあ。
 僕の父親も、亡くなる前は「ナマコは辛い」とか言ってましたから、食べ物を味わうための歯の丈夫さというのも重要なファクターでしょう。
 それに、「お金を払える人が好きなものの値段が高い」というのは、逆であるよりは自然だし。
 まあ、味の好みは個人差、年齢差があるものですから、「食通」の人達の好みが、必ずしも万人にあてはまるというものではない、ということは当然のことですよね。
 
 「有名人も美味しいって言っている名店」
 だからといって、それが自分の舌に合うとは限らないし、「マズイ」と思うのも恥ずかしいことではないのです、きっと。



2003年06月21日(土) ■
「引用は、選んだ人間のオリジナルである」


「マトリックス・リローデッド」の映画パンフレットより。

(映画監督・樋口真嗣さんのコメントから)

【いみじくもあの押井守監督が「映画における引用は選択する意思が介在する以上、選んだもののオリジナルである」とかつて強弁していた。引用そのものよりもどの部分を引用するか?が重要なのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これは、同じ映画作者として、「マトリックス・リローデッド」という作品内で、「ネオ(主人公)が襲いかかる無数のエージェント・スミスをはね飛ばす瞬間をブレッドタイムでキャメラ回り込み」というような、ある意味「誇張しすぎて滑稽にすら見える」というシーンなどの表現法について、同じ映画監督として、樋口さんが書かれていたものの一部です。
 「マトリックス」で使われたカメラワークや映像表現は、すべてがオリジナル、というわけではなく、香港映画などの強い影響を受けています。アクション監督は、前作同様、「グリーン・ディスティニ−」のユアン・ウーピンですし。
 それらの極東の映画たちが「マトリックス」に影響を与え、そして「マトリックス」が、
香港映画や日本映画、ハリウッド映画に影響を与え、そしてされに対して、「マトリックス・リローデッド」が応える、というふうに、お互いに「引用」しながら進化していっている、というわけです。

 押井守監督は、海外での評価も(むしろ、海外での評価のほうが、でしょうか)高い日本を代表する映像作家のひとりです。「うる星やつら」の映画版や「機動警察パトレイバー」などの作品で知られています。
 
 確かに、「引用」=「パクリ」というような印象を持たれる場合もあるかもしれませんが、その一方、「引用」の場合には、どうしても「引用する人間の嗜好や信条」といったものを避けては通れないと思います。
 たとえば、あるゲームについて、「面白かった」というプレイヤーの声を大きく打ち出せば、それは「面白いゲーム」という意思表示になるでしょうし、仮に少数意見でも、雑誌に「つまらない」という意見が大きく掲載されれば、「つまらないゲーム」というイメージを読者に植え付けてしまう場合があるように。
 もちろん、「多数意見」というのが存在する場合もあるわけですが、取り上げる側の「引用のしかた」において、受け手に与えるイメージというのは、けっこう違ってくるわけです。
 新聞などでは、「どの記事を大きく取り上げるか」という時点で、すでにそれは編集者や記者の「オリジナリティ」というのが出てきます。

 こうやってネット上に書かれる文章でもそうですが、「他人の書いたものの100%コピー」というのは、許される行為ではありません。
 でも、これだけ多くの表現が出てきている現代では、「何を取り上げるのか(つきつめれば、何をパクるのか)」という選択もひとつのオリジナリティ、ということは、確かに言えるかもしれません。
 ただし、押井さんが言っているのは完璧にそのままのコピーじゃなくて、面白い部分を引用して、濃縮したり改良することによって、さらに面白いものを創る、ということだと思うので、誤解なきよう。別に劣化コピーを推奨するつもりもありませんし。

 実際、「全く他の作品に何も影響を受けていないオリジナル作品」って、現代に生きる人間にには絶対に創れないと思います。
 「こんなのは絶対にマネしない!」っていうのも、「影響」には違いないから。



2003年06月20日(金) ■
「52年間、普通の生活をさせてもらいました」


日刊スポーツの記事より。

(先日亡くなられた、新作落語の大御所、春風亭柳昇さんの追悼記事より)

【最期をみとった孝子夫人は「本当に穏やかに逝きました。主人には、ご苦労さま、ありがとうございます、の言葉しかないです。52年間、普通の生活をさせてもらいました。悔いはないです」と、むしろホッとした表情だった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「大きいことを言うようですが、今や春風亭柳昇といえば、わが国では私1人」というマクラ(語りだし)で知られた柳昇師匠が、先日亡くなられました。
 僕は柳昇さんのことにそんなに詳しいわけではないのだけれど、いくつかのテレビ、新聞、雑誌などでの追悼特集で、もっとも印象に残ったのが、52年間連れ添った孝子夫人のこのコメントでした。

 柳昇さんだって人間ですし、ましてや噺家の世界は「何事も芸のこやし」なんていう考えが色濃く残っている社会。きっと、夫人にもいろいろ辛いこともあったのではないのかなあ、と僕は思います(勝手なイメージで、実際は違っていたのかもしれませんが)。

 きっと、52年の間には、いろんな波風だってあったのだろうけど、そういったことも含めて「普通の生活」と孝子さんは仰ったのでしょう。
 この言葉に、僕は底知れない深さを感じるのです。

 僕たちは、「普通の生活」や「平凡な生活」が大嫌いです。
 他人とどこか違う、「非凡な」もしくは「すばらしい」生活を送りたいを思わないひとは(とくに若い人は)いないと思います。
 それで、浮気をしてみたり、犯罪に手を染めてみたり、人生に絶望してみたりもします。
 「平凡な人生なんて、つまらない」って。
 
 でも、実際は、どんな「普通の生活」にだって、嵐の日はあります。たとえば、「平年並みの気候」の年にも、快晴の日があれば、大雨の日もあるように。
 子供のころは、みんな努力が足りないから「普通の生活」しかできないんだ、と思っていたけれど、大人になって、やっとわかったような気がします。
 みんな、一生懸命頑張って生きて、なんとか「普通の生活」をしているんだ、ということが。

 実は、「普通の生活」をしていくというのは、ものすごく大変なことです。
 平凡を望むというのではなく、柳昇さんのように芸の道で大きな足跡を残した人も、妻にとっては「普通」だったわけですから。
 
 もちろん、より高い所を目指すのは大事なことです。
 というより、「高い所を目指す」くらいでないと、「普通」というのは維持できないもの。

 安易に「普通なんて嫌」だと理由をつけて、自分の欲望に負ける言い訳にする、というのが、多すぎるという気が僕にはするのです。

 「普通の主婦なんてイヤ」だから不倫。
 「普通のサラリーマンなんてイヤ」だから無謀な転職。

 「普通の生活」っていうのは、そんなに甘いもんじゃない。
 
 「52年間、普通の生活をさせてもらいました。悔いはないです」
 本当は僕にも、この言葉の凄味、まだわかっていないんだろうなあ…



2003年06月19日(木) ■
「コンビニでも売れる、副作用のない安全な薬」って?


「お客に言えない、『売れるお店』の裏話」(マル秘情報取材班・編、青春出版社)より。

(ドラッグストアの裏話)

【ドラッグストアでは、店長や副店長に薬剤師免許を持った人を置いているのは常識化しつつあるが、そんな専門知識のある彼らでも胃薬や頭痛薬などは必要がなければ自分で飲んで確かめるということはできない。
 それでも、お客は当然のように聞いてくる。
 「この胃薬とあっちの薬、どっちが効くかしら?」と。
 専門知識があればあるほど、店員はこういいたくなるらしい。
 「違うのはメーカーと値段ということしか私にはわかりません。似たりよったりじゃないですかね」。】

〜〜〜〜〜〜〜

 もちろん、すべての薬が同じくらいの効用、というわけではありません。
 たとえば、胃薬にしても、粘膜保護剤とH2ブロッカー、プロトンポンプ阻害剤(PPI)など、さまざまな系統の薬があり、ひどい胃潰瘍であれば、PPIは大きな効果が期待できますが、粘膜保護剤だけでは、充分な効力は期待できないでしょう。
 ひとくちに「胃薬」といっても、「胃薬」という薬自体がひとつのカテゴリーなのではなくて、明らかに効力や適応疾患、もちろん副作用や価格なども含めて、「胃薬」の中でも異なるいくつかのグループに分かれると考えてもらったほうがいいと思います。
 もちろん、異なるグループでは、効能や価格は違ってくるのです。
 こういった知識は、医師や看護師、薬剤師であれば、誰でも持っているはずのもの、ということになります。
 では、同じ「H2ブロッカー」というグループの中で、そんなに効力に違いがあるかといわれると、それは、正直言って難しいところです。
 もちろん、それぞれの薬は、特徴を出して(例えば長く効くとか、眠くならないとか、価格が安い、というのもそのひとつですね)シェアを獲得しようとしているのだけれど、実際は、これらのグループ内で、一種類の薬がパソコン界のマイクロソフトのような独占状態になることはありません。
 斬新な新薬や非常に珍しい疾患に適応した薬(ニーズそのものが少ない場合)には、一時的に独占状態が生じることもあるのですが。
 
 もちろん、薬品メーカーの切磋琢磨もあるのでしょうけれど、患者さんそれぞれの体質もありますし、飛びぬけて効く薬、なんてのはないのが実情。
 結局、スペック上は違いがあるとしても、実感としては「似たような薬」であることも多いのです。
 大メーカーの薬が高いことが多いのは、価格に宣伝費が含まれているからで、成分そのものはそんなに他社のものと代わり映えしなかったりもしますし。
 
 ただ、その中でも医療従事者は、少しでもその人に合った薬を飲んでもらおう、と考えているのも事実です。「似たり寄ったり」だからこそ、その中でどんな特徴を重視するかに専門家の知識が生きるのではないか、という気もしますし。

 要するに、効いてくれて、患者さんが満足してくれさえすれば、それがいちばんいいことなのですが。

 そういえば、今度、コンビニで薬の販売が行われるようになるそうですが、先日、僕はこんな話を聞きました。

 <医療ミスに対する厳罰を求める署名活動に参加した主婦の話>
「妊娠中に胃が痛くなって、近くの病院で胃薬をもらったのですが、あとで調べてみたら、妊婦が飲んではいけない薬だったんです。あれは医療ミスです!」

 確かに、ちゃんと状況を訊いて、説明しなかった医師が悪いと思います。
 でも、その一方、僕はこんなことも考えるのです。
 
 現在発売されている薬の中に、妊婦と乳児への安全性が確認されている薬というのを僕は寡聞にして聞いたことがありません。
 実際、妊婦や乳児に対して、安全性を確認するための臨床調査をやることなど、不可能でしょうし。
 ただ、症状によっては、僕も妊婦さんに比較的副作用が少ないと考えられる薬を本人の了解を得て処方することはあります。
 現在のところ、副作用のない薬なんて、ありえませんから。

 もちろんこんなことは、医師・薬剤師にとっては常識の範疇なのですが、この女性の話を聞いていると、普通の人々の間では、それは常識外のことみたい。

 さて、こんな状況で薬がコンビニで売られることになれば、安易に薬を飲んだために、さまざまなトラブルが起こることが容易に予測できないでしょうか?
 僕も含めて、病気の症状に苦しんでいる最中の人間は、まずあのゴチャゴチャした注意書きの隅々まで目を通すことはないでしょうし。

 薬は薬局(もしくは病院で)という取り決めは、不便ではあるのだけれど、実際は、安易な薬の服用に対する、ちょっとしたバリケードになっているのです。
 
 「副作用のない、安全な薬だけ売ればいい」
 確かに、僕もそう思います。
 でも、「副作用のない薬」なんて、せいぜい栄養ドリンクくらいのものですよ。栄養ドリンクだって、飲みすぎによるトラブルが結構あるっていうのに。



2003年06月18日(水) ■
さよなら、ベッカム。


日刊スポーツの記事より。

【イングランド代表主将、MFデビッド・ベッカム(28)が来季からスペインの強豪、Rマドリードへ移籍することが17日、決まった。所属するプレミアリーグのマンチェスターUが同日、移籍金3500万ユーロ(約49億円)で合意したと発表。ベッカム自身もRマドリードとの契約条項に同意しており、7月上旬に正式契約する見通しという。
 ベッカムは代理人を通じ、「自分にも家族にも、またとない刺激的な経験になるだろう。Rマドリードのような偉大なクラブでプレーするチャンスを断ったら、この先ずっと後悔すると思った」とコメントした。】

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 さんざん話題になった、「ベッカム様」の移籍問題。
 先日インタビューで、ベッカム自身が、現在の所属チームである、「マンチェスター・ユナイテッドに残りたい」と涙ながらに訴えたという記事が出ていましたが、実際に蓋を開けてみたら、世界有数のクラブチーム(昨年のクラブ総収入では世界一だそうです)であるレアル・マドリードへの移籍が決まりそう。
 なんだか、このあいだのインタビューとは話が全然違うみたいなのですが、まあ、そういったのも駆け引きのひとつなんでしょうね。
 彼の移籍については、熱烈なサッカーファンでも、ベッカムファンでもない僕には正直「どうでもいいこと」ですし、たぶん、日本のベッカムファンにとっても、「世界一のチームに好条件で行けることになったんだから、いいんじゃないの?」という程度のものではないでしょうか?

 でも、僕はこのニュースを聞いて、「マンチェスター・ユナイテッドのファンの人たちは、どんな気持ちなんだろうなあ」とつい想像してしまうのです。
 僕はプロ野球では広島カープのファンなので、「選手に出て行かれる悲しみ」というのは、何度も体験しているのです。
 こういうのは、たぶん巨人ファンには、わからないとは思うけど。

 ベッカムは、14歳からずっとマンチェスター・ユナイテッド(最初はユースチーム)に所属しており、サッカー界では珍しい、チーム一筋の選手でした。
 ベッカムは、赤いユニフォームのマンチェスターUの象徴でもあったわけで。
 最近になって、名将ファーガソン監督との確執(監督の蹴ったスパイクが顔にあたるなど)が表面化していましたが、それでも、チームへの愛着が強いのではないかと、僕は思っていたのですが。この監督との不仲の始まりは、ベッカムのハネムーン中に監督が緊急招集をかけたことらしいので、一概にベッカムばかりを責められないとは思うけど。
 でも、今回の移籍は、彼自身が言っているように「世界一のクラブでプレーするチャンス」ですはあるのですが、マンチェスターUだって、ベッカムが在籍していた1999年にチャンピオンズ・リーグで優勝しているというのに。
 たぶん、ずっとベッカムを応援し続けてきたマンチェスターUのファンは、みんな悲しんでいるんじゃないでしょうか?
 この移籍も、ベッカムがスターになりすぎたことが原因で、彼の価値を上げたのは、日本のにわかベッカムファンの大騒ぎも含むワールドカップの喧騒もあったはず。
 僕は、なんとなくマンチェスターの人たちに悪いなあ、という気がしているのです。
 結局、ベッカムは、世界一のチームへの移籍を選びました。
 レアルはまさにスター軍団で、いくらベッカム様でも、今までのように「王様」にはなれないでしょう。
 また、彼の真価が問われることになりそうです。
 
 それにしても、日本的な感想としては、今まで応援してくれたマンチェスターUのファンに、「いままで応援ありがとう」の一言くらいあってもいいんじゃないかと思います。
 ベッカム様にとっては「チャンス」でも、ファンにとっては、「裏切り行為」かもしれないからさ。



2003年06月17日(火) ■
有権者を無視し、職業差別をする岩手県議会。


毎日新聞の記事より。

【岩手県議会で覆面姿のまま議員活動することを表明しているザ・グレート・サスケ議員(33)がアダルトビデオに出演していたなどとする記事を一部週刊誌が掲載し、16日開かれた県議会の議会運営委員会で経緯について報告された。サスケ議員は、出演については否定したが、自身が社長を務めていた「みちのくプロレス」(盛岡市)が、ビデオタイトルに「サスケ」の名称使用を許可したことは認めた。同委員会は、覆面を禁止する議会規則の改正案を25日の本会議で採決する方針を決定。ビデオへのかかわりが判明したことで、これまで覆面容認派だった県議も採決では反対派に回る見通しとなり、サスケ議員の覆面活動は認められない可能性が強まった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 う〜ん、岩手県民の「民意」というものを議会は、どう考えているのかなあ。
 「愚かな県民がイキオイで選んだタレント議員をスポイルしよう」というような意地悪な意図を僕は感じまくってしまうのですが。
 だいたい、サスケの覆面姿がダメなら、議員に立候補した時点で問題にしておくべきことで、岩手県民は、「覆面を被って選挙活動をした」ザ・グレート・サスケに投票したわけですから、当選したあとに議会が勝手にダメだとか言っていい筋合いのものではないのでは?
 本人は、「表情がわかるようなマスクを使う」とまで譲歩しているわけですし。
 議員は「議会をバカにするな」と思っているのかもしれませんが、僕からすれば、この議会のほうが有権者をバカにしています。
 政治家なんて、選挙に当選しさえすれば、どんなに悪いことをしていても「国民の審判を受けた」とか「みそぎは済んだ」とか言って、堂々と議会に顔を出す人が大勢いるというのに。
 そういう人たちのほうが、むしろ覆面を被ったほうがいいんじゃないかと思うくらい。

 それに、今回のAV出演疑惑とかいうのについても、仮にアダルトビデオに出ていたとしても、そのことの何がいけないんでしょうか?そしてそれとマスクのことに何の関係があるんでしょうか?まさに言いがかり。
 少なくとも、違法でないアダルトビデオに出ることで、そんなに責められる理由が全然わかりません。
 別に「アダルトビデオは男性に夢を与える職業」とか言うつもりはありませんが、彼はそうやって「みちのくプロレス」という経営が厳しい会社を支えてきたのですから、他人から後ろ指をさされるようなことではないでしょう。
 「教育上良くない」なんていうけれど、「サスケが出ているから、僕もAV男優を目指すぞ!」なんて男の子が、岩手県に激増するとも思えませんし。
 いっそのこと「AVに出て何が悪いんだ!」とサスケには言ってもらいたい。
 だいたい、「昔悪いことをしていたヤンキー」とか「立ち直った犯罪者」なんてのには妙に生暖かいこの社会が、「夢を追う普通(じゃないかもしれないけどさ)の人間」として頑張っているサスケの、違法でもなんでもない「生きるための手段」に、こんな因縁をつけるなんて、ある意味「職業差別」じゃないんでしょうか?

 もしマスクを脱ぐことになったとしても、僕はサスケを応援してみようと思います。
 政治家として悪いことをすれば別ですけどね。
 
 マスクどころか、ネオユニヴァース(ダービー馬)が選挙に出馬すれば、絶対に一票入れようと思っているくらいですし。



2003年06月16日(月) ■
「名刺ガム」、頼むから流行らないで!


時事通信の記事より。

【名刺代わりに、ガムをどうぞ−。自分の名前や店名などを印刷した「アド(広告)ガム」が、新たなビジネス・ツールとして営業マンらの注目を浴びている。
 このガムは、ソフトウエア開発の「ウィーブ」がこのほどインターネット上で売り出した。約3センチ四方で、植物性色素を使い文字やイラストなどをガム表面に直接印字する。味はハーブミント。ネットを通じ、デザイン案をやりとりしながら注文する仕組み。
 2500枚(1枚15円)から注文が可能で、中小商店主や個人も含め、サンプル請求だけで約70件に上るなど受注は好調だ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、確かに名刺って、扱いに困ることもありますよね。
 どう考えても、これからの自分の人生でかかわりが無さそうな人からいただくこともありますし。
 でも、他人の名前が書いてあるものですし、そんなにぞんざいには扱えない。
 そういえば、長野県で知事の名刺を折り曲げて非難されまくった人もいましたね。

 食べられる名刺であれば、そのまま捨ててしまえますから、あとくされがなくていいし、少なくとも今のうちなら、インパクトはあります。
 とっておかなくてはいけない人の場合には、困ってしまうでしょうけど。

 しかし、僕はどうも、この名刺には抵抗があるんですよね。
 子供の頃は、ギンビスの「たべっこどうぶつ」(動物形のビスケット)や博多名物「ひよこ饅頭」(文字通り、ひよこの形をした饅頭。けっこうかわいい)でさえも、食べるときに罪悪感を覚えていましたし、タイヤキも、なかなか頭にかぶりつけずに(痛そうだから)、尻尾からいじらしく食べていました。
 擬人化してしまうのは、昔からの悪い癖。

 ということで、「他人の名前が書いてあるガム」なんてのは、ちょっと食べにくいなあ、というのが正直な気持ちなのです。
 「言霊」なんていうものを考えたりして。
 字がいろいろ表面に書いてある食べ物って、その字の成分が毒じゃなくても、なんとなく苦手だし。
 たぶん、もらったとしてもずっと取っておいて、そのうちスーツがベトベト、なんてことになりそうな予感がします。
 ものすごく嫌なヤツのだったら、いろいろ利用法はありそうな気がするんですけどねえ。



2003年06月15日(日) ■
同業者としての「うまい店」の見抜き方。


「お客に言えない、『売れるお店』の裏話」(㊙情報取材班・編、青春出版社)より。

【あるオーナーシェフの同業者としての「うまい店」の見抜き方。
 「休日にどこかへ出かけたとき、自分が食事をするなら駅から少し離れた店を選びます。駅前の誰が見ても好立地の店は、一見の客の出入りも多く、仕事が雑になりがち。その点、少し離れた場所で、なおかつ長く営業を続けている店はしっかりと顧客をつかんでいる証拠。当然、味の方も大外れなんてことはあり得ない」】

〜〜〜〜〜〜〜

 さすがに同業者の見る目というのは、ちょっと違うのだなあ、と感じながらも、頷ける点も多々あるこの意見。
 知らない町で車を運転していたりすると、郊外にポツンと建っている店や、街中でものすごく古くてちょっと汚いくらいの食堂なんてのを見かけることってありませんか?
 僕は、そういう店をみかけると、「あれでも営業できるんだったら、やっぱり美味しいんだろうなあ」と思ってしまいます。
 明らかに人の気配がなさそうだったりして、どうやって商売やってるんだろう?と思うことも多々ありますが。
 まあ、実際は、そんなにものすごく儲かっている店なら、汚いままじゃなくて改装するんじゃないか、という気もするんですけどね。
 このオーナーシェフのコメントは、「大行列ができたり、新聞や雑誌にとりあげられたりはしなくても、地元の人に長く愛されているような店には、ハズレが少ない」ということなんでしょう。
 実際、あまりに流行りすぎたために料理の質や接客態度が落ちてしまう店は多々あるようですし、好立地というのは、逆に経費がたくさんかかっているわけですから、材料費などにしわ寄せが来ている場合も多いんじゃないかなあ。
 しかし、そうは言っても、プロじゃない僕としては、「地元の人が集まる、隠れた名店」なんてのは、ちょっと敷居が高いような気もするんですよね。
 親しみがあって、濃厚なサービスというのは、それを受ける側にもけっこうエネルギーが必要な気がしませんか?
 「これ、どうぞ食べてください」と親切な店員さんにサービスで料理を出してもらえば、「美味しい」って顔をしなくちゃいけないな、というプレッシャーがかかるのも人情というもの。
 それが自分の口に合わなかったら、悲劇ですよね。
 
 そういうふうに考えていくと、やっぱり僕は、マニュアル通りのチェーン店に入ってしまうことが多いのです。
 「いつか、この店に入ってみよう」そう思うレストランのストックは、増える一方なのに。



2003年06月14日(土) ■
『ブラックジャック』の連載が終了したわけ


「ブラックジャック完全読本」(宝島社)の「BJ秘話」より。

【<『B.J』の連載が終了したわけ>
  あれだけ人気を博した『B.J』が連載を終了したのにはそれなりの理由がある。
 手塚治虫自身「本当はもう少し続けてもよかった」と言っている。だが、こうも言っているのだ。
 「あまりにも制限や制約の多さに、描きようがなくなってしまった」
 いろんな団体や組織から、これを描いてはいけない、あれは描いては困る、という抗議がいろいろきて、しまいにはB.Jは、ただのケガを治す救急医師みたいな立場になってしまい、病気はほとんど扱えなくなってしまったのだ。こうして、名作は終わりを告げたのである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この手の「制約」のために、数々の「名作」たちが、埋もれてきました。
 あるマンガの有名な話で、悪役が「4」の数字を指で出そうとしたら抗議が来て、結局、「パー」(つまり「5」ですね)を出しながら、「4」というセリフを言わせることになったとか。たぶん、指がない人に対する差別、だというのでしょうが、これでは、なぜこれで「4」なの?ということで、かえって変な印象を与えてしまうと思うのですが。

 もちろん、差別表現に対する規制や抗議のすべてが「言葉狩り」だとは思いませんし、中には、どうしてこんなことが書けるの?と思ってしまうような内容があるのも事実です。
 『B.J』はマンガですから、病気の症状もどうしても過剰に表現されてしまう部分もあるでしょうし、実際の患者さんからしてみれば、「私の病気のことをこんなにオドロオドロしく書くなんて!」と言いたくなった回もあったとは思うのですが。
 しかし、『B.J』が虫垂炎やカゼを治療したとしても、やっぱりドラマチックな話にはならないでしょうから、この作品では「病気」というのは、もうひとりの主役でもあるんですよね。
 手塚治虫自身に悪気がなくても、彼が実際に医師免許を持っているということもあり、周りからは過剰に反応されてしまう部分もあるんでしょう。
 僕だって、どうして風俗の人の客の悪口や塾の講師の生徒の悪口は許されて、医療関係者の普通の日記は許されないんだろう?と疑問に感じることはありますが、病気というのは、それだけデリケートな問題なのだろうなあ。
 もっとも、本来はむしろ、どんな業種でも「お客さんの悪口」なんてのは他人に後悔すべきではないと思いますけどね。
 そういう「理念」と「書きたいこと」のギャップは、誰にでもつきまとうもの。
 そういえば、ある作家が、「身内に恨まれるようになって、はじめて『小説家』と言える」なんていうことを言ったという話もありますし。
 
 ただ、こういう無差別な「言葉狩り」みたいなのも、少しは変わってきている部分もあるのかなあ、という気がします。
 現在放送中のドラマ「ブラックジャックによろしく」のNICU(小児救命病棟)編で、ダウン症の赤ちゃんの話があって、僕はそれをマンガで読んだときに、「これは、ドラマでは病名が架空のものになるか、設定が変えられるな」と予想していたのです。
 でも、ドラマでは病名も内容もほとんどそのままでした。
 「病名が差別」なんじゃなくて、「病名に対する差別意識」のほうが問題だという考えが、少しずつでも広がっていったらいいなあ、と僕は思っています。
 
 確かに、『B.J』は、ちょっとイキスギかな、と思うところはあるのだけれど。 



2003年06月13日(金) ■
「もしかして、おまえ、血液型B型だろ?」


『ファミ通・2003年4月11日号』の記事「シーマン研究・第6回」より。
(筆者は、『シーマン』の開発者、斉藤由多加さん)

【「もしかして、おまえ、血液型B型だろ?」
 シーマンは突然そう言い出します。こういった類のシーマンの「決め打ち」のセリフは、ネットなどあちことで話題になりました。
 当たり前の話ですが、この指摘には、まったく論拠がありません。

(中略)

 血液型と性格の関連性は、科学的に証明されているものではありませんから、たとえユーザーの行動履歴を細かく分析したところで、正解はえられない。
 ここでのポイントは、むしろ「B型」にあります。
 したがって、「シーマンは自分の血液型を言い当てた」という噂の出どころは、偶然当たった20パーセントの人がもたらしたものということになります。
 みなさんの中には、なぜ日本人でもっとも多いA型ではなく、わざわざB型にしたのか、と思われる人もいることでしょう。
 私もそうなのですが、AB型やB型の人というのは、マイノリティー意識があります。ウインドウズユーザーではなくマックユーザー、巨人ファンではなくタイガースファン、ソニーファンではなくセガファン、などなどに共通するのは、マイノリティーならではのプライドといいますか、強固な当事者意識です。
 B型を当てられた人のほうが、A型を当てられた人よりもびっくりして騒ぐにちがいないというのが『シーマン』開発チームの考え方でした。】

〜〜〜〜〜〜〜

 『シーマン』というゲームを御存知のかたは、けっこう多いのではないでしょうか?
 人間の顔がついた魚のような生き物と会話ができるという、画期的なゲーム(なのかなあ?)このゲームの開発者であり、あの皮肉屋(僕の耳に残っているセリフは「飼い主の義務を果たせよ!」なのです)であるシーマンの声の主が、斉藤さんなのです。

 この文章を読んで、僕は自分がまさに「術中に嵌った」ことを知りました。
 僕の血液型はAB型で、シーマンの「お前、B型だろう?」は、見事に外れてしまったのですが、まあ、斉藤さんの指摘するところの「マイノリティ意識」っていうやつが、確かにAB型にも存在しているからです。
 よく「二重人格」と称されるAB型ですが、そんな統計を本当にとった人がいるわけがないにもかかわらず(だいたい、「二重人格」なんて、定量化しようがありませんから!)、AB型の人は、それを周囲に告白すると「やっぱり!」と言われることが多いようです(これはB型も同じ)。
 実際、AB型の人間にとっては、AB型の人は、なんとなく「同志」って感じがするのです。「やっぱりお前もAB型!」みたいな感じ。
 B型というのも、非常に個性が強くてマイペースという認識が固定化されており、それを告白すると「やっぱり!」と周りから指摘されることが多いようですし。
 まあ、ゲーム的には、あまりに当たらないとなんですし、血液型に対する自意識が強いと思われる「B型」をターゲットにした、という話は、非常によくわかります。
 僕の思い込みなのかもしれませんが、O型やA型の人が当たっても、なんとなく「どうせ、ランダムなんだろ?」というような印象しか持たないような気も。

 実は、マイノリティ意識といっても、現実にはそんなに珍しいものではなくて、日本の人口の2割はB型であり、野球ファンの中で、阪神ファンというのは、けっして少数ではないでしょう。
 それでも僕たちは、はじめて行った海外旅行で、日本人をみかけると安心して親しみを感じてしまうのと同様に、マイノリティ意識があると、マイノリティ同士の親近感みたいなものを心に抱いてしまうんですよね。同じ人と日本で会っても、けっして話しかけたりしないのに。
 
 パソコンにしても、ウインドウズユーザーは、自分のパソコンがウインドウズであることを意識していない人がほとんどでしょうけど、マックユーザーは、ウインドウズのことを意識している人が多いような印象があります。
 僕は広島ファンなのですが、巨人ファンが他のチームのことをあまり意識していないように見えるのに対して、他チームのファンの多くが「アンチ巨人」であるというのと同様に。

 まあ、多くの場合、「マイノリティ」というのは、自分で意識しているほど「マイナー」ではないんですよね。
 だって、本当の「マイナー」として「お前の血液型は、RHマイナスだろう!」とかシーマンに言われても、「は?」って感じですし、日本国民の5分の1を占める血液型の人が、そんなに変人だらけのはずはないのに。

 やっぱり、人間はみんな、自分を「特別なもの」と思い込みたい意識があるのでしょう。
 そして、それが「マイノリティ意識」の正体なんでしょうね。

 だからといって、たぶんこれからも僕は広島ファンを辞めないし、AB型の人を「同志!」と思い続けるでしょうけど。



2003年06月12日(木) ■
花火のような人生、人生のような花火。


西日本新聞の記事より。

【今年四月十一日、死者十人を出した南国花火製造所(鹿児島市)の爆発事故を受け、県内の花火大会が相次いで中止している。同製造所が大半を請け負っていたため花火の確保が難しく、遺族感情などにも配慮したことが主な理由。

 県内で最大規模の鹿児島市の「かごしま錦江湾サマーナイト大花火大会」は、八月二十三日に予定していた第四回大会を中止した。同市など八つの企業・団体でつくる実行委員会が議論した結果、南国花火製造所が花火の約六割を請け負っており「態勢を立て直すのが難しい」「いまなお悲しむ人がいるなかで開催するのはどうか」などの意見が大勢を占め、全会一致で今年の中止と来年の開催を決めた。

 また、今月一日に行われた「山川みなと祭り」(山川町)が花火大会を中止したほか、阿久根市の「阿久根みどこい祭り」納涼花火大会(八月三日)や国分市納涼花火大会(八月十六日)が、同様の理由で中止を決定。例年二万五千人の見物客でにぎわう隼人町の日当山温泉祭り(八月二日)は、花火が祭りのメーンイベントだったため、祭り自体を中止した。

 一方、垂水市の「たるみずふれあいフェスタ花火大会」(八月十日)は開催を決定。実行委員会事務局の同市商工観光課によると、中止した他の大会と同様の意見が出たものの「花火を作っている人が死んだ。打ち上げることで喜んでもらった方がいい」との理由で、他の花火業者に依頼し例年通り八千発を打ち上げるという。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この記事を読んで、僕は、昭和天皇が闘病されていたときの「自粛フィーバー」のことを思い出しました。
 あのときは、日本全国で祭りが「自粛」された記憶があります。
 しかし、当時僕の実家があった街の秋の大きな祭りは、「陛下の快癒を祈って」開催されたのです。
 結果的には、祭りを行ったことによるトラブルも無く、そしてもちろん、その祭りが昭和天皇の御病状に、何らかの影響を与えたとは誰も思わなかったでしょう。

 まあ、昭和天皇の場合は、御高齢でもあられましたし、ある意味天寿を全うされたとも感じられるのですが、花火工場で亡くなられた人々は、事故で突然命を落とされたわけですから、親族の驚きと悲しみも一層深いのかもしれませんが。
 
 それにしても、この「追悼のために花火大会を中止する」というのと「追悼のために花火大会をやる」という二つの発想は、どちらが正しい、と言えないものではありますね。
 職人の意地というものを想定するならば、花火大会の中止は亡くなられた方々の遺志に背くことになるでしょうし、遺族が「家族の命を奪った花火なんて見たくない」と感じるのも理解できます。

 もちろん、中止の背景には「工場の閉鎖によって、必要な花火が確保できない」という理由もあるようなのですが。

 結局は、主催者側の都合、ということになってしまうのかもしれませんね。

 僕が好きな話に(フィクションかもしれませんが)、江戸時代の代表的な喜劇作家・十返舎一九(「東海道中膝栗毛」を書いた人)が亡くなったときのエピソード、というのがあります。
 彼は亡くなるときに、遺言で周りの人に「自分が死んだら、遺体をそのまま焼いてくれ、いいかい、そのままだよ」と念を押していました。
 遺族が、その言葉に従って彼を荼毘に付すと、彼の体から、ドーン、と大きな花火が上がったそうです。
 まあ、周りにとっては、すこぶる迷惑な話ですし、現代では火葬は閉鎖された空間である火葬場で行われますから、花火ごと焼いたらえらいことになるでしょうけど。
 それでも僕は、この江戸を代表する喜劇作家が、亡くなる前に、少しニヤリと笑った姿をついつい想像してしまうんです。

 人生、一夜の夢の如し、なんて。

 僕は花火、大好きです。
 人が多いのだけが玉に瑕ですが。
 あの花火の美しさを支えているのも、綿々と続いてきた人間の命の営み。

 結局、花火大会は、止めるか開催するかの二つにひとつしか選択肢は無くて、どうせやるなら思いっきり楽しむのが、亡くなった方々への礼儀のような気がします。「やっぱり花火は綺麗だ!」と。

 それは、「花火」を「人生」に置き換えても同じこと、なのかもしれません。



2003年06月11日(水) ■
勤務中の掲示板への書き込みは危険だ!


共同通信の記事より。

【北朝鮮の貨客船「万景峰92」の入港取りやめ問題で、第1管区海上保安本部(北海道小樽市)の職員が、勤務時間中に職場の公用パソコンを使って、インターネットの掲示板に「来日できないの、日本のせいにするな」と、投稿していたことが11日、分かった。
 1管本部は、国家公務員法の職務専念義務違反の疑いがあるとして、職員を口頭で厳重注意し、同法に基づく処分を検討している。
 注意を受けたのは、陸上勤務の50歳代の男性職員。職員は北朝鮮問題について議論する掲示板に、9日午後3時8分「ナンダラカンダラスミニダ」との投稿者名で「マンギョンきたかったらきてみ」と題した書き込みをしていた。】

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 ああ、恐ろしい…
 いや、僕としては、「勤務時間中に掲示板に投稿していた」ということよりも、「勤務時間中に掲示板に投稿していたことがバレてしまう」ということのほうが怖い。
 たぶん、IPアドレスが表示されるような掲示板なんでしょうけど(「2ちゃんねる」なの?)、それだけの情報から、海上保安本部からの投稿だとわかるものなんですね。
 しかもこの人、50代だよ…
 海上保安本部のネットワーク管理者が発見したのか、それとも閲覧者からのタレコミなのでしょうか。
 仕事中のネットといえば、僕も昼休み(しかし、病院の昼休みなんて、けっこうアバウトなもので、何時から何時なんて明確に決まっているわけじゃないんですが)にネットをやったりしますし(さすがに掲示板への書き込みはしませんけど)、当直のときには、パソコンとエアーエッジが手放せません。
 「勤務中の私用ネット禁止」というのであれば、当直中のネットもやっちゃダメ、ってことになりますよね。それはちょっと辛いなあ。
 これだけが当直中の心の安らぎなのに。
 まあ、これはあまりに拡大解釈で、「ずっと正座して緊張しながら、当直室の電話が鳴るのを待つように」なんてことはまずありえないし、実際にそうやっていたら、疲労困憊して、いざというときに体力が残っていないでしょうけれど。
 
 とりあえず、「ネットの匿名性」なんてのは、過信しすぎないほうが良いと思います。
 大部分の人については誰も調べようとしないだけで、特定する方法は、いくらでもあるみたいですから…
 
 ところで、この手の職務中の書き込みって、実際はけっこうありそうなものなのですが、この書き込みがこんなに問題になったのは、ひょっとして、この内容だったから、なのでしょうか?



2003年06月10日(火) ■
ヒラリー夫人「暴露本」の真の目的。


日刊スポーツの記事より。

【米上院議員でクリントン前大統領夫人のヒラリー・クリントンさん(55)の回顧録「リビング・ヒストリー」が9日(日本時間10日)、全米の書店で一斉に発売され、ニューヨーク五番街の大手書店ではサイン会が行われた。

回顧録はファーストレディーだった8年間を振り返った内容。出版社側と800万ドル(約9億6000万円)で契約し、初版はこの手の回顧録としては異例の100万部の売り上げが見込まれている。】

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 この回顧録の中には、世界を騒がせた(動かしたわけでは全くありませんが)スキャンダルのことにも当然触れられています。
 夫であるビル・クリントン大統領が、モニカ・ルインスキさんとの「不適切な関係」を妻であるヒラリーさんに告白したシーンなどもあるとか。

 最近日本で売れた本のことを思い出してみると、結構多くが、有名人の「告白本」「暴露本」の類のような気がします。
 この出版不況のなか、確実に需要が見込める企画といして、重宝されているようですし。やっぱり、有名人の生活や秘密なんてのは、気になる人が多いんでしょうね。
 僕は、この手の暴露本なんてのは、あんまり好きじゃないんですが。
 正直、どうでもいいようなことが延々と書いてあるし、要するに、自分の自慢話か他人の悪口なわけですから。
 まあ、それを言い始めたら、私小説なんてみんなそんなもんじゃない?とか言われそうだなあ。

 一時期、「告白本ブーム」というのがあって、それこそ猫も杓子も告白本を出していたような時期があったのですが、郷ひろみ夫妻の離婚前の告白本なんかは、「離婚ビジネスかよ!」と非常に不愉快な印象でした。
 そういうプライベートな問題まで商売にするのか…という感じで。
 もちろん、どうせ離婚するならお金になったほうがいいだろうし、日本国民の1%が興味を示して本を買ってくれれば、残りの99%が嫌悪感を抱いても充分に商売になるんですけどね。
 それに、告白本のすべてが駄文である、というわけではないだろうし。

 でも、「覗いて覗いて!」って言うような他人の秘密にどうして興味があるのか、僕には理解不能なのですが…

 欧米では、功成り名を遂げた人が、リタイア後に「回想録」を出すのは、ごく常識的なことです。しかし、今回のヒラリーさんの場合は、どちらかというと日本の芸能人の「暴露本」に近い印象です。
 彼女は、そんなにお金に困っているんでしょうか?
 「身内の恥」を商売にするほど…

 もちろん、政治活動にお金が必要でもあるんでしょうが、ひょっとしたら、この回想録は、彼女の復讐なのかもしれないなあ、と僕は思うのです。
 夫の元大統領としては、自分の不実がこうやって歴史に残るというのは、非常に辛いことでしょうし、お金には換えられないことでしょうに。
 ああ、女の恨みは本当に怖い…



2003年06月09日(月) ■
本当は怖い、遊園地の話。


共同通信の記事より。

【8日午後2時20分ごろ、兵庫県姫路市豊富町神谷のレジャー施設「姫路セントラルパーク」の観覧車が突然停止し、乗客54人が最大約1時間にわたってゴンドラに閉じ込められた。
 乗客の一部は従業員の誘導で作業用通路を伝って降り、ほかは約1時間後に復旧したのを待って順次降車した。けが人はなかった。
 年2回の定期点検のほか、始業前にも目視で点検しているが、異常はなかったという。】

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 身の回りに、「観覧車が嫌い!」という人って、けっこういませんか?
 僕もそういう人を何人か知っています。というか、僕自身もあんまり好きじゃないのです。
 そういう「観覧車が怖い人」というのは、ジェットコースターなどの絶叫マシーンもことごとく嫌いかというと、必ずしもそうではなくて、大きく分けて2種類に分かれるみたい。
 ひとつは、高いところが苦手な人(僕もその部類ですね)。
 そしてもうひとつは、「あの狭いカゴの中で、もし観覧車が止まったら…」と想像すると、怖くて乗りたくない、という人です。
 約85メートルといえば、30階建てのビルくらいの高さですから、頂上で停まってしまったらものすごく怖いですよね。
 しかも、鉄柱だけで支えられた小さなカゴの中で、外に逃げることもできず、ただひたすら助けを待つような状況、なんてのは、考えるだけで手に脂汗がにじんできます。
 そういう、「自力では何もできなくて、ただ投げ出されている状態」というのが、観覧車の怖さの元凶のよう。もちろん、ジェットコースターなら何かができる、ってものでもないんだけれど、時間が短いし、スピード感で想像するヒマもないでしょうから。
 それで「高いところに上るだけで、何が楽しいの?」とか、言ってしまうわけですね、観覧車嫌いは。

 しかし、観覧車に乗るシチュエーションというのは、実際はけっこう「このまま時間が止まってくれたらいいのに」と思うような場合もありますよね。
 映画だったら、停まった観覧車でのラブシーン、ということになりそうなものですが、現実に停まったら、たぶんそれどころじゃないでしょうけど。

 時間は止まらないから尊いし、降りてこられるから、観覧車は楽しい。

 それにしても、「宙返りコースターが宙返り中に停まったら」とか、「バイキングがいちばん高いところで壊れたら」とか考えたら、遊園地って、ものすごく怖いところですよね。



2003年06月08日(日) ■
ドクター・キリコの意外なキャスティング。


「別冊宝島794・ブラック・ジャック完全読本」より。

(TVドラマ化された「ブラック・ジャック」の紹介記事より)

【TVドラマ版ドクター・キリコ
  TBS放映ドラマ版『B.J』のキリコ役は、なんと癒しボイスで有名な森本レオ。正体不明の不気味さでいえば、いろんなキリコの中でもナンバー1。】

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 手塚治虫の代表作のひとつ「ブラック・ジャック」。ドクター・キリコは、無免許で法外な手術料を取る代わりに神業のメスさばきで奇跡を起こす主人公ブラック・ジャックの好敵手である、安楽死を生業とする医者です。
 このTVドラマ版は、主人公のブラック・ジャックが本木雅弘で、2000年から2001年にかけて、シリーズ3作が放映されたそうです。
 けっこう最近のことなんですけど、あんまり記憶がないなあ。
 このドクター・キリコ、周知のごとく、かなり不気味なキャラクターなのですが、最近いろいろな事件が発覚する前の「癒しキャラ」であった時代の森本レオというキャスティングは、けっこう意外でした。
 そのドラマ、一度観てみたいものですが、どうしても笑ってしまいそう。
 確かに、ある意味「不気味」ではありますけどね。
 
 この本には、実際にアメリカで安楽死医師として活動しているジャック・キヴォーキアン氏のことも書いてあります。
 彼は、眠ったまま安らかに死ねる機械「マーシトロン」というのを開発して、‘90年に志願者の一人目を安楽死させて以来、この機械や薬物注射で約130人を安楽死させてきたそうです。ちなみに彼は、4回の裁判を無罪でくぐり抜けたものの、’99年の5回目の裁判で有罪となり、刑務所に収監されながら、現在も安楽死の正当性を訴え続けているそうです。

 マンガでのドクター・キリコは、戦場で命を救う方法もなく、死を待つばかりなのに死にきれない傷病兵たちと接することで、安楽死を決意したという設定になっていますが、作中には「おれだって医者のはしくれだ。命が助かるにこしたことはないさ…」と述懐するシーンがあります。

 それにしても、キヴォーキアン氏は、どうして「安楽死」を法や多くの世論と闘ってまで実行しようとしたのでしょうか?
 「医者のはしくれ」である僕としては、そのことについて考えてしまいます。
 むしろ、普通に医者をやっていたほうが、はるかに順調でラクな人生だと思うのですが。
 人間を生かすはずの医者である彼の苦悩した果ての結論が「安楽死」であるというのには、医師という仕事の業を感じざるをえません。

 しかし、今の森本レオに安楽死させられるのは、ちょっとイヤだなあ…



2003年06月07日(土) ■
「敵がいなければ、本当の味方もいない」


「消えたマンガ家・ダウナー系の巻」(大泉実成著・新潮社)より抜粋。

(「マカロニほうれん荘」で一世を風靡したマンガ家、鴨川つばめさんのインタビューより)

【鴨川「ちょっと、青臭いですけどもね。これからマンガを描く人に、一言僕から言いたいことがあるとすれば、「敵がいなければ、本当の味方もいない」ということは、言葉として贈りたいですね。
 大泉「なるほど。」
 鴨川「だから許せないものについてのこだわりというのは、持ち続けてほしいと思うんです。自分自身の原動力というのは、それだったんですけれども。青臭いですね。」】

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 「敵がいなければ、本当の味方もいない」深い言葉だなあ、と。
 普通は誰でも、他人に嫌われたり、敵をつくるのは嫌ですよね。
 いつでも公平な態度で、差別をしない、誰からも愛される立派な人間。
 そういう存在を目指したことが無い人は、いないんじゃないでしょうか。
 僕も、そういう人間をずっと目指してきたような気がします。
 
 ずっとこうやって文章を書いていて思うのは、「100%誰からも納得されるような文章は存在しないし、万が一そういう文章があったとしたら、それはひどく当たり障りのないもので、面白くもなんともないだろう」ということです。
 例えば、戦争反対!と書いたとしても、「戦争だって、場合によっては悪ではない」と主張する人がいます。
 不倫は悪いことだ!と書いても、「好きなんだから、しょうがないじゃないか!」という人たちが必ずいるわけですよね。
 まあ、主張の内容だけでなくても、表現形式にしても「文章は映像には勝てない」という人もいれば、「俳句なんて誰でも創れるよ」という人もいるし。
 
 つまり、何かを表現しようと思えば、「敵も味方もつくらない」ということは、まず不可能だということなのです。
 敵をつくるまいとすれば、黙って言いなりになっておくしかない。
 
 「誰にでも愛される文章」というのは、ひとつの理想です。
 でも、山田詠美、村上春樹、宮部みゆきetc…、当代の人気作家を挙げてみても、彼らのアンチがいかに多いことか!
 芸術の世界ではとくに、1億人のうち5000万人が「まあ、いいんじゃない」というような作品よりも、100万人が「すごく好き!」で、9900万人が「大キライ!」という作品のほうが評価されることがあります。
 それは、「商売になるから」でもあるんですが。
 実際、こういうテキスト類でも、人気上位なものの中には、大部分の人が目をそむけたくなるようなものもあるわけですし。
 毒にも薬にもならないようなものは、評価のしようがない。
 
 ところで、これって実生活においても言えることで、「差別をしない、公平な上司」というのが理想だと思いつつも、実際に職場で頼られるのは「愚直なくらい、さまざまな困難から仲間や部下を守ってくれる人間」だったりするんですよね。
 残念ながら、普通の人間にとっては「公平な人間」よりも「自分を贔屓してくれる人」のほうが大事な存在です。
 もし、この世界が誰とも競争せずに生きていける楽園だったら、きっと、「敵も味方もいない」人生を送ることだって可能でしょうが。
 しかし、実際のところは何かをやろうとすれば、必ず誰かと関わらざるをえない。
 そして、自分の味方になってくれる人のところに、人は集まってきます。
 そういう意味では、「敵のいない人生」というのは、寂しい人生なのかもしれませんね。

 だからといって、わざわざ言いがかりをつけて必要以上に何かや誰かを罵倒するような人や文章には、僕は強い嫌悪感を覚えてしまうのです。
 そういう人は好き嫌いが激しい場合が多いですから、「この人が敵になったら怖いな」とか想像すると、あんまり仲良くならないほうが得策かな、とも。

 要するに、僕はあまり表現者や組織人に向いていない、ということなんでしょうね。



2003年06月06日(金) ■
「ラーメン城下町」の繁栄と没落。


西日本新聞の記事より。

【熊本市のダイエー下通店に一月末オープンした「ラーメン城下町」の全国八店のうち、営業不振などから既に三店が撤退。六日には熊本ラーメンと喜多方ラーメン(福島県喜多方市)の二店が出店する。福岡市博多区の「ラーメンスタジアム」に続く食のテーマパークとして注目されたが、肥後っ子の味覚が肥えているせいか、「麺(めん)争い・熊本夏の陣」は熱い。

 撤退したのは、長浜屋台「やまちゃん」(福岡市)と横浜家系「西村家」(横浜市)、つけめん・しょうゆめん「一文」(静岡県沼津市)の三店。

 ダイエー下通店八階フロアにオープンしたラーメン城下町は、年間百万人の来客を見込み、最初の一カ月こそ約十万人が訪れたものの、開業四カ月間では二十五万人止まり。人気店が月約九千杯を売り上げる一方、少ない店は同二千杯程度で四月末から五月末にかけ三店が次々に撤退した。

 県外店の関係者は「熊本人にはやはりニンニクチップ入りしか受け入れられないのか、それとも舌が肥えすぎているのか、単に飽きやすいのか…」と首をかしげる。

 六日オープンするのは、熊本市黒髪の「鳥亭ラーメン」が出店する「昭和軒」。ニンニクチップをまぶした豚骨スープはまさに熊本の味。喜多方ラーメンからは、しょうゆ味のあっさりスープと縮れ太めんが特徴の「坂内食堂」が店を出す。】


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 ラーメンにこだわりのある人は、日本全国にたくさんいるわけなのですが、とりわけ九州という地域には、ラーメンという食べ物に対する愛着が強いような印象があります。
 食事としてはもちろん、お酒を呑んだあとや人によってはオヤツ代わりにラーメンを食べるのが常識なんですよね。
 もちろん、九州のラーメンといえばトンコツスープが主流なのですが、その九州ラーメンと一口に言っても、博多ラーメンあり、熊本ラーメンあり、鹿児島ラーメンあり、久留米ラーメンありで、どれも微妙に違っていたりするのです。
 長崎は、唯一「ちゃんぽん地域」だったり。

 その博多のキャナルシティという大規模商業施設に「ラーメンスタジアム」というこの記事と同様の施設があり、北海道の味噌ラーメンから、横浜、喜多川、和歌山などの全国的に有名な店のラーメンや地元の九州ラーメンまで、たくさんの種類の店があるのです。
 そこには、お客さんの投票による「全国ラーメンvs九州ラーメン」という企画があって、先日僕が行ったときには、九州ラーメンが圧倒的な大差をつけて優勢でした。
 もちろん、博多に来ている観光客が投票している場合もあるんでしょうけれど、おそらく、投票者の多くは地元の人。
 やっぱり、九州人は(地元びいきはは全国的な傾向なのかもしれませんが)トンコツラーメンが好きなんだなあ、と痛感させられます。
 その割には、行列ができているのは全国的な名店だったりするんですけどねえ。
 わざわざ大行列に並んで食べて「やっぱり地元のほうがいいや」なんていうのは、不思議でもある一方、まあこんなものなのかな、とも思ったり。

 まあ、熊本人の舌が肥えているというよりは、やっぱり食べなれたものがいい、というのが現実的なところなのかもしれません。
 別に、ニンニクチップ入りじゃないとダメってことはないだろうけど。
 関東生まれの僕の母親は、九州に15年くらい住みましたが、やっぱり醤油ラーメンをずっと恋しがっていましたし。
 
 でも、地元のラーメンなら、わざわざそんな混みそうなところで食べなくてもいいんですよね。
 経費なんかを考えたら、味とか量とか値段とかにシワ寄せがきそうだし。



2003年06月05日(木) ■
「励ましの手段」としての手紙・メール・電話。


毎日新聞の記事より。

【神戸市西区の民家火災で消防署員3人が殉職した同市消防局に、「亡くなった隊員の分まで頑張って」という激励のメールや手紙が100通以上寄せられていることが4日、分かった。同市と交流があるチリの消防局長からもファクスが届き、同市消防局は「他の署員がショックを受けている中、勇気付けられる」と感激している。

 同市消防局に同日午後6時までに寄せられたメールは97件、手紙・ファクスは計4通。同様の電話も数百本かかってきたという。

 高松市の女性は「3人のファイアファイター達の心意気に大変感動しました。(震災時の火災で消火活動ができなかった経験から)人を助けようという心意気が強いと感じました」。神戸市北区の女性は消防署員3人のイラストを描き、「命をかけて仕事をしていらっしゃることを改めて知りました」と記した。同市が消防車を贈るなど交流があるチリ・ユンガイ市消防局長からも「彼らの社会貢献を忘れることはありません。チリの全消防士を代表し、哀悼の意を表します」とのファクスが届いた。】

〜〜〜〜〜〜〜〜

 まず最初に、亡くなられた3人の消防士の方々および怪我をされた方々、関係者の皆様に、謹んで哀悼の意を表させていただきます。
 アメリカの同時多発テロのとき、消防士という職業は、ヒーローとしてクローズアップされました。
 そして、今回の神戸の消防士の方々の殉職。
 それは、彼らが文字通り命を賭けて自分の職責を全うしようとしたからであり、そのために大きな犠牲を強いられたからです。
 いや、「強いられた」っていうのとは、ちょっと違うな。
 彼らは、それがけっして「安全な状況」ではないことを経験上知っていたのだと思います。
 でも、そこに飛び込まずにいられなかった。
 もちろん、命を落とすことを望んではいなかったでしょうけれど、危険を承知で何かを守ろうとした人々の姿は、「人間って、まだまだ捨てたもんじゃない」という意を強くさせるものでもありました。

 さて、僕がこの記事でもうひとつ興味深かったのは、彼らの勇気と献身、そして残されたスタッフ・家族への人々のメッセージの伝達方法でした。
 メールが97通、手紙・ファクスが計4通、電話が数百件(!)。
 電話が無い時代であれば、手紙が山のように来ていたことでしょうけれど、ここまで時代がメールにシフトしているとは思いませんでした。
 僕はものすごくメール不精なのですが、それでも、手紙よりメールのほうが書きやすいのは実感としてあります。
 ちょっとした感想でも、手紙よりはるかに送りやすい。
 葉書も切手も要らないし、ポストまで行かなくてもいい。
 字が下手なのを気にしなくてもいいし。
 こういうのは、メールのメリットである一方、やっぱり、こういう激励のメッセージの場合、もらうとしたら手書きのほうが嬉しいかな、とかちょっとだけ思ったりして。
 
 あと、「電話での激励」なんですけど、昔、僕の親が亡くなったときに、いろんな人から激励の電話をいただきました。
 僕の親友や後輩、さらに、日頃面識がない人たちまで。
 
 でも、遺族としては、実は電話での激励っていうのは、一部のごくごく親しい人たちからのものを除けば、けっこうキツイものがありました。
 どんなに自分が打ちのめされていても、善意の人々に対してはキチンとした態度で接しないといけないのですが、そうやって何度も応対することに消耗したり、中には好奇心からか、不躾な質問をしてくる人もいましたし。
 また、遺族というのは、そういう他人の態度に敏感になるものなのです。
 電話というのは、夜中や他のことで忙しいときでも、否応なく対応しなければならないコミュニケーションツールですから却ってタチが悪い面もあるのです。
「がんばってください」をよく知らないひとから何度も繰り返されえると、感謝と同時に「もう、いいよ…」という気持ちになったりもしましたし。

 けっこう、こういうときに「自分の気持ちをぶつけたい人」というのは多いと思うのです。番組に腹が立ってテレビ局に苦情の電話をかける人と一緒、というのは、さすがに失礼かもしれないけれど。
 自分の心の中にあるものをどこかに吐き出してしまわないと、気が済まない人。
 でもね、少しは、その感情の受け手のことも考えてあげてください。
 あなたは即時的に励ましの電話をかけて、それで気分はスッキリ、かもしれないけれど、犠牲者の遺族や仲間は、これからもずっと続いていく現実に立ち向かっていかないといけないのです。仕事中やお葬式の間に、知らない人からの「激励」の電話を何十本、何百本も受けるのって、すごくキツイことだと思います。

 感動した、励ましたい、という気持ちはわかります。
 でも、親族やごく親しい友人でもない限り、電話はやめてもらいたいなあ、というのが僕の意見です。
 手紙やメールであれば、落ち着いてからゆっくり読むこともできるし、遺された人々にとっては、これからの心の支えになるでしょうから。
 「励まそうとする自分」の都合じゃなくて、「励まされるべき人々」の状況も考えてあげようよ。
 他人を励ます、というのが目的なら、励ます側がラクしちゃダメだよ。

 ああ、最後にもうひとつ、
 「命を賭けて自分の職責を全うする」というのは、素晴らしい行為です。
 でも、避けられる危険であれば、自分の命を大事にする勇気を持ってもらいたい。「死ぬこと」を必要以上に美化しないでもらいたい。
 僕が亡くなられた消防士たちの殉職を悲しく思うのは、彼らがもし命を落とすことがなければ、彼らの力によって、もっとたくさんの人の命や財産が守られていただろうになあ、と強く感じるからなのです。

 それでも、あえて言わせてください。
 勇気を遺してくれて、ありがとう。



2003年06月04日(水) ■
アメリカには、仲の悪い夫婦はいない!


「阿川佐和子のお見合い放浪記」(阿川佐和子著・講談社+α文庫)より。

【アメリカに住んでいる友達が、
「アメリカでは仲の悪い夫婦はほとんどいないのよ」
と話すのを聞きました。
「どうして?あんなに離婚が多いのに」
「そうなのよ。アメリカ人は仲が悪くなったらすぐに離婚するから。日本人は夫婦仲が悪くなっても別れないでしょ。だから、アメリカには仲の悪い夫婦はいないというわけ」
 なるほど、一理あるかもしれない。】

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 このあと、阿川さんは、日本の場合は夫婦仲が悪くても「子供がいるから」という理由で離婚しないことが多いけれど、それもどうだろうか…と書いておられます。

 僕たちがイメージするアメリカ人の夫婦って、出かけるときにはキスをして、家事を夫がちゃんと手伝い、寝室も一緒。週末はホームパーティ、みたいな感じじゃないでしょうか?
 まあ、これを阿川さんが書かれたのは8年くらい前なんですけど。
 何年か前に、アカデミー作品賞を獲った「アメリカン・ビューティ」なんて映画を観てみると、現実は、そんなに「正しい夫婦」ばかりじゃないんだなあ、と思い知らされますね。
 確かに、アメリカ人(僕の知っているアメリカ人って、いわゆるハリウッドスターとかがほとんどですから、あんまりアテにはなりませんけど)は、比較的すぐに離婚して、莫大な慰謝料のやりとりをする、というイメージがあるのです。
 もちろん、一般的なアメリカ人はそうじゃないんでしょうが、この阿川さんの友人の話からすると、やっぱり日本よりも離婚しやすい、という傾向はあるんでしょうね。
 離婚した人に対する、社会的な見方の違いもあるでしょうし。

 「仲が悪くなったら、すぐ離婚」してしまえば、確かに「仲が悪い夫婦」というのは存在しえません。
子供だって、「お前のために別れられない」なんて親に言われ続けていれば、教育上良いとは思えないから、それはそれで、ひとつの考え方なんでしょうね。

 でもなあ、こういうのは、本当に難しいですよね。
 時間とともに薄れる愛情もあるだろうし、一時はいがみあっていても、それでよりいっそう深まるような愛情もあるだろうし。

 どちらにしても、「子供のために」って言い訳は良くないよなあ、とは思うのですが。 



2003年06月03日(火) ■
されど、我らがささやかなる学園祭。


京都新聞の記事より。

【京都の約50大学が合同で今秋、10万人規模の学園祭「京都学生祭典」を京都市左京区で開催することになり、学生らでつくる組織委員会の初会合が3日、開かれた。大学コンソーシアム京都と京都府、京都市、京都商工会議所も組織委に加わり、京都の産学官が連携して学生を支援する。これほど大規模な学生祭典は全国でも例がないという。

 アマチュアバンドのコンテストがメーンで、全国から出場者を募る。それ以外の催し内容は今後、組織委で企画する。人気歌手で立命館大生でもある倉木麻衣さんの屋外8000人コンサートや、シンポジウム、ステージ発表、模擬店などを予定している。】
 
〜〜〜〜〜〜〜

 50大学、10万人規模の学園祭って、すごいですよねえ。
 僕が行っていた大学は、単科で学生の数も少なかったので、あんまり大掛かりな学園祭というやつに参加したことがありません。
 学園祭に来る人たちは、同じ大学の他の部活の人か、関係者、近所の家族連れ、コンサートを観に来てくれた人、くらいのもので、結局、学生同士でチケットを売りあったり、お互いの部の出店で買い物をしたりするものですから、部の資金稼ぎというよりは、学生内での「富の再分配」みたいな感じ。学園祭の日は、部活のしがらみがなければ家でゴロゴロしていたいなあ、と毎年思っていました。
 一度、他の総合大学の学園祭に行ってみたのですが、僕のような内向的な人間には、あんまり面白くないイベントではあったんですよね。
 そんなに知らない人に馴れ馴れしく声かけられても…ああ鬱陶しい、って感じで。
 
 しかし、このイベントみたいに大規模で、組織化されたイベントであれば、僕のような人間にも楽しめるかもしれないですね。
 出店の前に店員の学生の友達がたむろしていることもないし、たこ焼きの中が粉だったりもしない。
 おまけに、倉木麻衣のコンサートまで!

 って、ここまで書いてあらためて考えてみると、それじゃ全然「学園祭」らしくないし、あんまり規模が大きすぎたり、あんまり整然としているのも、かえって面白くないような気もします。

 自分でやってたときは、めんどくさいイベントだったけど、今から考えると、僕たちのささやかな学園祭も、意外に楽しいものだったのかもしれません。



2003年06月02日(月) ■
文章を書くときにいちばん大切なこと。


「論文・レポートのまとめ方」(古郡延治著・ちくま新書)より。
 
【文章は書いて書きっぱなしというのでは困る。だれでも書き上げてみると、何はともあれ、やれやれという感じをもつものだ。レポートなどではこの段階で締め切りがきて見返すまもなく提出してしまうという人が多い。書き終えたときエネルギーを消耗しつくしてしまって、もう読み返してみるのもいやという人もいる。
 しかし、文章で一番肝心なことは一応の完成をみてからの書き換え作業にある。井伏鱒二はあの『山椒魚』を、生涯、何度も何度も書き換えた。
 コンピュータのプログラムでは、仕事の90%を仕上げるのに最初の10%の時間がかかり、残りの10%を仕上げるのに総時間の90%がかかるといわれる。文章を書くときも同じだ。書き終えてからの原稿の書き換えは、時間のかかる大事な仕事である。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これは、論文やレポートなど、正確であることやわかりやすいことが重視される文章の書き方ではありますが。
 僕自身も、自分で書いた文章をあんまりきちんと推敲することはありません。
 時間がなくて、エネルギーを消耗しているというのもありますし、自分の拙い文章をもう一度読み返すのは、けっこう辛いものでもありますし。
 でも、確かに論文とかを書くのって、最後の「ツメ」の部分が非常に大事なんですよね。
 ある程度形式は決まっているから、概要は書けても、肝心の内容(論理的整合性とか、過去の内容との比較)で行き詰ったり、白紙に戻ってしまうことが多いのです。
 あっ、同じようなものが出ている…なんて。

 しかし、論文やレポートでは、読み返して確認しようと思っても、普通にWEB上に書く文章については、僕はほとんど推敲していません。
 もちろん、最初のころに比べて書き慣れてきているというのもあるのですが。
 実際、あとから読み返してみると、けっこう気に食わない部分を見つけてしまったりもします。
 
 井伏鱒二さんが「山椒魚」(僕が小学校時代には、教科書に載っていた短編)を何度も改稿した、という話は、結構有名なのですが、僕は、その話を聞いて、作家ともあろうものが、自分が一度世に出したものを書き換えるというのは、どうなんだろう?と思った記憶があります。
 誤字・脱字の類ならともかく。
 
 でも、自分がこうして、ささやかながら文章を書くようになって、今はなんとなく井伏さんの気持ち、わかるような気がするのです。自分の以前に書いたものを読むと、「今だったらもっと上手く書けるかも」と思ってしまいますし。
 まあ、現実にはどうだか、よくわからないんだけれど。
 WEB上の文章は、出版物より改訂が簡単というのは、ひとつのメリットでしょうし。

 ただ、そんなふうに思う一方、「プロの編集者や校正者によって完璧に推敲されていない、荒削りで未完成な文章」というのは、WEB上のテキストのひとつの魅力のような気もするのですよね。
 もちろん、文章として成り立っていないレベルのものは、論外なんでしょうが。



2003年06月01日(日) ■
少女マンガの黎明期を支えた人々。


「週刊アスキー・2003・6.10号」の記事「進藤晶子の『え、それって、どういうこと?』」での漫画家・声楽家、池田理代子さんのインタビューより。

(少女マンガ雑誌の黎明期について)

【進藤「現在は(少女マンガ雑誌の大部分が)週刊でなく月刊誌が主体になり、締め切りの間隔も広がっていますものね。

 池田「私も今のマンガを読んでいないのでなんとも言えないんですが、週刊から隔週にしたときの理由が、中身が薄いものになっていくからだと言われて。あの当時(池田さんんの代表作「ベルサイユのばら」連載当時、1970年代前半)って、マンガ自体サブカルチャーで、その中でも少女マンガは文化として最底辺と言われていたんです。そんな中、出版社に入ってくる男性はエリートなんですよ。でもみんな文学を志してくるのに、少女マンガに回されたという、鬱屈したものがあって。
 それなら文学に負けないものを作ってやろうという、編集者の意気込みみたいなものがあったんだと思います。それと、描くほうもバカにされてたまるかという人たちが大勢いましたし。
 あの時代に、萩尾望都や竹宮恵子、山岸涼子、私と同期には里中満智子とか木原敏江。
 本当に、キラ星のごとく大勢いましたからね。】

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 池田理代子さんは、マンガ家として「ベルサイユのばら」(1972年から「週刊マーガレット」で、約2年間連載)などの作品で一世を風靡し、現在は声楽家として活躍されています。
 僕自身は「ベルばら」って、高校時代rに、男子校の寮で回ってきたのを読んだのがはじめてだったのですが、「女の子の読むもの」というイメージが間違っていたことを思い知らされた記憶があります。
 歴史ものとしても、十分に楽しめる作品。

 子供の頃は、少女マンガ雑誌は、文字通り「女の子が読むもので、目に星が書いてある人物がラブラブしている(しかも、出てくる登場人物(とくに男)は、みんなカッコいい)唾棄すべき甘ったるい読み物、という印象しかありませんでした。
 それこそ、オレの近くに少女マンガを置くな!というような感じで。

 その頃(今から20年くらい前)は、男の読むマンガと女の読むマンガは、けっこう明確に区切られていて、「りぼん」を読む男の子とか、「週刊少年ジャンプ」を読む女の子なんてのは、かなり異分子というイメージがあったのです。
 今でも前者は、とくに子供の場合は「えっ?」って感じなのですが、「女の子のジャンプ」については、もうごく当たり前になってきていると思われます。
 「週刊少年ジャンプ」とか「マガジン」には、女の子向けっぽいマンガもけっこうあるくらいですから。

 でも、昔の少女マンガにしても、僕が大学に入ってから読んだ印象では(けっこうマンガを貸してくれる女の子がいたのです)、確かに読みなれた「努力!友情!勝利!」のジャンプのマンガよりも「ぼくの地球を守って」とか「綿の国星」とか、「ポーの一族」なんてマンガのほうが、「文学的」であり「哲学的」だったんですよね。
 正直、世間の女の子は、僕たちが「キン肉マン」を読んでいる間に、こんなに難しいものを読んでいたのか…とビックリ。

 確かに、現代の週刊マンガ全盛の時代において、少女マンガ誌というのは、あんまり週刊のものってないような気がします。
 しかも、やたらと分厚い本が多いような印象も。

 最近は、「少女マンガ」というより「レディースコミック」というのが全盛で、かなり露骨な描写なんかが話題になっているようですが、たぶん、そんな中にも、「サブカルチャーの鬱屈」を抱えた傑作が潜んでいるんでしょうね、きっと。
 僕はレディコミはちょっと…という感じなのですが。
 
 どんな芸術や文化の世界でも、マイナーであるが故に、メジャーへの反骨心から発揮されるエネルギー、というのがあるのかもしれません。

 僕の知人のマンガマニアが、こんなことを言っていました。
「本当に新しくて面白いマンガって、メジャー誌には載らないものなんだよね」って。